皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

私信へのお返事

2024-09-29 21:41:53 | 筆者のつぶやき
9月26日に私信をくださった方へ

ありがとうございました。
懐かしいです。

皇室については、これからますます厳しくなるのではないかと思われます。
天皇ご一家は、多くの人々が信頼し、敬愛していますが、ご一家のような存在は非常に奇跡的なことであって、当然のように思ってはいけないのかもしれません。

私は、皇室を論じることで、国、社会、共同体の在り方、公とは何かといったテーマに迫ることができるところに意義を感じていたのですが、最近では、随分とレベルの低い問題ばかりで、あまり意義が感じれなくなってきてしまいました。

おそらく平成モデルに内在していた問題が、大きく表面化し、毒々しい開花をしているようにも思われます。
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帝王学としての歴史教育は不要なのか

2024-09-26 22:43:32 | 皇室の話(3)
妙な記事が続いている。

令和6年9月17日11:30、歴史人より配信の「なぜ、天皇は「生物学」を研究するのか? 「歴史を学びすぎないように」と誘導される!? 皇族の教育方針の歴史」と題する記事がある。

この記事は、以下のような書き出しで始まっている。
-----引用開始-----
今年、悠仁さまが四人の研究者と共に「皇居のトンボ相」の研究成果を発表された。上皇(平成の天皇)や昭和天皇も生物学の研究をされていたが、なぜ「生物学」なのだろうか? 皇室の教育方針の歴史を振り返ってみたい。
-----引用終了-----

この後に御学問所の話があり、それに続けて以下の記載がある。
-----引用開始-----
■「歴史を学びすぎると危険」と、生物学に方向転換

 少年時代の昭和天皇がもっとも好んだ科目は「歴史」の授業でした。しかし、「歴史を深く学びすぎると特定のイデオロギーにかぶれてしまう」ということが当時、まだ存命だった「最後の元勲」西園寺公望に危険視されたので、歴史と同じくらいに興味が深かった生物学に関心が向かうようになったそうです。

 昭和天皇ご自身が、1976年(昭和51年)11月の記者会見で「歴史を学ぶ途中で生物学に興味を持つようになりました」とおっしゃっていますが、そうなるように周囲が天皇を指導したことも「帝王学」の一貫だったといえるかもしれません。
-----引用終了-----

帝王学として、歴史よりも生物学の方がふさわしいと言っているかのようである。
如何にも、トンボで話題の赤坂派にとって都合のよさそうな主張である。

しかし、この記事の書き手は、現在の天皇陛下は歴史をずっと研究されておられることを忘れているのだろうか。
悠仁親王殿下を持ち上げる反面、天皇陛下を貶めるような効果を生ずるのではないか。

そこで軌道修正を図るため・・・、であるのかどうかは分からないが、この記事を書いた堀江宏樹氏は、9月24日にも記事を書いている。

令和6年9月24日11:30、歴史人より配信の「時代とともに変わる「皇太子の教育」 公務が忙しい中で学ばれる内容とは? イギリス国王がもっとも重視するのは「憲法」」と題する記事である。

この中に以下の記載がある。
-----引用開始-----
 現在の天皇陛下(今上陛下)こと徳仁親王への「帝王教育」は、学習院高等科時代には始まっていたそうです。徳仁親王は少年時代から歴史に強い興味をお示しになられ、イギリスのオックスフォード大・マーティンカレッジの大学院にも留学し、歴史の中のテムズ川の水運などを研究なさいました。

 少年時代の昭和天皇も、もっとも熱心に取り組んだ科目は歴史だったというのに、思考が偏ることを理由に周囲から危険視され、最終的に生物学を専攻なさったという逸話があります。しかし、その孫に当たられる今上陛下は高校生のころから、学習院大学名誉教授だった児玉幸多から歴代天皇についての個人授業を受けられています。

 天皇家には歴代天皇の崩御した日に、その方の事績を偲ぶ「式年祭」という行事の伝統があるそうで、その儀式の前日に講師を私的に招き、講義を受けていたそうです。今上陛下が高校生のころに受けたという歴史の個人授業も、そうした伝統の一部だったといえるかもしれません。また、毎週一回のペースで、父宮(現在の上皇さま)と共に昭和天皇を訪問し、お話をうかがうこともあったとか。
-----引用終了-----

「少年時代の昭和天皇も、もっとも熱心に取り組んだ科目は歴史だったというのに、思考が偏ることを理由に周囲から危険視され、最終的に生物学を専攻なさったという逸話があります。」というのは9月17日の記事と同様であるが、天皇陛下(徳仁親王)が少年時代から歴史を研究されていたことについて先回りして言及しつつ、歴代天皇についての個人授業、式年祭前の講義といったことを紹介し、歴史を学ぶことも意義や必然性もあるという風に、取り繕いをしているような内容になっている。

ただ、この取り繕いは的を射ているとは思えない。
どう考えても、歴史を知るということは、帝王学の重要な本質の一つであろう。
自分の国の歴史を知ってこそ統治を行うことができ、また、世界の国々の歴史を知ってこそ、国際関係、特に厳しい戦争の時代であればなおさら、十分な対応ができることとなるのではないか。
・・・などということは、誰にでも分かりそうな当たり前の話である。

