皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

朝日選書「女性天皇論 象徴天皇制とニッポンの未来」について(再読)

2005-08-17 01:55:56 | 皇室の話
平成16年11月27日付けで、「朝日選書「女性天皇論 象徴天皇制とニッポンの未来」について」という記事を書いたのだが、その時点の筆者の視野はかなり狭いものであり、十分な感想となっていなかったので、今回、改めて再読し、感想を書くことにする。
この本の特徴としては、皇室に関する様々な論点について、非常に網羅的であるということがある。
著者自身の価値観を前面に出すのではなく、様々な議論を、一見、女性天皇とは直接関係のないような議論についてまで、幅広く紹介するというスタイルになっている。
このことが、前回読んだときに、「つまらない」という感想を抱いてしまった原因であった。
ただ、その後、このブログにおけるコメント欄のやりとりにより、著者は、皇室というご存在について、非常に真っ正直に取り組もうとされている方であり、網羅的に議論を紹介するというのは、その正直さ故であるのだろうと、今にしてみれば、理解できるところである。
また、網羅的な議論の紹介においては、イデオロギー的な、固定観念に対する懐疑という視点があるように感じられたので、この点、筆者としては、伝統的な価値に対する相対主義であるというようにも、思い込んだ。
今にしてみれば、著者の真意は、おそらく、皇室の歴史というものをリアルに捉えようとする場合、固定観念というのは妨げになるということなのであろう。
固定観念にとらわれることなく、リアルに見つめ理解することが大切だという考えに立脚されているのだろう。
そして、その考えの背後には、非常に人間主義的な価値観があるように感じられた。
もっとも、このことは、著者によって、体系的、かつ、ストレートには語られていない。
それは、この本が、著者自身の謎解きの過程の記録であり、あるいは、正直なる弁明の書であって、読者を説得しようという意図によるものでないことに、由来しているのかもしれない。
そこで、何かを説得してもらうことを期待している受け身の読者にとって、物足りなさを感じるところがあるかもしれないが、既存の皇室をめぐる議論について何か欺瞞的なものを感じ、リアルに皇室というご存在を理解したいという積極的な読者にとっては、有益な書なのではないか。
以上が、筆者として、改めて再読した感想である。
なお、若干の指摘をさせていただくと、著者は、象徴天皇制とは何かということは、一種の神学論争であり、とりあえずは皇位継承の安定性に議論の的を絞るべきと主張する。
しかし、この本自体において、象徴天皇制について幅広く論じているところであり、内容紹介にても、「女性天皇を論じることは、パンドラの箱を開けることになる。天皇とは何か、天皇制とは何かという根元的な問題にぶつかる」とあり、読者もとまどってしまうのではないか。
この点については、象徴天皇制についての固定観念をめぐっての議論はあまり実益がないのだということが著者の真意であると推測しているが、そこまで読み取らなければいけないというのは、少々酷なのではなかろうか。
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天皇と軍隊と臣下の論理

2005-08-14 23:42:45 | 皇室の話
最近は、やや飽きられてきた感のあるテーマとして、昭和天皇の戦争責任ということがある。
このテーマについては、一つ大きな問題として、テーマの問題意識自体が何であるのかが、何となく分かりそうでいて、改めて考えてみるとよく分からないということがある。
責任というが、どのようなことについての、誰に対する責任なのか。法的な責任、道義的な責任、どのような性質の責任を問題にしているのか。
改めて考えてみると、よく分からない。
ただ、このテーマについての世間での用いられ方について、非常に単純化してしまえば、戦前の日本=悪の図式があって、その悪の親玉として、天皇は非難されるべきということなのであろう。
ここでミソとなるのが、ここで言う「日本」の中身は主に軍であり、国民は除かれるという暗黙の前提があることであろう。
さて、このような意味において考えた場合、昭和天皇に戦争責任はあったか否か。
この点については、明治憲法下において、天皇は、専制君主ではなく立憲君主であり、開戦という政治的な決定を覆すことはできなかったこと、また、昭和天皇ご自身は平和主義者であったことなどが、保守の側からすでに多く説明されている。
筆者としても、基本的には同じように思うし、すべての非難がただ一人に向けられるべきという意味合いにおいて責任が問われているのだとしたら、とんでもない話だと思う。
しかし、このような理解ですっきりするかとなると、筆者としては、何かすっきりとしないものを感じる。
どういうことかというと、天皇に戦争責任がないことを裏付ける上述の天皇と軍隊との関係こそが、無謀な戦争の原因の一つであったと思うからだ。
天皇と軍隊の関係には、二重性がある。一面では、天皇は大元帥であった。しかし、実際には、立憲君主であり、軍に対する指揮命令を行うわけではない。
そして、かつての日本の軍隊というのは、君主に仕える臣下としての精神性を有するものであった。
これは、悲劇的な状況というべきであった。
しばしば軍部の暴走ということが言われるが、その原因がここにあったであろう。
すなわち、臣下としての大義は、君主と臣下との限定的な関係において、その務めを果たすことである。そして、その務めとは、自らの命を犠牲にしてでも、君主に利益をもたらすことである。
忠誠心の高い臣下ほど、そのように思いこみがちである。
そして、そのような大義のためには、君主と臣下との限定的な関係の外に存在している他国、他国民のことについては、二の次の問題となる。
臣下という存在には、そういう傾向がありがちである。
ここで本来は、絶対的な命令権を有する君主が、臣下の暴走をコントロールするのだが、かつての天皇には、そのような権限はなかった。
その上、当時の国民の意識の問題もあった。戦うことへの興奮に満ちていた。これも、当時の国民なりの、臣民としての自覚によるものであったのだろうか。
とにかく、世界においては、強国による植民地ブーム、帝国主義という状況の中で、国内的には、臣下の論理の独走という状況が生まれてしまった。
もちろん、米国による経済的な包囲網により追い込まれてしまったという状況があったとしても、このことが、無謀な戦争に突っ走っていった原因であったのではないか。
そして、このような臣下の論理に基づく行動については、他国から見て、時に不可解な、不条理なこともあったであろう。
やはり問題となるのは、他国、他国民に対する信義が二の次になってしまったということであり、このことに由来する悲劇に基づく反日の感情は、簡単には消えないであろう。
今の時代に生きる日本人として、そういうことも自覚しておく必要があるのではないか。
なお、今後同じような臣下の論理の独走があり得るかと言えば、その恐れは基本的にはないと言っていいであろう。
今の皇室は、積極的に平和のメッセージを出しておられ、平和のイメージが定着しているからである。
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天皇陛下と靖国神社

2005-08-09 22:04:46 | 皇室の話
8月となると,ごく一部ではあるが,天皇陛下の靖国神社参拝を望む声が聞かれたりする。そこで,今回は,靖国神社の問題について,いくつか述べておくこととしたい。
靖国神社については,左翼の側から,戦争を賛美する施設であるとか,戦死することを喜ぶ人間を作り出す施設だとか,そのように言われることがある。また,一方では,戦死者を顕彰するのは当たり前のことであるとし,中国からの干渉に対して反発する意見,A級戦犯の合祀との関係で東京裁判の効果と結び付ける意見などが見られる。
筆者としては,既存の議論とは少々異なる問題意識,見方を有している。
まず,靖国神社の意義であるが,戦場という,殺し殺されるという極限状況において亡くなった方の思いに応えるという意味合いがあろう。
まず,人は,誰でも,殺し殺される状況などは,どこまでも避けたいはずである。当たり前のことであろう。この点で,左翼の主張というのは,あまりに人間という視点が欠落していると言わざるを得ない。
さて,それでは,そのような極限状況に,人が身を置くというのは,いかなる場合であるのだろうか。
そこには,もちろん,逃亡することに対する処罰といった強制の契機もあったであろう。ただ,そのような強制の契機のみでは戦争は成り立たないはずであり,やはり,そこには,「国に対する忠誠心」というものがあったであろう。現在において「国に対する忠誠心」と言うと,なかなか実感の沸かない観念的な言葉であるかもしれないが,家族,地域社会など各共同体での人と人との繋がり,絆があり,そのような共同体の集積として,国というものがあり,それぞれの共同体における絆の集積として,国に対する忠誠心というものがあったであろう。
そういう意味では,「国に対する忠誠心」といっても,各人必ずしも一様ではなく,家族に対する思いが強い者,ふるさとに対する思いが強い者,様々であったと思われるが,そのような絆を大事に思い,自分の命を投げ出しても尽くしたいという思いがあったはずである。
そして,そのような思いに応えるということこそが,靖国神社の意義なのであろう。
であるから,それは,追悼ということではダメなのである。そのような思いに応えるためには,「よくぞ立派に戦ってくれました」という,絆の当事者としての言葉が必要なのであろう。顕彰でなければ,ダメなのである。
ただ,ここからが一番重要なのであるが,そのような顕彰の必要性というものは,共同体における絆故に生じるということである。すなわち,共同体内部の絆の問題なのであって,国策としての戦争に対する外の世界からの評価とは次元の異なる問題であるということである。
国策としての戦争が正当なものであったとしても,そうでなかったとしても,戦死者に対する顕彰は共同体内部において,その絆故に必要となるものである。また逆に言えば,そのような顕彰を行ったとしても,それは国策としての戦争の正当化を外部に訴えるという問題ではないはずなのである。
この二つのことを混同しないということは,国を運営する立場において,十分に認識していなければならない知恵であったと思うのだが,靖国神社に関しては,この二つのことが混同されてしまっているように思われる。それが現在の混乱の原因なのであろう。
そもそもが,中国との外交問題として位置づけてしまったことが誤りであったし,また,解決するために外交問題として位置づけることも誤りであろう。更には,東京裁判の不当性を訴えるというのも,問題の解決にはおよそ繋がらないであろう。
それでは結局,どうすればよいのかということであるが,それは原則に立ち返り,共同体内部の絆の問題と,国策としての戦争の評価の問題とは,次元の異なるものであることを明らかにするしかあるまい。
毎年毎年,総理大臣の靖国神社参拝ということが話題になるが,肝心なのは,靖国神社に出かけたかどうかということではなく,何をしに行くのかということである。
不戦の誓いとか,戦死者への哀悼というのでは,どこか表層的であり、不十分である。
国の運営を担う立場の者として,戦死者との絆をかみしめながら,絆の当事者としての顕彰と感謝であるべきであろう。そして,絆の当事者としての,過去に遡っての悔恨であるべきだろう。そして、それらを踏まえてこそ,不戦の誓いというものが,中身のある,説得力のあるものとなろう。
そして,このことは,決して戦争賛美なのではなく,むしろ,戦争を避けるための大きな力になるであろう。
なぜならば,そもそも戦争は,何故いけないことなのか,避けるべきなのかということである。
それは,経済的な無駄であるとか,そのようなことではなくして,根本的には,絆ある者を失う悲しみということなのではないか。
そして,絆の問題というのは,特定の関係にある者同士の問題のようでありながら,他の国々において,それぞれの絆があることに思いを致せば,絆の大切さ,絆ある者を失うことの悲しみということは,実は普遍性のある話であり,他の国々とも理解し合うことが可能であろうはずだからである。理解し合うということが楽観論にすぎるにしても,少なくとも説得力のあるメッセージにはなろう。
ところで,天皇陛下の靖国神社ご参拝については,このような絆という観点からは,とても大きな意味を有しているが,外交問題,政治問題の焦点となってしまっている現状では,不可能と言うしかないであろう。
また,ナショナリズムを喚起する手段として、天皇陛下のご参拝を求めようとする考え方があるとすれば,筆者としては、断固反対である。
実に,お気の毒なことであり,切ない話ではあるが。
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皇位の永続性を願うという視点(その2)

2005-08-08 22:16:57 | 皇室の話
前回の平成17年8月7日の記事にて,男系男子論というものがひたすらに過去を志向したものであること,皇位の永続性を願うのであれば未来志向も必要ではないか,ということを述べた。
ただ,それでは,過去への志向ということにつき,男系男子論者の理解は適切であるかとなると,それもどうも怪しげである。
朝日新聞のサイトにおいて,「新書の穴」というコーナーがあり,そこで意外にも八木秀次著「本当に女帝を認めてもいいのか」が紹介されている。
http://book.asahi.com/shinsho/TKY200507120119.html
紹介文の内容は,なぜ女帝がダメなのかを懇切丁寧に説明しているという趣旨であるが,ここでまたしても,「『男子皇族に代々受け継がれてきたY染色体を、女子皇族は持っていないから』であって、『天皇の天皇たるゆえんは、神武天皇の血を今日に至るまで受け継いでいるということに尽きる』」ということが強調されている。
そして,「身もフタもなさを感じる。すがすがしい。」という,評者の感想が示されている。
筆者は,朝日が八木氏の著書を紹介したこと,そして、このような評価をしていることを目の当たりにして,何とも言いようのない危機感を感じてしまった。
それは,八木氏の男系男子論というのは,皇室制度の存続を,つくづく危うくするものであるということである。
将来に向けての問題点については今までも述べてきたが,今回改めて感じたのは,皇室の歴史に対する理解における問題点である。
上記の評者も述べているが,改めて考えてみるといい。
皇室の歴史を,神武天皇のY染色体などという,生物学的骨董品保存の記録という理解で塗りつぶしてしまう意味を。
それは,あまりに「身もフタ」もないではないか。皇室の歴史には、皇位の存続のために人生を捧げてこられた多くの人々の存在があったはずである。様々な思い、深い思いがあったはずである。しかし、このような理解というのは、そのようなドラマを忘れさせ,実に「すがすがしい」くらいに単純な無機質なストーリーにしてしまっているではないか。
仮に,将来,皇位が途絶えたとしても,現時点で125代続いてきたということは変わらぬ事実であり,そこに連綿と続いてきた日本の歴史的な意義を感ずることもできよう。
しかし,その歴史につき,このような理解で塗りつぶしてしまえば,それも台無しである。
朝日について,そこまで戦略的意図があるかどうか,あまり偏見を持つのは良くないが,皇室というご存在の意義を徹底的に破壊し日本から消滅させてしまうには,頑迷な男系男子論の方がむしろ近道であると,反皇室の側としては思うであろう。
皇室の歴史については,やはり一つの簡単な考え方で説明してしまおうというのは無理なのであろう。
その時その時の時代状況に応じた決断と覚悟とがあり,男系継承というのは,その結果として表れたものというのが,真実なのではないか。
そして,その決断と覚悟の中には,皇位の安定ということがあり,さらには,国の平安と国民の幸福ということがあったであろう。
そして,これからの皇位継承の在り方につき考える場合には,過去におけるそのような決断と覚悟の歴史をこそ,土台とするべきであろう。
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皇位の永続性を願うという視点

2005-08-07 23:16:24 | 皇室の話
皇位継承の在り方について、男系男子を主張される方は、125代続いてきた「男系」の重みということを言う。また、今「女系」にしてしまうと、125代続いてきた「男系」という在り方を変えてしまうということを言う。
筆者として、思うのは、これらは、ひたすらに過去を重視する考え方であり、未来志向ではないということである。
そして、皇位の永続性を願うためには、未来志向も必要なのではないか、ということを改めて思う。
過去、125代、確かに男系という限定的なルールで皇位は継承されてきた。ただ、それは、側室による庶系継承ということを不可欠の前提とするものであったのではないか。
庶系が認められなければ、早晩行き詰まることについては、まさに、今の状況が、それを証明している。
旧宮家復活・養子案により、一時的に男系男子の継承資格者を増やしたとして、この先、何代、安定的な継承が確保できるというのか。
男系男子を主張される方は、万世一系ということを言われることがあるが、本当に万世にわたる皇位の永続を願うという気持ちがあるのだろうか。
皇室の歴史は確かに長いものであるが、万世という視点で見れば、まだ125代である。
「万世」というのが比喩的な表現であるとしても、この先、さらに100代、200代と、皇室が存続することを願うのであれば、今までの125代の男系継承ということについて、そこまで自縄自縛的な原理として見なしてしまうことが、果たして適当であるのかどうか。
これは神話の話であるが、天孫光臨の際に、天照大神が下された天壌無窮の神勅というものがある。
「豐葦原の千五百秋の瑞穂の国はこれ吾が子孫の王となるべき地なり。宜しく爾皇孫、就でまして治せ。 さきくませ。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。」という限りない未来志向の内容であるが、ここには男系男子ということはなく、「吾が子孫」とあるのみである。また、天照大神自身、女性神であられた。 125代の男系の歴史ということを重視するあまり、皇統が絶えてしまう危機が生じることになるとすれば、それは、このご神勅の趣旨からみても、まったく予想外の、不本意なことなのではないか。
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自民党新憲法草案条文案の第1章についての感想

2005-08-02 21:09:34 | 皇室の話
平成17年8月1日に,自民党の新憲法草案の条文案が公表された。
この中で,天皇の地位については,現在と同じく「象徴」とされ,「元首」であることの明記は,見送られることとなっている。
このことは,筆者としては,適切であったと考えている。
現在においても,対外的な関係においては「元首」として扱われているのであるから,敢えて「元首」と明記しなければならない実務上の不都合はないであろう。
明記することの意味としては,主に抽象的な,精神的なものであると思われるが,さて,それはどのようなものであろうか。
日本を民主主義国であるというだけでなく,君主国でもあるということを明らかにするということであろうか。
天皇の位置づけについて,「象徴」という,とらえどころのない曖昧なものではなく,「元首」という具体的な位置づけを与えたいということであろうか。
これらのことについては,筆者として,それなりの意義を感ずるところではあるが,ただ,逆に,「元首」という形を与えられてしまうと,天皇とはそもそもどのようなご存在であるのかという問いかけの契機が失われてしまうように感じられる。すなわち、天皇とは「元首」だということで,思考がストップしてしまうのではないかということである。
もっとも,現在でも,天皇とは「象徴」であるということで思考がストップしてしまっている者もいるかもしれないが,「象徴」という言葉は,「元首」という言葉と異なり,それ自体に中身のある言葉ではなく,関係性の中において始めて意味を有する言葉である。
すなわち,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」ということにおいて,「天皇」と「日本国」・「日本国民統合」ということとの関係性において成り立つ言葉なわけである。
したがって,「天皇」とはどのようなご存在であるかということを理解するためには,「日本国」・「日本国民統合」とはどういうことかを理解する必要があるし,その上で,それらと「天皇」とがどのような関係にあるのかを理解する必要があるのであって、「象徴」という言葉は、本来,そのような高級な問いかけを行っている言葉なわけである。
なお,8月2日付けの朝日新聞の朝刊において,桜井よし子氏が,「天皇制の記述も及び腰ではないか。天皇制が日本の文化・文明の核になってきたのは確かであり,その伝統をどのように引き継ぐのか。そのことを論じないといけないが,連合国軍総司令部(GHQ)による無味乾燥な天皇制の位置づけが,そのまま残っている印象がある」と述べている。
しかし,筆者としては,GHQの手による文章であったとしても,象徴規定については,実に良くできた表現であり,素直に見つめれば,天皇というご存在と日本の文化・文明との関係も含意されていると読むことができると思う。むしろ,そのような事柄を敢えて明記してしまうと,その途端に舌足らずになってしまうことになり,限定的な文言の中に矮小化してしまうことになってしまうのではないかと,筆者は思う。
ただ,この第1章の規定を見ると,根本的なことを考えないままに、技術的なマイナーチェンジを行ったに過ぎないという印象は拭えない。
第4条において,「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行い」とあり,相変わらず「国事に関する行為のみ」とあるのだが,これはいかがなものか。せめて,「のみ」だけでも削ったらどうなのか。
天皇陛下のご公務について,国事行為に限られないことは,すでに周知のところであろう。限られないどころか,象徴としてのお立場でなされるご公務は,非常に多くなっているではないか。
国家というものが関わる範囲としては,公権力の行使に関わる部分だけではないはずであり,そのような部分以外でのフォーマルな部分が皇室に託されているのだということを,認めるべきなのではないのか。
もっとも,これを認めるとしても,積極的な規定にはやはりなじまないであろうから,筆者としては,せめて,「国事に関する行為のみ」の「のみ」を削ったらどうかと考えるわけである。
