皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

皇位継承問題についてのその後の検討(補足)

2005-05-15 01:09:30 | 皇室の話
今回は、5月1日に書いた「皇位継承問題についてのその後の検討」について、その補足を述べておくことにしたい。
この記事において、「筆者としては、やはり、「男系」は、絶対的な要件ではないにしても、維持されるべきではないかと考える。」と述べたのだが、そのことについて、もう少し詳しく述べたいと思うのだ。
筆者としては、皇室とは、何時の時点かも分からない遠い昔より、日本人、日本国と共にあり、皇室の制度とは、日本人との歴史的な絆を築いていく中で、多分に自然発生的に作られてきたものであると考える。
自然発生的と言っても、もちろん、制度である以上、人の手によるものではあるのだが、人為的な臭いを感じさせないものである。
何が言いたいのかというと、それは、人工的な制度とは、何か違うものではないだろうか、ということである。
それは、結局、多くの日本人の、奥深い意識、共通の無意識のようなものを反映したものであり、そうであるが故に、これほど長く続いてきたのではないか、そのように思われる。
皇位継承の在り方についても同様で、男と女の役割分担というものに対する、多くの日本人の本音とも言うべき意識を反映し、そうであるが故に、男系男子ということが続いてきたのではないか。
であるから、日本人の意識とは別な次元において男系男子でなければならないという原理が存在し、まずその原理ありきで、その原理の上に、皇室の歴史が築かれてきたものとは考えない。そこが、一部の保守論者との違いである。
そこで、改めて、現在における男女の役割分担の意識であるが、男と女と同じに扱うべきという議論が建て前としては通用するものであるとしても、多くの人の本音の部分では、男と女の違いの意識というものは、やはり厳然として存在しているのではないか。
男尊女卑ということとは別に、男らしさ、女らしさという概念は、根強く存在しており、何だかんだ言っても、結局、大きく変わることはないのだろう。
だから、仮に、現在、皇室に男の子がたくさんおられ、皇位継承につき危機的状況になければ、ごく当然に男系男子ということが維持され、皇位継承の在り方を議論するという状況は、生じなかったであろう。
日本人の意識の変化という観点から、積極的に、皇位継承の在り方を改めるべきということには、ならなかったであろう。
そのように考える。
ただ、問題は、現在、皇位継承につき危機的状況にあることであって、男系男子ということが難しくなってきたという現実である。
そこで、日本人の意識ということに立ち返れば、積極的に、男系男子という従来の在り方を変えようというような意識ではないにしても、女系を拒絶するような意識であるかどうかについては、少々微妙である。
筆者には、日本人全体の共通無意識のようなものを把握する力はないが、男系男子という原理ありきの考え方をひとまず置いた場合、自分自身、受け容れが不可能であるかと言われれば、そのようには思わない。
男の皇子と女の皇子とがおられる場合には、男の皇子が継承することが自然であるとは思うのだが、女の皇子しかいない場合において、そのような危機的な状況において、なお、女の皇子に継承することが許されないとは、思えないのだ。
もちろん、女性天皇については、皇婿の問題があり、また、ひとたび「女系」を認めれば、それで「男系」が絶えてしまうという問題もある。
しかし、男系男子を維持するとなれば、旧宮家の復活・養子案しかなく、旧宮家というのも、血統的には、現在の皇室とは、何百年も昔に枝分かれしてしまっているという問題がある。
男系男子を維持するために、旧宮家の復活・養子を行うというのは、あまりに、人工的な制度改正ではないだろうか。
また、庶系を認めない中での男系男子というのは、きわめて無理のある話である。
男系男子を安定的に確保するためには、宮家の数を増やす必要があるが、最低限、側室の数に相当するだけの宮家が必要となるし、かなり規模の大きなものとなるのではないか。
これは財政だけの問題ではなく、国民に対する皇室の存在感という点からも、大きな変化を及ぼすことになるであろう。
さらに、現在の国民にとっては、皇室とは、今上陛下、昭和天皇、大正天皇、明治天皇といった方々のイメージが強いと思われるのだが、旧宮家の復活・養子ということについては、それこそ、王朝交代のように受け取られないだろうか、という気がする。
その際に、男系男子という原理から、理屈としては正統性を説明することが可能であるかもしれないが、日本人と共に歩んできた歴史的な絆があるかどうか、そのような絆を受け継ぐことができる存在として認められるかどうか、ということについては、かなり疑問である。
思想としては、そのような絆よりも、やはり男系男子という原理の方が重要なのだという立場もあるだろう。
ただ、そのような立場に立たれるのであれば、男系男子でない皇室は存在意義がないとハッキリ言うべきであると思うのだが、しばしば、男系絶対に女系を認めないわけではないということが言われたりする。これは、何ともだらしのない話である。
また、男系男子という原理を非常に強く述べられる方にとって、皇室とは、一体、どのような存在であるのだろうか。
制度という観点と個人という観点とを分け、個人より制度が大事なのだという主張もある。
筆者としては、どうしても、個人という方に、心が傾いてしまう。
もともと、皇室というご存在については、制度という観点と個人という観点とを分離することができないものではあろうが、敢えて分けて考えてみた場合に、やはり、生きている「人」が象徴となっているということは、最後には、個人を選ぶことが自然なのではないか、筆者としては、そのように思う。
もちろん、皇室の側にて、制度の方が大事であるというお気持ちもあるかもしれないが、筆者としては、日本人の一人として、そのような目で皇室を見つめたいと思うのだ。
筆者としても、当初は、男系男子という考えが強かった。
ただ、その考えというものにつき、改めて分析してみると、今時の男女平等論、日本の民主主義の実態というものに対する不信感やうんざり感というものがかなりあって、そのようなものによって、皇室の伝統が変えられてたまるかという意識があった。
女性週刊誌などが、「愛子天皇」と書き立てれば、ふざけるなと言いたくなる意識があったのである。
そして、そのような意識の裏返しとしての、男系男子論という側面が、実はかなり強かったように思う。
世間にも、同じような状況の人は、結構おられるのではないか。
それがおそらく、男系男子論者の多くが、女系容認論を攻撃するのには雄弁である一方、男系男子につき、一体どのような意味があるのかを、今ひとつ十分に語ることができないでいる原因であるかもしれない。
なお、最近気になってきたのだが、女系が容認されれば、左派により、万世一系の皇統とは言えない偽物だとして、天皇制度への攻撃が始まるということを危惧する見方がある。
そして、その根拠としては、例えば、憲法学者の奥平康弘の発言が持ち出されたりすることがある。
ただ、これはどうなのだろうか。
どちらかというと、むしろ、挑発ではなかったか。
女系が容認されれば万世一系の皇統ではなくなると敢えて指摘することにより、保守派に対して、男系男子の強力な主張をなさしめ、男系男子でなければ本来の皇室ではないというような主張をなさしめて、自分で自分の首をしめるということにさせたかったのではないだろうか。
もちろん、女系が容認されれば、それはそれで攻撃されるだろう。
ただ、左翼の側が、何であんなことをわざわざ言ったのかを考えると、前者の意図も十分あったのではないかと思うのだ。
皇室を守る立場としては、皇室という御存在を、男系男子の問題に矮小化させるべきではないと思うのだが、最近の保守派による男系男子論は、これに該当するものではないだろうか。
本当にするべきであったのは、男系男子でなくても、日本人にとって、皇室とはやはり尊い存在であるということを、主張し、皇室が将来にわたって、消滅するということのないようにするということでは、なかったか。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇位継承問題についてのその後の検討

2005-05-01 18:43:04 | 皇室の話
随分とブランクがあいてしまった。
皇位継承の問題については、有識者会議においても、理解が深まりつつあるようである。
ただ、理解が深まれば深まるほど、どうしてよいか分からなくなる、今は、そういう状況にあるのではないだろうか。
メディアにおける議論の状況としては、伝統的な価値を否定したいという勢力と、それはけしからん事であるとしてそのような勢力と戦おうとする勢力との対立という構図が見えなくもない。
そして、そういう対立の構図に身を置いている方々にとっては、主張すべき方向性というものは、明確なのであろう。
しかし、そのような対立の構図から離れて、日本と日本人と、そして皇室の未来のために、どのような在り方がよいのだろうかと考えると、なかなか答えがでないところだ。
この行き止まりの状態については、3月10日の「女性天皇の議論について,筆者の悩み」でも、また、3月13日の「女性天皇の議論について、一つの視点」でも、すでに述べたところであるが、さて、そのような状況から、一歩を踏み出すにはどうすればよいのだろか。
結局、筆者としては、自分自身の皇室に対する思いということを、改めて考えてみるしかないと思うのだ。
そこで、筆者として、自らの皇室を大事だと思う気持ちを突き詰めていくと、まず、皇室の方々が、他人への思いやり、まじめさ、などなど、人生の上でとても大事でありながら、しばしば見落とされがちな徳目を、真っ正直に実践されているということがある。
「きれいごと」と言ってしまうのは簡単であるが、実践するとなると、なかなか難しいことであるし、日常生活においては、そのようなことを考えている余裕が無いというのが、多くの人の実状ではないか。
そのような中、象徴というお立場にある方々が、このような「きれいごと」に真っ正直に取り組んでいるのである。
ふと振り返って、そのようなお姿を見るにつき、「「正直者がバカを見る」などといって、ふてくされていてはいけないのだ、バカになってもいいではないか」と、小心者であり、お人好しである筆者のような人間は、大いに励まされるのである。
次に、その運命的な境遇ということがある。
皇室には、多くの人々が享受している自由というものがない。皇室に生まれれば、生まれたときから皇室の者として生きなければならず、しかも、そのお姿は、多くの人々に注目されるのである。多くの人々の、時に身勝手な期待のこもった視線に耐えて生きていかなければならない。
苛酷なことであるはずだが、それでも、自らの境遇を受け止めて、日本と日本人の幸せを祈られるのである。
自らの境遇を受け止めるということと、他人への思いやりの大切さは、年をとるごとに、じわじわと実感されてくるものであるが、やはり、皇室とは、意義深いものであるなと思わせられる。
そして、このような皇室の境遇とも関連するが、皇室の長い歴史ということも重要であろう。
日本と日本人とは、皇室を中心に戴くことによって、独自の文化をもった共同体として発展してきた。
古来より、大陸から様々な影響を受けながらも、それに飲み込まれずに、一つのアイデンティティある共同体であり続けられたのは、皇室があったからである。
そのような皇室に対する思いを馳せるとき、皇室との絆のみならず、そのような皇室を大切にしてきた過去の日本人との間の絆をも、想起させられるのである。
筆者として、皇室を大事に思う気持ちを振り返ってみると、大まかには、このようになる。
さて、ここで、「男系」「女系」の問題であるが、筆者自身の、皇室を大事に思う気持ちの要素としては、「男系」ということは含まれていない。
皇室に対しては、もっと、人間的な、人と人との絆という理解をしているので、「男系」だから崇拝するとかしないとか、そういう考え方というのは、理解不能である。
また、皇室の歴史について考えるとき、皇室とは、そもそも、日本及び日本人とともに、誕生したのではないだろうか。
「日本」と「日本人」がすでに確立しているところに、「皇室」が外部からやってきたのでもなく、また、「皇室」という存在がすでに確立しているところに、「日本」と「日本人」が生まれたのでもないのではないか。
日本と日本人、そして皇室とは一体の存在であり、一体の存在として、何時かは分からない遠い昔から、自然発生的に生まれ、発展してきたのではないだろうか。
そして、そうであるとすれば、皇位継承についての「男系」という原理を絶対視し、まず「男系」という原理ありきで、その上に皇室の歴史が築かれてきたという考え方をするとすれば、それも少々おかしな話ではないだろうか。
「男系」ということについては、皇室が、日本と日本人と一体のものとして確立していく過程で、多くの人々の意識を反映し、自然発生的に生まれてきた原理のように思われるのである。
昨年の10月22日に「天照大神と素戔嗚尊と男系思想」という記事を書いたが、もっと身近な話として、やはり、社会に出るのは男の役割だという意識が、かなり根強かったのではないか。
女性については、「奥さん」というような言葉もあるとおり、社会には出てこない。そういう役割分担があったのではないだろうか。
そして、そのことから、「天皇」には本来男性がなるべきで、女性は緊急避難的な場合にのみ限られるという意識が生まれていたのではないだろうか。
ここで、現在、女性が天皇になるかどうかと女系とは別な議論という言い方もしばしば見られるのであるが、実際問題としては、密接な関係があったであろう。
天皇の地位が「世襲」であるということは、要するに誰の子であるかを重視するということなのであるから、そのような緊急避難的な女性天皇の子には、正当性を認めにくいことになったであろう。
天皇の地位を、畏れ多いものと考えるのであれば、異例のことはできるだけ避けるべきあるという意識が当然にあったものと思われるし、その異例の女性天皇の子の即位ということを考えるなど、思いもよらないことではなかったのか。
「男系」が続いてきたことの理由は、天皇の地位を非常に畏れ多いものと考える意識と、男女の役割分担の意識、こういうことではなかったのかと考える。
さて、そうすると、現在の状況は、いかがであろうか。
まず、天皇の地位を非常に畏れ多いものと考える意識というのは、現在も、しっかりと存在するのではないだろうか。
百二十五代にわたって一度の例外もなく男系であったことを重視する立場というのも、このような意識から生まれたのではないか。
筆者としては、百二十五代続いてきたことなのだから、絶対的な原理だという主張には、首を傾げたくなるが、このような意識の一環ということであれば、十分理解できるのである。
難しいのは、男女の役割分担の意識である。
建前としては、男女共同参画ということが言われている。
実際どうであるかは、なかなか難しいところだが、この問題については、もう一つ、のっぴきならない問題がある。
それは少子化である。
女性が社会で活躍することは、労働力人口の確保の点からも重要なことであるが、一方で、子どもを生まない女性が増えており、このままでは、日本人が消滅してしまうということも、十分あり得る話になってきたのである。
建前は建前として結構であるが、それだけでは済まない側面を有していると言える。
筆者としては、昔ながらの在り方が、やはり、大いなる知恵であったと思う。
もちろん、能力ある女性の社会進出を阻む要因があれば、それを除去することも必要であるが、家事・育児という役割の重要性の再認識ということも、もっと注目されるべきではないか。
仮に、家事・育児が、あまり価値のない、厄介ごとと認識されているとすれば、家事・育児という役割を担う者にとっては、自分自身の存在意義を見失うこととなり、心の安定は得られにくくなってしまうであろう。
しかしながら、家事・育児は、どうしても不可欠な人間生活の営みの一つであるし、多くの女性がそれに携わっているという実態があるのだから、まずは、その重要性を見直すことの方が、多くの人の心の平安という点では、近道であると思われるのである。
若干、話がそれてしまったが、そうであるが故に、筆者としては、やはり、「男系」は、絶対的な要件ではないにしても、維持されるべきではないかと考える。
以上、これまで述べてきたこととあまり内容は変わらないが、5月4日の産経新聞の「■【主張】女性天皇 伝統重んじる論議を歓迎」に、何となく物足りなさを感じたので、書いてみたのである。
例えば、記事中、
「日本は百二十五代にわたりひとつの皇室が連綿と続いてきた。しかも一度の例外もなく男系(父親の系統)が皇位を継承し、歴史上八人いる女性天皇も緊急避難的なもので、その後は男系男子の皇族が継いでいる。
 国民もこうした連続性と伝統の故に天皇や皇室を崇拝し、そのことで国の統一や文化を保ってきたのである。」
という箇所があるが、さて、男系であるが故に崇拝するという意識が、筆者にはよく分からない。
また、
「繰り返すが、国民の皇室への敬愛が維持できる皇位継承を考えることが、最も大切なのである。」
という箇所がある。
これは「女系」を認めると、認めた途端、左派、朝日などから、正統性が疑わしいとして攻撃されることを懸念したものと思われるが、これも微妙である。
あくまでも「男系」となれば、伏見宮の系統に頼るしかないが、それはそれで、「皇室制度というものは、国民との絆とはあまり無関係な硬直した制度である」と攻撃される可能性もあろう。
これはこれで、なかなか強力な攻撃ではないだろうか。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする