脱構築と妙好人源佐さん 2024年8月24日
脱構築とはフランスの哲学者ジャック・デリダが教えてくれた実に有効なツールだ。
私は、安心を求めてきたが、いつもその安心の中に、不安という淀みが混じりこんでくることに気が付いていた。
そしてその不安を徹底的に排除しようと試み、毎回失敗した。 失敗するどころか逆に不安が増殖した。
不安と安心
でも求められているのは、この二項対立を脱構築することだったのだ。
つまり何か不安が悪いものであり、排除すべきものであり、安心が良いもの、理想的な状態とは、まさに完璧な安心でいることだと思っていたのだが、ここで価値判断をして、安心と不安の二項を対立させてはいけなかったのだ。
なぜならこの世に生きている限り、この二元的な世界に生きている限り、100%安心という状態を維持することは不可能であるから。
その状態を得られないことに落胆しているとしたら、それは自分が永遠に生きられないことを落胆するのと変わらない。 青空が続かないからといって、絶望する人はいないだろう。
瞑想中に自分を不安にさせる出来事、情報、要素が現れてきたとき、それを柔らかに繊細に子細に決して拒絶せずに眺めていると、安心が不安を包み込んでいくのを感じる。 この不安があるおかげで、安心が包み込む動き(ムーブメント、力動)が生まれることに気が付く。
妙好人源佐さんが、厄介な出来事が起きると、「ようこそ、ようこそ」と言ったのはこういうことだったんなと思った。 厄介な出来事は源佐さんにとっても我々にとっても変わらない。 源佐さんはマゾヒストではない。 しかし源佐さんはネガティブな出来事によって、ポジティブな出来事が動き出すことを知っていたのだ。
近所の娘が自分の人生に悩んで、どうしたら楽になれるのかと源左に聞いた時、こう答えた。
「自分も自分がこしらえたものじゃないからわからない。
凡夫にわかるということはないだろうから。
わからないままで行くしかないだろう、そろそろならわかるだろう。」
ここで源佐さんはデリダが言うところの価値判断の保留をしている。 価値判断の保留をして二項対立を崩し、わからないままで眺めているうちに、そろそろ何かがわかってくることを知ったのだろう。
不安の存在を認めることで、安心が動き出す。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます