平成17年7月26日の有識者会議の後、同会議による論点整理が公表された。
筆者としても、かなり待ち遠しいものであったが、一読した感想は、あまりにきれいにまとまりすぎているということである。
125代続いた皇位継承の在り方について論じる材料としては、迫力というものにやや乏しいように感じられた。
この迫力の乏しさは、価値中立的であることに徹しようとすることに由来するのであろう。
ただ、改めて考えてみるに、政府の諮問機関が、あまり価値観を盛り込んだ迫力ある資料を唐突に公表するというのも、何だか奇妙な話であるかもしれない。
そういう意味では、良心的に、精一杯努力して作った資料であると、まずは、評価するべきなのだろう。
ただ、それだけに、読み手の立場としては、当該資料においては、皇位継承の問題を考えるに当たって必要となる要素の全てが盛り込まれているわけではないこと、特に価値観ということについては,自ら意識的に考えねばならないものであるということを、自覚しなければならないのだろう。
ここで、筆者として、特に価値観というものを思いめぐらすべきは、男系男子論についてであると思っている。
なぜならば、まず、論点整理の3ページ目において、「「男系男子」であること」を今後どう考えるかが論点」となる」とあることからは、男系男子の意義ということが,焦点となるはずだからである。
そして、女系容認の立場に立つ者としても,最終的に女系容認に踏み切る際の決断を盤石なものとするためには、なおさら、男系男子論の意義を深く理解し、まずは受け止める必要があると考えるからである。
そこで、今回は、男系男子論の背後にある価値観について、筆者なりに、改めて思いをめぐらせてみることにした。
この点については、6月19日付けの「「現在」における男系男子論の本質」の中でもある程度触れたことではあるのだが、さらにいろいろと考えてみると、その深層においては、必ずしも皇位継承の仕組みの枠の中だけの問題ではなく、もっと広い問題意識が存在しているように感じられてくる。
それは、結論的に言えば、皇位継承の危機にある現状について、それを前提に考えるのではなく、そのような現状が生じたことの由来を追求し、むしろ,そのような現状をこそ、ひっくり返すべきではないかという意識の存在である。
どういうことかと言うと、現在の皇位継承の危機の、そもそもの原因を遡って考えれば、GHQの影響下における様々な改革の一環としての皇室改革ということがあり、旧宮家の臣籍降下ということが大であったのではないか。そうであるとすれば、そのような改革の帰結としての現状をこそ見直し、本来の主体性ある日本の姿に立ち返るべきなのではないか。GHQの施策の影響に由来する現状を前提として、その現状の枠内で解決策を考えるというのは、日本の主体性に対して無自覚であり、そのような解決策が採られるとすれば、あまりに無念である、ということである。
以上は筆者の推測であるのだが、男系男子論の背後に、このような価値観が潜んでいると考えれば、一見、男系絶対主義的な主張を行う者が、同時に、まずは男系継承の方策の努力を行うべきであるというような言い方をし、その限りでは女系を容認しているかのような矛盾を生じているのも、理解しやすいであろう。すなわち、そのような論者というのは、表面的には,皇位の正統性について論じているようでありながら、その実は、いわゆる保守派好みの日本の姿に、分かりやすく言ってしまえば戦前の日本の姿に立ち返るべく、努力すべきことを主張しているということである。
このような価値観については、なかなか根が深いものであるように思うし、筆者としても,理解できるところはある。
ただ、筆者としては、いろいろ悩んだ結果、やはり、このような価値観については、克服しなければならないと思うに至ったのだ。
何よりも大きな問題としては,戦後における皇室と国民との歩みを、十分に見つめていないということがあろう。
占領下における改革については、それは当時の日本として、確かに不本意なものもあったであろう。
ただ、戦後60年、本当に国民が変えようと思えば変えることも可能な状態でありながら、既に、ここまで、歩んできてしまったわけである。
そして、皇室におかれては、新しいお立場において真摯にお務めを果たされ、新たな道を切り開かれてきたわけであるが、そこには、敗戦を経てなお、そして、めまぐるしい時代状況の変化の中で、日本が歴史的連続性をもった存在であることを確保するということが、念頭にあったはずである。
そのような、皇室と国民との戦後60年の歩みというものは、日本の歴史的連続性を確保するためにも、大切にするべきなのではないか。
そのような歩みを大切にし、積極的に評価するのであれば、まずは今の現状を受け止め、今の現状を前提に考えるべきなのではないか。
