「蕪村全集」九巻「年譜・資料」を読む。出自の関係を読んだが新資料はなにもなかった。やはり、蕪村自身が書き残した手紙類と几董ら門人の書いたものがいちばん確かな史料のようだ。それらによると、20歳頃江戸へ出るまでは「毛馬堤を遊び場」とし、絵が好きで池田の画家伊信に親しんでいた、という。
江戸に出てから以降の歩みも、夜半亭巴人に22歳で入門し同居した話から巴人没後、下総結城で約10年間流寓。29歳で俳号を宰鳥から蕪村に改め、36歳で上洛、45歳頃結婚、68歳で京都で没する話まで、従来書き記されてきた以上のことはなにもない。偉人の生涯は掘り尽くされていて新史料など簡単に出てこない。
昼前、スーパーでパンと長芋と穴子天を買って冬至のざる蕎麦をつくる。蕎麦はしっかり絞まったが腹は冷える。その足で生態観察同好会へ。
先日、交野市にある大阪市立大学の植物園見学をぼくは足の骨折で欠席したが、参加者がそれぞれ観察した木の特徴を調べ発表した。イイギリ、ハクサンボク、チャンチンモドキ、サカキとハマヒサカキ、カラコギカエデ、ツチアケビ、メタセコイア、スイショウ。サカキとメタセコイア以外は、名前も知らぬ。ハクサンボクは防火樹にもなるという。その話から「防火樹」にはどういうものがあるか愚老が調べることになった。
冒頭、各自知っている植物名を5分で書けという先生の指示で全員が書いた。最高はMさんの42最低は愚老の20。他は24~29だった。知能指数の低さを嘆いた。
昼間から温もっている冬至かな 昇龍子
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ノーやん
fm
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