この世は幻想だと言われ、諸行無常、あらゆるものが常に非ず、変化し、消えていく。 2024年8月31日
でもここに価値をおいてはならないというのではなく、この変化の奥に常住不変としてあるものを、我々はその一瞬、一瞬にを観ることができるのです。 道元禅師は前後裁断という言葉を使いました。
前田専学という仏教学者は「不一二元論学派における無明論の展開」という論文の中で、真珠母貝と、以前に見たことのある銀を、想起の形で、その真珠母貝の中に見ることに例えを出しましたが、ここで我々は真珠母貝の美しい銀色の光を見て、銀そのものの光を想起しているのです。 変わらないものとしての銀、イデアとしての銀、完全にして完璧なの聖性としての銀です。
テキストでは下記のように書かれています。
父よ、私はあなたに感謝します。あなたの神聖な子のばらばらになった断片の間の小さな隔たりの一つひとつを閉じるために、あなたが来てくださると、私は知っています。完全にして完璧なあなたの聖性は、彼らの一人ひとりの内に宿っています。そして、ひとりの中にあるものは彼ら全員の中にもあるがゆえに、彼らはつながっています。最も小さな一粒の砂であっても、それが神の子の完全な絵の一部であることが認識されるとき、それはなんと神聖なものでしょう! 断片の見かけ上の形態は、何も意味しません。なぜなら、その一つひとつの中に全体が宿っているからです。 神の子の一つひとつの側面は 他のすべての部分とまったく同じ」です。〔T-28.IV.9〕
ワプニック先生は、「いわゆる動物界、植物界、鉱物界と呼ばれるものもすべて、人類と同じように<一なる子〉の一部をなしています。何が生物で、何が無生物か、といった区別は、人類が独断で持ち込んだものです。つまり、一つの幻想の世界を区分して管理し、「すべての生きものを治める」(「創世記」1:26,28)ことができるように、自我の教えに従ったということです。」と述べています。 ですから我々が見ているあらゆるものは神の子の完全な絵の一部なのです。
これは庭に咲いていたギボウシです。 花が咲く前、花が落ちた跡、どれも完全にして完璧な神の聖性が現れています。
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