若干、印象的なのは、第8条において、「法律で定める場合を除き」という文言が加わったことである。具体的な議論は「法律」の中身に委ねられることになるが、国会の議決が必要なもの、必要でないものの線引きが整理されることが期待される。
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現在及び将来に於ける皇室というご存在の意義と皇位継承論

2005-08-02 00:33:56 | 皇室の話
7月27日の「有識者会議の論点整理について(男系男子論の意義の確認の必要性)」という記事の中では、皇位継承の在り方を考えるに際して、価値観が問題になるということを盛んに述べたが、今回は、筆者なりの、女系容認の根拠となる価値観について、述べることにしたい。
ここで、筆者が問題意識を有する価値観とは、皇室というご存在の意義をどのように考えるか、ということである。
国民にとって、皇室というご存在はどのような意義を有するのかという問題があり、皇位継承の在り方については、このご存在意義を損なうことになるか、より高めることになるか、あるいは無関係であるか、そういう思考のプロセスが、必要であると思うのである。
筆者なりに理解している皇室というご存在の意義について、このブログでは、既に何度も同じようなことを述べてきたが、繰り返せば、それは、皇室と日本人との歴史的な絆ということである。皇室におかれては国の平安と国民の幸せを祈られ、国民はそのような皇室を大切に思い、そのような皇室と国民とが、長く共に歩んできたことによって築かれた絆ということである。
筆者のこのような考え方は、今も基本的には変わっていないが、ただ最近、このような皇室の在り方というのは、実は非常に現代的なものなのではないかと思うようになった。
国民に対する皇室の在り方、存在意義については、百二十五代の中では、多様性があったであろう。まったく、同じような在り方で続いてきたわけでは、ないはずである。
力ある支配者として、権力者としての側面が強く打ち出された時代もあったであろうし、権力については貴族・武家等に委ねつつ、権威ある存在としてのみの側面が強く打ち出された時代もあったであろう。
このように考えれば、男系男子ということが、なるほど、強く求められた時代もあったかもしれないと思われる。
すなわち、権力者としての側面が強く打ち出された時代においては、力の象徴として、男系男子ということが求められたであろう。
権威者としての側面が強く打ち出された時代においては、権威の源泉としての伝統的裏付けが重視されることになり、伝統的裏付けの内実としての皇位継承ルール、すなわち男系男子ということが求められたであろう。
それでは、現在における皇室の存在意義とは、如何なるものであるか。ここで、筆者としては、上述のように考えるわけである。
この上述のような皇室の在り方については、歴代天皇の御詔勅、御製の中にも見ることができ、「現代的」という言い方をしたが、決して、歴代天皇の歴史の中に無かったものが唐突に表れたというつもりはない。
ただ、非常に強く、表面化されてきたのは、現代の、特に戦後においてではないかと、筆者は感じるのである。
そのことが端的に表れているものの一つとして、昭和21年1月1日の、「年頭、国運振興ノ詔書」がある。
これは、新日本建設に関する詔書とも言われる(一般には「人間宣言」という方が、通じやすいであろうか。)ものであるが、この中の有名な一節に、
「朕ト爾等臣民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。」
という箇所がある。
筆者が盛んに「絆」ということを述べるのも、実は、この中の「朕ト爾等臣民トノ間ノ紐帯」という言葉から手がかりを得たものである。
ここで、皇室というご存在の意義について、改めて考えてみることにする。
まず、現在においては、権力者としての側面を有しておられないことは、明らかであろう。
それでは、権威者としての側面は、如何であろうか。
この側面については、戦後においても、なお暫くは存在していたであろう。
ただ、それは、明治憲法下における、統治権の総覧者としてのイメージが残っていたことによるものと言うべきではないか。
皇室におかれては、すでに昭和天皇にして、昭和21年の詔書を出されていたわけであり、「終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ」るところの皇室と国民との関係を目指されておられたのではないか。
そして、その試みは成功し、現在において深く定着し、将来においても維持されるものと、筆者は考える。