ただ、9月17日の記事にある、「「歴史を深く学びすぎると特定のイデオロギーにかぶれてしまう」ということが当時、まだ存命だった「最後の元勲」西園寺公望に危険視された」という箇所については、筆者が具体的な事実関係は知らないのであるが、西園寺公望であれば、そういうことを言いそうな感じはする。

歴史を学ぶ上で、歴史観という領域になると、イデオロギー的にもなるので、注意が必要であろうとは思う。
ただ、それは歴史観、イデオロギーが、偏りなく歴史を知る上での妨げになり得るという点で問題になるということであって、歴史を知らなくていいという話ではないはずだ。
知らなければ、むしろその方が騙されやすいことともなるであろう。

また、生物学というのは、どう考えても趣味の一つであるはずで、それを帝王学としての歴史を置き換えるというのは、無理のある話なのではないか。

9月17日の記事で言及されている「記者会見」につき、高橋紘、鈴木邦彦著「陛下、お尋ね申し上げます」より、前後を含めて広めに引用すると以下のとおりである。
-----引用開始(下線は筆者)-----
記者 西園寺公、鈴木貫太郎氏の思い出を、うかがえる範囲でお聞かせください。
天皇 西園寺公に、私が感心していることは、八十いくつになってもフランスのマルクス主義の本をひもといて、八冊あるんですが、さすがの西園寺公も一冊しか読み得なかった。(それにしても)あの年になって、よくフランス語の本をこなしたものだと思っています。本当に勉強家であったと感心しています。
 鈴木貫太郎に対しては、いろいろ困難な場面に会っているのに、常に毅然とした態度に感心している。
記者 陛下は、お若いころ生物学より歴史の方がお好きだったと聞いております。
天皇 そのことについてはですね、私は歴史を学ぶ途中で生物学に興味を持つようになった学問的なものではないが、初等科のころ、沼津や葉山で貝を集めることを楽しんだ
 学校に入ってから松村松年の立派な昆虫図鑑の本をひもとき、それで昆虫の名前を決めたこともある。幸い、私の侍女と松年は懇意であった。侍女は足立タカ、のちの鈴木貫太郎夫人ですが、少しわからないと松年に昆虫の名前を調べてもらった。
 そういう関係で、生物学の方は小さいときから「三つ子の魂百まで」で、趣味はどうしても生物の方だった
 歴史に私が興味を持っていたのは、御学問所の時代であった。主として箕作博士の本で、一番よく読んだのはテーベの勃興から、ヨーロッパの中世時代にわたる、英仏百年戦争の興亡史であった。
 箕作の本に興味を持ったのは、第一次世界大戦の戦争史で、そういう戦争や政治史に関係したものに、興味があった。歴史の基礎はできていた。深くやるのは、そういう方面が好きだったからだ
 いろんな人から利用されるおそれもあったし、健康の方からいっても、坐禅的なもの(座学ということか)だったから、生物学の方をやるようになった
-----引用終了-----

まず、西園寺公望のエピソードとして、マルクス主義の本のことを紹介していることからすれば、西園寺公望にしても、昭和天皇からイデオロギー的なものを遮断し続けていたわけでないことを明らかである(敢えて書くのもバカバカしいが)。

また、この時の昭和天皇の発言で、確かに「私は歴史を学ぶ途中で生物学に興味を持つようになった。」と述べている。
ただ、堀江氏は「そうなるように周囲が天皇を指導した」などと述べているが、昭和天皇は実に生涯、ずっと生物学の研究をコツコツと続けておられ、そういうのは他人から指導されてそうなったというようなものでは、あり得ないのではないか。
昭和天皇もこの時の会見で、「生物学の方は小さいときから「三つ子の魂百まで」で、趣味はどうしても生物の方だった。」と述べておられる。

生物学について、ご成長の過程における無難な分野として他人から提案・誘導されることがあったとしても、ご自身が本来的に興味を持つことのできる対象であったのだろう。
そして、それは「趣味」としてなのである。

歴史についても、帝王学として修めなかったというわけではなかったのではないか。
「歴史の基礎はできていた。深くやるのは、そういう方面が好きだったからだ」と述べておられ、「歴史の基礎はできていた」ということを前提にした上での話なのである。
要するにプラスαとして「深くやる」レベルでの歴史についてはやめることにして、趣味としての生物学に打ち込んだということであったのだろう。

なお、「いろんな人から利用されるおそれもあったし」というのは、歴史を学ぶことの危険、リスクの話のようではあるけれども、その前段を見れば「そういう戦争や政治史に関係したものに、興味があった。」とあるのであって、そういう方面であれば、確かに、昭和天皇がそれに打ち込めば、利用されるおそれはあるであろう。ただ、それは歴史を学ぶこと一般的な危険・リスクとは違うのではないか。

また、この会見では、昭和天皇は「歴史に私が興味を持っていたのは、御学問所の時代であった」と述べておられるが、その後の時代においても興味は持ち続けておられたようだ。

例えば、「陛下、お尋ね申し上げます」に収録されている昭和22年6月3日の会見では、以下のやり取りがある。
-----引用開始(下線は筆者。この時、昭和天皇は46歳。)-----
記者 陛下はどのような書籍をお読みになっていますか。
天皇 やはり生物学の書籍を最も多く読むが、歴史も興味が深く多く読んでいる。雑誌も月々のものを読むが、小説は見ない。
-----引用終了-----

そもそも、昭和天皇のような、歴史の中心におられるような方において、歴史に興味・関心を持たないようにするということは無理があるであろう。

ただ、歴史、とりわけ、戦争や政治史といった分野については、それを学べば、自らの過去の判断、言動を振り返らざるを得なくなり、本当にあれでよかったのだろうか、もっと別なやり方があったのではないか、といった思いに駆られることとなり、気持ちが休まることがないのではないか。

その点、生物学であれば、自らの地位、身分を忘れて打ち込むことができたであろう。
昭和天皇が生物学について「趣味」とおっしゃっていたのは、謙遜という面もあったと思うが、それだけでなく、自らの公的立場と離れたものであるということに積極的な意義を見出していたということも十分に考えられる。
すなわち、「帝王学」としてではなく、「帝王の趣味」としての意義である。

このように考えると、赤坂派の言動というのはかなり問題があるのではないか。
トンボについても、あくまで趣味ということであれば非常に意義はあるであろう。
しかし、趣味といった奥ゆかしい打ち出し方ではないようだ。
堀江氏の記事でも、「皇室の教育方針の歴史を振り返ってみたい。」といった書き出しであり、昭和天皇のエピソードまで持ち出して、トンボがまるで帝王学の一環のように扱っている。

それにしても、何でこんなレベルの記事がメディアで流通するのであろうか。
ほとんど誰にも読まれることのないこのブログで、いろいろ述べても仕方のないことかもしれないが、放置しておく気にはなれず、ついつい長々と書いてしまった。

こういった記事について、何をバカなことを言っているんだと、世間の人々が分かっているのなら心配はないのだが、どうなのだろう。

赤坂派にしても、こういう耳障りのいい記事を、まさか真に受けたりはしないと思うのだが、大丈夫なのだろうか。

今回の堀江氏の記事が、天皇陛下(徳仁親王)の帝王教育について、ディスり気味の要素があり(9月24日の記事を見れば、堀江氏にディスる意図があるとは思えないが、そういう風に利用される要素はある)、誤解を生じかねない言及の仕方をしているので、改めて確認してみたところ、相当に考え抜かれた高度な教育が早期からなされていたようである。

すぐに確認できる手がかりとしては、以下のものがある。

昭和44年3月14日 衆議院内閣員会における宇佐美毅宮内庁長官の答弁
(当時、徳仁親王殿下は9歳)
「浩宮さまもただいま学習院初等科の三年、今度四年におなりになる。いままでは低学年でいらっしゃいますので、基礎的に体力を整え、基本的な御人格というようなことの御勉強を主として、しかも普通の生徒と同じような学校の教育をお受けになっておりますが、なお殿下がみずから御自分のお小さいとき以来のことをお考えになりまして、特に日本の歴史――まだ三年でいらっしゃいますけれども、いまの皇太子殿下のお小さいときに非常にわかりやすい日本の歴史を御進講した三上次男という先生から日本の歴史をお聞きになりますし、また最近は宇野哲人先生から論語の素読をお受けになっておるようなわけで、まだ非常な低学年でいらっしゃいますから、基本的な御体力とそういったお小さいときからの人格の形成という問題に非常に留意をいたしていろいろ御勉強を願っているところでございます。」

昭和51年12月17日 皇太子殿下(当時)記者会見における発言(薗部英一著「新天皇家の自画像」より)
(当時、徳仁親王殿下は16歳)
-----引用開始-----
記者 浩宮様に教育顧問のような人を依頼する考えは。
皇太子 教育専門という人は必要ないが、これからは大学もあり、いろんな人の意見を聞くことが必要になるでしょう。今までも何人かの人とこの問題を論じてきました。私の場合、小泉先生、安倍院長、坪井博士と三人いました。小泉先生は常時「参与」という形で・・・・・。私はその影響を非常に受けました。私などは「参与」という形がほしいと思ったが、宮内庁は必ずしもそうでなくてもよいのではという考えでした。
記者 浩宮様にはどういう帝王学をお考えですか。
皇太子 帝王学という言葉が適切かどうかとも思いますが、たとえば日本の文化、歴史、とくに天皇に関する歴史は学校などで学べないものです。それをこちらでやっていくことはしたい。来年は(浩宮も)高校3年になり、時間的にはとりやすくなる。「象徴学」は一つの言葉で表せないと思います。いろんな材料を与えて、それをいかに咀嚼していくかが大事です。話をする人の、こうあってほしいという願いにも意味がある。受けとる側がうまく受け止め、自分のものにできればいいのですが。
-----引用終了-----

当時の皇太子殿下の記者会見での発言の例は、他にもたくさんあるのだが、様々な人と議論をした上で、いわば公的な大きな課題として、配慮を重ねて来られてきたということがよく分かる。

ところで、堀江氏の9月17日の記事では西園寺公望のことが持ち出されているわけだが、googleで「西園寺公望」「教育」「歴史」「危険」という文言で検索すると、検索結果の中に「第 4 章 皇太子明仁への教育方針」というものが出てくる。

これは瀬畑源氏の論文「象徴天皇制の形成過程 : 宮内庁とマスメディアの関係を中心に」の一部なのであるが、その中に以下の記載がある。
-----引用開始-----
昭和天皇は、皇太子を、しばらくは内親王と同じく、宮城内の呉竹寮で育てたかったようである1。しかし、元老西園寺公望は、すでに 1934 年 6 月 9 日に「今日、よく親が子供を自分の思ふ通りに、わけも判らずに教育しようと思ふことは非常な間違で、人おのおのの天性といふものがございますから、それをよく見極めて、その特長を伸ばして行くことにお気をつけにならなければなりません」2と釘を差し、親子別居を主張した。皇太后も皇太子は天皇個人の子供ではないとして反対した3。
-----引用終了-----

今の時代では、親子別居は到底無理な話ではあろうけれども、西園寺公の「今日、よく親が子供を自分の思ふ通りに、わけも判らずに教育しようと思ふことは非常な間違で」というところは非常に気になるところである。

悠仁親王殿下の教育につき、「わけも判らずに教育しよう」となっていなければよいのだが。
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誰のための皇位継承論議か

2024-09-24 21:40:09 | 皇室の話(3)
令和6年9月23日20:01、サンデー毎日×エコノミストより配信の「女系天皇議論に反対した寬仁親王の危険な政治活動 成城大教授・森暢平」と題する記事がある。

そんなこともあったなと、何とも懐かしい感じがする。

このブログでも、当時の寬仁親王殿下の言動の問題について述べたことがあるが、今回の森暢平氏のまとめ方は、正確であることはもちろんのこと、簡潔にして要点をよくおさえていると思う。

筆者としては、寬仁親王殿下の立場に同情する気持ちもあり、また、福祉活動への取組は実に心のこもった立派なものであったと感じている。

ただ、政治的活動については、非常に問題ありであった。

いわば本家の長である天皇陛下、皇太子殿下が発言を差し控えられている問題につき、分家の者が好き勝手に意見表明し、政治的活動まで行うというのは、本家の顔に泥を塗る行為ということになるのではないか。

それでも、寛仁親王殿下の言動に接することで、筆者なりに理解できたことはある。

それは、皇族男子にとって、男系男子という原則は、自らのアイデンティティの重要な要素になっているらしい、ということである。

皇族男子であっても、分家であれば皇位継承順位は下位となるが、それでも本家に男子が誕生しなければ、一発逆転、皇位継承の機会が巡ってくる可能性はある。
そういう可能性があるということで、自分自身の価値を認識することができるわけであるが、男系男子の原則が崩され、女系・女性拡大になってしまうと、そういう可能性はかなり低減し、0に近くなってしまう。
それはすなわち、自らのアイデンティティの拠り所の危機となるのだ。

他人の心の中を勝手に想像するのは良くないことかもしれないが、以下の記事における寛仁親王殿下の告白を読んでみるといい。

平成19年10月22日20:08、JCASTニュースより配信の「寛仁殿下「非行少年だった」 米紙に衝撃告白のすごい中身

寬仁親王殿下はアルコール依存症を患っておられ、その原因として皇室の環境ということも示されておられるが、具体的には以下の記載がある。

-----引用開始-----
寛仁さまは1982年、社会福祉活動に専念したいとして「皇籍離脱発言」を行い、世間を驚かせた。この背景については語らなかったが、皇室については、このように述べたという。

「皇室は、要するに何なのかと聞かれれば、良く良く考えた上での結論というのは、私たちの(存在する)意味というのは、私たちが単に存在していることにある、ということです」

「存在することの意味は存在すること」と、半ば哲学的な見解をお示しになった形だが、皇室の役割についても、独特の見解を披露なさった。

寛仁さまによると、皇族は、単に

「朝起きて、朝食を食べて、昼食を食べて、夕食を食べて、眠りに就く。これを1年365日繰り返す」

ことで役割を果たすことができる、というのだ。
-----引用終了-----
*太字が寛仁親王殿下の告白の箇所

これは明らかに、アイデンティティが虚ろな状態であるということを示しているであろう。

そのことを隠さずに告白したという点は、ユニークであり、ある意味立派であるとも感じられるところであるが、このような状態にある方にとって、皇統の原理としての男系男子ということが如何に重要な拠り所となっていたかについては、想像に難くないであろう。

同じような心理というものが、おそらく、旧宮家の子孫の一部の方にもあるのかもしれない。

すなわち、
男系男子という原則が最重要ということであれば、もしかすれば、今は一般国民の身分だけれども、制度改正が行われ、一発逆転、皇族になる可能性があるかもしれない。
そんな可能性のある自分は、特別な存在だ。
もし、男系男子という原則が崩れ、女系・女性拡大が実現してしまえば、旧宮家の子孫の出番の可能性はほぼ0になる。
それは絶対に認めたくない。

こういう心理になるとしても、不思議はない。

ただ、「可能性」というところがポイントで、いざ実現となれば、大変なプレッシャー、プライバシー侵害にさらされることとなるが、その覚悟までお持ちなのかは分からない。

本当にそういう覚悟があるのであれば、自分を厳しく律し、天皇陛下をお守りする活動を積極的に展開し、自ずと多くの人々の人望が集まりそうなものであるが、どうなのであろうか。
筆者の認識不足なのであろうか。

「可能性」のままが一番心地いいということかもしれないが、そろそろそうも言っていられなくなる状態になるかもしれない。
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「ゆるがせにしてはならない」の闇、そして統一教会

2024-09-23 22:04:52 | 皇室の話(3)
皇位継承の在り方に関する政府の有識者会議の報告において、「今上陛下から秋篠宮皇嗣殿下、次世代の悠仁親王殿下という皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない。」ということが示された。

この「ゆるがせにしてはならない」というのは、相当に気持ちの悪い表現である。
そこにはむき出しの情念が込められており、必ず、その主体となる特定の存在があるはずである。
それが誰なのかが分からないという気持ち悪さ。

また、「ゆるがせにしてはならない」というのは誰にあてた命令なのだろうか。
我々日本国民なのだろうか。

皇室典範は、所詮は法律であり、その改正にかかる最終決定権は主権者である日本国民にある。
その日本国民に対し、「ゆるがせにしてはならない」と命令を発するというのは、いったいどういうことなのか。

そもそも、「ゆるがせにしてはならない」という言い方は、天皇陛下に対して失礼である。
「ゆるがせ」というのは、要するに愛子内親王殿下の皇位継承を意味しているのだろうけれども、天皇陛下に対して尊敬の念を抱いている者であれば、そういう言い方はできないはずである。

以上のようなことから、「ゆるがせにしてはならない」の情念の主体について、自らを天皇陛下よりも上位にあるとみなしている者であろうということが推測される。

謎は深まる。

この「ゆるがせにしてはならない」について、統一教会の世界日報に似た表現が用いられているという話を聞き、早速調べてみたところ、それは確かに存在している。

衝撃的である。

令和6年5月13日付け世界日報「【社説】皇位の安定継承 「男系男子」を揺るがすな

皇位継承の議論に関心のある方は、是非、この世界日報の記事を読んでみて欲しい。
内容は、安倍系保守そのものなのだが、非常に良く書けている。

皇位継承の議論につき、かつて男系派は、女系容認は共産党の陰謀だということをよく言っており、ベクトルとしてはその逆のような話なのかもしれない。

しかし、この世界日報の記事を読むと、何かの陰謀のために借り物の思想として男系を主張しているという感じはしない。
いわゆる保守系の書いたものよりもよく書けており、借り物ではなく、本物という感じがするのである。

他にも以下のような記事もある。

令和6年5月22日付け世界日報「【社説】皇位安定継承 皇族数確保は「皇統」前提に

これは筆者の主観であるが、産経新聞よりもよく書けているように思われる。

なかなか恐ろしい話だ。

現在の皇位継承の在り方に関する議論は、統一教会の影響を受けているのだろうか。

統一教会が「ゆるがせにしてはならない」の主体であるとすれば、日本国民に対して命令するのも、自らを天皇陛下よりも上位にあるとみなしているとしてもおかしくはない。

つじつまは合ってくる。

そしてその内容は、政府にとっても都合がよく、もしかすれば皇室の一部の意向にも沿うということで、そろいもそろってそれに乗っかったということなのだろうか。

以上は、あくまで不十分な知識に基づく筆者の妄想でしかないのだが、この議論に関心のある者は、世界日報の記事を読んでみる価値はあると思う。
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日本の民主主義の限界

2024-09-22 21:53:33 | 皇室の話(3)
令和6年9月22日15:22、共同通信より配信の「皇族確保の協議、中間報告へ 衆参議長、首相と週内に面会」と題する記事がある。

これが日本の民主主義の限界なのであろう。

「女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持する案」については、配偶者と子の身分の扱いで話がまとまりそうにない。

「養子縁組による旧皇族男系男子の皇族復帰案」については、反対論もあり話がまとまりそうにない。

結局、秋篠宮家の長男悠仁さままでの、皇位継承の流れをゆるがせにしてはならないことは「おおむね賛同する意見が多かった」ということを確認したというだけで、現行制度を変えるということにはならないのだろう。

情けない話だ。

男系男子を維持するということにしても、このブログの「男系に固執したその後、秋篠宮家の系統は存続可能か」でも触れたお嫁さんの問題はどうなるのだろう。

民間からのお嫁さんを守るために、プライバシーの確保、メデイア対応、皇室の環境・生活に順応するためのプロセス、体調のケア、メンタルのケアなど、かなり大きな問題がたくさんある。

これまで、何となく皇室内の問題として皇室に任せておけばいいという考え方で、これまで失敗してきたのではなかったのか。

これらの問題は、皇室の方々が当事者ではあるものの、こういう問題があるのでこうして欲しい、考えて欲しいとか、言い出しにくい問題なのではないかと思う。

少なくとも、将来皇位を継承する方の妃となった方が、これまで苦しく辛い状況になっていたのは明らかなのだから、本当に安定的な皇位継承を考えるのであれば、どこにどのような問題があったのか、どのようにすれば軽減できるのか、考えてみる必要があるのではないのか。
こういう問題意識のない人間がいくら皇室は大事だと言ってみたところで、嘘くささしか感じられない。

将来皇位を継承する方の妃であれば、お世継ぎを生むことは大きな役目となるのは仕方が無い。

ただ、男子でなければならないというのは。
せっかく生まれてきた子が女子であったとき、微妙な祝福になってしまうというのは。

安全確実に産み分ける方法というのはあり得るのだろうか。

しかし、そのような方法を皇位継承資格者に適用するということは、人間の命の価値を男と女とで分けるということになるのではないか。

この際、皇室制度の廃止についても、もっとまともに議論されてもよいのかもしれない。
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嫉妬なのだろうか

2024-09-22 21:49:11 | 筆者のつぶやき
皇太子妃のころから、嫉妬されているのだろうか。

それが募っての怨念。そしてバッシング。

人間を浮き動かす動機として、欲望というものであれば、合理的な説得、取引、調整が可能だろう。

ただ、怨念となると、それも難しい。

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赤坂派の怨念

2024-09-22 15:22:48 | 皇室の話(3)
令和6年9月17日6:05、デイリー新潮より配信の「なぜ世間は秋篠宮家をバッシングせずにはいられないのか 秋篠宮さまと親交の深いジャーナリストが近況をレポート」と題する記事がある。

この記事は江森敬治氏によるもので、江森氏は昔から秋篠宮家に寄り添った記事を書いてきた方で、筆者としては、そういう存在も貴重だと思っていた。

ただ、この記事の中に以下の記載がある。
-----引用開始-----
 いまだにくすぶり続ける秋篠宮家批判。その背景について、ある皇室関係者はこのように分析する。
「シーソーと同じように、秋篠宮ご一家の評判が下がったことで、その分、天皇ご一家に対する国民の期待が増えた。それもあって現在、皇后さまや長女の愛子さまの人気が高まっている部分もあるでしょう」
 続けて、
「『適応障害』と診断され、回復の途上にある皇后さまは依然、体調に波がある状態です。コロナ禍がようやく落ち着き、『令和皇室』もやっと本格的に動き出したばかり。天皇、皇后両陛下の“真価”が問われるのはこれからではないでしょうか」
 そう付言するのだった。
-----引用終了-----

秋篠宮家バッシングについて、かつての東宮バッシングと「シーソーと同じよう」という言い方は、以前にも見かけたことがある。
*このブログの「河西秀哉氏の逆効果記事」参照

ただ、現象のタイミングがそういう風に見えるということであるとしても、バッシングの本質はそれぞれ別物である。

これはもうあまり書きたくなかったのであるが、「シーソーと同じよう」と言われれば仕方がない。
かつての東宮バッシングには(平成時代の)千代田派の怨念というものがあった。
週刊誌において、バッシングの出もとにつき、平成の「千代田関係者」ということが堂々と示されており、これを読んだ者たちは、安心して、調子にのって、さらなるバッシングを展開していたのではないか。
きわめて陰惨な構図である。

しかしながら、現在の秋篠宮家バッシングは、秋篠宮家の多くの人にとって受け入れ難い行動にもっぱら由来しているのではないか。
令和の「千代田関係者」が発信源となったことはないし、お墨付きを与えたこともないし、それでありながら、ここまでバッシングが高まっているということについては、もっと真剣に受け止めるべきであろう。

しかしながら、真剣に受け止めるどころか、「シーソーと同じよう」という捉え方に逃げる。

「秋篠宮ご一家の評判が下がったことで、その分、天皇ご一家に対する国民の期待が増えた。それもあって現在、皇后さまや長女の愛子さまの人気が高まっている部分もある」

これは、裏を返せば、秋篠宮ご一家の評判が下がっているのは、天皇ご一家の人気が高まっていることによるということであろう。

しかし、秋篠宮ご一家の評判が下がったことは秋篠宮ご一家に原因があるのであり、天皇ご一家の人気が高まっているのは天皇ご一家の徳によるものである。

そのことを理解せず、「シーソーと同じよう」と位置付け、天皇ご一家の責任にする。
まさに怨念の構図である。

江森氏の記事では、天皇皇后両陛下の英国御訪問の際、「ロンドン郊外のウィンザー城にあるエリザベス女王とフィリップ殿下の墓には天皇陛下が一人で供花」、「ロンドン市内のホテルでは「日本協会」(ジャパンソサエティー)など日英友好5団体が主催するレセプションが催されたのだが、ここにも皇后さまの姿はなかった。」などと、皇后陛下のことを批判的に取り上げる。

