朝のうち、筑摩書房の「俳句の本」「Ⅲ俳諧と俳句」から山本健吉氏の「軽み」の論―序説ーを読む。芭蕉の説いた「不易流行」や「軽み」について、山本氏は、俳諧の方法論を超えた発句のこころ、句作の魂の問題として解すべきだと説く。またもふむふむ。そこを俳諧の方法論の問題と限定して解しようとするのはその人の若さの故ではないかという。芭蕉晩年の絶唱の句「此の秋は何で年よる雲に鳥」などは「軽み」の境地の到達点と解する。またまたふむふむ。やはり「軽み」は句作の方法論義に狭めるべきでない。俳句の真髄を説いたと言葉だと解すべきかと思う。
しかし、一人の人間が自然と社会の諸相の真を言い尽くすこと、言いとめることは至難の業である。それに最大限挑戦するのが俳諧(俳句)だとすると、愚老の句はたんなる遊び、戯れにすぎない。それも俳句という寛容の精神にいまは包まれているので救われる。
たんぽぽの花遠ざかる世に生きて 昇龍子
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ノーやん
fm
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