ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

海を越えた電気釜

2002-12-07 | 香港生活
カイタック空港は市場のように混み合っていました。低い天井が人いきれを倍増させるように、上から圧迫してきます。引きも切らない英語と広東語の早口のアナウンス。大きなトランシーバーを持ち、真っ赤な制服にハイヒールで駆け回る航空会社の地上職員。長い民族衣装に身を包んだ中東系の一団がいるかと思えば、ブランドショップの紙袋を幾重にも腕にかけ、帽子を被った日本人観光客の団体も行き交います。活気と雑踏がないまぜになった、とてつもないエネルギーを秘めた空間が、長く長く横たわっていました。

そんな空港の一角、出発ロビーでよく見かけた光景。遠目にも人だかりがはっきりとわかり、近づいて行くと5~6人の家族と思しき人を囲んで20~30人の人垣ができています。周りには普通よりもはるかにたくさんの荷物があります。まるでチェックイン前のようですが、よく見るとどれも小振りでスーツケースなど大きな物が見当たらないことから、全部手荷物として機内に持ち込むようです。もっと近くまで来ると、大人たちが抱き合ったままじっとうつむいていたり、ワーワー大声を上げて泣いていたりします。ここに来てやっと、彼らが旅行に出るのではないことがわかります。

「移民かぁ~」
1987年当時、広告代理店に勤務していた私は頻繁に海外出張がありました。独身の身軽さもあって海外旅行にもよく出かけていたので、今の比ではないほど空港に行く機会がありました。
「飛行機を降りた瞬間から香港だった」
と、日本から来た友人が形容した当時のカイタック空港では、そんな海外移民の姿が珍しくありませんでした。1997年の中国返還まで10年を切り、返還を嫌って香港を発つ人がピークを迎えていた頃だったのです。

あまりに見慣れた光景だった上、世間知らずの若輩者だったこともあり、その頃の私は政治的な理由から海外へ移住して行くことが、どういうことなのかを突き詰めて考えてみるほどの想像力もないまま、
「大変そうだなぁ~。どの国に行くんだろう?まだアメリカって受け入れてくれてたっけ?」
と思う程度の、通りすがりの者でしかありませんでした。大の大人が公衆の面前で身も蓋もなく泣いている姿は異様だったはずですが、当時の香港はそれを一つの風景として完全に取り込んでしまっていました。

そんな中で、1人だけ今でも心に残っている人がいます。年の頃は70歳前後の痩せた老人で、家族の中の"おじいさん"に当たる人です。女子どもが抱き合っては泣き、見つめ合っては泣きと、終わることのない別れを惜しんでいる脇で、1人四角い箱を提げたまま、荷物を床に置くことさえ思いつかない呆然自失の様子で立っていました。深い皺が刻まれた顔には、荒野を流れる川のように涙の筋が光っています。声も立てず、真っ直ぐに前を見つめたまま、まるで目だけが涙を押し出しているかのようでした。

その老人が提げていたものは電気釜でした。段ボールの箱に写真がある、封を切っていない新品でした。西洋のどこかの国で暮らしていくために、どうしても欠かせないものだったのでしょう。人生の晩年で、それまで得たほとんどの物をここに残していかなくてはならない彼が、あえて預け荷物にせず自らの手でかの地まで持って行くことにしたのが、電気釜だったのです。それは彼にとって決して失うことのできない、今の生活の最後のよすがだったのかもしれません。

それを見て、私も初めて涙がこみ上げてきました。
「この人たち、本当は行きたくないんだ!」
そんな当たり前のことが、その時やっと理解できたのです。それでも香港を出て行くという辛い選択を下したのは自分たちのためではなく、限りなく次世代のためだったはずです。この時期に移住していったほとんどの友人が口を揃えて言っていたのは、
「私たちはどうでもいいの。でも子どもたちには未来があるから。」
と、いう言葉でした。あの老人もまた孫のために海を越える決心をしたのかもしれません。

あれから15年。通りすがりの傍観者だった私は結婚して家を成し、NZ移住を目指す毎日を送っています。私たちは100%自分の意思で、子どもだけではなく自分たちのためにも、住み慣れた香港を離れ、新天地に向かおうとしています。新しくなったチェクラプコック空港から旅立つ日には、不安よりも、たくさんの夢と希望をバッグに詰めて飛び立って行くことでしょう。でも私も新品の電気釜を持って行くつもりです。諸先輩の生活の知恵として、私の心の中での移民の原形として、そしてあの日見た老人への、遥かなオマージュとして・・・・・
                

(新しくなったチェクラプコック空港)


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編集後記「マヨネーズ」  
私が独身時代を過ごした80年代最後の香港は、移民のほとんどがカナダを目指していました。もうアメリカは入れなくなっており、家族などつてのある人以外、行ける可能性がほとんどなくなっていたのです。行き先は気候が温暖で華人社会も大きく、風光明媚なバンクーバーが人気でしたが、条件がかなり厳しくなってきており、トロントやフランス系勢力が強いケベックなどにも人が分散し始めていた頃でした。

マイナス何十度にもなるこうした場所での暮らしは、亜熱帯の香港から行った身にはさぞや辛かったことでしょう。当時、オーストラリアやNZも移住先の一つでしたが、オーストラリアは今よりもっと白豪主義のイメージが強く、「仕事もないし、行っても苦労する」という認識が強かったように思います。

後で知りましたが電気釜は移住する人へのプレゼントの筆頭だったそうで、「現地でも買えるものの、高くていいものがない」ということで、香港から持って行く必需品だったようです。


後日談「ふたこと、みこと」(2022年8月)
かれこれ40年にもならんとする昔の話。電気釜はまさにアルミの蓋と本体が別々になる釜で、炊飯器ではありませんでした。

今の香港はまた、当時と同じ現実に直面しています。中国の統制強化を嫌う移住の急増で、過去3年間で人口が21万人も減少したとか。香港に14年も育ててもらった身。「いざとなったらすべてを捨ててでも海外に出る」というのは学んだ事の一つ。そして自分も実現したことの一つ。


遠くにありて

2002-08-17 | 香港生活
陽の長い夏の夕暮れ時。夕食にはあまりにも早い時間でした。しかし、子どもたちが「お腹が空いた」と言い出し、ちょうど手頃な中華料理店を見つけたこともあって、私たちはアッシュバートンで車を止めました。午後6時。店にはお客が1人もおらず、華人系の女性が1人、ポツンとカウンターに座っていました。彼女を見るなり、自然に口をついて出た言葉が、
「オープンしてますか?」
だったくらい、ガランとした店でした。

それでもカウンターの横にはビュッフェ用に大盛りになった料理がいくつか並んでいます。子どもたちは待たずに食べられるので大喜び。さっそく揚げワンタンなどを取ってきました。注文を取りにきた彼女は眉間に深く皺が刻まれた、寂しそうな面影の人でした。中華系の人は普通、見知らぬ人に愛想を振り撒く人たちではありませんが、旅行中にフレンドリーなキウイを見慣れてきた目にはニコリともしない表情がとても強張って見えました。

注文を済ませ、次々に料理が運ばれ、あっという間に食べ終わってしまうと、彼女がお茶を注ぎに来てくれました。自然と言葉を交わし始め、私たちが香港から来たとわかると、彼女は初めて自分のことを話し始めました。
「私も香港から来たのよ。14年前にね。夫はもう少し早く来てたんだけど。」
80年代後半の香港は中国への返還が10年後に迫り、海外移住がピークを迎えていた頃でした。私も同僚や知り合いをどんどん失っていきました。彼女たちもそんな移民組だったようです。

「香港は変わってしまったんでしょうね。」
相変わらず誰も来ない店の中で、彼女は私たちに聞くともなく、まるで独り言のように言いました。ここにいるのが嬉しくはなく、かと言ってもう戻れないと諦めているような物言いです。
「不動産もとても上がったったんでしょう?」
と聞かれたので、
「すごく値上がりしたけど、今では10年以上前の水準にまで値下がりしてるわよ。」
と答えました。

香港人は不動産投資にとても熱心で海外移民した人たちが最も気にしているのが、往々にして不動産価格なのです。
「あのまま持ち続けていたら、2倍、3倍になっていたかも。」
と思うと、さすがに惜しいのでしょう。

しかし、その名の通り動かすことのできない資産ですから、どんなに値上がりが期待できても海外まで持っていくことはできません。私の答えは事実でしたが、その辺の事情を知っていたので、彼女を慰めたいという思いも多少込められていました。不動産は返還後5年間で、本当に半値以下にまで値下がりしていたのです。

彼女の思い出の中の香港。それはどこから沸いてくるのかと思うほどの活気に溢れ、自信満々だった頃の香港。不動産をはじめ、いろいろなものがどんどん値上がりしていた頃でもあり、奇跡的な成長を遂げる"アジアの4匹の龍"の1匹として脚光を浴びていた頃でした。

