昨晩のZOOMで得たこと。 2024年8月24日
今朝見た夢は酷かった。 典型的な悪夢だ。
こんな夢だった。
私は会社に戻っていて、何かのプレゼンをするためにプリンターで何枚も印刷している。 ところがそれがうまくいかない。 どうしてもちゃんとしたものができない。 時間が迫ってくる。 他の社員の視線を感じる。 おかしくなりそうだ。
それと同時に私は、そもそもその仕事にまったく意味がないことを夢の中で知っている。 たとえそれが上手にできたとしても、その仕事にまったく自分が評価を与えていないことを明らかに知っている。
私は二重に拘束されている。 自分はこの仕事の価値がわからない。 でもやるからにはちゃんとした仕事をして承認されたい。 たとえ自分が価値を見出さない仕事であっても、一人前の仕事の成果を上げて評価されたい。 自己承認要求は満たしたい。 みんなに一目置かれたい。 この会社は病んでいる。 そしてこの会社を支配している社会も病んでいる。 でもそんな組織の中でも人間関係をよくしたい。 そりゃそうだ。 毎日年から年中顔を合わせている人といがみ合っていたら、やっていけない。
それでも働かなければならない。 なぜなら給料をもらい、税金を払い、健康保険料を払い、社会保険料を払い、電気、ガス、水道代を払い、アパートの部屋代も、インターネット代も、携帯電話代も払わなければならないからだ。 天から金は降ってこない。
我慢するしかない。 我慢、我慢。 だからたまの休みの日だけは自由にしていたい。 好きなことだけをしたい。 我慢した自分にご褒美を上げたい。 私の生活はこのようにまったくの二重生活だった。結局人生の大半をこの喰っていく手段のために費やしてしまった。
私の生きてきたこの60年間は無駄だったのか? 時間の浪費だったのか? そして今、そうではないと誰かに説得されたいのか? 意味のある人生だったと慰めてもらいたいのか?
それとも、もし会社で評価され、成功し、出世し、給料もよく、良き伴侶に恵まれ、子供も元気で優秀、家もあり、老後も安心、そして何よりも健康であったら、それで万事よかったのだろうか? 宗教や哲学やスピリチュアルなんかにそもそも興味を抱く必要もなかったのだろうか?
お盆に近くなると例年、戦争がテーマになったドキュメンタリーが放映される。
その一つは特攻隊のドキュメンタリーだった。 私はそれまでこんなに多いとは思わなかった。 4000人もの若い男が死んだのである。 その時、天皇を含めて、大本営はすでに日本が敗北することを確実視していたが、一回でもいいから、勝って無条件降伏、天皇制の崩壊を避けようとしていた。 しかしこの4000人の犠牲は米軍の進撃を阻止するためには、ほとんど功を奏さなかった。 焼け石に水だった。 意味がなかった。
最初は一時的な作戦であったが、それがあっという間に「一億総特攻隊」という全国的なスローガンに変わった。 特攻隊を研究している大学の先生はその時、「特攻隊が続いている限り、我々は負けない」という国民の間の信念のようなものがあった」という。 大本営はさらに特攻隊の後に本土決戦を用意していた。 それまでは負けない。 そうでなければ、死んでいった英霊に申し訳が立たないと。 国民学校の先生たちは自ら死んでいった特攻隊の栄誉をたたえ、特攻の希望者を生み出すことが銃後の戦いに参加することだと信じた。
この死んでいった4000人の若者の人生は意味のあるものだったろうか? 特攻隊を絶賛し、信念を若者に植え付けた先生たちの人生は意味のあるものだったろうか? それとも無意味だったと断じていいのだろうか? それを言うならば、太平洋戦争で死んだ310万の日本人はどうなるだろう? さらにまったく関係のない遠い国の戦いに駆り出されて死んだ29万人のアメリカ人はどうなるだろう?
そもそも意味のある人生とはなんだろう。 長く平和に楽しく生きればそれでいいのだろうか?
さて、ここで立ち止まる必要がある。
立ち止まって眺める必要がある。 この戦場を上空から眺める。
そうするとある言葉が浮かんでくる。
「食べるために生きるな,生きるために食べよ」
これはソクラテスの言葉である。 食べることは手段であって,生きるという目的と取り違えるなということだ。 ところが、この世の中は魅力ある、ある意味で誘惑する食べ物にあふれている。 そして概して健康に悪いものほどおいしい。 だからいとも簡単に食べることが目的になる。 大食いユーチューバーの人も、グルメの人も、まさに食べるために生きている。 おもしろいのは我々はそのことに、それほど違和感がないということだ。 巷では「喰いしんぼ万歳!」なんていう文句であふれかえっている。 それはある意味で正しい。 生きるために食べる食べ物はおいしいからだ。 飢えているときの食事はご飯に塩をかけるだけでも、涙が出るほどおいしい。 結局のところ、戦いのように苦痛の限界まで食べる大食いユーチューバーは何か倒錯している。
「食べるために生きるな,生きるために食べよ」という言葉を別の言い方にしてみる。
「喰っていくために生きるな、生きるために喰っていけ。」
この場合、喰っていくというのは金を稼いで生活を維持するということを意味している。 金を稼ぐということは社会に参加することを意味している。
さらにこの言葉をもっと本質的な言葉に替えてみる。 生活を維持するということは「生存」を意味し、生きるということは「存在」を意味する。
「生存するために存在するな、存在するために生存しろ」
この表現で導き出されるのは、生活を維持するために存在していることの無意味さだ。 これだと、ドーキンスの「利己的な遺伝子」と同じことになる。 我々が遺伝子を持っているのではなく、遺伝子が我々を利用して存在しているのだ。 我々が生存しているのは遺伝子の存在のためだとも言えてくる。
「存在するために、生存しろ」というのは「存在」することそのものに、何らかの価値があるということを示唆している。 少子高齢化によって、これからもっと老人が増えるのだろうが、痴呆症を患った老人も増えるだろう。 彼らは体力的にも、精神的にも、知的にも社会に役に立たなく、貴重な地球上の資源をただ消費するだけだとしたら、生存させる意味はあるのだろうか? そうしない理由はただ、自分も将来老人となることは必定だから、その時になって同じことを言われたくないということだけなのだろうか?
会社員の話、特攻隊員の話、痴呆老人の話をしてきたが、これらに共通するものはなんだろうか。 様々な要素が重なり合い、否定しあって、矛盾を引き起こしている。 どんなに、あの偉大なソクラテスが「食べるために生きるな,生きるために食べよ」と言ったところで、実際、我々はほとんど食べるために生きている。またはそうせざるを得なくなっている。 会社でこき使われ、遅くまで仕事をさせられ、責任を取らされ、四六時中会社のことを考えさせられる。 帰宅して夕食をとる時、自分は食べるために生きているとしか言いようがないように思う。 我々は自分を取り囲んでいる社会に支配されている。洗脳されている。 その枠組みから外に出ることは容易ではない。 そしてその枠組みの中で頑張ってきた人たちは老人となって最後は新陳代謝のごとく排出される。 まさに映画「マトリックス」で、電力を取り出すために培養されている人間のようだ。 我々は脳の中に絶えず様々なアトラクションや戦いや戦いに伴う敗北、勝利、名誉、成功、失敗、欲望、快楽、苦痛という電気信号を与えられ、最後は使用済みとしてカプセルから排出される。
しかしこの記述は、少し考えれば、直感的に浅薄であることに気が付かれるだろう。 ここには「生存」だけがあって、「存在」の深さがない。 「生存」と「存在」は切り離せない。 そしてこの「存在」の深さを知ることは容易ではない。
ここである「レベル」という言葉のツールを導入しなければならないと思う。
グレゴリー・ベイトソンはダブルバインド(二重拘束)という言葉を持ち込んだ。 ダブルバインドとは二つの矛盾した要求や情報を受け取ることで、どちらの選択肢を選んでも罪悪感や不安感をおぼえるような心理的ストレスのある状態のこと。 簡単な例を挙げれば、仕事で失敗した時に「理由を教えて」と言われたのに「言い訳するな」と言われたり、上司からなんでも聞いてねと言われて、いざ質問してみると、そんなことくらい、自分で考えろと怒られるようなこと。 また親に愛しているよと言われながら、体罰を受けているようなこと。 親は時々子供をペットのように可愛がり、物を買い与えるが、激しく叱責し、時には完全に無視する。 親にDVのことを聞き出すとこう言うだろう。 「私は愛しているからこそ、体罰を加えるのだ。 この子を甘やかして育てずに、これからの厳しい社会に生き残っていけるように、躾けているのだ。 邪魔しないでほしい。」 でも実際はそうやったほうが自分の生活がしやすいだけかもしれない。 単純にウザイと思ったのかもしれない。 いずれにせよ、ここでこの子供と親の精神システムのレベルが一致していないのである。 子供は親に優しさだけを求めているのであって、親からの体罰や、愛のない行動が、その言葉と行動の矛盾や一貫性のなさに精神的破綻を生じさせる。 この親は自分の中に様々なレベルの精神システムを抱えており、それがその時の気分によって現出される。
ソクラテスが「食べるために生きるな,生きるために食べよ」と言ったとき、生存と存在の明らかな違うレベルのことが語られている。 それをいっしょくたにして話すとき、レベルの混同が起きる。 どんなに偉大な哲人が「食べるために生きるな,生きるために食べよ」と言ったところで、実際、我々はほとんど食べるために生きている。またはそうせざるを得なくなっている。 それは生存と存在のレベルの違いを意識してないからだ。
奇跡のコースの重要でありながら、難解な教えの一つがこれだ。
これは「心(原因)のレベル」と「形態(結果)のレベル」におけるレベルの混同をしてはならないという教えであり、コースは、あくまでも原因(心)についてのコースであるということだ。 上記の表現に照らし合わせると、生存=形態(結果)のレベルであり、存在=心(原因)のレベルとなる。
もし我々が生存のレベルだけで生きており、存在のレベルが生存という結果の原因として機能していないのなら、我々は精神的にも、実際の生活においても破綻してしまう。 そのことをソクラテスは「食べるために生きるな,生きるために食べよ」で言おうとしたのだ。
ベイトソンはきっと「心(原因)のレベル」はあらゆるこの世の「形態(結果)のレベル」に内在していると言うだろう。 当たり前だが、あくまで原因が結果に先んじている。 この世で起こる結果は仏教的に言えば、縁起によって起こっている。 この縁起は元は「心(原因)のレベル」から発出される。
そしてこの縁起の全容を我々は知ることはできない。 言い方を変えれば、ここに何かが在る時、それが在るのは、無数無量といってよい程の因縁によって在り得ている。 そうなると今、我々にできる最善のことと言えば、その縁起をありのままに受け取るだけである。 奇跡のコースは、結果(形態/行動/肉体)のレベルのことについてはいっさい述べていない。 福も内、鬼も内である。
だから我々も、結果(形態/行動/肉体)のレベルについてはいっさいジャッジできないのだ。 大事なのは「心(原因)のレベル」であったのだから。
さて、そんなことを言ってのけても、やっぱり明日はやってくる。 出勤しなければならない朝が来る。 金を稼がなくてはならない。 結果の世界、形態、行動、肉体の世界で生きなければならない。 たとえそれが幻だったとしても。
これについて昨晩のZOOMでTatara Kaoriさんという方が、とても大切なこと、とても具体的なことを言われたような気がした。 私なりにまとめるとこうなる。
「当然、会社ではあらゆる不快なことがおこる。 いつでも辞めようかと思うことがある。 しかし辞めることが今の直接の解答ではないと直感していた。 そしてある時、パソコンの前でキーボードをたたいている指だけが見え、自分が退いていくという経験をした。 仕事は進んでいるが、自分がやっているという気持ちがしない。 この時、自我が消えていくように感じられ、心に安らぎがあった。」
これは何を意味しているのかというと、「心(原因)のレベル」にありながら、同時にちゃんと結果(形態/行動/肉体)のレベルが機能しているという状態なのだ。 レベルの混同はない。 これが本当の意味でソクラテスの言う「食べるために生きるな,生きるために食べよ」のことなのだ。
自分の人生が時間の浪費だったのか、無駄だったのか? それとも充実していたのか? 幸福だったのか? 精一杯生きたのか? 逆にしたいことをして、自己実現に成功すれば有意義だったのか? そんなことは私の小さな頭では判断できない。 そんなことはわからないし、自分でジャッジすることなど絶対にできないし、もちろん他の誰にもできないからだ。 縁起の全容を我々は知ることはできない。 これらは結果の世界、形態、行動、肉体の世界であって、ここに実在はない。
そもそも私は生存するために働いている間、私は存在していなかったのか? 存在していたではないか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます