今日、私は再び自分を傷つけない。 ケネス・ワプニック Ph.D.
I will not hurt myself again today.
Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=hpRwbG5Q58c
今朝は、ワークブックのレッスン330「今日、私は再び自分を傷つけない」についてお話します。 レッスンそのものについて話すつもりはありません。 タイトルとその意味、そしてそれが私たちの一日を過ごす上でどのように役立つかに焦点を当てます。
『奇跡講座』の根本は、理論をどれだけ理解しているか、形而上学をどれだけうまく説明できるかではありません。 本当に重要なのは、それをどのように生きるか、毎日、そして誰もが経験するあらゆる現実的な状況をどう生きるかです。 自分の身体との経験、他人の身体と一緒に生きること、身体を使って仕事をすること、ニュースを身体を見ること、普通の人が直面するあらゆる状況に対処すること、そして、それらを違ったやり方でやることが大切なのです。 このレッスンは、実際、講座全体がある意味でこのことへの解説と見なせるのですが、私たちは自分自身をどれほど傷つけているか気づいていないと指摘しています。
自分を傷つけることについて話しているのではありません。例えば、ベーグルを切るときに指を切ったり、熱いストーブに触れて火傷をしたりすることではありません。 そうではなく、傷つける教師を選ぶことによって、どれだけ自分を傷つけているかについて話しています。
なぜなら、傷つける教師は言うまでもなくエゴであり、エゴは自分たちが傷つかないように、神を傷つけたと思っています。 言い換えれば、神の完璧な一体性の一部であり続けることは私たちを傷つけていたので、完璧な一体性から分離して、個であり、ユニークであり、特別であり、自律的であるために、神は傷つけられなければなりませんでした。
そしてもちろん、それには「罪」という言葉があり、私たちは創造主、私たちの源から分離することで、創造主に対して罪を犯したということです。 そして、もちろん、それに密接に続くのは私たちの罪悪感です。 私は自分がしたことのために、ひどく罪悪感を抱いています。 純粋な利己心と私利私欲のために、私は神を犠牲にし、神の子を磔にしたことで私が存在することができ、私は天国、神の世界とは正反対の世界を作り、その世界で私は明確な個体として、他のすべての身体とは分離した身体として存在します。
それゆえ、罪悪感を感じずにいることは不可能であり、この罪悪感は私たちのDNAに織り込まれていて、私たちの存在そのものの一部であり、愛が(同じ言葉を使うと)私たちの存在の構造であるように、罪悪感は私たちの存在の構造なのです。 講座は「存在(being)」と「生存(existence)」を対比させており、霊は存在の状態であり、生存はエゴの状態です。
私たちの存在の構造が愛であるのではなく、私たちの生存の構造が罪悪感であり、罪悪感を感じずにこの世界に身体として存在するすべがないのです。 これは、罪悪感が罰を要求するので、私たちが自分自身を傷つける方法です。 第27章では、「苦痛や苦しみをもたらしていると知覚されたさまざまな原因の中に、自分の罪悪が含まれていないということだった。*」と語られています。
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*訳注:T.27.Ⅶ.7
罪の証人たちはみな一つの小さな空間の中に立っている。 そして、まさにここに、この世界について、あなたが持っている視座の原因を見出すことができる。 かってあなたは招待も依頼もしないのに、この世界が否応なく自分に押し付けてくるかに見えた一切について、その原因が本当は何なのか気づいていなかった。 あなたが一つだけ、確信していたことは、苦痛や苦しみをもたらしていると知覚されたさまざまな原因の中に、自分の罪悪が含まれていないということだった。 またいかなる形でも自分はそれらの苦痛や苦しみを自分に与えてほしいと求めたりはしなかったということでもあった 。 このようにしてすべての幻想が生じた。 幻想を作り出している本人は、彼自身がそれらを作り出していることも分かっておらず、幻想の実在性は、彼に依存してはいないということになる。 それらの幻想の原因が何であれ、それは彼とは別の何かであり、彼が見ているものは、彼の心とは分離したものということになる。彼は自分の夢の実在性を疑うことはできない。 なぜなら彼にはその夢を作り出し、夢を実在しているように見せかける上で、自分が果たしている役割が見えないからである。
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罪悪感は私たちの苦しみの原因であり、さらに言えば、罪悪感に対する心の決定が私たちの苦しみの原因なのです。 しかし、罪悪感は存在しないのに、存在しないものがどのように痛みを引き起こすことができるでしょうか? 私たちが有罪であるという信念こそが私たちの痛みの原因であり、それが肉体的苦痛であろうと心理的苦痛であろうと、もちろん両方であろうともです。
ですから、「今日、私は再び自分を傷つけない」と言うことは、私が普段、どれほど自分を傷つけているかを意識することです。 これは実践的なレベルではどういう意味でしょうか? もし、私の罪悪感の原因が、私が自分の源から分離したという私の信念であり、その信念がこの世界の私の生活に反映されているならば、この世界における私の罪悪感の源、つまり私の存在論的罪悪感の影は、私が他の人々から分離しているということです。
そして、どうすれば他の人々から分離できるのでしょうか? 私は彼らを裁き、自分の必要性を満たすための手段として利用します。 これが講座が「特別な愛」と呼ぶもので、それによって私は彼らに依存するようになります。 あるいは、私は罪悪感を取り除くという自分の必要性を満たすために、彼らを利用するので、私は彼らを憎みます。 これが講座が「特別な憎しみ」と「特別な愛」と呼ぶものです。