返還への不安が地下水のように社会の根底に流れてはいたものの、目に見える日常の生活はインフレと手を携えた、昇り龍の勢いを肌で感じるものでした。激しいインフレの中、株でも何でも、「何か買わなくては・・」とみんなが焦り、焦って行動に出た分、見返りのある環境でもあったのです。一生懸命頑張れば、必ず報われると誰もが疑わなかった、まっすぐで明快だった時代・・・

それは、私がパリからスーツケース1つで降り立った頃の香港でもあります。香港のことなど何も知らなかったのに、
「絶対何かできる!」
と、ゾクゾクするような期待で胸がいっぱいでした。仕事を見つけて住み着き、営業に、出張にと飛び回り、アフター5は友だちと街に繰り出し、熱に浮かされたような香港を縦横無尽に闊歩していました。そんな頃の香港は彼女にだけでなく、みんなにとって懐かしいものであり、誰も戻ることのできない場所なのです。

その時、店の中を散策していた子どもたちが、
「ママー。この香港、"バンク・オブ・チャイナ"がない~」
と言って、店にかかった1枚の写真を指差していました。それは香港の写真の定番である、九龍側から写した香港島の高層ビル群でした。89年にできた、今では香港の摩天楼の顔であると同時に、中国返還の象徴でもある中国銀行ビルが写っていません。その時、彼女が苦笑して、
「そうね、古いからね。」
と息子に言いました。初めて彼女がニコリとしたのです。懐かしい、中国銀行ビルがない頃の香港は、写真の中に少し色褪せて残っていました。

「ここでの14年は幸せでしたか?香港に残った友人が羨ましいですか?」
写真を指差しながら話す子どもの相手をしてくれている彼女の横顔に、私は心の中で語りかけていました。
「2つの生を同時には生きられない。どこかで決心しなければ。そして決めた以上はとことんやってみなくては。でも、それでも、どうしてもだめだったら、元の場所に戻ればいい。」
それは十数年を経て彼女の後に続こうとする、自分に贈る言葉でもありました。

「あなたはここに踏み留まって店まで構えたではないの。遠くにありて想う故郷はいつでも、いつまでも輝いて見えるものなのよ、きっと。」


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編集後記「マヨネーズ」
中国銀行ビルを施工したのは大手日系ゼネコンでした。大学の先輩がプロジェクトにかかわっていて、
「1度ビルに入ってみたいなぁ。」
と軽い気持ちで言った私の一言を覚えていてくれ、「明日引渡し」という日の前日に「見に来ないか?」と電話をくれました。

ところが、どうしてもその日はお客さんとの約束があって時間が空かず、せっかくの機会を無にしてしまいました。2度とない機会だったことと先輩の思いやりとを思うたび、
「仕事の方をドタキャンしてでも行くべきだった。」
と、いまだに後悔しています。



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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
20年近い歳月を経て読み返すと、自分でも感慨ひとしおです。今や当時の彼女よりも長い年月をNZで過ごしています。

独身時代を過ごした80年代の香港。家族で過ごした90年代から2004年までの香港。そして、今の揺れに揺れる香港。彼女は今でも南島のアッシュバートンにいるのでしょうか。だとしたら今の香港を、今の暮らしをどう思っていることか。

癒しのビクトリアピーク

2002-08-10 | 香港生活
「香港でどこが一番好き?」
と聞かれたら答えは迷わず、
「ピーク」

地元でピークと呼ばれているのはビクトリアピークのことで、有名なピークトラムに乗って百万ドルの夜景を見に行く山頂です。我が家では土曜日の朝、ピークのトラム駅の真上にあるカフェに出かけることがあります。大人はソファで寛ぎながらコーヒー片手に新聞を読み、子どもたちはおもちゃのある一角や無料のパソコンで遊びながら午前中の一時を過ごすのです。香港に10年近くもいると休日のブランチは、飲茶よりもこんな所でのんびりする方が性に合ってくるようです。


窓の外は大概、水蒸気とスモッグが混じってぼんやりしていますが、それでも中国と陸続きの九龍半島の端の方まで見渡せ、夜景だけでなく朝の景色もなかなかいいものです。埋め立てで年々狭くなっている香港島と九龍の間のビクトリアハーバーはまるで河のようですが、行き交う船の大きさで海だということがわかります。狭くなった分、潮の流れが速くなり、水をお金に例える風水では運気が弱くなりつつあることになるそうですが、この一片の海の価値はまだまだ測り知れません。世界随一のコンテナヤードのあるクァイチョン港もこの一角に位置し、中国本土や世界中から運ばれてくる大量の物資が荷揚げされます。それが陸路や海路でそれぞれの仕向け先に運ばれており、現在のシルクロードの玄関口の一つはいまだに健在です。

香港人以外には、にわかには信じられないことでしょうが、香港では家から海を眺めることにお金を払っています。「そんなバカな…」と思われるかもしれませんが本当です。賃貸でも売買でも、広東語で「海景」と呼ばれる海が見える物件は、見えない同じ条件の物件より値段が高いのです。海が見えるくらいだから見晴らしが良い訳で、この狭苦しい香港でそれに価値があっても不思議ではないでしょう。しかし、海といっても香港島南側のリゾート風超高級住宅地か、立地条件の悪いかなり端の方に行かない限り水平線が見えるような物件ではなく、マリン気分など微塵もありません。

それでもみんなが「海景」にこだわるのはその開放感だけでなく、風水対策も大いにあるからです。生活の中で金儲けの意義がことのほか高い香港人にとって、マンションでもオフィスでも少しでもお金を意味する水、つまり海の見える物件に高い値をつけます。角度によって見える海の面積が小さくなるに従い、価値が下がっていきます。中には「これでも海景?」と首を傾げたくなるような、ビルとビルの隙間から縦にしか海が見えないような物件もあります。

あまりにも香港人が「海景」をありがたがり、不動産業者も当然のように、
「これは海景ですからもう2,000ドル(約3万円)は出さないと」
と、その価値観を基準にしているため、始めは戸惑う外国人もだんだんこれに傾き、
「コレしか海が見えないのにこの値段は高いっ!」
と、文句が出るようになるまで、さほど時間はかかりません。

山の頂上で全方位に海が見渡せるピークの開放感は格別です。入植したイギリス人が風水のご利益を知っていたのかどうかは知りませんが、彼らは100年以上も前にピークトラムを走らせて山の上で暮らし始めたのです。クルマがあっても、狭くて急勾配の山道は輿に乗って移動していたような時代ですから、トラムの開通はさぞや画期的なことだったことでしょう。

辛かった時、悲しかった時、嬉しかった時、何でもない時、私は幾度となくピークに上り、足元から広がる亜熱帯の濃緑の森、それに続くぎっしりと林立するビル群、その向こうの霞が立ち込めた海面、そして対岸の九龍という眺めに、どれだけ慰められたことか。視界の中の濃縮された香港は、
「必ずどこかに身の置き場があるよ!」
と無言で語りかけてくれているようで、何度も力づけられました。大切な友人を白血病で亡くした時も、子どもを生む直前も、友人の結婚披露宴クルーズに乗り遅れてしまった夜も、私はそこに立って海を眺めていました。そこでの癒しは何にも代えがたく、限りある香港滞在中、これからも何度となく足を運ぶことでしょう。


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編集後記「マヨネーズ」  
緑色の封筒を受け取りました。香港では緑封筒は税務署からのものと決まっていて、できることなら受け取りたくはないけれど、受け取ってしまったからにはきちんと対処しないと、後で大変なことになる痛し痒しの代物です。開けてみると今年度の納税通知でした。ここでの財政年度は日本と同じ4月から3月なので実際の納税は年明けです。

日本と違って源泉徴収ではないため、勤め人といえども各自の年間所得を1人1人申告し、通知を受け取ったら指定された納税日までに支払います。面倒でも非常に明瞭なシステムで、自分の納税額や支払った税金の行く末が否が応でも気になってきます。そうこうするうちに外国人であっても市民意識が芽生えてくるから面白いものです。

納税額が通知されても支払いは半年先。今から税金分をコツコツ貯金するアリ派、年明けのボーナスを当てにして夏場は楽しくやるキリギリス派、直前に納税ローンを組んで切り抜けるたくましいゴキブリ派(?)まで、これからの半年は人それぞれ。
「きっとこの通知が最後になる!」
と念じながら、勝手に香港回顧モードに入っている昨今です。


Same After the Rain

2002-07-01 | 香港生活
7月1日。

香港は返還5周年を迎えました。一国二制度で保証されている50年の自治と主権の10分の1の期間が終わったのです。最近、身の回りの外国人で返還を体験している人がかなり少なくなっていることに気付きました。駐在員が多いので5年は一昔前なのでしょう。
「日本にいてテレビで式典を見ていました。」
という人もいました。

ですから返還前後、香港が記録的な長雨に祟られていたことを覚えている人も、少なくなってきました。
「イギリス統治への別れの涙」
と、誰もが月並みな形容を思いつくほど長い長い雨が続いたのです。返還当日も大雨で、中国が主催した祝賀式典も完成したばかりの会場が雨漏りする中で行われ、撤退するイギリス軍への最後の閲兵をしたチャールズ皇太子は身じろぎもせずに雨に打たれていました。

「どうなる香港?」
「世界初の一国二制度は成功するのか?」
云々、当時はメディアがありとあらゆる可能性をこぞって報じ、チャイナウォッチャー、政治評論家、エコノミストといった専門家たちが新聞やテレビで、「香港はこうなる」「経済はああなる」と盛んに予想してくれたものでした。当然ながら香港人がそんなコメントをありがたがって聞くはずもなく、「何も変わらないサ」と聞き流していました。

英国の香港政庁に代わって中華人民共和国香港特別行政区政府(The Government of the Hong Kong Special Administrative Region of the People's Republic of China)と、「香港人でもこの英語のフルネームは馴染まないだろう」というほど長い名前の政府が成立し、あまりの長さに英語では特別行政区の頭文字、"SAR"と略称しています。オーストラリア人の友人は言ったものです。
「Same After the Rain(雨の後も同じ)だから"SAR"なんだ。」

SAR政府は、成立するや否や「明天更好」(明日はもっと良くなる)というスローガンを掲げて親しみ易さを演出しようとしました。私はその四文字を街のあちこちやテレビコマーシャルで目にするたびに何か不吉なものを感じていました。
「こんなに"明日はもっと良くなる"、"明日はもっと良くなる"と繰り返さなくてはいけないほど、今まで恵まれていなかったとでも?」
と思わず自問してしまうほどでした。

あれから5年。当時と比べ不動産価格は6割値下がりし、ほぼ完全雇用状態だった雇用情勢は7%を上回る未曾有の高失業率となり、財政も赤字に転落。日本人だけでなく多数の外国人がこの地を離れて行きました。もっと良くなるどころか、あの返還時をピークにいかなる専門家も予測し得なかったほど、香港は失速してしまったのです。こうして"借り物の土地、借り物の時間"と言われ、明日をも知れず心臓破りのスピードで発展してきた香港は、その回転速度を緩めることによってどんどん普通の場所になってきているのです。

これも予想外だった急激な中国本土化。今までは遅れているものが進んでいるものに追いつくのが当然と思われていたのに、進んでいるはずの香港が遅れているはずの中国に合わせる形で、急速に変わっていったのです。テレビを見ていると目を疑うような垢抜けないコマーシャルが流れたり、"本土風味"を謳う、屋台にドアをつけただけのようなレストランがあちこちにできてきたり・・・と、一度手に入れた洗練を香港はいとも簡単に手放し始めたのです。景気悪化で何事も安上がりになっているのも、大きな一因なのでしょうが。

そして香港人の北上。高失業率が押し出し要因にもなり、香港人が職を求めて中国に向かい始めたのです。
「給料が1、2割、何だったら3割減っても・・・」
と中国での就職を厭わなくなり、
「どうせ失業中。仕事があるなら給料半分でも行きたい。」
「今までの実績を活かせる千載一遇の好機到来。」
とそれぞれの思惑でたくさんの香港人が境界線を越え始めました。人材の空洞化はまだ微々たるものですが、この傾向は日増しに強くなっています。

こうした流れの中で、香港人が香港の明日を信じなくなってくれば、景気回復を期待する人もそれに肩入れしていく人も少なくなり、長い物には巻かれろ式に中国に下駄を預けるまでそれほど長い時間はかからないかもしれません。少なくとも「一国二制度」で保証されている45年もかかることはないでしょう。SAR政府は既に「香港ドルをどうするか」という話を、かなりオープンにし出しています。

周囲で北上していく人が増え、外国人の知り合いですら上海や広州に転勤になる人が珍しくない中で、西蘭家はせっせと南下計画を進めています。これが吉と出るか凶と出るかはわかりませんが、自分たちの心の趣くところに従っているので、どういう展開になっても悔やむことはないでしょう。方向は違ってもそれぞれの土地で新しい人生を生きていくことには変りなく、この7月1日に誰にともなく、そして自分たちに小さくつぶやく、
「Good luck!」


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
あれから19年。今の香港の実情を踏まえて読み返すと、一段と感慨深く本当に「Good luck!」

メルマガ「西蘭花通信」を始めた頃はまだブログもなく、週2回定期的に配信していたので、ブログへの移行も大量で大変ですが、やっと2002年7月に入りました。

それぞれの6月4日 その2

2002-06-15 | 香港生活
2002年6月4日。

私は真昼の陽の暖かさが残る、ビクトリア公園のグランドの上に直に座っていました。隣には8歳の長男もいます。私たちの前には真っ白なカサブランカをまとったように、上向きに白い紙の笠がついたキャンドルが一本置かれています。こうしたキャンドルが夜風に炎を揺らめかしながら、光の絨毯のように何万本も並んでいます。香港随一の繁華街であるコーズウェイベイのビクトリア公園に集まった数万人の人々は、キャンドルの炎を見つめながら13年前の記憶に思いを馳せていました。

天安門事件13周年記念追悼集会。主催者側によると今年は4万5,000人が集まったそうです。毎年6月4日に開催されるこの集会に、私は時間が許す限り出ています。子どもを連れて来たことも何回かありますが、彼らにとってはいつもより夜遅くまで外にいられるのが嬉しいという程度のことでした。でも今年、長男は自分の意思でついて来ました。自分が生まれる前に起きた"中国人が中国人を殺したこと"について、中国人でもある香港人に囲まれている環境の中で、知りたくなったようです。

集会では大きな屋外スクリーンに、当時テレビで何度も繰り返された映像が流されました。
「最後の1人になっても民主のために闘おう!」
という学生たちのスピーカーごしのシュプレヒコールに重なるように、ダダダッダダダッダダダッダダダッダダダッダダダッダダダッという無機質な銃声の音が等間隔で流れたかと思うと、あとには怒声と悲鳴がないまぜになった、あの頃耳の奥から離れなかった声、声、声・・・が響き渡りました。

遠くの方にかろうじて見えるスクリーンの映像を追って、事の展開を長男に説明しましたが、記憶が蘇ってくるにつけ胸が締めつけられるようでした。
「なぜ放水や催涙ガスではいけなかったのか、なぜ実弾でなくてはいけなかったのか」
という誰かの叫びが胸に刺さります。普段は思い出すことすらない気持ちが、毎年このひと時だけはほとんど風化することなく、原型のまま蘇って来るようです。

事件後数日間は誰も仕事が手につかず、香港全体が喪に服していました。「ゼネストに入る」という未確認情報も流れ、「明日は会社も休みか」というところまで来ていました。しかし「中国政府を刺激し過ぎたら、境界線を越えて香港にも戦車が入ってくる」という観測がまことしやかに流れ、当時はそれが全く荒唐無稽な話には聞こえなかったせいか、ゼネストは幻になりました。

その代わり、その後数週間は100万人規模の週末デモが続き、経済政治の中心であるセントラルから追悼集会会場となっているビクトリア公園までの数キロが人で埋め尽くされました。私も香港人に混じって数回デモに行きましたが、最大だった時には香港中のあちこちで行われたデモに計200万人以上が参加したと言われ、当時の人口の約3分の1が参加した計算になります。でもそれが大袈裟に聞こえないほど、街中が沈み、同時に何かをしなくてはという焦燥にかられていたのです。

そんな中で香港人が精を出していたことの一つに、「命のファクス」がありました。これは知っている中国のファクス番号に香港での報道のコピーを手当たり次第に送ると言うもので、取引先、友人、公共機関を問わずできるだけ多くの番号に送り、報道管制が敷かれていた中国の人に何が起きたのかを知ってもらおうという動きでした。ただし、送ったこちらの身元も出てしまう会社のファクスは使いづらく、家にファクスがある時代でもありませんから、皆が安全に送れるファクスを探していました。

そんな時あるところから、
「取引先に日系大手家電メーカーがあったでしょう?ファクス貸してもらえないかな?」
という問い合わせを受けました。その取引先は事務機器も扱っていたのでもちろんファクスもあり、早速、親しくしていた修理部門の香港人責任者に問い合わせてみると、いつもジョークで笑わせてくれる彼が、
「下取りした中古品は既にしかるべきところに貸し出している」
と真顔で打ち明けてくれました。みな居ても立ってもいられなかったのです。

1989年9月。

事件から3ヵ月後。まだ事件の記憶が生々しく、誰も中国を好き好んで訪れたりはしない頃、プライベートで北京に出かけてみました。事件の片鱗を伺わせるものが全くなくなり、テレビに連日映っていたのと同じ場所とは思えないほどきれいに片付けられた天安門広場。物々しい警備の中、カメラを下げた観光客に混じってポケットに手を入れたまま歩きながら黙祷を捧げました。献花の一つも許されず、ただ無表情に通り過ぎていくしかなかったのです。頭上には青く広い秋の空が無限に広がっているばかりでした。


