笑い、ユーモアについて考えたこと 2024年9月12日
エゴが出てきて、悪さをする時、存在を主張する時は、「ああ、また俺ちゃん(エゴのこと)がバタバタとやってるな。」と、あまり深刻にとらえないということが、エゴと付き合うコツだといろんな人から言われる。 ジョーン・トリフソンは「またジョーンが二元のダンスを踊っているな」と思うそうだ。 また、堀田さんはまるで母親が子供を優しく見ているようにやれと言われる。
ベルクソンの「笑い」という本を読むと、その消息が分かる。
笑いにはさまざまなヴァリエーションがある。 例えば、誰かが失敗をして、優越感を得ることができて笑いがこみあげるということがある。 ホッブスが言うようにこれは通常劣等感に苛まれている人ほどそうなる。 また桂枝雀さんが言ったように「緊張と緩和」という笑いの仕組みもある。 だが今、取り上げたいのは、愛があるが、感情移入しないことによる「笑い」、同一化しないことによる「笑い」だ。
典型的な笑いの例として、もしバナナの皮で滑って転んだ人がいて、その人が自分のとても大切な人で、その人に感情を移入してしまったら、笑うどころか、どこか怪我をしていなかったか、頭を打たなかったか、心配するだろう。 でもその人に同一化したり、感情を移入していなければ、突然それは笑いに変わるだろう。
もし子供が不注意で転んでしまったとして、膝をすりむいて大声で泣いたとしたら、その母親がもし、その子供の次元にまで降りて、完全に感情移入をしてしまったら、つまり完全に共感してしまったら、子供を救うことはできない。 もし母親がもう少し高い次元にいたとしたら、「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と慰めてあげられるだろう。 また客観的に適切な処置をすることもできるだろう。
よくハリウッド映画で、ヒーローが、絶体絶命のピンチに極上のユーモアを披露するのを観ることがある。(「ゼログラビティ」という映画では、主人公を助けたジョージ・クルーニーがそうだった。) これはハードボイルドの映画にもあるように実にかっこいいのだが、これはその方が実際うまく物事を解決するからだ。 なぜなら、これが必要以上に自分の今の状態に同一化したり、ガチガチになってしまうことを避けてくれる。 ユーモアを持つことで、自分の今の深刻な状態からさっと離れることができる。 客観的になり、俯瞰的に状況を把握し、適切な行動をとれるようになる。 笑いは、我々をエゴへの同一化から解き放ってくれる実に有効なツールなのだ。
共感能力を大きくすることで、どんな軽いものでも重さが増し、どんなものにもいかめしい色付けがされる。 もちろん、共感能力があるおかげで我々は人と深いコミュニケーションができる。 共感能力があるおかげで、映画のドラマが楽しめる。 ハラハラドキドキすることができる。 しかし、憐みの心を持ち、いっしょに泣いてくれる人が、その人の問題を解決できるとは限らない。
ところで、ウクライナや、ガザ地区で戦争があって、多くの人が悲惨な目にあっているのに、そんな時に、「温泉に入ったようなイメージをしましょう。」なんて言ってていいのだろうか? 非二元の人が「出来事は起こる。行為はなされる。しかしそこには個別の行為者はいない。」(これはブッダの言葉)なんて言って、悟りだ、一瞥体験だと自己満足に浸っているが、本当にそれでいいのだろうか? 自分たちだけ平和な気分でいていいのだろうか?と思う人は多くいるはずだ。 実は、わたし自身もつい、最近までそう思っていた。
しかし、薄情な奴だと非難されたとしても、実は一瞬でもいいから逆に薄情になること、つまり現状から離れることが、本当に苦しんでいる人のための解決になることがある。 愛は情愛ではない。 子供がいじめっ子に殴られてケガをしたら、その子供の手を引っ張っていって、怒鳴りこんで、子供の敵をとる親もいるだろう。 3倍返しをする人もいるだろう。 その気持ちはよくわかる。 凄く共感できる。 しかしその共感は終わりなき負の連鎖に繋がることがある。 自分の心が飢えていて、悲惨で、被害を受け、攻撃を受けていると思う人がやってしまう行為は投影による復讐だ。 ただし、この投影が全く自覚されていないないことがあるからややこしい。彼自身は正義のためだと思っている。 それどころか情け深い人間だと自分のことを思っている。自分は犠牲者だと思っている。
エゴは常に自分より弱い者を探している。 それは自分の投影への復讐が比較的容易であるためであり、悪いことをした制裁対象なのだから、社会がそれを正義として認めてくれるはずだと思っている。 この頃のYoutubeでは社会的に何かをしでかした人(例えば、ここ最近では兵庫県の斎藤知事)を徹底的に糾弾する。 またそれが人気になっている。 糾弾者は匿名性と不特定多数を味方につけている。 彼らにとってみれば、すべて笑い事ではない。 笑ってはいけない。 犠牲者に共感しなければならない。 善と正義は勝たなくてはならない。 しかしここに本当の意味での平安があるだろうか。 聖霊は赦し、エゴは罰する。
『なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。』」(ルカ6-41)
この聖書の箇所は、通常、「人の振り見て我が振り直せ」という警句と同じだと思われるだろうが、実は「自分の目にある梁」とは、他人を見る時に最初から持っている様々な特定の信念、記憶、価値観、そして自分の罪の投影のことを指している。
漫才コンビ「錦鯉」の長谷川さんはおもしろい。 極貧の生活をしていて電気代が払えず、電気が止められて暗い中で生活していたこともあるという。 でもそれもみんな笑いのネタにしてしまう。 窓から見える信号機が赤になると部屋が照らされて生活できたそうだ。 またある時は、揚げ物をしていて温度を上げすぎて火がついてしまい、あわてて水をかけて大爆発させてしまったという。 これもネタになる。 みんな笑い飛ばしてしまう。 もちろん、その時、その場所では本当に辛いだろう。 しかしここで、気楽な傍観者(つまりここでは観客)として自分の人生を眺めてみるとどうだろう。この世界で起こっている様々な出来事がたちまち喜劇に転じていく。
だいたい、精神的に高い境地にある人は、ユーモアに満ちている。 どんなに恐ろしいことが身の上に起ころうとしていても、深刻にならない。 自分がどえらい失敗をしでかしても、それを笑い飛ばしてしまう。
実は、それができるのは、「この世は夢」、自分は白昼夢を見ているのであり、この世でどんな現象が起こっても、大切なことはその現象そのものにはないことを心の底で知っているからだ。
だからと言って、今、我々の目の前で起こっている様々な現象は夢なのだから、これらを否定したり、拒絶したりするべきだということではない。
ティックナットハン師はこう言った。
「波は水になりたいからと言って波であるのをやめる必要はありません。」
わたしたちは、実相、風船の中に戻るべきだとしても、この地上で身体をもって生活をしているという夢を見て、そこに実感を伴う限り、この世の中で生きていかなければならない。 我々は自分が本来大海の水であったとしても、今現在、自分が波であることを止める必要はない。 自分は波と思ってるなら、波を拒絶してはならない。 それは波をリアルにするだけだ。 ただ、それに気が付いていればいいのだ。 そして気が付いた時に「笑い、ユーモア」の素地が生まれる。 この世の戦場を俯瞰できるようになる。
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