皇室のことを考えると、世の中を見るに、知的に理解するというアプローチと、感覚的に感じるというアプローチがあるのだなということを、つくづく実感する。
どういうことかというと、皇室の存在意義を考えるときに、知的な理屈付けを考えると、なかなか難しいのだ。
皇室のご公務は、実務的なサービスではないから、契約的な利益の交換ということでは立証しにくい。
しかし、かといって、無意味なものであるかというと、それもしっくりと来ず、そこには何かがあるはずであり、もやもやとしたものが残る。
そして、いろいろ悩んでみると、結局、皇室に対して知的に理解しようとするアプローチが間違っていたのだなということに到達するわけである。
そして、ひとたび、感覚的に感じるというアプローチがあることを思い出し、皇室の存在意義を理解しようとすると、これが実に明快になる。
日本国始まって以来の、長く共有してきた歩み、今の皇室のご公務に現れている、国民の幸せを祈る姿。
その存在に尊い価値があることに、何の疑いが生じるというのだろうと。
もちろん、感覚に基づく価値観というものは、自らが実際に感じることによって把握するものであり、他人に押しつけたりとか、説得できるたぐいのものではない。
そこが、知的な理解と異なるところだ。
そういう訳で、筆者としては、できるだけ多くの人に、皇室の存在というものを、感覚で味わってもらえたらと願うのである。
もとより、感覚については、ごく個人的なものであるから、皇室に対して反発を感じる人もいるかもしれない。
ただ、できるだけ多くの人が、皇室に対して、心の目を開き、感覚的に理解しようと試みるならば、知的な理解では把握できなかった方向性が、はっきりしてくるのではないだろうか。
ところで、現代は、世の中を知的に理解しようというアプローチが、あまりに偏重されている気がしてならない。
一つのたとえ話として、地震や嵐が起こったときに、それは自らの行いが悪いからだ、自らの行いが神様の怒りに触れたのだと感じ、怖れる人がいたとする。
そのような人に対しては、何と愚かであるなと、大部分の人が思うであろう。
しかし、確かに知的には愚かであるし間違っているが、そのような、自らと自然との一体感の感覚というものは、果たして、ばかばかしいと切って捨てることができるものだろうか。
そのような感覚を持って生きる人生の豊かさを想像してみるに、何ともうらやましい気持ちになってしまうのである。
もともと日本は、八百万の神の国なのだから、世の中の理解として、感覚的なアプローチが得意だったのではないだろうか。
もちろん、知的なアプローチも必要であるが、併せて感覚的なアプローチというものの重要性を再認識すれば、日本人は、まだまだ復活できるのではないだろうか。
どういうことかというと、皇室の存在意義を考えるときに、知的な理屈付けを考えると、なかなか難しいのだ。
皇室のご公務は、実務的なサービスではないから、契約的な利益の交換ということでは立証しにくい。
しかし、かといって、無意味なものであるかというと、それもしっくりと来ず、そこには何かがあるはずであり、もやもやとしたものが残る。
そして、いろいろ悩んでみると、結局、皇室に対して知的に理解しようとするアプローチが間違っていたのだなということに到達するわけである。
そして、ひとたび、感覚的に感じるというアプローチがあることを思い出し、皇室の存在意義を理解しようとすると、これが実に明快になる。
日本国始まって以来の、長く共有してきた歩み、今の皇室のご公務に現れている、国民の幸せを祈る姿。
その存在に尊い価値があることに、何の疑いが生じるというのだろうと。
もちろん、感覚に基づく価値観というものは、自らが実際に感じることによって把握するものであり、他人に押しつけたりとか、説得できるたぐいのものではない。
そこが、知的な理解と異なるところだ。
そういう訳で、筆者としては、できるだけ多くの人に、皇室の存在というものを、感覚で味わってもらえたらと願うのである。
もとより、感覚については、ごく個人的なものであるから、皇室に対して反発を感じる人もいるかもしれない。
ただ、できるだけ多くの人が、皇室に対して、心の目を開き、感覚的に理解しようと試みるならば、知的な理解では把握できなかった方向性が、はっきりしてくるのではないだろうか。
ところで、現代は、世の中を知的に理解しようというアプローチが、あまりに偏重されている気がしてならない。
一つのたとえ話として、地震や嵐が起こったときに、それは自らの行いが悪いからだ、自らの行いが神様の怒りに触れたのだと感じ、怖れる人がいたとする。
そのような人に対しては、何と愚かであるなと、大部分の人が思うであろう。
しかし、確かに知的には愚かであるし間違っているが、そのような、自らと自然との一体感の感覚というものは、果たして、ばかばかしいと切って捨てることができるものだろうか。
そのような感覚を持って生きる人生の豊かさを想像してみるに、何ともうらやましい気持ちになってしまうのである。
もともと日本は、八百万の神の国なのだから、世の中の理解として、感覚的なアプローチが得意だったのではないだろうか。
もちろん、知的なアプローチも必要であるが、併せて感覚的なアプローチというものの重要性を再認識すれば、日本人は、まだまだ復活できるのではないだろうか。