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編集後記「マヨネーズ」 
「外国朋友、これを見てくれ。」
私が外国人とわかったらしい中年の男性に天安門から帰る途中で呼び止められました。彼が指差したものは街路樹の幹に水平に刻まれた銃弾の跡。広場からかなり距離があったので、広範な銃撃を改めて思い知らされました。

「カメラを持っているんだろう。これを写真に撮って国へ帰ったらみんなに見せてくれ。」
そう言うと、彼は足早に去って行きました。その後も胸の高さ辺りについたその手の跡を何ヶ所かで目にしましたが、彼に教えられなければ見過ごしていたかもしれません。その時は、バスに乗っても人混みでも、
「対不起」(すいません)、「謝謝」(ありがとう)
という二言を本当によく耳にしました。いつも我先で、めったにそうした言葉を交わさない当時の中国人たちが、耐え難い共通の痛みから立ち直ろうとする中、短いながらも弔いと慰めの暗号で見知らぬ同士を励ましあっているかのようで、事件の陰をそこ見た気がしました。

それぞれの6月4日

2002-06-08 | 香港生活
1989年6月4日。13年前の私は香港で暮らしていました。日本はバブル経済の絶頂期で、「海外で働く日本人女性」なるものがまだ物珍しがられた頃でした。独身の身軽さもあって今日はこの店、明日は誰それと・・・と、公私共に忙しく、ノー天気に暮らしている頃でした。香港もアジア4匹の龍の1匹に数えられ、韓国、台湾、シンガポールとともに、上り龍の勢いを謳歌しているところで、身の回りは景気のいい話であふれていました。

その頃の中国は改革開放路線が軌道に乗り始めていたとはいえ、まだまだ緑の人民服に自転車のイメージが色濃く残る眠れる大国でした。当時の私は完全週休2日の金融機関に憧れながら、土日出勤も厭わない広告代理店勤務でした。その頃の香港では中国語(中国の公用語である、いわゆる普通語、北京語のこと。香港の公用語は広東語)を話す人がまだ少なかったこともあり、日本人の私の中国語でさえ重宝がられる状態で、私はかなり頻繁に中国へ出張していました。

89年4月。すでに失脚していたものの穏健で学生に人気の高かった胡燿邦総書記が死去すると、彼の死に哀悼の意を捧げる北京大学の学生などが天安門広場に集まり出しました。始めは小さなニュースで胡燿邦もその時点では過去の人だったのですが、それを聞きつけた地方の大学生までもが列車や徒歩で天安門に向かい始めたあたりから話が大きくなってきました。それでも学生達に同情した鉄道が無賃乗車を認めただの、ほのぼのとしたもので、胡燿邦は口実で学校をサボって北京へ物見遊山という学生もかなりいたはずです。

ところが学生の数が日増しに膨れ上がるにつれ、問題が政治化し始め、胡燿邦の名誉回復という現政権には受け入れがたいものになっていきました。ばらばらだった学生もハンストに入ったり、政権トップの辞任を求めるなど民主化を求める方向で足並みが揃ってきました。さらに賛同する一般市民も加わり、大きなうねりができていくのに1ヵ月もかかりませんでした。数万から十数万人にまで達した天安門に集まった人たちを北京市民の炊き出しが支え、地方都市でも学生を中心に似たような動きが起きるなど、うねりのすそ野は燎原に火を放つように広がっていったのです。

こうした動きは報道の自由が保障されている香港では逐一見聞きできましたが、中国では共産党機関紙「人民日報」や国有テレビが真実の報道を封じてしまったため、実際に天安門で何が起きているのかが国民に知らされないままいろいろな憶測が飛び交い、緊張感は高まっていくばかりでした。

そして6月4日。人民解放軍の戦車が天安門広場に入り、丸腰の学生達に銃口を向けるばかりか、その銃口が火を噴くという悪夢のようなことが現実となってしまったのです。逃げ惑う人々。「救急車を!」という絶叫。すでに息がなさそうに見える負傷者を扉に乗せて荷車で押して行く人々。映画でしか聞いたことがなかった絶え間ない実弾の音。学生達が精神のより所として作った自由の女神を模した「民主の女神像」がゆっくりと倒されていくスローモーションのような映像・・・香港の私たちどころか、世界中の人々がその衝撃をつぶさに目撃したのでした。

香港人の衝撃はこれを遥かに越えるものでした。内戦時でもない平和な時代に、中国人が中国人を殺すという現実は彼らを立ちすくませ、8年後に迫った97年の中国返還への不安が一気に噴き出しました。
「彼らと同じになる・・・」
その思いは香港人にとって答えの出せない究極的な選択への回答を、即座に求めるものでした。学生と同じように犬死するのはとんでもないが、彼らに銃を向けることを肯定することも到底できない・・・しかし、自由がない以上、そのどちらかを選ばなければならないとしたら・・・・・

彼らの将来への懸念は想像を絶するほど大きくなっていきました。そうでなくても返還を嫌って海外へ移民していく人が後を絶たない頃だったので、この事件が残った人々の背中をさらに押し、
「どこの国でもいいから・・・」
と、市民を海外へ向かわせることに拍車をかけたのは言うまでもありません。

現に身の回りでも、
「私たちは絶対移民しない。どうなっても香港は我が家」
と言ってはばからなかった親しい友人や同僚たちが、異口同音に、
「私たちはどうでもいいの。でも子どもには将来があるから」
と言い残して、1人また1人と去っていきました。天安門で犠牲になったかなりの人がまだ社会に出ていない学生だったということは、年齢は違っても子を持つ親には居ても立ってもいられないことだったのかもしれません。(つづく)


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編集後記「マヨネーズ」 
ワールドカップが始まり、中国-コスタリカ戦があった時などはオフィスは閑散、その日は香港株式市場の出来高も落ち込むほどでした。世界中で4年に1回の一大イベントに身も心もそぞろになっている人たちがあふれているのでしょう。これを書いている7日夜もイングランド-アルゼンチン戦があり、イングランドが1-0で勝利を収めたので、喜び勇んだ旧宗主国イギリス人達が街に繰り出しています。試合が終わった数時間後の今でも、普段は静かな住宅街である近所でさえ、試合観戦からそのままパーティーへと流れたらしい楽しそうな歓声があちこちのベランダから響いてきます。

世界の感動が一つになっている一方で、アフリカでは1,500万人が飢饉に苦しみ、まさに生きることに懸命の努力を続けているかと思えば、カシミールを巡ってのインド・パキスタン情勢の緊張も続いています。W杯の報道が全面に広がる中で、脇へ脇へと押しやられて相対的に小さくなっていくこの手のニュースがつい気になってしまうここ数日です。


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
天安門事件から31年、メルマガを書いてから18年の2020年。コロナ禍の中での民主化運動の果てに、香港では7月1日より「香港国家安全維持法」を施行。最高刑は無期懲役、非公開裁判もありうるなど、計14年間暮らし、私を育てた街は完全に変わってしまいました。


輝きの連鎖:松任谷由実2002年香港公演

2002-05-15 | 香港生活
伝説に立ち合った夜でした。ユーミンが数メートルも離れていないところで歌っています。DVDでしか見たことのなかった人たちが、目もくらむような天体をかたどったセットの中で演奏しコーラスしています。5月10日、松任谷由実、香港公演。

私は中学校に入り初めてラジオを聴くようになって、すぐにユーミンに出会いました。透明で華麗な音楽は、他の曲とは違う周波数で届くような不思議な美しさでした。普通の曲が地上から発信されたものなら、ユーミンの曲だけは天空から降ってくるような気がしました。一次元空間ですらない視覚を伴わない楽曲に、歌詞という物語が乗ると目の前に立体的な三次元空間が現れ、しかもそこは時間の流れをも自由に行き交う四次元の世界でした。
「こんなに美しいものがあるなんて。」
想像が次々に裏切られていく魔法のようなからくり。それに翻弄されることを心から楽しみながら、私は彼女の迷宮に、深く、深くいざなわれていきました。

ユーミンはよく自分が巫女であることをはばからずに口にしますが、自身の才能を通じて、この世に生を受けた使命を悟っているのでしょう。謙遜してその才能を使わず使命を果たさないことも、自分の力に酔い知れて凡人以下に成り下がってしまうことも、自らに与えられた勤めへの背徳であることを理解しているからこそ、淡々と仕事やステージをこなし、アルバムを出し、ここまでやってきたのではないかと思います。この世に在る時間を惜しむように、丁寧に優しく生きる姿勢は彼女の曲やステージに色濃く映し出されています。これだけ影響力のある存在になりながらも、ひとかけらの奢りの影も見いだせないのはその使命ゆえなのでしょう。

ライブをDVDに収めた「シャングリラ」を初めて目にした時、震えるような感動に言葉を失いました。それは、大勢のロシア人による華麗で豪華なサーカスや水中バレーで再現された現世のシャングリラの中で、耳慣れたナンバーを軽やかに歌い続けるユーミンの姿に対してではなく、彼女の声に対してでした。しかも歌声にではなく、人の名前を読み上げる高らかとした声に対してでした。

「オレグ・ダニーロ」
「イリーナ・フリードロワ」
「アレキサンドロ・ベロー」
「マキシム・フローシン」
終盤に唐突に始まったのは、裏方であるはずのロシア人たちの名前を一人一人読み上げていくことでした。全部で30~40人はいたでしょうか。ユーミンの紹介に合わせて、当の本人達がステージの上で一人、また一人と深く、エレガントに挨拶していきます。彼らの顔は緊張から解き放たれている以上に、自身の名前がスポットライトの下に照らされ、自分だけに向けられた温かい拍手を受ける喜びと誇りに満ちていました。

名前を読み上げるという、いとも簡単なことがこれほどまでに彼らを輝かせているのです。ユーミンの声は彼らに喜びを与えただけでなく、読み上げられる名前を聞きながら、彫刻のように美しく逞しいロシア人たちが単なるステージの背景ではなく、血の通った私たちと同じ感情を持った人々なのだということに気付かされた観客は、新たな発見への感動とそれを知らされた嬉しさで、ユーミンに送るのと同じくらい強く、惜しみない拍手を送っていました。

ユーミンの御技を目にした瞬間です。その喜びの連鎖がDVDを見ているだけでも手に取るように伝わってきました。きっと彼らは東方の小島を回ったツアーをいつまでも覚えていることでしょうし、一座を率いた東洋人の姿をしたディーバのことを一生忘れないでしょう。

今回の香港公演もそうでした。ユーミンは日本人が9割を占めたであろう観客席に向かって、淀みない広東語で話しかけていました。ほとんどの日本人は彼女の言っていることがわかりませんから最初は戸惑い、挨拶が日本語に切り替わった時には、ほっとしたため息が会場にこだまするようでした。その後も曲と曲の合間に、彼女は広東語で語り続け、そのうちごく少数の香港人たちがそれに応え始めました。そして日本人たちも、たとえ内容がわからなくても、ここまで真摯に語る彼女のメッセージに耳を傾け始めたのです。観客の心が一つになった瞬間でした。

喜びが連鎖していくのが目に見えるようでした。
「今日ここに来て良かった。」
ずっと好きだった遠い存在の人を目に、耳にできたという現実よりも、こうして彼女の送り出す輝きを受け止められたことは、何にも代えがたい喜びでした。それを今こうして自分の言葉に置き換えて伝え、それを目にしてくださった方の心にも、小さな温かい灯が灯ったらいい。まぶたの裏のユーミンは、両手を高く差し上げ、飛び切りの笑顔で、いつまでもいつまでも、連鎖の中央に佇んでいます。


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「マヨネーズ」  

ユーミンの紹介を受けたバックコーラスやバンドのメンバーも、一人一人がステージ中央に立ち、それぞれが広東語で挨拶していました。ちょっとテレたり、すごく上手だったり各人各様でしたが、どれも心がこもったものでユーミンの情熱を十分に受け継いでました。

その後車座になって始まったアカペラの時に、観客の心が本当に一つになっているのを感じました。
「ユーミンのステージには失敗なんてものはないんだろうな」
と、つくづく思います。観客もステージのメンバーも所詮はユーミンの掌で踊っている子どもたちに過ぎないのです。なんて幸せな、一足早い真夏の夜の夢。


砂時計の時間

2002-05-04 | 香港生活
大矢壮一賞を受賞した星野博美氏の「転がる香港に苔は生えない」という本を初めて知ったときの感動は、今でも良く覚えています。香港の真骨頂を言い得たタイトルだと思いました。通算12年近くここに暮らし、一見根を生やしているかのような私にとって、香港は常に移ろい行く"水もの"です。かつて「借り物の土地、借り物の時間」と言われたこの地が、97年の返還を経ても依然"借りの地"であるという思いは、住めば住むほど強まってきます。しかも残された時間がどんどん少なくなっていくのを感じています。

そうは思っても、それを不安がったり焦っていたわけではなかったのですが、昨年のニュージーランド再訪の際に味わった、何かから解き放たれるような思いに、自分が縛られていた呪縛というものに初めて気がつきました。内なる私は、"借りの地"に代わる"約束の地"をずっと求めていたのかもしれません。

しかし、実際の香港の生活はそんなことを突き詰めて考える余裕もないほど忙しく、時間に追われたものながら、濃厚で楽しいものでもあります。何かに急かされるように休む間もなく動いていく香港。しかし、ただ突き進むのでも、駆け上がっていくのでもなく、時には退き、譲り、そしてまた上を目指して行く・・・。それが延々と繰り返されていくのです。どこの国でも調子のいい時もあれば悪い時もありますが、香港の場合はこのスピードが異常に速く、まさに"転がる"と呼ぶにふさわしい速度なのです。

裸一貫で中国から逃げてきた人が、巨万の富を築くといった成功談は掃いて捨てるほどありました(今はほぼ自由に行き来できるので逃げてくる人はいなくなりましたが)。そして一度はミリオネラーになった人が、事業や株の失敗で全財産を失い、道端の物売りという振り出しに戻ることも珍しくありません。先日も一時は大手レトランチェーンを経営していた大金持ちがバブルで財産を擦り、路上のDVD売りで生計を立てている、という記事を読みました。

ここ20年ぐらいの香港の生活水準は日本を遥かにしのぐスピードで上昇してきましたが、その実態は日本の高度成長期のような社会全体が底上げされていくようなものとは異なり、上手く時流に乗れた者は豊かになり、そうでない者は高インフレの中で相対的に貧しくなっていくという状況が隣り合わせでした。

この明確な「勝ち組」と「負け組」の図式。でもそれが定着してしまわないのが香港のすごいところで、「勝ち組」であるはずの、一生遣っても遣い切れないような金を稼ぎ出した人でも、それを更に増やそうと、新たなリスクを取りにいきます。"No Pain,No Gain"を熟知しているからこそ、成功の保証がないにもかかわらず、リスクテイクに出るのです。もちろん「負け組」もそのまま腐ってはいられません。借金をしてでも次の一手に出たり海外に活路を求めたり、底辺から再起を狙います。

そして両者がどこかで行き交い、立場が入れ替わって再び同じことが繰り返される可能性もある訳です。その過程での途方もないエネルギーの放出と吸収、ピンチを切り抜け、身がすくむような決断を下しながら、ここの人たちは類まれな鍛えられ方をし、それが華人社会の中でも独特なバイタリティーを生んでいるようです。皆に共通することは、立ち止まらずに転がり続けることなのです。

柔軟でしたたかな生き方は、立ち止まることを許さないものでもあります。個人でも企業でも自社ビルや持ち家でない限り、同じ住所に10年も留まることはかなり珍しいでしょう。持ち家さえも転がしていく人たちです。かつてのインフレ下でも今のデフレ下でも、馬鹿を見ないように守るか責めるかは市民の最大の関心事と言っても過言ではないでしょう。

飲茶レストランでのんびりと2、3時間を過ごす微笑ましい一家団欒の時でも、よく見てみると夫婦が別々の新聞に顔を突っ込み、ジッと見つめているのが不動産広告であることは珍しくありません。自宅を売買したり賃貸に出す予定がなくても、こうして市況の最新情報を押さえておくことは香港人の常識なのです。

このテンションの高さがずっと好きでした。そして、ここで暮らしていくには香港人と同じようにするのが最も賢明だということも学びました。郷に入れば郷に従えです。ですから私も持ち家の時でも賃貸の時でも、自分のマンションの市場価値や賃貸価格をかなり正確に把握しています。これは、「外国人だから・・・」と足元を見られて割高なものをつかまされたくないという生活防衛と、賃貸と購入とどちらが家計に有利かという攻めの計算でした。

しかし、そうした全方位にアンテナを張り巡らす生活も、香港の回転速度が緩やかになって来る中で変わってきました。私の中で、
「香港に残された時間が少なくなってきている」
という思いが一段と強まってきたからかもしれません。残された時間がどれぐらいあるのか?それはいつ中国が香港を必要としなくなるかにかかっています。

これまでの香港の目覚しい成長は、中国の門戸が世界に対して閉ざされていたことを抜きには語れませんでしたが、その中国は今、自ら全世界に扉を開いています。こうなれば香港を素通りした中国と外の世界とのつながりが築かれていくのは時間の問題でしょう。

「西蘭さん、砂時計がひっくり返されて砂がサラサラと落ちてきています。もう時間はあまりありません。」
私が最も尊敬する友人の一人はそう言って、数年前にこの地を去っていきました。私も彼女の言わんとすることが痛いほどわかっていながら、香港への愛着が先に立ち、どこかへ向かう自分たちを思い描けずにいました。

でも今はここを卒業していく日が近づいていることを肌で感じています。例えNZに出会わなかったとしても、西蘭家は次の一歩を考え始めていたことでしょう。香港の教え通り、私たちはまだまだ転がり続けなくてはいけないのです。


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「マヨネーズ」 
たまに行っていた近所のアウトレット。子ども服がけっこうあり、子どもが小さい時はお世話になりました。先日のぞいたら、外に「銀主価」の張り紙。
「まさか!」
と思って中に入ると柄の悪そうなおニイさんが数人たむろしていました。

「やっぱり!」
銀主の"銀"は銀行の"銀"(サラ金である可能性もあります)です。彼らは取り立て専門業者で、店のオーナーの借金返済が滞ったため抵当に入っていた店を差し押さえ、商品を売りさばいているところでした。

いつも無愛想にテレビを見ながら店番していた小母さんや、たまに手伝っていたその夫はいずこに?彼らに大きな変化があったものと察します。これは転がる香港のほんの一面です。持ち主には過酷ながらも、いずれ店は人手に渡り、金融機関は債権の一部を回収し、店は新しいオーナーとともにまた転がっていくのです。 

全員参加型「香港セブンス」観戦

2002-04-15 | 香港生活
もしも香港にお住まいなら、毎年恒例の「香港セブンス」観戦は楽しいですよ~。
(「そんなこと、開催が終った直後に言うかぁ?」いう声が後ろから・・・・笑)
めったに見られないラグビーの国際大会が身近に見られるという表向きの理由もさることながら、それ以外がなかなか侮れません。香港のラグビー人口から察して、観客の大半が1年の362日間はラグビーと何ら関係ない生活を送り、この3日間だけ異様に熱い、にわか熱狂ファンに早変わり!ということらしく、誰でも何でもOKな非常にカジュアルな大会です。

予選の金曜は会社が引けてから直行し、土日は家からおにぎり持参で出かけます。自宅から会場の香港スタジアムまで徒歩で20分以上かかりますが、途中からラグビージャージを来たムキムキのおニイさんだの、ばっちりフェイスペイントした各国サポーターだの、コスプレのアフロ集団だの、見るからにフツーじゃない人たちがスタジアム方面に向かってぞろぞろ歩いており、「いるいるぅ~♪」と嬉しくなってきます。

そのうち聞こえてくる、
「わぁぁぁぁぁぁぁ~」
「どぉぉぉぉぉぉぉ~」
という地鳴りのような大歓声。スタジアムはドームが半開きになったような独特なデザインなので、歓声やアナウンスは外まで筒抜け。もうこうなったら、おにぎり背負ったまま走って行きたくなります!

会場は招待席以外は全席自由席なので、ここに来る目的で座席が自然と決まってきます。まず「ビールなしの観戦なんて・・・・」という人は1階席へ。完全燃焼したい人はサウススタンドと呼ばれるスコアボードの真下へ。それ以外は3階席へ。

1階席はかぶりつきなので、本国から来ているような熱心なサポーターたちが早朝から場所取りをして最前席に陣取っています。そこでは、
「何日前から酔っ払っているの?」
と思われるような、午前中からアルコール臭い赤ら顔の白人年配サポーターたちが、大ジョッキならぬ大紙コップを手に、肩を組んでの大合唱。

「イングランド対スコットランド」とでもなれば壮大な歌合戦となり、高校野球での応援団のエール交換状態です。片方が歌っている間は一応大人しく聞き、自分たちの番が来たら総立ちで大の大人が「威風堂々」のあのメロディアスな部分をダミ声でハモったりします。酔っ払いが過半数なのでビールと葉巻の匂いとその他もろもろが渦巻く、オヤジ度の高い濃厚空間となります。

それに比べ3階は階段席で、足を滑らせると危ないのでビールは厳禁。当然のことながら応援もしらふでかなり大人しめ。でも位置が高いのでグランドが一望でき、動きが早い試合をしっかり見るにはいい席です。子連れがちゃんと席を確保できるのはここしかないという消去法もあって、西蘭家はここ数年、毎年3階席に紛れ込んでいます。

家族連れが固まるので子ども同士が友だちになったり、親も自然と言葉を交わし合ったりで和やかな雰囲気。長男がどこからかお菓子をもらって来れば、次男は知らない人の膝に座っていたりといった具合で、周囲はご近所状態。最も女子ども度の高いほのぼの空間です。

そして噂のサウススタンド!朝からビキニでイケイケのおネエさんから、毎年必ず(本当に必ず!)出るストリーキングまで、全員強制参加型のキョーレツな一角です。数千人がほとんど朝から総立ちで、遠目からも異様な盛り上がりが良くわかります。でも屋根というものが全くないので、今年の雨の中でのコスプレは大変だったろうと察します。

それでもビキニは健在だし、夫が参加しているラグビーチームの独身軍団も1人3万円もかけて(3日間の入場料の3倍!)、本格的なアラブの白装束でキメて(頭にあのワッカまではめて)ました。メキシカンウェーブもいつもここから始まり、途中で途切れると総立ちの数千人が切れた当たりを指差して猛烈なブーイングと、試合どころではなくなります。ここは3日間全開の、独身率最高空間です。

試合中もスピーカーからガンガン音楽が流れ、
「○○ケッコンして~ ◇◇」
「△△、どこにいるの?サウススタンドの○○に来て!××」
などのメッセージが電光掲示板にデカデカと出たりと(ちなみにこれは有料ですが、朝から晩まで無数に出ます)、試合ばかり見てもいられません。

いつ掲示板にメチャ面白いメッセージが出るかわからないし、ウェーブが始まったら立ち上がって「ウォォォォ~~~」と思いっ切り背伸びをしなきゃいけないし、いつなんどきサウススタンドのフェンスを乗り越えてストリーキングが始まるかもしれないし・・・。あっちをキョロキョロ、こっちをキョロキョロしているうちに、
「あ~、トライっ!」
尽きない遊び心と全員参加型のノリ。病みつきになります。


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「マヨネーズ」 
「次回では試合以外の楽しみ方など・・・」と結んだのが9日。ところが前回は全く関係ない話に脱線し、「やっと続きが出た~」と思ったら、香港セブンスは早くも1ヵ月前。なんだかおマヌケなタイミングになってしまいました。

本当に1週間なんてあっという間。この分だと、
「移住までまだ3年もあるしな~」
なんて呑気に構えていたら、半泣きな目に遭いそうです。あぁ、時間が欲しい。  

そう言いながらも、ワールドサービスのニュージーランド情報のご好意で、「ミニ西蘭花通信」のコラムを週1回から10日おきぐらいに掲載させていただくことになりました。「西蘭花通信」とは違ってNZ100%の内容になる(予定です)ので、こちらの方もお時間があったらのぞいてみてください。次回はNZでの永住権取得には全く必要ない、手打ちうどんの作り方をお送りします。


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2019年5月の後日談:
今回のメルマガを読み返してみて、
「移住までまだ3年もあるしな~」
という記述を発見して、び、び、ビックリ
「誰が書いたの?」
と言いたいぐらい。何を根拠に「2005年移住」を思い描いていたのか?

当時の条件であれば、私名義でも夫名義でも永住権取得のポイントがまず足りていた呑気な時代。移住の旗振り役だった私の最大の関心事は、永住権が取れるかどうかではなく、夫と長男がその気になってくれるかどうかでした。17年前とはいえ隔世の感。

雨の中の「香港セブンス」

2002-04-09 | 香港生活
3月下旬の7人制ラグビーの国際大会「香港セブンス」(22~24日の3日間)は、大雨でした。季節の変わり目に当るこのシーズン、かなり肌寒かったり真夏日だったり毎年の気温はさまざまですが、これほどの土砂降りに見舞われての開催は、西蘭家が香港で暮らし始めてからの9年間では初めてでした。観客も濡れ鼠ですが、選手にしてみれば、天然芝のグランドがプール状態となる中での厳しいプレーとなりました。怪我人も続出で、滅多なことでは担架など出てこないセブンスには珍しく、かなりの試合で担架が出ました。雨天決行のスポーツとはいえ、「これでもやるのかぁ~」と心から感服するほどの悪天候でした。

今年のNZチームの仕上がりは、素人目にもあまり良くありませんでした。いつもの一枚岩のような厚みのある一体感が伝わって来ませんでした。準決勝となったフィジー戦。これまで王者の地位を二分してきたフィジーと準決勝で当ってしまうのは何だかもったいなく、夫も言っていたように
「実質的な決勝戦?」
と思われましたが、いざ試合が始まるとNZに的を絞ってきたらしいフィジーの方が明らかに一枚上手でした。結果は10対7で、フィジーはNZの猛追を振り切って決勝戦へ。

フィジーは南太平洋チームの中でも飛び抜けて背が高く手足が長い選手が多く、毎回ワイルドな試合を見せてくれます。準決勝に勝ち上がったオーストラリア戦でも重量級の相手選手をマジックハンドのように良く伸びる手で捕まえてはバシバシ倒し、夫も
「手首一つ分、他国の選手より長い」
とうなっていました。小人数のセブンスはスピード勝負ですが、長足長手のフィジーは後ろからでも敵に追いつき、肩やジャージ(ラグビーシャツのこと)をガッと捉まえては引き倒してしまいます。後ろからタックルを食らうほうはたまんないでしょうね。

NZのキャプテンのエリック・ラッシュと同様、「セブンスの顔」であるフィジーのセルヴィは、小柄な身体と飄々とした顔つきでかなり異色な存在です。今年も孫悟空のようなひらりひらりとした身のかわしで、たっぷり楽しませてくれました。彼はその小回りの良さを活かしタックルに行きもしなければ受けもせずに、巨漢の間をちょこまか走り回っては時々とてつもなく長いパスを出し観客の度肝を抜きます。しかも今大会では、「香港セブンス」での総得点数が1000点を超えるという、とてつもない金字塔を打ち立てました!

