安東次男さんの「花づとめ」を読み進む。興味深いがむつかしい。しばしば目が行を反復する。「自己完結しか念頭にない現代俳句の病弊」?。俳句(発句)は「添うてくれる脇が必ずあるはず」という前提でつくるべき…?。俳諧(連歌)の時代はそうかもしれん。現代の俳句もそういう発想で句作りしなければだめなのだろうか。引っ掛かりつつ氏の俳論に耳を傾ける。氏の弟子にあたる作家の丸谷才一さんが「初しぐれだらだら坂の黒光り」という句をつくり安東さんに電話で批評を求めた。安東さんは上五を「しぐるるや」とするのがよいと答えたという。なぜかといえば「初しぐれ」では自己完結の俳句になってしまうというのだ。これが理解できればぼくの俳句も少しは上達できるかもしれないと理解しようとするがいまの愚老の脳では足りぬ。
お昼、緑化リーダー会のMさんからマリーゴールドの切り戻しの方法について電話をいただく。脇芽のところで切ると11月まで花持ちするという。愚老にはその脇芽が分からない。実地に確認して切り戻ししよう。花壇はお昼に水やり。妻が夏風邪にかかったのか土曜日ごろから咳き込む。「たかが風邪と侮ったらあかんで」。医者に行くよう再三すすめるが言うこと聞かない。「売薬買えばいい」という。その方が高くつく。困ったもんだ。
昼から、箕面の安売りスーパーへ買出し。娘の家へ日用品や缶詰類を届ける。箕面行きはこれで3回目だが吹田へ行くより楽ちんや。行きは上り坂だけど帰りは下り。見上げる空は青々と。何となく秋っぽい。そう思うのは幻覚か。
口じゅうを笑い顔なる大西瓜 愚老
東北のおおまる西瓜切る夕餉 同
空碧くなんとはなしに秋立ちぬ 同
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ノーやん
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