そのように思うに至ったからである。
筆者としても、かなり待ち遠しいものであったが、一読した感想は、あまりにきれいにまとまりすぎているということである。
125代続いた皇位継承の在り方について論じる材料としては、迫力というものにやや乏しいように感じられた。
この迫力の乏しさは、価値中立的であることに徹しようとすることに由来するのであろう。
ただ、改めて考えてみるに、政府の諮問機関が、あまり価値観を盛り込んだ迫力ある資料を唐突に公表するというのも、何だか奇妙な話であるかもしれない。
そういう意味では、良心的に、精一杯努力して作った資料であると、まずは、評価するべきなのだろう。
ただ、それだけに、読み手の立場としては、当該資料においては、皇位継承の問題を考えるに当たって必要となる要素の全てが盛り込まれているわけではないこと、特に価値観ということについては,自ら意識的に考えねばならないものであるということを、自覚しなければならないのだろう。
ここで、筆者として、特に価値観というものを思いめぐらすべきは、男系男子論についてであると思っている。
なぜならば、まず、論点整理の3ページ目において、「「男系男子」であること」を今後どう考えるかが論点」となる」とあることからは、男系男子の意義ということが,焦点となるはずだからである。
そして、女系容認の立場に立つ者としても,最終的に女系容認に踏み切る際の決断を盤石なものとするためには、なおさら、男系男子論の意義を深く理解し、まずは受け止める必要があると考えるからである。
そこで、今回は、男系男子論の背後にある価値観について、筆者なりに、改めて思いをめぐらせてみることにした。
この点については、6月19日付けの「「現在」における男系男子論の本質」の中でもある程度触れたことではあるのだが、さらにいろいろと考えてみると、その深層においては、必ずしも皇位継承の仕組みの枠の中だけの問題ではなく、もっと広い問題意識が存在しているように感じられてくる。
それは、結論的に言えば、皇位継承の危機にある現状について、それを前提に考えるのではなく、そのような現状が生じたことの由来を追求し、むしろ,そのような現状をこそ、ひっくり返すべきではないかという意識の存在である。
どういうことかと言うと、現在の皇位継承の危機の、そもそもの原因を遡って考えれば、GHQの影響下における様々な改革の一環としての皇室改革ということがあり、旧宮家の臣籍降下ということが大であったのではないか。そうであるとすれば、そのような改革の帰結としての現状をこそ見直し、本来の主体性ある日本の姿に立ち返るべきなのではないか。GHQの施策の影響に由来する現状を前提として、その現状の枠内で解決策を考えるというのは、日本の主体性に対して無自覚であり、そのような解決策が採られるとすれば、あまりに無念である、ということである。
以上は筆者の推測であるのだが、男系男子論の背後に、このような価値観が潜んでいると考えれば、一見、男系絶対主義的な主張を行う者が、同時に、まずは男系継承の方策の努力を行うべきであるというような言い方をし、その限りでは女系を容認しているかのような矛盾を生じているのも、理解しやすいであろう。すなわち、そのような論者というのは、表面的には,皇位の正統性について論じているようでありながら、その実は、いわゆる保守派好みの日本の姿に、分かりやすく言ってしまえば戦前の日本の姿に立ち返るべく、努力すべきことを主張しているということである。
このような価値観については、なかなか根が深いものであるように思うし、筆者としても,理解できるところはある。
ただ、筆者としては、いろいろ悩んだ結果、やはり、このような価値観については、克服しなければならないと思うに至ったのだ。
何よりも大きな問題としては,戦後における皇室と国民との歩みを、十分に見つめていないということがあろう。
占領下における改革については、それは当時の日本として、確かに不本意なものもあったであろう。
ただ、戦後60年、本当に国民が変えようと思えば変えることも可能な状態でありながら、既に、ここまで、歩んできてしまったわけである。
そして、皇室におかれては、新しいお立場において真摯にお務めを果たされ、新たな道を切り開かれてきたわけであるが、そこには、敗戦を経てなお、そして、めまぐるしい時代状況の変化の中で、日本が歴史的連続性をもった存在であることを確保するということが、念頭にあったはずである。
そのような、皇室と国民との戦後60年の歩みというものは、日本の歴史的連続性を確保するためにも、大切にするべきなのではないか。
そのような歩みを大切にし、積極的に評価するのであれば、まずは今の現状を受け止め、今の現状を前提に考えるべきなのではないか。
そのように思うに至ったからである。