かつての皇太子妃バッシングが復活すれば、秋篠宮家バッシングがおさまるという期待があるのだろうか。
「シーソーと同じよう」という発想からは、そうなるのであろう。
愚かしい話だ。

また、江森氏は以下のようにも述べる。
-----引用開始-----
先ほど触れた7月の「後宇多天皇七百年式年祭の儀」「明治天皇例祭の儀」に関しては、皇后さまはいずれも欠席している。海外親善だけでなく宮中祭祀への取り組み方も今後の課題とされる中で、両陛下、すなわち「令和皇室」を支える皇嗣家の重みはいっそう増すばかりだ。
-----引用終了-----

「両陛下、すなわち「令和皇室」を支える皇嗣家の重み」というのは、本来そうあるべきという話なのであって、実態はまったくそうなっていない。

だいたい、令和の皇室の足を引っ張るのは常に皇嗣家だったではないか。
そのことを自覚せず、改善しようとせず、皇后陛下の御体調の問題をあげつらい、「令和皇室」を支える皇嗣家の重み」などと述べるのは恥知らずとしか言いようがない。
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役所を批判してもどうにもならない

2024-09-21 22:40:46 | 皇室の話(3)
令和6年9月21日9:06、日刊ゲンダイDIGITALより配信の「小室圭さん騒動時を彷彿させる宮内庁長官の“ズレ”…まずは悠仁さま世代の受験生が納得する丁寧な説明を【秋篠宮家の学校選び】」と題する記事がある。

いまいち、書き手の意図の分からない記事である。

皇室に生じた問題を評論する際、宮内庁が責任を果たしていないとか、宮内庁の対応が不十分であるといった批判の仕方は安全であるし、何かそれらしいことを論じたような感じにはなる。

そして、宮内庁としても、皇室を守るという観点からは、自らがそういう批判の対象となるということは、ある程度覚悟している話であろうし、むしろ望んでいるかもしれない。

ただ、問題の中には、そのことについて役所を批判して、それで一体どうなるのかといった類いのものもあろう。

宮家の子どもをどのように養育するか、進学させるかについて、宮内庁はどこまで関与できるのか。関与すべきなのか。

かつては、皇位継承者として養育するために、親元から引き離して育てるということもできたかもしれないが、現在はそんなことは不可能だろう。

現在、あくまでも主導権は宮家の親御さんにあるのだ。

この問題で役所を批判すればするほど、「そんなこと言ったって宮家の親御さんがダメな人たちなんだからどうしようもないんじゃないのか」、という気にしかならず、ダメっぷりが際立つだけである。

仮に、ご養育、ご進学について上手くいき、国民から称賛されることとなれば、その手柄は宮家の親御さんのものということになるのであろう。
しかし、上手くいかず、国民から批判されることとなれば、その責任は役所が追うべきこととなる。

これではなんだか、ブラック企業のパワハラ上司と部下の関係みたいだ。

「西村長官、吉田大夫いずれも警視総監を務めた超弩級の警察官僚。」

これだけの人たちでも、もうどうしようもないというところに、問題のヤバさがある。
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男系に固執したその後、秋篠宮家の系統は存続可能か

2024-09-18 21:38:58 | 皇室の話(3)
令和6年9月13日、平成17年の「皇室典範に関する有識者会議」の座長代理を務められた園部逸夫氏が亡くなられたそうだ。

皇室制度について、これほど正面から検討に取り組まれた方はおられないのではないか。
残念なことである。

その成果を生かすチャンスを、「もうそろそろいいよ」で潰してしまったのは平成皇室の罪である。

今後生かされる時が来るのかどうかは分からない。


ところで、安定的な皇位継承というとき、正統性をめぐる議論にばかり重点が置かれるようであるけれども、より現実的で切実なのは、配偶者を得ることができるかという問題である。

おそらく、制度をめぐる議論は、現状のだらだらとした状態が続く可能性が高く、そうなれば、今年で30歳という年増を迎える佳子内親王殿下も近い将来、皇籍を離れることとなるであろう。

愛子内親王殿下も、あと10年も残ってくださるかは分からない。

そうすると、将来の世代を担う方は悠仁親王殿下お一人になるが、お嫁さんが来る可能性はどれだけあるのだろうか。

将来、皇位に即く方の妃となるお立場は、皇室に入ってから非常に苦労し辛い体験をするということが、もう世の中に知られてしまっている。

その上で、秋篠宮家のイメージは極めて悪くなっている。

どこまで本当かは分からないが、週刊誌では「ご難場」ということで職員に避けられているということがよく言われている。

職員であれば、どんなにブラックな場であったとして、いずれは離れることができるであろうし、辞めるという方法もある。

しかし、嫁ぐとなれば、もはや離れることのできない永久就職だ。

それとも、職員にとってはブラックでも、家族であれば安心して過ごせる場所となるのか。

それも何だか信じがたい。

小室眞子様でさえも、その結婚に際して、秋篠宮家は世間の評判ばかり気にして、結局守ろうとしなかった。
そして、複雑性PTSDになり、早々に海外に脱出するしかなくなったのである。