こんなフィジーも決勝選となったイングランド戦では苦戦を強いられ、思いもかけない大敗を喫しました。新生イングランドの眼中には最初からNZはなく、「徹底的にフィジーを研究してきた」というだけのことはあり、パワーと自信に頭脳プレーが加わった、新しい試合運びを見せてくれました。今までのセブンスで見慣れてきた速さ主体の個人プレーとは異なる、一人のヒーローに率いられるのではなく、チームが一丸となって確実に相手を追い詰める緻密さは新鮮でした。攻めても攻めても崩れないばかりかジリジリ押してくるイングランドには、さすがのフィジーも苦しかったことでしょう。

これは単にフィジーの敗北というだけではなく、南半球に土がついた瞬間でもありました。北半球の優勝は81年の各国混成チームの優勝以来、実に21年ぶりのことだったのです!ラグビー発祥国イングランドの優勝は、なんと初めて!まさかの快挙に、香港の白人社会の大半を占める旧宗主国のイギリス人たちの喜びようは、すさまじいものでした。さすがフーリガンの国(笑)?逆に言えばニュージーランドやフィジーの南太平洋諸国は20年間もの間、優勝カップを独占してきたことになります。香港で開いたセブンス・シーンの風穴がどうなるか、早くも先が楽しみです。


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「マヨネーズ」 
ラグビーを見るのは好きなのですが、たまたま夫がプレーヤーだったことから興味を持ち始めたという程度で、「香港セブンス」以外には本格的な試合を観たことがありません。それどころかルールもうろ覚えで、
「えっ??何で今、審判が笛吹いたの?」
「どうしてあそこからキックなの?どうして?」
と、観戦している夫に腰砕けの質問を浴びせては場を寒くさせています。(夫よ、すまん・・・)

なのでエラそうなことを言えた義理ではないのですが、「香港セブンス」はたとえラグビーのルールを知らなくても、自分の国が出ていなくても心底楽しめます。これは絶対保証できます。次回では試合以外の楽しみ方など・・・

初夏を告げる渡り鳥

2002-03-22 | 香港生活
「あぁ~。いるいるぅ♪」 
数日前の会社帰りに、袖をちぎったTシャツに短パン姿のやたらムキムキの白人のおニイさんたちが、4、5人でそぞろ歩いているのを見かけました。
「そうか、今年もそんな季節になったんだなぁ・・・」
と、ジワッと感慨。

彼らは香港の初夏を告げる渡り鳥。この季節の風物詩の一つなのです。それはすなわち、これまで半年にわたったラグビーシーズンの終わりと、これから半年にわたる長くて暑い夏の始まりを意味しているのです。その境目の3日間を彩るのが、「香港セブンス」です。

7人制ラグビーの国際大会であるセブンスは、香港の白人社会にとって年間最大のイベントで、
「これなくして香港生活は語れない!」
「この週末だけは親が死んでも帰れない!」
と言わしめる一大行事です。今では世界各地で開催されているセブンスの草分け的存在でもあり、アジアでは最も長い歴史を誇るそうです。

「香港ってこんなに白人がいたの?」
と驚くほど、毎年おびただしい数の白人たちが、会場の香港スタジアムに続々と集まってきます。香港人はスポーツと言えばサッカーなので、観客の過半数は日本人等も含めた外国人で占められます。私も例年、初日の金曜日はオフィスから直行し、週末はお弁当持ちの一家総出で、日曜夜のカップ(最高ランク)の決勝戦までどっぷりラグビー漬けになります。

今年は3月22、23、24日の3日間の開催で、その前には10人制のテンスもあり、今週1週間は完全なラグビー週間です。夫も趣味の(?)出張をことごとく諦め、万全の態勢で臨んでいます。友人もイギリス人の夫が、
「今週は何を言っても上の空。あてにならないし、いつ帰って来るかわからないし・・・」
という状態らしく、ため息まじり。

香港でかつて暮らしていた外国人の中には、
「この季節は絶対、香港!」
と本国から毎年はるばるやってくる人も珍しくありません。そういう古い友人と連れ立って試合の後もどこかで盛り上がって・・・と、結局、「昼も夜もどっぷりラグビー」という人が結構いるのです。

なので、この時期に街を跋扈し始めるやたらムキムキのラグビー関係者と思しき人たちを見るにつけ、
「また1年たったのか・・・」
という思いを新たにします。彼らは外の天気がどうであれ、年によっては結構肌寒かったりしますが、丸っきり頓着なく練習着のような格好で歩き回ってます。雨が降っていても、もちろんお構いなし。まあ、香港の冬なんて彼らにしてみれば本国の夏のような陽気なのでしょう。香港は真冬でも10度を切る日はほとんどなく、切れば寒さで死人が出ます(冗談でなく)。

このたくましい渡り鳥たち、タットゥーを入れていてもスキンヘッドでも、こういうものが持っているネガティブな暗さが微塵も感じられません。これにミラーのサングラスなんてかけていたら迫力満点ですが、外見が少しも恐そうにならず、ナイスガイに見えるから不思議。野球選手のおカネのかかった玄人っぽさや、サッカー選手のイマドキなプロっぽさに比べると、セブンスに来る人たちはとにかく単純明快に強そうで健康的です。

ラグビーは防具もつけずに身体と身体がぶつかり合う、激しく、危険なスポーツです。それゆえにプレーが比較的きれいな気がします。ダーティーなプレーには観客からもブーイングが起きます。「礼節」とか「フェアネス」といった英語にしても日本語にしても、ちょっと古風な形容が似合うスポーツのような気がします。特にオールブラックスのフェアプレーは、王者としての自覚がそうさせるのか、本当に感心するほどです。それがまた、彼らの風格を高めてもいるのでしょう。

去年のNZはセブンスの帝王キャプテン、エリック・ラッシュの怪我による欠場を埋めたカール・テナナの神業に近いプレーで優勝をさらいました。彼が優勝後のメディアのインタビューで、
「これは全部ラッシー(ラッシュのこと)のために」
と言っていたのが印象的でした。そのラッシュも香港セブンスでは今年がプレーヤーとして最後の年になるそうで、是非ともいつまでも語り継がれるファインプレーで有終の美を飾ってほしいところです。


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「マヨネーズ」 
NZのサマータイムが終わろうとする頃、香港は一足飛びに春を越え夏を迎えます。季節の変わり目の風情のかけらもなく、冬服をまとめてクリーニングに出しに行く時には、すでにTシャツにミュールという真夏のいでたちです。

ラグビー関係者はその体格、短髪、肌の露出度の高さから街中でもすぐに分かりますが、時々アウトレットに出没して大きいサイズの服を探していたりします。セブンス期間中もファンのサイン攻めにも嫌な顔一つせず、無限に差し出されるラグビーボールに黙々をサインをしています。エリック・ラッシュの勇姿(ハカ姿も)最後で(涙)、しかと目に焼き付けながら、今年も楽しみます!

空中生活

2002-03-18 | 香港生活
「ママ、ツチってお砂のこと?」
長男の温がまだ3歳ぐらいだった時、絵本の中に土が出てきて、それが何かを説明するのに四苦八苦したことがあります。香港は海に囲まれているので砂はすぐにわかるのですが、問題は「土」です。
「え~っと。土って、地面のことで、そこからお花が生えてきたり、お家がその上に建っていたり・・・」
と言ってみても、息子の疑問は膨らむばかり。

彼は香港生まれの香港育ちで、生まれつきコンクリートジャングルの中で暮らしています。なので花は切花か造花(おまけにうちは猫が倒してしまうので、そのどちらもありません)、家と言えば下から見上げたら何階あるのか想像もつかないような超高層マンションの一戸のことになります。庭がある土の上に建つ一軒家は、絵本の中に出てくるか、日本のおじいちゃんとおばあちゃんが住んでいる、「階段のついているお家(二階家のこと)」ぐらいしか知らないのです。

香港にも戸建の家があるにはありますが、この狭い土地ではそれは大金持ちだけに許された特権で、最低でも数億単位のお金を用意しなければ買えません(本当にその高さといったら日本の一等地どころではありません)。そのため戸建の家は必然的にお屋敷のような作りになり、警備が厳重で中が見えない高い塀と防犯カメラに囲まれたような家ばかりです。生垣の間から庭がのぞけるような状態にでもしておこうものなら、あっという間に泥棒に入られてしまいます。

マンションも1階は玄関と駐車場の入り口という殺風景さで、プールやテニスコートがあっても庭に相当するものはほとんどなく、実用一点張りかつメンテナンスがラクな造りになっています。公園ですら同じで、初めはびっくりしましたがバスケットコートもサッカーコートもコンクリ張りなのです!これだったら雨が降ってもぐちゃぐちゃにはなりませんが、転んだ時の痛さや走り回る時の不快感は想像を絶するものがあります。

万事がこの調子なので小学校の校庭がコンクリでも驚くには当たりません。花壇があったりウサギ小屋があったりという、日本の小学校ならどこでも見られそうな光景にお目にかかることはほとんどなく、通学時間ともなれば校庭にスクールバスが何十台も並び、一見観光地の駐車場のような眺めになります。効率性と安全面から香港には子どもを歩いて通学させる習慣がなく、家族が送り迎えをしない限りスクールバスのお世話になるので、毎日こうした光景が繰り広げられます。

そのため地面に花が植わっているのを見るのは、公園の植え込みや高速道路の中央分離帯といった非日常的な場所になってしまい、親子でしゃがみこんで「ほら、これが土よ」などと、呑気に会話が交わせるような場所ではありません。街路樹ですら歩道の面積を目一杯広げるために、根元のぎりぎりまでコンクリが流しこまれ、幹の周りからかろうじて丸く土がのぞいている程度で、雨が降っても水がしみこむ余地すら残っていないのです。それでも南国の木は強いのか、太陽を燦々と浴びるせいなのか首を絞められているような状態でも、大きな枝を一生懸命広げわずかながらでも歩道に木陰を作ってくれます。

最近のマンションは50~60階建てなどというものが出てきて、「地に足が着いた生活」とは真反対の「空中生活」が珍しくなくなってきました。
「自宅が46階、オフィスが34階、1日のほとんどを高度100メートル以上のところで過ごす」
ということが現実の話なのです。しかもオフィスもマンションも高度に合わせて値段も上がっていきます。同じ間取りでも少しでも眺めがいい方に人はお金を払うのです。つまり香港では風景も有料なのです。

NZ旅行中にキウイの人たちがあまりにも気持ちよさそうに裸足で歩いているのを見て、私たちも公園やスーパーマーケットで何度か裸足になりました。でも手に靴を持ったままのかなり情けない格好で、これには自分でも笑ってしまいました。彼らのように最初から靴を持たないで家や車を出るようにならないと、裸足が板につかないでしょう。温泉地ロトルアの土の温かさ、オークランドのワンツリーヒルの帰り道でかいだ雨上がりの土の匂い。子どもの頃の記憶が呼び覚まされるようでした。

空の上での暮らしから土の上での暮らしへ・・・
それはもう憧れとか夢とかいうものではなく、乾いた魂が一杯の水を欲しがっているようなものなのです。


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「マヨネーズ」
「よ~し、土がわかんないんだったら見せてやろう!」
と、去年はユンロンという中国との境の山が間近に迫るような郊外に、一坪の畑を借りてトマトやほうれん草を作りました。鍬で土を耕したり収穫したり、余ったクズ野菜をヤギにあげたりで、子どもたちは大喜び。

「こんなお金を払うくらいなら、野菜を買ったほうが安いのでは・・・」
と言いながらも、夫はせっせとドライバーをかって出てくれました。畑から収穫したばかりの、一度も冷蔵庫に入っていない野菜のサラダは、生きているのを感じるほのかなぬくもりが残るものでした。もちろん、その美味しさは言うまでもありません。お陰で子どもの青菜嫌いが一気に解消したほどです。

ドナルドを探せ!

2002-03-10 | 香港生活
3月6日に香港特別行政区政府、長い名前ですが要は香港政府の2002年度予算案が発表されました。実は私、この数少ない香港の政治イベントを毎年かなり楽しみにしています。香港では毎年、大蔵大臣に相当する財政長官が予算をまとめ上げ3月初旬に発表し、簡単な審議はされるものの、ほぼ財政長官の原案通り4月の新年度から施行されます。

このシンプルなプロセスは英国植民地時代の香港政庁だった頃からの名残です。植民地なので、本来あるべき姿であってもコストのかかる民主主義的な段階を経る必要はなく、最も安上がりな方法が採られていました。香港は自由都市を標榜しているためヒト、モノ、カネの流れが非常に自由で、常に玄関が開け放しの状態です。

そのため、予算も受け入れるすべてのヒト、モノ、カネに対し、最大限"妥当な"ものでなくてはならず、あまり民主的とは言えない決定方法を経ながらも、毎年かなりフェアな内容が発表されてきました。それは、もしも財政というその社会の家計簿が特定のグループを優遇するようであれば、ヒト、モノ、カネがここに留まらずに、より居心地の良いところに移動してしまうリスクを負っているからです。

簡潔さを追及していても、ここには源泉徴収制度はありません。サラリーマンでも毎年、各自が確定申告を行います。政府からの納税通知を受け取り、納税日までに小切手の郵送や銀行振り込みで(ここ数年はインターネットでの支払いもOK)納税します。納税額に不満があれば申し立てもできます。会社は給与証明の書類を作るぐらいで、それ以外はすべて納税者本人が行います。

源泉徴収に比べ手間も時間もかかりますが、納税者にとっては少しでも節税できる方法を考え、非課税になる寄付は少額でも申告するなど税金への意識を高めることになります。ひいては自分が支払った税金の行方に自然と目が行くようになり、その配分の大筋を決める予算案への関心も高くなっているように思います。政府は政府で取りはぐれがないよう監督管理を怠れません。

今回の予算案は膨れ上がった財政赤字の穴埋めが最大の焦点になりました。政府がまず着手したのは増税でも消費税など新税導入でもなく、公務員給与の引き下げでした。お金がない時に出費を控えることは個人では当然でしょうが、こと国家となると国債発行という借金のかたちで問題を先送りすることも可能になります。

しかし、香港はまず歳出削減に取り組み、それでも間に合わない時は増税等に踏み切るという二段構えの慎重姿勢を示しました。発表直後の世論調査では約半数の市民が予算案に支持を表明していました。失業率が過去最悪の7%台に突入し、景気後退の瀬戸際のところで踏みとどまっているという、政府への不満が高まってもおかしくない経済状況の中ではかなり高い支持率だと思います。

納税者と政府の間に信頼感を培っていくことは、どこの国でも非常に難しいことでしょう。「どうせ何も変わらない」という無力感やそれにかこつけた無関心を乗り越え、お互いが向き合おうとする真摯な気持ちこそが問題意識の共有につながり、"次の一手"を探っていく出発点となるはずです。

これを理想論と片付けてしまうのは簡単ですが、自分が暮らす環境に目を配り、自分の子どもを含む次世代のことを真剣に考えていけば、ある程度は政治に目がいくことになるのではないかと思います。政治にコミットしていく方法は無数にあります。新聞やテレビで現状を認識し目の肥えた市民となるだけでも、大きなチェック機能の果たすことでしょう。

私もささやかながら税を納める立場として、増税も消費税導入も見送られたことにホッとしています。来年度には何らかの間接税導入があるであろうと思っていますが、政府が安易に増税に走らず、かと言ってこれが単なる解決の先送りではないことを明確に示したことには、一市民として満足しています。私たちも9年近い香港暮らしを通じ、開放的で親しみの持てる政府のおかげもあり、いろいろなものに目が向くようになりました。

開け放しの玄関をくぐり、自らここに住むことを選択した訳ですから、現状がどうなっているのか、また今後どうなっていくのかにはとても興味があります。そして一度培われた目は、日本や他国の政府を見るのにも活かされていることを実感しています。その中で、目に飛び込んで来たのがNZだったことは、偶然ではないのかもしれません。


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「マヨネーズ」 
これからメルマガ本文後の一言を、編集後記「マヨネーズ」として毎回載せていくことにしました。茹でたてのブロッコリー(中国語で西蘭花)にはやっぱりマヨネーズ?!子どもたちの大好物です。

今回はちょっと硬い話だったかもしれませんが、どこの国に住んでも、「○○のお店は美味しい」というぐらいのノリで、「政治家の○○は最近今イチ」と言うような話が老弱男女問わず話題になることが多く、日本を出て間もないころは、
「首相以外の閣僚の名前をほとんど知らない私って?!」
と焦りましたが、20年近い海外生活の中で大分変わってきました。

子どもの世代もそれ以降も安心して暮らして行け、21世紀の人類が水や食糧を争って戦争を起こすような惨めな思いをしないで済むことを真剣に願いつつ、今日も新聞をめくりながら、お気に入りのドナルド・ツァン政務長官(香港の実質ナンバー2で、政治家ではなく官僚のトップ)が載っていないか、チェ~~ック!


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2019年5月の後日談:
メルマガを始めた頃、「マヨネーズって何ですか?」というメールをときどきもらったものですが、ここで説明していました。

懐かしい香港時代の話ですが、今でも予算案はガチで中継を観ています。そんな今月はNZの予算案発表の月です。