さて、そのような、国民と「終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ」る皇室というのは、かつての権威者とは異なるものであろう。
すなわち、雲上人としての権威者ということではないはずである。国民から見て、問答無用の、無条件に価値の認められるべき伝統を背景とした、上からの原理に立脚した存在ではないはずである。
仮に、現在の皇室について権威者として捉えるとしても、その根拠となるのは、国民との心の通い合い、共感、その集積としての絆であろう。
これは上からの原理でも、下からの原理でもないものであり、君民一体というと古くさい印象があるが、結局これこそが象徴ということなのではないか。
さて、このように、現在及び将来における皇室というご存在の意義につき、皇室と国民との絆として考えれば、皇位継承の在り方を考える際の優先順位としては、まずは、できるだけ現在の皇室の中から、女系を容認してでも、継承者を見出すべきということになるであろう。
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有識者会議の論点整理について(男系男子論の意義の確認の必要性)

2005-07-27 01:26:05 | 皇室の話
平成17年7月26日の有識者会議の後、同会議による論点整理が公表された。
筆者としても、かなり待ち遠しいものであったが、一読した感想は、あまりにきれいにまとまりすぎているということである。
125代続いた皇位継承の在り方について論じる材料としては、迫力というものにやや乏しいように感じられた。
この迫力の乏しさは、価値中立的であることに徹しようとすることに由来するのであろう。
ただ、改めて考えてみるに、政府の諮問機関が、あまり価値観を盛り込んだ迫力ある資料を唐突に公表するというのも、何だか奇妙な話であるかもしれない。
そういう意味では、良心的に、精一杯努力して作った資料であると、まずは、評価するべきなのだろう。
ただ、それだけに、読み手の立場としては、当該資料においては、皇位継承の問題を考えるに当たって必要となる要素の全てが盛り込まれているわけではないこと、特に価値観ということについては,自ら意識的に考えねばならないものであるということを、自覚しなければならないのだろう。
ここで、筆者として、特に価値観というものを思いめぐらすべきは、男系男子論についてであると思っている。
なぜならば、まず、論点整理の3ページ目において、「「男系男子」であること」を今後どう考えるかが論点」となる」とあることからは、男系男子の意義ということが,焦点となるはずだからである。
そして、女系容認の立場に立つ者としても,最終的に女系容認に踏み切る際の決断を盤石なものとするためには、なおさら、男系男子論の意義を深く理解し、まずは受け止める必要があると考えるからである。
そこで、今回は、男系男子論の背後にある価値観について、筆者なりに、改めて思いをめぐらせてみることにした。
この点については、6月19日付けの「「現在」における男系男子論の本質」の中でもある程度触れたことではあるのだが、さらにいろいろと考えてみると、その深層においては、必ずしも皇位継承の仕組みの枠の中だけの問題ではなく、もっと広い問題意識が存在しているように感じられてくる。
それは、結論的に言えば、皇位継承の危機にある現状について、それを前提に考えるのではなく、そのような現状が生じたことの由来を追求し、むしろ,そのような現状をこそ、ひっくり返すべきではないかという意識の存在である。
どういうことかと言うと、現在の皇位継承の危機の、そもそもの原因を遡って考えれば、GHQの影響下における様々な改革の一環としての皇室改革ということがあり、旧宮家の臣籍降下ということが大であったのではないか。そうであるとすれば、そのような改革の帰結としての現状をこそ見直し、本来の主体性ある日本の姿に立ち返るべきなのではないか。GHQの施策の影響に由来する現状を前提として、その現状の枠内で解決策を考えるというのは、日本の主体性に対して無自覚であり、そのような解決策が採られるとすれば、あまりに無念である、ということである。
以上は筆者の推測であるのだが、男系男子論の背後に、このような価値観が潜んでいると考えれば、一見、男系絶対主義的な主張を行う者が、同時に、まずは男系継承の方策の努力を行うべきであるというような言い方をし、その限りでは女系を容認しているかのような矛盾を生じているのも、理解しやすいであろう。すなわち、そのような論者というのは、表面的には,皇位の正統性について論じているようでありながら、その実は、いわゆる保守派好みの日本の姿に、分かりやすく言ってしまえば戦前の日本の姿に立ち返るべく、努力すべきことを主張しているということである。
