皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

日本人の精神

2004-09-12 23:03:32 | 筆者のつぶやき
 皇室のことを考えると、世の中を見るに、知的に理解するというアプローチと、感覚的に感じるというアプローチがあるのだなということを、つくづく実感する。
 どういうことかというと、皇室の存在意義を考えるときに、知的な理屈付けを考えると、なかなか難しいのだ。
 皇室のご公務は、実務的なサービスではないから、契約的な利益の交換ということでは立証しにくい。
 しかし、かといって、無意味なものであるかというと、それもしっくりと来ず、そこには何かがあるはずであり、もやもやとしたものが残る。
 そして、いろいろ悩んでみると、結局、皇室に対して知的に理解しようとするアプローチが間違っていたのだなということに到達するわけである。
 そして、ひとたび、感覚的に感じるというアプローチがあることを思い出し、皇室の存在意義を理解しようとすると、これが実に明快になる。
 日本国始まって以来の、長く共有してきた歩み、今の皇室のご公務に現れている、国民の幸せを祈る姿。
 その存在に尊い価値があることに、何の疑いが生じるというのだろうと。 
 もちろん、感覚に基づく価値観というものは、自らが実際に感じることによって把握するものであり、他人に押しつけたりとか、説得できるたぐいのものではない。
 そこが、知的な理解と異なるところだ。
 そういう訳で、筆者としては、できるだけ多くの人に、皇室の存在というものを、感覚で味わってもらえたらと願うのである。
 もとより、感覚については、ごく個人的なものであるから、皇室に対して反発を感じる人もいるかもしれない。
 ただ、できるだけ多くの人が、皇室に対して、心の目を開き、感覚的に理解しようと試みるならば、知的な理解では把握できなかった方向性が、はっきりしてくるのではないだろうか。
 ところで、現代は、世の中を知的に理解しようというアプローチが、あまりに偏重されている気がしてならない。
 一つのたとえ話として、地震や嵐が起こったときに、それは自らの行いが悪いからだ、自らの行いが神様の怒りに触れたのだと感じ、怖れる人がいたとする。
 そのような人に対しては、何と愚かであるなと、大部分の人が思うであろう。
 しかし、確かに知的には愚かであるし間違っているが、そのような、自らと自然との一体感の感覚というものは、果たして、ばかばかしいと切って捨てることができるものだろうか。
 そのような感覚を持って生きる人生の豊かさを想像してみるに、何ともうらやましい気持ちになってしまうのである。
 もともと日本は、八百万の神の国なのだから、世の中の理解として、感覚的なアプローチが得意だったのではないだろうか。
 もちろん、知的なアプローチも必要であるが、併せて感覚的なアプローチというものの重要性を再認識すれば、日本人は、まだまだ復活できるのではないだろうか。 
コメント
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