外から入ったお嫁さんは、なおさら弱い立場となるであろう。

とにかく子どもを産まなければならない。
男系男子を継続しなければならない宿命があり、男子を産まなければならない。
高齢となろうとも、産むまでその努力を続けなければならない。

そして、産んだあとは、何が何でも一流の学校に進学させなければならない。

日々、どんなにしんどくても、御公務を休むことは許されない。
かつて東宮家に冷淡なスタンスをとってしまった以上、そうならざるを得ないであろう。

これほど過酷な人生があるであろうか。

皇太子殿下はプロポーズに際して「僕が一生全力でお守りします」とおっしゃった。
それでも、お嫁さんを守るというのは、あれだけ大変なことだった。

果たして、悠仁親王殿下には「僕が一生全力でお守りします」と断言し実行する気概があるだろうか。

その気概がなければ話にならない。

このように考えると、お嫁さんを見つけることは、極めてハードルの高い問題となってしまっている。
そして、見つけることができなければ、そこで終了である。

ただ、可能性は0ではない。

常に、可能性ということであれば、0ではないのだ。

そのような女性が、もし将来あられることとなるのであれば、それは大変結構なことであるし、筆者としても、是非その姿を見てみたい。

もしそのような方があらわれることとなれば、伝説の勇者としてこの先1000年は語り継がれることとなるであろう。
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悠仁さまのあれについて何で説明しないのだろう

2024-09-08 00:00:45 | 皇室の話(3)
このブログにて、令和6年8月29日に「「ゆるがせにしてはならない」の闇」という記事を書き、その後、少々書きすぎたかなと思い非公開にしていたのだが、9月4日6:00に女性自身より配信の「「教諭の質問にお答えになれず…」悠仁さま 成績に注目集まるなか目撃された「授業中の懊悩」」と題する記事において、「もうそろそろいいよ」の闇についてもっとあからさまに書かれるようになっていたので、再び公開することとした。

それにしても、すごい時代になったものだ。

筆者などは、こんな数人しか読まないようなブログでも、けっこう気にしているというのに、メディアではいろんな話が次々と出てきてしまう。

他方で、いつの間にか出てこなくなってしまう話というものもあるようだ。


9月6日には悠仁親王殿下のお誕生日であった。

9月6日22:44、日テレNEWSより配信の「「全文】悠仁さま成年皇族になられた意気込み語る」」と題する記事がある。

写真を見ると、なかなかよい笑顔である。

「意気込み」も、自然で素直でまじめな感じが伝わってくると感じた。

悠仁親王殿下は、9月4日にも成年を迎えるにあたってのご感想を述べておられ、宮内庁のHPに掲載されている。

その中に、「今まで育ててくれた両親と姉たちにも感謝しています。」とある。
「姉たち」とあり、小室眞子様への感謝も述べておられるわけだ。
当然と言えば当然なのだろうけれど、筆者としては、悠仁親王殿下はすごくお優しい方なのだろうと感じた。

さて、この悠仁親王殿下のご感想が掲載されているページには、令和6年9月6日付け宮内庁皇嗣職による、これまでの御活動、御生活の様子の説明が掲載されているが、あのことへの言及が無いのが気になった。

それはすなわち、盆栽である。

令和2年1月2日17:14、朝日新聞DIGITALより配信の「悠仁さまがつくった盆栽「春飾り」 宮内庁が写真公開」と題する記事がある。

この朝日新聞の記事の時点で悠仁親王殿下は13歳でおられたのだが、「悠仁さまがつくった盆栽」は写真のとおり非常に立派なものである。

この朝日新聞の記事には、「同庁皇嗣職によると、悠仁さまは、ここ10年近く「春飾り」づくりに取り組んでいるという。」とある。

3歳、あるいは4歳のころから10年近く盆栽づくりに取り組んでおられたとのことである。

悠仁親王殿下の立派な作品は他にもあるけれども、この盆栽づくりには10年近くという継続性があるわけだから、上で紹介した9月6日付けの宮内庁皇嗣職の説明でも触れられて然るべきと思うのだが、それが無い。

これは非常に大きなミスなのではないか。

それとも、「10年近く」も続けておられたというのに、最近ではまったくなさらなくなってしまったのだろうか。

それにしても、何度見ても立派な盆栽なのだが、この朝日新聞の記事をよく読むと、最後の方に「職員の指導を受けながら、コケを配置したり、化粧砂を敷きつめたりしたという。」という記載がある。

えっ、まさか、悠仁親王殿下のなさったことというのが、コケの配置、化粧砂の敷きつめだけだったということは、ないであろうが。

それであれば、3歳とか4歳とかでも、いかにもあり得そうな話ではあるけれども、まさかそれをもって、「悠仁さまがつくった盆栽」ということで宮内庁が写真公開をするなどとあり得ないであろう・・・と思うのだが。

どっちなんだ。

常に謎と不思議に満ちている。
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