皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

「パパ」について

2004-09-30 23:55:45 | 皇室の話
 かなり意外な話なのではあるが、愛子内親王殿下が「パパ」と発言したことが、波紋を呼んでいるらしい。
 しかし、そもそも私的なホームビデオでのことであり、何だってまた、そんな細かいことに難癖を付けるのだろうかと、あきれてしまう。
 ほとんど、嫁いびりのような世界である。
 御所言葉では「おもうさま」と言うのだとか、妙なところにやけに詳しい者もいるが、御所言葉なるものは、御所の中の人が自由に使えばいいのであって、御所言葉と違うとかどうとか、外から批評をする筋合いのものではないのである。
 ところが、宮内庁の中にも、ごちゃごちゃいう者がいるらしい。
 バカである。
 
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愛子内親王殿下の映像

2004-09-26 01:41:00 | 皇室の話
愛子内親王殿下の映像を見て、何とも言えないうれしい気持ちになった。

単にお元気な様子が分かって良かったというだけではなくて、
何か、しみじみと心の温まるような感覚である。

内親王殿下の、「愛子」というお名前については、
皇太子同妃両殿下のお子であるということを鑑みれば、
日本人全体への、
「愛」という思いやりの心の大切さを伝えるメッセージとしての意味合いも
あったのかもしれない。

内親王殿下が、これからも、日本人から愛され、
そして、
日本人に対して思いやりの心の大切さを想起させるような、
そのような素敵な存在になられていくのではないか、
何だかそういう予感がするのである。
 
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皇室の外国ご訪問について

2004-09-22 00:22:59 | 皇室の話
 皇太子殿下の5月の記者会見以降、皇室の外国ご訪問について、スポットが当たっていると思う。
 ここで、保守的な立場からは、皇室は外交官である必要はないという意見があり、外国ご訪問に対しては、冷めた姿勢であるように思われる。
 ただ、改めて考えてもらいたいのは、「実際に何かの役に立つ存在でなければ、公的存在としての意味がない」というような、功利主義的な考え方に対して、如何に立ち向かうかという問題である。
 現在は、行政府に対する政策評価法など、功利主義的な考え方が国民の支持を得ており、この傾向は、今後も拡大していくと思われる。
 このような功利主義的な考え方が、皇室に対しても向けられた場合、これに如何に立ち向かうべきかは、非常な難問である。
 功利主義という土台に立ってしまった場合、辛うじて、反論できるとすれば、皇室の国際親善が、外交上非常にメリットがあるということぐらいではないだろうか。
 国民の立場で、皇室について冷めた見方をしている人でも、海外において、皇室がかなりの存在感をもって迎えられているという事実については、認めざるを得ないからだ。
 そういうわけで、外国ご訪問というのは、現在蔓延している功利主義に対して、数少ない有効な対抗手段の一つであると考えられる。
 もちろん、このような功利主義というものが、公権力を行使する政府に対してであればともかく、皇室に対して振り向けることの妥当性や、不毛性の問題はある。
 ただ、知的に論破するということは非常に困難であり、感性に訴えることによる共感、納得を得るということで対抗するしかないのではないか。
 筆者としては、外国ご訪問に対して、皇室の本来の務めではないということを、偉そうに言う人に対しては、それでは功利主義的な考え方に対して、如何に説得するのか、説得の努力をしているのかということを、問うてみたいところである。
 一方、外国ご訪問について、安易に賛成する者に対しても、筆者としては、違和感を覚える。
 皇室の外国ご訪問が、ある程度の効果をもたらすのは、外国において、皇室が特別な存在であると認識されていることに由来する。
 外国ご訪問を歓迎する者にとって、皇室は、国内においては、その存在意義があまり認識されていないのに対し、海外においては認識されているという、何とも奇妙な状態について、何も疑問を抱かないのかということを問うてみたい。
 皇室の外国ご訪問について、どのような立場に立つにせよ、まずは、国内における皇室の存在意義に対する国民の意識、これをどのように捉えるかという整理がなければ、空虚なものと言わざるを得ないと思われるのだ。
 皇太子殿下においては、まさに当事者であるから、空虚だなではすまされないところだろう。
 非常にお気の毒なお立場ではないだろうか。
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皇室の将来(その2)

2004-09-20 12:48:25 | 皇室の話
○ 皇室の存在意義の捉え方
皇室に対しては、否定的な立場もあり、肯定的な立場もある。
最近は、否定的な立場というのは、昔よりは、減ってきたようにも思われる。
かつて、皇室を敬わないことが進歩的であるかのような雰囲気が、多分にあったのだ。

さて、このような否定的な立場が減ってきたことはいいのだけれど、肯定的な立場といってもいろいろある。
肯定的な立場においても、どうやら、筆者は、かなり少数派なのではないかと、実は、そんなことを思うようになった。
筆者の考えは、日本における皇室の存在意義というものは、皇室の方々の個々のご活動のすばらしさ、それも重要であるが、どちらかというと、皇室は国民の幸福を祈り、国民はそのような皇室を敬うという、そのような皇室と国民との心の絆にこそあるというものだ。

皇室は、125代も続いており、皇室の方々は自然人であるから、人間らしいドラマもあり、抽象的な神様とばかりは言えないところもある。
ただ、改めて考えてみるに、抽象的な理念、神の概念を共同体の価値観とするよりも、そのような、自然人たる皇室との心のつながりを、共同体の理念とするというのは、なかなか現実的であり、健全であるようにも思われる。

少なくとも、人と人との情を大切にする日本人には、ぴったり来るのではないか。
筆者としては、皇室と国民との心のつながりにこそ、皇室の存在意義があったと考えるのだ。

○ 皇室の個人的側面の賛美者
しかるに、皇室についての肯定派において、まず多いのは、皇室の方々の個人としてのすばらしさを褒め称えようとする者たちである。

もちろん、褒め称えること自体は、悪いことではない。

ただ、皇室の存在意義を、皇室の方々の個人としてのすばらしさのみと捉えると、それは、際限のない、ご公務の拡大の要求へとつながると思われる。
また、皇室の方々の在り方について、枠をはめることにもなってしまうだろう。

自然人である以上、様々な得手不得手があるはずであり、対外的なお付き合いで活躍する方もおられれば、静かに国民の幸福を祈られ、それがじんわりとした癒しの効果をもたらされる方もおられるだろう。また、病気やけがで、ご公務ができない場合だってあるかもしれない。

しかし、皇室の存在意義を、個人としてのすばらしさに求めてしまうと、やはり、目に見える形での存在感が必要になるであろうし、病気になれば、存在意義がないというような議論になってしまうのである。

また、皇室の個人としてのすばらしさに着目する場合に問題となるのは、皇室を紹介する人間のエゴである。皇室の無私なるお姿を紹介するに際しては、紹介する者も無私でなければならないだろう。

しかるに、皇室の個人としてのすばらしさを紹介しようとする者は、皇室と直接ふれあう機会を有するものが多いということもあり、どうしても、皇室の方々からよく見てもらいたいという気持ちも働くであろうし、また、皇室と直接ふれあうことのできない多くの国民にとっては、しらけさせることにもなりかねないのである。
 
○ 皇室の政治利用の問題
また、皇室についての肯定的な立場でも、要するに、何か団体のようなものを作って威張ることが目的であるかのような者もいる。
これは、否定派よりも、むしろ問題であると思う。

団体を作って権力を振りかざすというときに、自分自身の能力、資質のみを根拠とすることは、至難の業である。
しかし、皇室など、既存の価値を利用する場合には、それがごく簡単になる。
単に、自分は、皇室の素晴らしいことを理解しているのだと、声高に叫べばいいからである。皇室のことをよく理解している者と、理解が不十分である者との序列を作り上げ、支配しようというやり方である。宗教団体に多く見られる構造である。
筆者としては、政治家が皇室の大事であることを主張し始める場合には、警戒が必要であると、どうしても思ってしまう。

本当に、皇室の存在意義を理解してでのことか、それとも自らの権威を高めるためなのか、それを見分けるためには、皇室を、何か政治的問題の解決に持ち出そうとしているか、また、自らの考えが皇室の考えと異なることが明らかとなった場合に、素直に間違いを認めることができるか、といったところであろうか。

皇室のことを考えていると、特に現在は、皇室の存在意義が不当に没却されている時代であるから、自分こそが理解しているのだという陶酔に、ついつい陥りがちであるが、皇室を利用しての自らの権威付けは、皇室の方々の嫌うところであり、注意が必要である。

また、皇室のお気持ちというのも、実に計りがたいところがあって、これがお気持ちだろうと勝手に想像すると、実は違っていたということが、しばしばある。後から考えればなるほどと思うのだが、安易に、皇室のお気持ち云々を述べると、恥をかいてしまう可能性大である。

○ 課題
皇室が日本の象徴であるということから、皇室に対して、帝王学の必要性を主張する人は多い。
しかし、「象徴」が、皇室と国民との関係性の上に成り立つ概念であるとすれば、皇室の側にだけ帝王学を要求するというのは、片面的である。
やはり、皇室という存在をどのように捉えるかということの基礎的な教養が、国民の側にも必要ではないだろうか。
それは、日本人という存在を、歴史、文化という面から、捉え直すということになると思う。

現在において、歴史、文化というものは、どうも、人畜無害なイメージがあるように思われる。
しかし、歴史、文化というものは、今現在の自分というものを、まさに形作っているものであり、本来、非常に影響力のある、生き生きとしたものなのである。
あたかも死んでしまったものという思いこみを脱ぎ捨てて、自らの中に息づいている歴史、文化に目覚めれば、日本人としての自分がはっきりしてくるであろうと、また、日本としての本来あるべき姿もあきらかになるかもしれない。
そして、そうなれば、政治家が本物であるか、ニセモノであるか、すぐに見分けがつくようになるはずである。

日本と日本人とが幸せになるためには、自らの淵源というものを知り、目覚めることが大事なのだと思うのである。
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皇室の将来

2004-09-20 01:19:14 | 皇室の話
皇室の将来は、いったい、どうなってしまうのだろう。
何だか、弱気になってしまう。

日本は、古い古い国で、そういう古い国ができたときの神話を、今でも伝えていて、そういう神話に描かれている皇室というものを、ずっと保ってきた。
だから、皇室というものは、今の日本と古い神話時代の日本とを結びつけ、今の日本人に対して、日本という国の始まりを想起せしめ、日本人としての一体感を醸成することができる。
これは、なかなか、すごいことなのではないかと思う。

一つの国として存在するということは、本来、大変なことである。
単なる個人の集合ではなく、一つの国として存在するには、理念、価値観の共通性が必要であろうし、共同体としての一体感が必要であろう。
それを考えると、実に奇跡的な条件がととのって、初めて、一つの国として存在できるのではないかと思う。
国が国として存在しているのは、決して当たり前の話ではないのである。
このことをよく自覚してみれば、皇室の大事であることは、自ずから明らかである。

しかし、国が国として存在していることを、当たり前のこととしてしまうと、皇室の存在意義は、よく分からなくなるのかもしれない。
現在の、多くの日本人の意識は、このような状態にあるのではないだろうか。

その原因はとしては、戦後の個人主義の思想の影響が大きいのではないかと思う。
それも、国家を個人と対立するものとして設定し、国家に対して何を要求するかという側面ばかりの個人主義がはびこっているからである。
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妃殿下の苦しみ

2004-09-16 23:25:24 | 皇室の話
雅子さまの外出報道に配慮要請 (読売新聞) - goo ニュース

 筆者は、皇太子妃殿下には、ご回復の傾向におられるのかと思い、安心していたのであるが、驚くべきニュースが流れることになった。
 このニュースによると、皇太子妃殿下が、妹さんのお宅に私的にお出かけされた際、記者の姿を目にされて、ショックを受けられたのだという。
 そして、東宮大夫により私的外出の際は一切の取材・報道を控えるよう改めての要請が示され、皇太子殿下からもお願いがあったとのことである。
 このニュースについて、筆者として、まず不安になったのは、国民の気持ちが、妃殿下から離れていってしまうのではないかということである。
 妃殿下においては、現在、適応障害とのことであるが、このような心の不調については、本人の苦しみが、周囲にはなかなか理解してもらえないからである。
 そこで、保守的な立場から、妃殿下としてなっていないとか、妙な声が生じることが、大変心配である。
 ただ、そのような批判的な考えが生じる場合には、今一度、顧みていただきたい問題があるのである。
 それは、皇室と日本人との関係である。
 皇室の存在意義が、本来、その日本人との歴史的な絆にあるということについては、たびたび触れてきた。
 そして、現在の状況としては、戦後の特殊事情により、皇室と日本人との歴史的な絆というものが忘却され、国民の側に、皇室という存在を理解するための基礎的な土台がない。そのような土台がない中で、皇室は、積極的にご公務に励まれ、国民の中にとけ込み、目に見える存在を示すことによって、国民との絆を保っている。
 今は、そういう状況である。
 しかし、これは、皇室にとっては、ものすごいご負担を強いるものである。
 例えるならば、大海原を飛び続けなければならない、渡り鳥のようなものではないだろうか。
 しかも、どういうわけか、いくら飛び続けても、陸地は一向に見えないのである。
 筆者もその一人であるが、日本にとって、皇室の存在が大事であると思う人間としては、いよいよ、皇室と国民との絆の、確固たる土台を、皇室と日本人との歴史的な絆の想起を図るための行動を、起こさなければならないと、実感するのである。
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日本人の精神

2004-09-12 23:03:32 | 筆者のつぶやき
 皇室のことを考えると、世の中を見るに、知的に理解するというアプローチと、感覚的に感じるというアプローチがあるのだなということを、つくづく実感する。
 どういうことかというと、皇室の存在意義を考えるときに、知的な理屈付けを考えると、なかなか難しいのだ。
 皇室のご公務は、実務的なサービスではないから、契約的な利益の交換ということでは立証しにくい。
 しかし、かといって、無意味なものであるかというと、それもしっくりと来ず、そこには何かがあるはずであり、もやもやとしたものが残る。
 そして、いろいろ悩んでみると、結局、皇室に対して知的に理解しようとするアプローチが間違っていたのだなということに到達するわけである。
 そして、ひとたび、感覚的に感じるというアプローチがあることを思い出し、皇室の存在意義を理解しようとすると、これが実に明快になる。
 日本国始まって以来の、長く共有してきた歩み、今の皇室のご公務に現れている、国民の幸せを祈る姿。
 その存在に尊い価値があることに、何の疑いが生じるというのだろうと。 
 もちろん、感覚に基づく価値観というものは、自らが実際に感じることによって把握するものであり、他人に押しつけたりとか、説得できるたぐいのものではない。
 そこが、知的な理解と異なるところだ。
 そういう訳で、筆者としては、できるだけ多くの人に、皇室の存在というものを、感覚で味わってもらえたらと願うのである。
 もとより、感覚については、ごく個人的なものであるから、皇室に対して反発を感じる人もいるかもしれない。
 ただ、できるだけ多くの人が、皇室に対して、心の目を開き、感覚的に理解しようと試みるならば、知的な理解では把握できなかった方向性が、はっきりしてくるのではないだろうか。
 ところで、現代は、世の中を知的に理解しようというアプローチが、あまりに偏重されている気がしてならない。
 一つのたとえ話として、地震や嵐が起こったときに、それは自らの行いが悪いからだ、自らの行いが神様の怒りに触れたのだと感じ、怖れる人がいたとする。
 そのような人に対しては、何と愚かであるなと、大部分の人が思うであろう。
 しかし、確かに知的には愚かであるし間違っているが、そのような、自らと自然との一体感の感覚というものは、果たして、ばかばかしいと切って捨てることができるものだろうか。
 そのような感覚を持って生きる人生の豊かさを想像してみるに、何ともうらやましい気持ちになってしまうのである。
 もともと日本は、八百万の神の国なのだから、世の中の理解として、感覚的なアプローチが得意だったのではないだろうか。
 もちろん、知的なアプローチも必要であるが、併せて感覚的なアプローチというものの重要性を再認識すれば、日本人は、まだまだ復活できるのではないだろうか。 
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皇室の大事であること

