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元・競輪選手のブログ

競輪選手への道

2021-02-23 23:43:37 | Weblog

中学、高校と趣味でサイクリングを続け、
夢は、自転車で世界一周、なんて思った事もありましたが、
並行して競輪の世界にも興味がわいた1977年、高2の時、
中野浩一(福岡35期、現評論家)が世界戦スプリントで優勝した記事を見た事がきっかけで、
競輪選手を目指すことになりました。
と、いう事で、
高3の時、自転車競技会にコンタクトを取り、「愛好会」に入会、競輪選手への第一歩です。
自転車競技会は主に競輪開催業務に携わっており、自転車競技スポーツ競技者の養成もしています。
当時は一次試験が1000㍍のタイムトライアルで1分15秒がボーダーライン。
因みに、高校記録が1分9秒、日本記録が1分7秒でした。
自分の場合は、1分20秒から始まって、すぐに1分18秒までタイムを縮めたものの、
その後は横這い、
なので、適性試験での受験を選択。
試験は、自転車を使用する「技能試験」と100㍍走、立ち幅跳びの「適性試験」の二種類がありますが、
自転車のタイムが出ない時点で才能がなかったんでしょうね。
高3で受けた45回生の試験は一次で不合格。
当時は、年2回募集してたので、高校卒業後の6月を目指して練習に励むも、
タイムが出ずに、またまた「適性試験」で願書提出。
よく考えてみれば、タイムが出ないから適性で、という考えがそもそも甘かったですね。
勿論、不合格・・・
次の試験は11月、47回生を目指して練習の日々です。
実は、高校卒業後、競輪選手に弟子入りして練習を見てもらっていました。
夏が終わった頃から力が付いてきたようで、
1000㍍も1分12秒をマーク!
「これって受かるんじゃないの?」
と、思って臨んだ一次試験。
タイムは・・・
1分15秒9・・・
一次のボーダーは1分15秒5、だったそうです。
たったの0.4秒ですが、そこに何十人と入ってるわけですから。
負けは負けです。(結構潔い)
諦める気持ちはなかったものの、金が無い。
家に負担を掛けたくなかったので、住み込みでバイトを探しました。
といえば、親孝行に思えるが、
練習したくなかった、というのが本当のところ(笑)
最初の一か月は工場で、次はスキー場のホテルで二か月働いて、
2月末に22万円のバイト代を手にして千葉に帰ってきました。
「さて、試験の資金も出来たし、あとは練習あるのみ!」
続く