皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

両陛下、サイパン島への慰霊の旅

2005-06-27 21:52:06 | 皇室の話
天皇皇后両陛下のサイパン島への慰霊の旅については、すでに多く報じられている。
筆者として感慨深いのは、両陛下の訪問に当たっての、多くの人々の反響である。
実に、しみじみとした、深いものが感じられるのである。
それは、ひたすらに、平和と人々の幸福を祈られてきたご存在であるからこそなのであろう。
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皇室について考えるに伴う、雑多な感想

2005-06-24 01:02:13 | 筆者のつぶやき
皇室について考えるということは、特殊な問題のことを考えているかのようでいて、実は、今の社会の本質を考えることにも繋がるのではないか、そのように思うことがある。
確かに、多くの人の生活には、皇室ということは直接関係していないであろう。
であるから、しばしば、皇室が無くなっても、生活には直接関係ないし、大して困らないということが言われたりする。
それは、確かにそうであるかもしれないと、筆者でも思う。
ただ、皇室というご存在が体現されているもの、これが失われるとしたら、この社会は何とも生きるのが苦しく、不幸な状態になるのではないか。
皇室が体現されているもの、一口にこのように言っても、その内容は幅広く奥深いが、まずは、現在の社会の在り方、そして、一人一人の在り方というものが、過去からの無数の因果の連鎖の上に成り立っているものであるとの自覚と感謝ということがあろう。
社会にしても、一人一人の個人にしても、ある時点でいきなり存在し始めたのではなく、過去からの因果の連鎖の上に成り立っているということであり、世界の中の孤児ではないということである。
また、過去からの因果の連鎖ということは、同時代における、自らの他者との関係性を想起させることにもなろう。
このことは、一人一人の個人に対し、自らの役割と責任を自覚させ、そしてそれがあるからこその、達成感、充実感を生じさせることになるのではないだろうか。
人生における、達成感、充実感というものは、自らの役割と責任の自覚なしには、およそ得られないものである。
しかるに、現在の社会においては、人々が、自らの役割と責任の自覚を得る機会というものは、かなり乏しくなっているのではないか。
筆者自身について振り返れば、自らを、あたかも、自分一人で一つの完結した存在であるかのように考えていた時期もあった。
ただ、これは、やはり真実ではないのである。
そもそもが、両親から生まれた存在であるし、先祖について延々と遡っていけば、地球の始まりにも遡ることになろうか。いや、宇宙の始まりにも遡ることになろうか。
日々口にする食物にしても、多くの人の手を経て加工されており、また、その材料については、大地、水、空気、日光の賜物であるのだ。
このような関係性の中で、存在をしている。
そして、自分自身、変わらぬ存在のように思えても、この関係性の中では、子ども時代、青年期、中年期、そして老年期と、それぞれ異なる役割を果たさなければならないのである。
そして、これこそが真実であり、このような自覚の下、自らの存在を全うすることにより、人生の幸福を感じることもできるのだろう。
しかし、現在の社会では、このような自覚を得ることは、難しいであろう。
多くの人は、核家族という生活空間の中で大人になる。
この核家族というものは、どうしても、人間の生老病死に接する機会を乏しくしてしまう。
唯一求められる仕事は勉強であるかもしれないが、机の上での勉強など、自らの存在と世界との関係性の自覚とは、ほど遠いものであろう。
さて、このような生活空間で育った人間が、いきなり社会に出るというのは一苦労である。
そこでは、自分一人で一つの完結した存在などとはいっておれない。組織の中で役割を果たさなければ、存在意義を認めてもらえない世界に放り出されるわけだ。
また、結婚して、子どもができれば、これも大変なことである。子どもとの関係では、親であることが否応なく要求される。子どもに対して、自らを犠牲にして愛を注ぐ存在とならなければならないのである。
最近、職に就こうとしない若者の問題が深刻化しつつあるようだ。また、親殺し子殺しも、一昔前は大ニュースであったが、今では日常茶飯事である。また、出生率の低さは、年々深刻さを増すばかりである。
社会全体が、まさに内部崩壊の様相を呈しつつあるが、それは人々の世界観、自己という存在についての認識の問題と、無関係ではないのではないだろうか。
皇室とは、過去からの歴史の上に成り立つご存在であり、その無私なる境地は、自らのお立場への深い自覚に基づくものであり、国の平安の国民の幸せを念じられることに向けられたものだ。
なるほど、皇室の方々のご動静は、社会における一人一人の生活には、直接関係はないであろう。
しかし、このような、皇室というご存在が体現されておられるものが、この社会から失われるとしたら、後はもう、ひたすら滅びに向かうしかないのではないだろうか。
このように言うと大げさなようであるが、やはり、出生率の低下は大きな問題である。これには様々な原因があるが、人々に、子どもを生み育てることの意義が分かりにくくなっていることや、根気と覚悟が無くなっているという問題が大きいであろう。
皇位継承の危機ということを何度か述べたが、現在は、日本人そのものの消滅の危機に直面しつつあるのかもしれない。
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男系男子を維持した場合の未来図

2005-06-21 00:46:18 | 皇室の話
前回、安易に女系容認に踏み切ってしまった場合の懸念を述べたが、今回は、男系男子を維持した場合の懸念について述べることにする。
筆者として、心配であるのは、男系男子論者が、皇室に対し、果たして温かい目を向けるかということである。
これは、前回述べた如く、「現在」の男系男子論というものが、伝統美に対する執着によるものであり、人間的な価値を志向していないということであるならば、あるいは必然とも言い得るが、思い起こすべきは、皇太子殿下のご発言をめぐっての物言いである。
現在の男系男子論者の殆どは、皇太子殿下、皇太子妃殿下に対して、実に同情心に欠ける冷たい批判を行っている。
諫言するのが臣下の務めであるというようなことを大義名分として振りかざす者もいるが、公の場にてこき下ろすようなことが、臣下としてのあるべき諫言だろうか。
あたかも自らが、皇室自身よりも、皇室伝統を弁えているかの如き不遜の態度であり、臣下としてふさわしい態度であるか、甚だ疑問である。
さて、このような男系男子論者の主張どおり、男系男子ということが維持されることとなり、旧宮家復活・養子が行われたとする。
そのとき、旧宮家の方々は、長く民間の立場におられたのであるから、皇室の伝統になじむために多くのご苦労をされることであろう。
また、昔と異なり、現在は商業主義に立つメディアというものが非常に大きな力を持っており、皇室に対する遠慮というものは限りなく薄れているのであるから、その餌食となってしまうのではないだろうか。誤報・憶測報道による攻撃にさらされる中で、難しい対応を迫られるだろう。
そういうとき、かつて男系男子論を主張した者たちは、皇室の擁護の側に立つであろうか。
さすがに、旧宮家から復帰した初代に対しては、義理立てする者もいるかもしれないが、筆者の推測するに、男系男子が維持されることとなったとたん、男系男子論者というのは、旧宮家出身の皇室に対する批判勢力に転ずるのではないかと危惧される。
何かと、伝統・しきたりを遵守しているかのチェックが行われるであろうし、いちいち細かいところで、情け容赦のない批判が行われるであろう。
また、男子出産のプレッシャーの問題であるが、かつて女系容認に踏み切るという選択肢を排除してしまっているのだから、今更女系に踏み切ることなどできようはずもなく、プレッシャーの大きさは、現在とは比較にならないのではないだろうか。そして、このプレッシャーを最も強く与えるのは、かつての男系男子論者たちであろう。
このような未来は、あまり想像したくはないが、現在の男系男子論者による、皇太子同妃両殿下に対する、あまりに無慈悲な批判を思い起こすとき、あながち悪夢とばかりも思えないのである。
そのような未来において、皇室を擁護するのは、意外とかつての女系容認者であるかもしれない。
これは、なかなか皮肉な話である。
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「現在」における男系男子論の本質

2005-06-19 23:49:38 | 皇室の話
皇位継承の在り方につき、筆者は、女系容認に傾きつつある。ただ、そのように自覚すればするで、男系男子についての未練のようなものを感じてしまう。
この未練とは、一体何なのであろうか。
そこで、今回は、男系男子論について、改めて考えてみることにした。
そもそも、男系男子ということに、どのような意味があるのだろうか。
この点については、既存の議論では十分に解明されていないようであり、推測するしかないのであるが、以下のように考えることができよう。
まず、世襲制というものが存在する社会においては、何故に世襲制が人々に支持されるのであろうか。
それは、君主たる者の特徴を、最も多く受け継いでいるのが、その子であるという考え方によるのであろう。太古において、人々に遺伝の知識は無かったにせよ、子が親に似るということは、ごく自然に認識されていたであろうし、また、遺伝ということのほか、親と子が共に暮らすことにより受け継がれる後天的な資質ということも重要であったろう。
そして、この世のあらゆるものが、世代から世代へと、親から子に受け継がれるものであろうという意識が強い社会においては、君主たる者の特徴を最も受け継いでいるはずの子にこそ、その資格の継承が認められることとなったであろう。
ここで、男系男子ということについては、先天的資質が男系によって多く受け継がれるという観念によるものであったかもしれない。
また、あるいは、後継者を多く確保するという必要性から、一夫多妻制が採用され、その結果、血の継承における女性の個性が希薄化したということもあったかもしれない。
以上については、今までに何度か述べてきたことである。
さらに、ほかの理由としては、政争を生き抜くためといった実際上の要請もあったであろう。
ただ、このように考えてみると、これら、男系男子でなければならないとする要因については、現在、かなり軽減されてきていると言えないだろうか。
まず、親から子への特徴の継承という点では、男系だけに限る必然性はあるまい。Y染色体に着目する議論もあるが、Y染色体自身の遺伝情報というものはかなり乏しいものであり、特徴の継承という点では意味はないものである。また、太古の人々にY染色体の知識があるはずはなく、太古より受け継がれてきた男系男子の意味の解明ということとは、無関係の議論であろう。
また、現在の皇室では、側室は認められなくなっており、このことは今後も維持されるであろうから、一夫多妻制における女性の没個性化という事情はなくなっている。
さらに、天皇の地位に関しては、象徴天皇制ということが確立しており、政争の渦中において対応をせまられるということも無くなったと言える。
このように考えてみると、男系男子でなければならないとする根拠は、かなり弱くなったと言えるのではないだろうか。
ただ、そうであるからといって、簡単に男系男子に意味がないと言えるかとなると、どうもそういうことにはならないようである。
冒頭に述べた筆者の未練ということも、ここに関係している。
改めて、「現在」の男系男子論を見てみると分かると思うのだが、そこには、男系男子ということがどのように始まったのか、男系男子にどのような意味があるのかということは論じられていない。論者の多くは、そういうことは問題にしていないようなのだ。論じられているのは、もっぱら、男系男子が125代続いてきたという歴史的な重みの強調である。
これは、一見、怠惰な研究姿勢の表れのように見えなくもないが、実は、ここにこそ、現在の男系男子論の本質が表れている。それは、すなわち、皇室というご存在の意義、皇室と日本人との関係ということとは、次元の異なる価値観に基づくものであるということである。
なぜならば、男系男子ということが125代続いてきたという歴史的な重みであるが、それは、後代において、歴史が積み重なったことによって生まれた価値だからであり、後代という視点に立った価値だからである。
この価値を何よりも重視するというのは、例えれば、美というものに対する一種の執着のようなものであろうか。
このように書くとあまり大したことのない話のようであるが、これは、なかなか手強く恐ろしいものであると思う。
功利主義的な観点、また人権思想から批判することは簡単である。ただ、それらによっていくら批判しても、ビクともしないのである。
もともと、美というものの価値、人がそれに惹かれるということに、理由はないからである。
それ故に、手強い。
また、その恐ろしさというのは、必ずしも人間的な価値を志向していないということである。むしろ、逆に、人間的な価値というものを自らに奉仕させることを求めるという特質があるようである。分かり易く言えば、それに払う人々の犠牲が多ければ多いほど、その価値が高まってしまうという特質があるということである。かつての女性天皇たちが如何に自らの人生を犠牲にして男系を守ってきたかということについて、男系男子論者により、美しい話として紹介されることがあるが、それはまさにこのことを裏付けていよう。
そして、恐ろしければ捨ててしまえばよいのであろうが、人間の宿命的な性質として、そのような美というものへの執着は捨てきることもできないのであろう。
これは、いい加減に扱えば、手痛いしっぺ返しを受けることになる。しっぺ返しで済めばいいが、致命的なダメージになる可能性もあり得る。例えば、日本という国の価値が損なわれてしまったという絶望感の蔓延ということである。国家の在り方について何も考えていないような者には、あまり影響はないかもしれないが、真剣に考える者において、国家の運営を担うような者の間において、そのような絶望感が広まるとすれば、深刻である。
このような、伝統の積み重なりの美しさに対する執着心の性質にかんがみて、国家の安定的な運営という観点から、男系男子を維持するべきという立論は、十分成り立つであろう。
男系男子論者といってもピンきりであるが、小堀桂一郎氏の論には、このことが自覚されているように感じられる。氏の主張する「道理」ということ、そして、「道理」の担い手は、皇室ではなくて、力ある賢明な臣下であるという認識、また、氏が、一般の国民ではなく政治家をその主張の相手先としている点など、まさにこのことの表れではないか。
したがって、女系容認に踏み切るのであれば、どうしても、それなりの覚悟が必要となるのである。まずは、男系男子で続いてきたことの伝統の重みを踏まえなければなるまい。そして、その伝統の重みに見合うだけの価値というものを見出し、それを踏まえる必要があるだろう。それは結局、皇室というご存在の意義、皇室と日本人との関係の本質を見極めるということにほかならないはずである。
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皇位継承問題につき,国民として必要なこと。

2005-06-16 22:41:51 | 皇室の話
皇位継承の在り方の問題というのは,実に難しい。
現行のままでは,皇室は消滅してしまう。だから,現状維持ということは,もうできなくなった。
ただ,そこで,女系容認に踏み込むにしても125代続いてきた男系男子の伝統の重みをどう考えるかという問題がある。
一方で,男系男子を維持するために約570年前に枝分かれした男系の血統に正統性の根拠を見出して,旧宮家復活・養子を行うということも,やはり,一大決心であるには違いない。
どちらを選択するにしても,非常に大きな決断である。
そして,そのような決断を迫られつつも,筆者も含めた国民の側として,果たして十分な判断能力があるだろうか,覚悟があるだろうかと問われると,これはかなり怪しいものと言わざるを得ないのではないだろうか。
このままでは,どちらを選択するにしても,「これで本当によかったのだろうか」という気持ちが,後々国民の側に生じてしまうように思われる。
これは,皇室に対しても,大変申し訳ない話だ。
皇位継承の在り方については,当事者である皇室の意向をくみ取ることが必要であるという主張もある。
この主張については,必ずしも,フェアかアンフェアかという観点だけでなく,難しい選択を迫られた状態から逃れたいという切実な気持ちが込められているのかもしれない。
しかし,仮に,皇室のご意向を伺ってしまった場合には,そのご意向に対して,賛成をしたりあるいは反対をしたりといった,同じ土俵で調整を行うということはできないであろう。
それは,法律制定という国政への関与という問題だけでなく,皇室の聖性を侵すことのように思われるのだ。
筆者自身も,かつて,皇室のご意向にゆだねるべきということを書いたことがあるが,その趣旨について補足すると,皇室について国政に関与することができないという原則を確保するのであるならば,どなたを皇位継承者にするかについては皇室内部の問題として,皇室の家内法に委ねるべきという話である。
これは,旧憲法時代の宮中府中の別ということと同じ発想で,合理性はあると思うのだが,もちろん,現実的ではないだろう。
現実問題として,法律としての皇室典範改正ということで考えるならば,それは国民の責任で考えなければならないということであり,皇室の意向をくみ取るということは,できないことなのであろう。
そして,皇室の側としては,記者会見にて度々質問をされても,皇位継承の在り方に関する自らの考えについては,沈黙を守られている。無私なる境地に徹底されておられる。
これは,実に切ない話だ。
そのような皇室に対する,せめてもの誠意としては,国民として,十分な覚悟と決意をもって判断するということしかないのであろう。
そして,そのためには,女系容認にしても,男系男子維持にしても,国民一人一人が十分に考えて,あらゆる論点を出し尽くすことが,重要であろう。
しかし,世の中の議論の状況をみるに,なかなか寂しい状態にあると言わざるを得ない。
他人事のような議論では無意味であるし、熱のこもった議論でも、論者間の非難攻撃にばかり重点が置かれるとすれば、国民全体が納得のできる結論には、とうてい到達できないであろう。
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男系男子への固執について考える。

2005-06-14 21:14:02 | 皇室の話
皇位継承の在り方について,最近の筆者は,女系容認に傾いている。
ただ,当初は,男系男子を維持するべきとの考えであった。
この移り変わりについては,今まで掲載した記事に表れているところであるが,今回,改めて,振り返ってみることにしたい。
まず,筆者としては,皇室というご存在の意義を,深く考えたいという立場だ。これは昔も今も変わっていない。自分自身,深く考えたいというだけでなく,皇室の地位が,日本国及び日本国民統合の象徴であることにかんがみれば,日本人全体が,深く考えるべきだとも思っている。
皇室の方々の苦境というのも,皇室というご存在の意義が,忘れられていることによるのではないかと,筆者は考えている。
忘れられているが故に,ワイドショーに代表される低俗な興味の対象ともなり,また,皇室というお立場に対する共感があればおよそ考えられないような,思いやりのない嫁いびり的な批判も,ときに見られると思うのだ。
このような立場の筆者としては,当初,女帝論についても,同じく,皇室というご存在の意義を深く考えない立場からの主張として,これは許せないと感じたのだ。
すなわち,男でも女でもどちらでもいいという発想のように思われたのである。
「思われた」と述べたが,現在でも,そのような発想の者は多いかもしれない。
そして,この発想の浅はかであることについては,男系男子に固執する立場の方が多く述べておられるところであり,筆者も同感である。それは今でも変わらない。
ただ,男でも女でもどちらでもいいという発想を排除し,改めて真剣に,皇位継承のあり方を考えようという場合,これはなかなか難しい。
女系容認は,今まで125代男系男子で続いてきた皇位継承の在り方を,根本的に変えるものであると言われる。
そうすると,女系容認だけが,大変革のようであるが,男系男子維持のための旧宮家復活・養子案にしたって,大変革である。なぜなら,それは,平成,昭和,大正,明治,江戸・・・と今まで続いてきた皇室のご血統よりも,570年前に枝分かれしたご血統を選ぶということだからだ。
よく安易な女系容認論ということが言われることがある。
確かに,男でも女でもどちらでもいいという発想であれば,安易な論であるが,今まで男系男子だったのでやはり男系男子を維持すべきというのも,現在の皇位継承の危機的状況に照らしてみれば,やはり安易な論であると言うべきではないだろうか。
日本人にとっての皇室というご存在の意味は何か,皇室を大事と思う心の中に,男系という要素はどれほどの重きをなしているかを改めて考えてみなければなるまい。
筆者としては,そのように考えてみた場合,現在の皇室のご血統との絆が,やはり重いものと思われ,女系容認もやむなしと思うに至ったのだ。
もちろん,そのように考えて,なお,男系男子を維持するべきという立場もあるかもしれない。そして,そうであるあらば,筆者としては,そのような深い男系男子論というものを,是非とも拝聴したいものである。
ただ,残念ながら,現時点では,そのような深い男系男子論というものは見当たらない。
ここで,深い男系男子論ということを述べたが,既存の男系男子論につき,何が足りないのかについて,いくつか述べることとする。
まず,男系男子論を主張する際には,女系では皇統の正統な継承者になり得ずそれ故に男系男子を維持するべきと主張するのか,それとも,女系も皇統の正統な継承者ではあり得るが過去の実例を重くみて男系男子を維持するべきと主張するのか,どちらの立場であるのかを明確化する必要があろう。
しかし,実際には,しばしば混同されている実態がある。
前者の立場に立てば,女系天皇というのは原理的に認められないことになるはずで,男系が維持できなければ天皇制は消滅するしかないということになるはずである。
ところが,Y染色体の議論を持ち出す八木秀次などもこの立場に立つと思われるが,一方で,男系維持が不可能となった場合に女系容認の可能性について言及したりしている。
これは,思想的に,いい加減にして,おかしな話である。その場合の女系天皇というのは,どのような存在なのであろうか。正統性に疑いのある天皇ということになってしはしまいかと思われるが,それは皇室にとっても日本にとっても不幸な状態である。
後者の立場に立ち,取りあえず女系天皇にも正統性があることを認めるというのであれば,思想的な矛盾というものはないであろう。
ただ,この場合でも,実際の運用において,きわめてリスクの高いものと言わざるを得ない。男系男子を維持することとして,現在の皇室のご血統を皇位継承から除き,旧宮家復活・養子を行ったとする。しかし,庶系の認められない男系男子というものは,所詮無理のあるものであり,よほど宮家の数を増やさない限りは,早晩再び皇位継承の危機が訪れることが予想される。さて,その段階になって,今さら女系容認に踏みきろうとしても,それは無理であろう。そのようなことをすれば,なぜあの時女系を認めなかったのかという議論になるであろうし,それこそ皇位の正統性をめぐって大混乱が生じるであろう。
旧宮家復活・養子による男系男子の維持が,どれくらいの期間継続できるかという問題があり,現在の皇室のご血統に連なる方々が人々の記憶から消えてしまう程に長く維持できるのであれば,あるいはそれほど大きな問題にはならないかもしれないが,そのような見通しがあるのであろうか。
そのような見通しなくして,男系男子を維持することとし,その半面,現在の皇室のご血統を皇位継承から排除するというのであるならば,それこそ軽はずみと言わなければなるまい。
また,男系男子を維持するための旧宮家復活・養子というが,その候補者が,実際にどれくらいおられるのであろうか。また,資質ということについては,どうなのであろうか。
あまり資質といった議論はしたくはないが,皇室というお立場は一般の国民とは異なるはずで,特別な資質が求められるであろう。それは端的に言えば,自らの立場というものに対する深い自覚ということではないだろうか。
皇室には皇室というお立場があり,国民には国民の立場がある。
ここで,旧宮家については,なかなか難しいところがある。その皇籍離脱については,事実上,GHQの圧力ということもあったであろう。
ただ,いかなる理由があるにせよ,一定の手続,すなわち皇室会議の議と一時金の支給を受けて国民となったからには,もはや一国民というべきであろう。
おそらく,旧宮家の方々というのは,胸の奥に,元皇族としての誇りを抱きつつ,そして,そうであればこそ,現在の国民としての立場を全うされておられるのではないか。
それは,もしかすると,皇室という立場に居続けるよりも厳しい道であるかもしれず,そのようなお方であれば,資質ありと言えるかもしれない。
しかし,皮肉なことに,そのような自覚がおありであればあるほど,皇籍への復帰を辞退されることになるのではないか。
皇室という立場と国民という立場というものは,簡単に行ったり来たりできるような,半端なものではないはずだからである。
また,女系が容認されれば,皇位の正統性につき,反皇室の立場からの攻撃が始まるという懸念が述べられる場合がある。
ただ,改めて考えてみるに,もともと女系に正統性を認めない男系男子論の立場であれば,そのような心配をする必要はないはずであるし,女系にも正統性を認めるのであれば,そのように主張すればよいだけの話ではないだろうか。
どうも,この反皇室の立場からの攻撃の懸念というのは,よく分からない話である。反皇室の立場の者がそのようなことを仄めかしたことがあったとしても,それはむしろ,挑発ではなかったか。カーッとさせられて不利な状況に追い込まれているだけなのではないか。
そのような気がしてならない。
以上,男系男子論の問題点を述べてきたが,最後に,皇位継承の問題の捉え方につき,男系と女系との問題として捉えるのも,実は不十分であると思う。男系か女系かと問われれば,いかにも男女平等の問題のようであるし,抽象的にそのように問われれば,筆者にしても,女系には反対である。
しかし,問題の本質は,男系か女系かということではないのではないだろうか。それは,皇位継承の在り方としての,いくつかのパターンを分ける争点ではあるにしても,日本人として問われているのは,そういう問題ではないのではないだろうか。
日本人として,今,問われているのは,現在の皇位継承の危機的状況を乗り越えるために,現在の皇室のご血統との絆と,男系男子という継承原理との両者について,どちらを重く見るかということなのではないか。皇室というご存在の意義,皇室と日本人との関係において,どちらがより本質的なものであるか,という判断なのではないだろうか。
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皇位継承問題について、皇室と日本人との絆という視点から

2005-06-11 01:05:12 | 皇室の話
平成17年6月8日おいて、皇室典範に関する有識者会議における識者ヒアリングの2回目が行われた。
ヒアリングにおいては、専門家による様々な意見が述べられたが、この際、筆者なりの一つの視点を示すことといたしたい。
それは、皇室というご存在の意義ということから、遡って考えるということである。
皇位継承の在り方自体については、パターンは限られてくる。
すると、問題となるのは、いずれのパターンを選ぶかにつき、どれだけ納得できるか、覚悟できるかということであろう。
そのためには、システム論的な合理性だけでは不十分であり、皇室というご存在の意義ということから、どうしても、遡って考えることが必要だと思うのだ。
この皇室というご存在の意義ということについては、今まで何度も述べてきたところであるが、筆者としては、皇室と日本人との歴史的な絆であると考える。
皇室は、日本人及び日本の始まりとともにあり、今に至るまで、長く苦楽を共にして歩んできた。そして長く共に歩んできたことによる絆があるのであって、その存在意義は、功利主義では計れないものである。
例えるなら、親と子の関係に似ていよう。
子が幼いころは、子にとって親の存在はとても重要である。では、子が成長し、親が年老いたとき、親は不要にして邪魔な存在となってしまうだろうか。
そんなことにはならないはずである。
親にとっては、年老いても、子は子であり、慈しみの対象であり、子は親を慕うのではないだろうか。
お互いが共にあることにより、幸せを感じることができるはずである。
それは、両者の間に、長く共にあったことによる絆があるからであろう。
さて、皇室というご存在の意義について、そのような絆と捉えた場合、皇位継承の在り方の問題については、どのような帰結が得られるであろうか。
ここで、皇位継承の最低限の核となるルールを血統とするのであれば、現在の皇室に連なる血統との絆を重視するということになるであろう。
現在の皇室に連なる血統との絆ということについて、改めて思い起こしてみるといい。
平成の世の前には、昭和、大正、明治、江戸・・・と実に長い歴史である。
そして、これらの時代は、単に長いというだけでなく、日本という国にとって、まさに激動の時代ではなかったか。
昭和においては、世界大戦における敗北も経験し、日本始まって以来の危機も経験したではないか。
そして、そのような時代において、日本人は、皇室と共に乗り越えて来たのではないか。その絆は、筆者にはとても重いと思われるのだ。
一方、男系男子を維持するための、旧宮家の復活・養子案もあるが、血統としては、約570年も前に遡って枝分かれした存在である。
そのような血統の方を選ぶということは、570年前に立ち返るということであり、それ以後現在に至るまで築かれてきた、皇室と日本人との絆をリセットするということにならないだろうか。
それも、皇室の方々が、御簾の向こうの存在で、日本人の一人一人の実感として、没個性的であるような場合であれば、あるいは良いのかもしれない。
しかし、とりわけ、昭和、大正、明治の時代というものは、皇室の方々が表に現れ、まさに国民と共に歩んできた時代ではなかったか。
その絆については、決して捨て去ることのできるものではあるまい。
このように考えれば、皇位継承の在り方の選択肢としては、女系容認もやむを得ないと、思うのである。
男系男子にこだわりたいという気持ちも分からないではない。
皇室制度については、従来より、伝統的なものを破壊しようとする勢力の攻撃にさらされてきたし、また、軽薄な興味の対象としようという勢力によって消耗させられてきた。
そして、女性(女系)天皇容認論につき、しばしば、そのような勢力の立場から論じられることもあるのだろう。
そして、それ故の反発から、男系男子をことさらに維持したいという気持ちが生じるのも、分からないではない。
ただ、そのような反発故の主張では、多くの人々を納得させるだけの真実には、到達できないのではないだろうか。反発の熱が冷めた場合のことを考えてみるといい。
いや、そのような反発ではなくして、やはり、連綿と続いてきたこと自体に価値があるのだとする立場もあろう。
ただ、それは、日本という国を万邦無比なものと見なしたいという気持ちと通ずるものではないだろうか。
それは、自らのエゴを国の有り様に投射したもので、皇室というご存在自体に着目し、深く見つめるということとは、異なるもののように感じられるのである。
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橋爪大三郎氏の「血統より存続願う伝統」という記事について

2005-06-08 21:47:48 | 皇室の話
平成17年5月30日付けの朝日新聞の夕刊に,橋爪大三郎氏の「血統より存続願う伝統」と題する記事が掲載されている。
この記事には,幾つかの重要なテーマが織り込まれているが,筆者には,それらのテーマが消化不良のまま列挙されているように感じられた。
善意に解すれば,限られた文字数に凝縮した故であろうか。
橋爪氏は,「わが国の天皇システム」を,王権の一種であるとした上で,王権は血統によって地位が継承されるものであること,王の血統を尊いものであると考えるからこそ,しばしば王朝の断絶が起こり得ることを述べている。
この辺りは,なるほどなと思う。
ただ,次に,「天皇システム」についての言及となり,「王朝が断絶しないのは,誰が天皇となるべきかについて,厳格な原則がないこと,つまり,誰であれ天皇が続いてほしいと人々が願ってきたことを意味する。裏を返せば,天皇の血統そのものを尊いと考えているわけではないのである」と述べている。
この箇所は,いかがなものであろうか。
「厳格な原則がない」ということについては,おそらくヨーロッパの王位継承との比較として述べているようであるが,例えば,イギリスについては,1701年王位継承法ができた後は多少変わってきたが,それ以前の系図を見てみると,まことに節操のないものというべきであり,皇位継承について特に厳格な原則がないと断じるのは,どうかと思う。
また,確かに,カトリックとプロテスタントの対立といった事情がなかったわが国においては,宗教上の条件というものは表面化しなかったと思われるが,その分だけ,皇位継承における血統の意味合いが重くなったと考えるのが自然であり,何故に「裏を返せば,天皇の血統そのものを尊いと考えているわけではない」ということに繋がるのかが,不可解である。
ただ,「誰であれ天皇が続いてほしいと人々が願ってきた」ということについては,多くの素朴な日本人の感情として,そのようであったのかなとも思う。「誰であれ」という点については,そこまで言えるかどうか,怪しいと思うのだが,多くの人々に天皇が続いて欲しいという気持ちがあればこそ,今まで続いてきたということは,確かにそのとおりであろう。
しかし,橋爪氏の記事においては,また,不可解な箇所が登場する。
「継承のルールがあいまいでだらだら続いてきただけのものを,あたかも西欧の王家のような男系の血統が伝わってきたと見せかけるトリックである」という記述である。
「だらだら続いてきただけのもの」というのは,いったい,どういうことなのであろうか。
「だらだら」という表現には,存続させる価値のないものが続いてきてしまったというニュアンスがないだろうか。
存続させる価値があるかどうかについては,論者の主観によるのかもしれないが,橋爪氏の場合,直前の箇所にて,「誰であれ天皇が続いてほしいと人々が願ってきた」ということを述べている。多くの人々の続いてほしいという願いに応じて存続してきたということは,「だらだら」という表現とは,およそかけ離れたものではないだろうか。
また,「天皇システムと,民主主義・人権思想とが,矛盾していることをまずみつめるべきだ」という箇所がある。人権思想はともかくとして,民主主義との矛盾ということについては,今までの文脈からは,分かりにくい。
というのも,多くの人々の続いてほしいという願いに応じたものであるならば,十分民主主義的ではないかと思われるからだ。もっとも,後に,「こうした地位に生身の人間を縛りつけるのが戦後民主主義なら,それは本物の民主主義だろうか」とあるので,橋爪氏の場合,「民主主義」という言葉に何らかの意味を込めているのかもしれない。筆者の推測するところでは,おそらく個人の尊厳であるとか,個人主義ということではないかと思われる。大学の憲法学のような話になってしまうが,民主主義というのは,個人主義的な自己決定権,治者と被治者の同一性という概念を根拠にしているとのことであり,ここでいう「民主主義」という言葉を「個人主義」に置き換えると,意味が通じるようにも思われるのだ。ただ,民主主義の実際の運用においては,多数決原理は不可避であり,100%の個人主義というのは不可能であるはずなので,橋爪氏のいう「本物の民主主義」とはどのようなものであるのかが,いまいち分かりそうでよく分からない。
また,「共和制に移行した日本国には天皇の代わりに大統領をおく。この大統領は,政治にかかわらない元首だから,選挙で選んではいけない。任期を定め,有識者の選考会議で選出して,国会が承認」とある。
これは,何とも奇妙な主張である。この場合の大統領の民主主義的な基盤はどこにあるのだろうか。一応,国会の承認を経ることにはなるが,選考会議を行う有識者は,どのように選ばれるのであろうか。「本物の民主主義」との関係はどうなったのか,何とも不可解である。
また,末尾に「皇室は,無形文化財の継承者として存続,国民の募金で財団を設立して,手厚くサポートすることを提案したい」とある。「手厚くサポート」というのは結構なことのようであるが,生身の方を「無形文化財」にするというのは,どういうことなのであろうか。伝統芸能などで「無形文化財」というのは分かる。ただ,この場合の「無形文化財」というのは,皇室としての生き方そのものを「無形文化財」とするという発想であろう。それはそれで人権侵害ということにならないか。
どうも,末尾の箇所については,皇室という御存在の尊厳性を奪い,みすぼらしい状態に縛り付けようとする意図を感じてしまうのは,偏見であろうか。
以上については,何だか揚げ足取りのような話になってしまった。
筆者としても文章のつながりが良くないということはしばしばあり,また,揚げ足取りをする趣味はないのであるが,ただ,重要な箇所にて,あまりに唐突に違和感を感じさせる記述が登場するので,述べておいたのである。
このような話ばかりでは,読者にとってもつまらないであろうし,筆者としても寂しいので,以下の項目ごとに,もう少し中身のある話を述べることとする。

○「万世一系」のトリック
「万世一系」という言葉については,分かるようでよく分からない言葉であり,論者によって,意味内容に幅があるようである。
仮に,皇位継承について,本来,「天皇が続いてほしい」という人々の素朴な願いが根本にあったはずなのに,継承が積み重なる上で何かルールのようなものが形成され,いつの間にか,そのようなルール自体の価値の方を重くみる思想が生まれることがあるとし,そのような状態を「万世一系」のトリックと呼ぶのだとすれば,確かにそういう見方もあろうかと思う。
現在の皇位継承の在り方の問題につき,保守派による頑ななまでの男系男子の主張というのは,これに当てはまるかもしれない。
トリックに気づくことができない故に,皇位継承の危機が増大することがあるとすれば,悲劇であろう。

○ 皇室を敬い人権を尊重するから,天皇システムに幕を下ろすという選択
確かに,皇室には,一般の国民が享受している人権の多くが制約されている。そして,そのことから,皇室制度というものは終了させるべきだという考えも,一つの考え方としてはあるのかもしれない。
あながち,皇室制度廃絶のために人権を標榜する者だけでなく,純粋な同情からそのように考える人も,いるのかもしれない。
ただ,それは,筆者には,浅はかな感傷のように思われるのである。
この同情というものは,皇室の方々に対して不幸な状態にあるとみなすことを前提にするものと思われるが,それは正しいことだろうか。核心からずれてはいないだろうか。
天皇皇后両陛下のお姿をご覧になってみるといい。両陛下ほどお幸せそうなご夫婦は,そうそう見かけるものではない。
もちろん,一般の国民とは異なるご苦労がおありのはずである。ただ,そのようなご苦労に向き合い,乗り越えることによってこそ,達せられるご境地というものも,あるのではないか。そして,皇室の方々は,まさにご苦労に向き合われ,日々努力されておられるのではないだろうか。
それは,不幸な状態とは,違うはずである。惨めにして他者による救済が必要な状態とは異なるはずである。
昨年の皇太子殿下のご発言をめぐっては,大きな議論が巻き起こったが,殿下におかれても,新しいご公務ということを強調されておられたのであり,自らのお立場に向き合いたいという熱意が示されていたことを見落としてはならない。
このような皇室の方々に対し,不幸な状態であるとみなして救済しなければならないとすることは,見当違いな同情であり,真摯に努力されておられる皇室におかれても,不本意なことではないだろうか。
もちろん,皇室の方々のご境遇について無自覚であることは問題であるが,本当に必要なことは,皇室の方々のご苦労がそもそも何のためのものであるかということ,すなわち,日本の平安と国民の幸せのためのものであるということを理解することではないか。
そのような理解があれば,自然と感謝の気持ちも生じるであろうし,皇室を見守る国民の意識が変われば,皇室の方々の不条理な苦境というものは,かなり軽減されるに違いない。
なお,このような心情論でなくして,そもそも個人主義という観点から,「天皇システム」に幕を下ろすべきだという考え方もあろう。それはそれで一つの考え方である。
ただ,共同体を維持する上で,完全に個人主義を貫徹することは可能なのであろうか。共同体の中では様々な立場があるはずであり,損な役割というのも必要であろう。ただ,損な役割については,それに見合うだけの幸せがあるはずであるし,そして,様々な立場というものがあるからこそ,社会全体が豊かになるのではないだろうか。
家庭の中でも,親と子,夫と妻という立場があり,会社では,上司と部下という立場があろう。そのような様々な立場があるということについて,個人主義という観点から何とかしようとしても,それはどうにもならない話というべきではないか。
それよりも,むしろ,お互いの立場について理解し,尊重し,また自らの立場を全うするということの方が,筆者には大事なことのように思われるのである。
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皇室の話を書き続けて、とうとう100回目。

2005-06-01 01:40:50 | 筆者のつぶやき
最近はかなりペースが落ちてしまったが、今回で、とうとう100回目である。
我ながら、よく続いたなと思う。
皇室についての自らの考えを延々と述べるブログというものは、そんなに無いのではないだろうか。
というのも、まず、日常生活において、皇室について考えるきっかけというのはそんなにあるものではないだろう。
あるとすれば、ワイドショーや週刊誌の記事ぐらいであろうか。
それに、皇室の話題を書いたとして、まじめに書けば書くほど、あまり面白くないというか、一般ウケしない内容になってしまうであろう。
ただ、それでも、筆者がこのブログを始めた当初に比べると、皇室を扱うブログは、かなり増えたようではある。
当初は、「皇室」という言葉をキーワードとして検索すると、筆者のブログがずらっと並ぶ状態であったが、最近では、すっかり埋もれてしまい、見つけるのが大変である。
ただ、若干、欲を申すと、皇室に関する多くの記事につき、そのような記事が生まれるだけの、論者の内面世界での必然性というものが、あまり感じられないものが多いように思われたのだ。
皇室の伝統が大事であるということがポンと言われる場合があるが、論者は、伝統一般について、何でもかんでも尊重したいという立場なのか、それとも、皇室について、特にそのように考える立場なのか。
皇室の伝統といっても抽象的であり、大事に思うという具体的な心の動きが生じるためには、単なる観念とは別な次元での個人的体験があると思うのだが、いったいどのような体験があったのか。
そういったことが表現されると、筆者としても、読みがいがあるので、期待したい。
筆者としての個人的な体験ということを簡単に述べると、やはり、天皇陛下が公務をなさっているお姿を見て、陛下はいったいどのようなご境遇なのであろうか、どのようなお気持ちでお務めをされておられるのだろうか、ということを、ある時ふと想像してみたことが、大きなきっかけであった。
皇室がどのような仕事をしているかについては、知識としては知っていたが、そのようなお立場におられる方も、やはり人間であり、人間としてのご境遇、お務めであるということは、かつては全く考えていなかったのである。
ひとたび、そのような視点で、天皇陛下のご境遇、お務めについて考えてみると、これはなかなか衝撃的であり、まったく他人事ではないということが、実感せられてきたのである。
陛下のご境遇、お務めは、日本国及び日本国民統合の象徴としてのものであり、日本人としての筆者と無関係なものではなかったのである。
無関係どころか、筆者が日本人であるということ、日本人としての過去二千年以上の歴史を受け継ぐ存在たらしめることの責任を背負っておられるものと感じられてきたのである。
そうなってくると、皇室について、無関心でよいのだろうかとも思ったし、面白い話題としてのみ扱うことに違和感を感じるようになったのだ。
少なくとも、皇室の側は、筆者を含む日本人のために、人生を捧げておられるのだ。
だから、例え、一億何千万分の一にすぎない存在であるとしても、筆者なりに、少しは皇室のお気持ちに、応えるべきではないかと思ったのだ。
もっとも、このようなブログにて、細々と書き連ねていったい何の意味があるのかと言われると辛いところであるが、以上が、あまり多くの人に読んでもらえないような内容を延々と書き続けてきたことの理由である。
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