2004-09-09 01:22:44 | 皇室の話
 しばしば、皇室についての議論については、論者の皇室に対する主観、好きか嫌いかのぶつけ合いになり平行線をたどってしまうと言われることがある。
 また、筆者も何度か経験するが、皇室について特に反感を抱いていない者に対しても、皇室の大事であることを説明するのは、なかなかやっかいである。
 皇室については、どうせ暇なんだろうと思っている人も多いので、具体的に、いろいろなご公務をされていることを説明すると、それはそれで納得を得られる場合もある。
 ただ、「ご公務」については、儀礼的なものが多いので、そもそもの皇室の存在意義が分からないと、ご公務そのものの価値についても納得を得がたい。
 そんな時に、指摘するのは、なぜ必要なのかを、理屈っぽい損得勘定からいちいち考えるまでもなく、大事なものは大事なものとして存在している、そういうものが実は世の中には多くあるということである。
 例えば、親と子の関係である。
 子が幼いときは、親の保護がなければ子は生きることができないので、親が必要であることは、損得勘定からでも説明できよう。
 しかし、子が成長し、親が年老いたとき、その親の存在は、子にとって、どのような意味を持つであろうか。
 もはや不要の存在として、捨ててしまうのが、正しい在り方だろうか。
 それは、誰しも違うと言うはずである。
 長い時間を共に過ごした親子には、深い絆があるのであって、いつまでも親の長生きを願うものである。
 このような絆を大切にしたいという人間の心については、理屈っぽい損得勘定では推し量ることはできないが、厳としてそれは存在するのである。
 皇室と日本人との関係についても、損得勘定を超えたそのような歴史的な絆があるのである。
 そこで、歴史的な絆について、いくつか語ってみる。
 まぁ、納得しない人はそれでも納得しないのであるが、その場合でも考えてもらいたいのが、文化とか精神的な財産とかそういったものについては、だいたい無意識的に(いちいちなぜ必要なのかを考えずに)その恩恵を享するというのが普通なのではないか。しかるに、皇室については、なぜ執拗なまでに懐疑を行うのか。そのような懐疑の癖について、特定の意図によって刷り込まれたものという可能性はないのか、ということである。
 筆者については、子供時代、かなり日教組色の強い教育を受けたものである。思い返せば、「天皇」については、非常におかしなものであり批判的に考えなければならないとか、旧憲法時代は暗黒の時代であるとか、そのような雰囲気が濃厚であった。
 ただ、筆者にとっては、それがかえって皇室に対する子供なりの同情心(今考えるとかなり不遜であるが)を有することにつながったのである。
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天皇陛下の靖国神社参拝問題2

2004-09-08 00:56:38 | 皇室の話
 天皇陛下の靖国神社参拝を求めた石原知事の発言について、宮内庁次長から、慎重論が示された。
 この話については、あまりしつこく取り上げるのもどうかと思うのだが、一部において、宮内庁が靖国神社を軽視し、陛下の参拝を中止させているのだとか、相変わらず知事の発言に共感してしまう傾向が見られるので、一言述べることとした。
 おそらくは、知事としても、英霊たちの名誉がいい加減に扱われている現状を問題とし、ふさわしい扱い方ができないかどうかという一心から、このような発言をしてしまったのであろう。
 そして、このことは、確かにもっともなこととも思われる。
 しかし、改めて考えるに、そのようなお気持ちは、陛下としても当然に、むしろ誰よりも有しておられるのである。
 しかしながら、皇室は、政治からは超然とした立場になければならず、政治家のふがいなさにより、靖国神社参拝が過剰な政治問題となってしまっている現状においては、参拝したくてもできないのである。
 さらに、思いを致すべきは、英霊たちの高い志である。
 彼らが何よりも望んだのは、日本国の安からであることを願う天皇陛下のお気持ちにこたえることであり、天皇陛下は、手段ではなく、目的なのである。
 自分たちの名誉のために、その手段として陛下の参拝を望むなどということは、絶対にあり得ないのである。
 陛下のお気持ちを察せず、英霊たちの志に思いを致すこともできないというのは、いったいどういうことであろうか。
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