特別な憎しみとは、私たちが他の人々が私たちにしていると考えることに対する、私たちの不満、怒り、不快な思考の対象であり、特別な愛とは、世界と世界の人々が私たちが欲しいと考えるものを与えてくれるときのことです。 しかし、これらの両方の状態(特別な愛*と特別な憎しみ*)において、私たちは他の人々を私たちとは違うものとして見ています。 それが痛みです。
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*訳注 特別な愛 T.16.Ⅴ.2:3-3:5
特別な愛の関係はあなたを天国から遠ざけておくための自我の主要な武器である。 それは武器のようには見えないが、自分がどのようにそれに価値を置いており、なぜそうするのかをよく考えてみるなら、あなたはその正体が何かを理解するだろう。 特別な愛の関係は、自我が最も自慢とする贈り物であり、自ら進んで罪悪感を放棄するつもりのないものにたちにとって極めて魅力あるものである。 自我の「力動論」はここにおいても最も 明確である。 なぜならこうした関係を主軸とした空想は、この贈り物の魅力を頼みとしているので、多くの場合かなりあからさまでからである。 ここで通常そうした空想は容認できる無難なものであり、自然でさえあると判断される。 愛すると同時に憎むということが奇異なことだとは誰も思わない。 憎むことは罪だと信じている者たちでさえも ただ罪悪感を感じるだけで、それを正そうとはしない。 これが分離の自然な状態であり、それが全く自然でないと学ぶ者たちの方こそ、不自然に見える。
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*訳注 特別な憎しみ T.16.Ⅳ.1:1-2:4
特別な憎悪の関係に目を向けることを恐れてはならない。 それを見ることから自由がもたらされるからである。 こうした関係さえなければ愛の意味を知らずにいることは不可能である。 というのも特別な愛の関係の中では、愛の意味が隠されており、そうした関係は憎悪を軽減しつつも手放さずにおくためにのみ形成されるからである。 あなたの救済はこうした関係に目を向けるあなたの開かれた目の前にはっきりと現れる。 あなたには憎悪を限定することはできない。特別な愛の関係が憎悪を軽減することはなく、 ただ地下に追いやり、見えなくしてしまうだけである。 それを隠そうとせずに明るみに出すことが肝心である。 なぜなら愛で憎悪の埋め合わせをしようとすることこそがあなたにとって愛を無意味なものとしているからである。
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それが私たちの痛みの源なのです。 分離、あるいは分離を信じることが私たちの痛みの源です。 なぜなら、それが私たちの罪悪感につながるからです。 そのことを理解すれば、「今日、私は再び自分を傷つけない」と言うことは、私は自分を傷つける教師であるエゴを選ばず、他の人を攻撃したり、裁いたり、他の人に腹を立てて、みんなに同意してもらったり、自分の利益が他の誰かの利益とは別であると言うとき、私がより良い状態になると言うエゴの導きに耳を傾けないということです。
私は自分が奪ったものを持っています。私はあなたの無罪性を欲し、あなたに罪悪感を抱かせてそれを奪い、あなたを攻撃し、あなたを裁き、そしてまた他の人たちに私に同意させます。
ですから、レッスン330の「今日、私は再び自分を傷つけない」と言うことは、私が目を覚ます瞬間から、夜寝る時間まで、私が愛の教師を選び、傷つける教師を選ばない、私が痛みの教師ではなく、癒しの教師を選ぶという、自分自身への約束なのです。
そして、それは、他人に対する私の裁き、他人を私とは違うものとして見る、他人の利益を私とは別に見ることが、私の不幸、私の鬱、私の不安、私の全般的な不幸、そして倦怠感の原因であると認識しなければならないことを意味します。 そして、本当に神の平安を感じる、つまり、私がその神の平安を望むということは、私が自分の裁きを捨てることをいとわないことを意味します。
それが、聖霊やイエスに助けを求めるという意味であり、私は彼らのところへ自分の裁きを持って行き、それが私が望むものではない、なぜならそれは私を傷つけるからだと、彼らに思い出してもらいます。 そして今日、私は再び自分を傷つけないことを選択します。
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訳注: W.330
今日私は自分自身を再び傷つけない 。
今日、赦しを自分の唯一の機能として受け入れよう。 どうして自分の心を攻撃し、心に苦痛のイメージを与える必要があるだろう。 神がご自身の能力と愛を差し出し、私たちの心にすでに属しているものを受け取るようにと進めているのに、どうして自分の心に、心は無力だと教える必要があるだろう。 神の贈り物を進んで受け入れる気持ちになった心は、霊に戻されたのであり、その意志は神の意志と合一し、自由と喜びを延長させる。 神が創造した自己は罪を犯すことも苦しむこともあり得ない。 今日その自己を私たちのアイデンティティーとすることを選択し、恐れの夢がもたらすかに思える一切のものから永遠に脱出しよう。
父よ あなたの子は傷つきません。
もし自分が苦しむと考えるなら、私たちはあなたと共有する一なるアイデンティティーを知ることはできません。
わたしたちは今日その一なるものへと戻り、自分の全ての誤りから永遠に解放され、自分で自分だと思い込んできたものから救われたいと願います。
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