このような価値観については、なかなか根が深いものであるように思うし、筆者としても,理解できるところはある。
ただ、筆者としては、いろいろ悩んだ結果、やはり、このような価値観については、克服しなければならないと思うに至ったのだ。
何よりも大きな問題としては,戦後における皇室と国民との歩みを、十分に見つめていないということがあろう。
占領下における改革については、それは当時の日本として、確かに不本意なものもあったであろう。
ただ、戦後60年、本当に国民が変えようと思えば変えることも可能な状態でありながら、既に、ここまで、歩んできてしまったわけである。
そして、皇室におかれては、新しいお立場において真摯にお務めを果たされ、新たな道を切り開かれてきたわけであるが、そこには、敗戦を経てなお、そして、めまぐるしい時代状況の変化の中で、日本が歴史的連続性をもった存在であることを確保するということが、念頭にあったはずである。
そのような、皇室と国民との戦後60年の歩みというものは、日本の歴史的連続性を確保するためにも、大切にするべきなのではないか。
そのような歩みを大切にし、積極的に評価するのであれば、まずは今の現状を受け止め、今の現状を前提に考えるべきなのではないか。
そのように思うに至ったからである。
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鎌田勇氏の「孤独の皇太子苦悩する日々」という記事について

2005-07-22 00:34:09 | 皇室の話
少し前の記事になるが、「文芸春秋」平成17年5月号に、鎌田勇氏の「孤独の皇太子苦悩する日々」と題する記事が掲載されている。
昨年5月の皇太子殿下のご発言をめぐっては、様々な議論がなされてきたが、一読してみて、これこそが真実だったのだろうと、確信した。
皇室の方々のお人柄を考えれば、至極当然な内容であるのだが、あまりに低俗な憶測報道が重ねられた後では、やっとキチンと説明してくださる方が表れたと、本当に嬉しくなった。
また、安心というか、何だかホッとしたような気持ちにもなった。
皇太子殿下におかれては、ものすごく孤独な境遇なのではないかと心配していたが、真剣に殿下のことを考え、また相談に応じることができる人が、こうして身近におられるのだなと、実感できたからである。
また、同号に掲載されている神野直彦氏の「皇太子殿下と「子どもの詩」」という記事も、素晴らしい。ここには、象徴としての在り方ということが、示唆されているようにも感じられた。
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皇太子妃殿下のお姿。

2005-07-21 01:44:24 | 皇室の話
笑顔の雅子さま 皇太子さまと愛知万博に (産経新聞) - goo ニュース
久しぶりに、皇太子妃殿下のお姿を見ることができた。
新聞記事によれば、まだご体調に波があるとのことであるが、お姿を見て、筆者自身、何とも明るい気持ちになるのを感じた。
不思議なものだ。当たり前のことであるが、やはり、この方こそが、皇太子妃殿下なのだなぁと感じさせられる。
最近は、皇太子同妃両殿下について述べることが少なくなってしまっていたので、ここで改めて述べると、皇太子殿下のご公務について、筆者は次のようなことを感じている。
それは、人と人との繋がりの重視ということと、今ひとつは、世界との関わりにおける問題意識ということである。
世界との関わりということについて、別な言い方をすれば、世界の中において、日本、日本人というものが、どのような在り方で存在するべきかということを、重要視されておられるのではないかということである。
それは、決して、世界に目が行き、日本を忘れているということではない。
世界から見た日本を問題意識にするということであり、あくまでも、日本ということを見つめておられるのである。
殿下が関心をもたれている分野として明示的にお示しになった環境問題についても、日本だけでどうにかなるものではないし、他の諸々の問題についても、これからは世界から見た日本ということが、非常に重要になってくるのではないかと思う。
特に、最近、世間では、非常に内弁慶的な言論を増えてきているように感じられ、いよいよ、意義深いことであると思われる。
ただ、その分だけ、反発も予想されるかもしれず、なかなか難しい道を選ばれたのだなぁと、切ない気持ちになったりもしてしまう。
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