コースは人生の楽しみをすべて奪うのか? Part 2
The Course takes all the fun out of life, Part 2
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https://www.youtube.com/watch?v=UdsxylijI08
前回、コース(奇跡講座)がよく人生からすべての楽しみを奪うと非難されることについて話しました。 もし議論をそこで終わらせてしまうと、人々は誘惑にかられ、ここで楽しむことに罪悪感を抱くという状況を避けるのが難しくなってしまいます。 ビデオゲームを楽しんだり、旅行の計画を立てたり、美味しい食事をしたり、セックスを楽しんだり、美しい自然の中で散歩を楽しんだりすることが、喜びをもたらし、楽しみを構成するものでありながら、罪悪感を抱いてしまうからです。
このコースが最も避けたいのは、人々が罪悪感を感じることです。 イエスのメッセージ全体は、罪悪感を強化するのではなく、罪悪感を解消することなのです。 では、どのように対処すればよいのでしょうか? その対処法は、ここ(この世界での経験)からあそこ(実在、そして天国)へ行くのはプロセスであると理解することです。 テキストの第27章「夢見る人」の終わりに近い重要な箇所で、イエスは私たちにとって夢から突然目覚めることはあまりにも恐ろしいだろうと言っています。 代わりに神は、私たちが段階的に進む、穏やかな夢、あるいはテキストの初めのほうで「幸せな夢*」と呼ばれるものを持つことを望んでいます。 赦しはプロセスなのです。
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*訳注:T-27.Ⅶ.14:1-6
あなたの夢の代わりに、神が与えてくれた夢を受け入れなさい。 夢を見ているのがひとたび認識されたなら、 夢を変化させるのは難しくない。 聖霊の中で休息し、 あなたが死を恐れながら恐怖を抱いて見ていた夢を、 聖霊の優しい夢と取り替えてもらいなさい。 聖霊は赦しの夢を運んでくる。 その夢の中では、選択すべきは誰が殺害者で誰が犠牲者かと言ったことではない。 その夢の中には殺害者もしも存在しない。 あなたの目はまだ取られたままだが、罪悪の夢はあなたの視界から次第に消えていく。
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*訳注: 幸せな夢
T.18.Ⅱ.6
常に実用的な叡智を持つ聖霊はあなたの夢を受け入れて、目覚めさせるための手段として用いる。 あなたなら眠ったままでいるためにそれらを使っていただろう。 私は以前、夢が消え去る前の最初の変化はあなたの恐れの夢が幸せな夢に変わることだと述べた 。
T.20.Ⅷ.10:4
心眼(Vision)とは聖霊があなたの悪夢を幸せな夢と翻訳する手段であり、想像された罪がもたらす恐ろしい結果を見せている野放図な幻覚を聖霊がそれと取り替えたいと思っている穏やかで安らかな光景と翻訳する手段である。 これらの優しい光景と音声は幸せな気持ちで眺め、喜びを持って聞かれることになる。 それらは恐れるあなたの自覚に自我の目的が運んできた恐怖の光景や泣き叫ぶ声の代わりとするための聖霊による代替である。
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原則としては、静止して瞬間的に家に戻ることもできます。 ワークブックのレッスンにもあるように、聖霊を教師として選ぶだけで、指を鳴らすようにして家に帰ることができるのです。 しかし、時間という幻想の世界では、それはプロセスなのです。 コースの中には、このことについて語る箇所がたくさんあります。 マニュアルの「信頼の深化」のセクションには、信頼の深化における6つの段階*があり、それは罪悪感の現実への信念、分離の現実への信念、エゴが真実を語っていてイエスが嘘をついているという信念を、穏やかに、段階的に解消していくプロセスとして明確に示されています。 それがプロセスであるのは、そうしなければならないからではなく、繰り返しますが、私たちが突然持ち上げられて現実に投げ込まれたら、私たちの恐怖があまりにも大きくなってしまうからです(テキストのある箇所で述べられています)。 ですから、そうはなりません。
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*訳注: M-4.A 信頼の深化の6つの段階
取り消しの時期
弁別の時期
放棄の時期
安定化の時期
不安定な時期
達成の時期
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それは、ゆっくりと、段階的に、徐々に目覚めていくプロセスです。 そしてこれは、私たちの肉体への同一化が非常に強いためです。 私たちの名前で呼ばれ、歴史を持ち、私たちが同一化し、特定の悩みや懸念、困難を抱え、それらに苦しんでいる、この肉体的、心理的な自己への同一化が非常に強いためです。 私たちはそれを手放すよう求められているわけではありません。 求められているのは、私たちがここにいる目的を変えることだけです。
エゴが私たちの身体でいる目的は、私たちの特別なニーズや関心をすべて満たすことであり、それが罪悪感を強化し、罪悪感の思考体系全体を強化します。 聖霊の目的、つまり修正は、私たちが身体として経験することを教室として使い、私たちがこれまで支持し、同一化してきた思考体系が真実ではないことを、もう一度、穏やかに学ばせることです。 コースは、奇跡は私たちが夢を見ており、その内容は真実ではないことを確立すると教えています。 夢から目覚めることでも、汚れた夢から聖霊の幸せな夢に変えることでもなく、それが真実ではないことを認識するだけです。 したがって、私たちは自分の身体を否定するよう求められているわけではありません。
テキストの初めのほうには、この世界での肉体的な経験を否定することは、特に不適切な否定の使い方であると教えられています。 ですから、自分の身体を幸福や快楽を求める道具、痛みを避ける道具、または楽しむために使うことに問題はありません。 問題は、身体に本来持っていない現実性を与えてしまうことです。
問題は、それが救済だと言ってしまうこと、つまり「私は自分自身を良い気分にするためには、誰々と何かしなければならない」と言ってしまうことです。 それが嘘であり、私たちが手放すものです。 コースの中では、聖霊は私たちの特別な人間関係を奪い去るのではなく、それを変容させると何度か教えられています。
それは、聖霊がその目的を変えるという意味です。 ですから、自分の身体を潜在的な監獄、または潜在的な幸福と快楽の源として見る代わりに、身体の目的を、私たちが最終的に自分が身体ではなく、意思決定をする心であると学ぶための教室として見るのです。 したがって、コースの生徒だけでなく、ほとんど最初からスピリチュアリティの信奉者も犯してきた間違い、つまり身体に罪を局在化させ、身体を飢えさせなければならないという間違いを犯さないことが非常に重要です。
テキストの「私は何もする必要がない*」という箇所は、その点を特に明確にしています。 罪は身体にあるのではなく、心(マインド)が選ぶ幻想的な思考体系なのです。 ですから、身体でやること、つまり身体の快楽や楽しみ、満足に対する欲求を飢えさせるということを単に変えても、心を変えなければ、何も起こりません。 あなたは単にフロイトが言うところの症状代替*(Symptom substitution)にふけるだけです。
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*訳注:T-18.Ⅶ.7
何かをするには肉体が必要である。 だから自分は何もする必要がないと認識するなら、あなたは自分の心から肉体の価値を退けたのである。 ここに、数世紀の努力をすりぬけて、 あなたが時間から速やかに脱出できる開かれた扉がある。 これが、今すぐに、罪がすっかり魅力を失う道である。 なぜなら、ここでは時間が否定され、過去と未来はなくなっているからである。 何もする必要がないものに、時間は必要はない。 何もしないとは休息することであり、肉体の活動が注意を要求しなくなる場所をあなたの中に作ることである。 この場所に聖霊が訪れ、そこにとどまる。 あなたが忘れる時も、また肉体の活動が再びあなたの意識を満たすようになる時も、 聖霊はそこにとどまり続ける。
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*訳注 症状代替(Symptom substitution)
フロイトによって提唱された精神分析理論の一つ。 治療の結果、解消された症状に代わって、ある症状が発現すること。 元の症状の原因である無意識の衝動や葛藤に効果的に対処していない場合に生じると言われている。
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あなたは一つの間違いから別の間違いへと移り変わります。 ですから、身体を甘やかす代わりに、身体を飢えさせるかもしれません。 放蕩者になる代わりに、禁欲主義者になることを選ぶかもしれませんが、それはあなたが自分の身体を何に使っているかを変えているだけで、快楽の代わりに痛みを使うことで、神が喜んでくださり、自分の罪を償っていると信じているだけなのです。
あなたの身体で何をするかは重要ではありません。 誰とあなたの身体で何をするかは、形(フォーム)のレベルでは重要ではありません。 重要なのは、心のレベルで誰とあなたの身体を使うかです。 …聖霊かエゴかです。 ですから、あなたの身体が何をするか、しないかに問題はありません。 問題は、罪悪感の教師と行っているか、赦しの教師と行っているかということです。
ですから、このコースにおいて常にそうであるように、鍵は私たちの焦点が身体から心(マインド)に移らなければならないということです。 そして、前の話で引用したように、コースは「唯一の真の喜びは、神の意志を行うことにある」と教えています。 そして、神の意志は、私たちが正しい心(マインド)を選ぶことによって見出されます。 それは私たちの身体とは何の関係もありません。
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