ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

洋上のシャングリラ

2002-02-24 | 移住まで
機内ではぐっすり眠れ、空港ビルを出ればそこは1年ぶりのオークランド。思ったよりも寒かったけれど、爽やかな風に迎えられ、思い切り背伸びを一つ。
「キオラ(マオリ語で"こんにちは")、NZ!」

NZは遠い。そのアクセスの悪さがこの島の成り立ちを独特なものにし、はるか昔には四つ足の動物も、もちろん人間もヘビさえもいない鳥達の楽園とならしめ、キウイや絶滅した巨鳥モアのような、天敵がいないため飛ぶ必要がなくなり羽が退化した珍しい鳥を誕生させたのでした。いくら交通機関が発達して地球が狭くなっても、やはり遠いことに変わりはなく、私たちの住む香港からは11時間と、イタリアに行くのとそうは変わらない時間がかかります。

去年は北島を回ったので、今年は南島を回ることにし、オークランドは乗り換えだけですぐにクライストチャーチへ。南島は9年ぶり2回目で、前回2人ともとても気に入り、
「いつか子どもができたら、また来よう。」
と話していました。その旅行から4ヵ月も経たないうちに夫の香港への転勤が決まり、同時に私は温を身籠ったのでした。その温が今回の旅行中に8歳になりました。

日程はクライストチャーチから鯨が見られるカイコウラ、その後は一気に南下してNZ第4位の都市ダニーデン、それに隣接するオタゴ半島を回り、ミルフォードサウンドで氷河を見て、前回2人とも気に入ったテカポ湖に立ち寄り、再びクライストチャーチに戻る・・というもの。12日間の旅程としてはかなり余裕を持たせたつもりで、マウントクック行きは諦めました。

ところが、実際回ってみると、いろんなハプニングに見舞われ、目標としていた町まで辿り着けず手前の小さな町で宿泊するなど、たくさんの変更が出ました。それは家族だけでクルマで回る手作り旅行の醍醐味とも言え、予定外の出来事を多いに楽しむ旅となりました。この辺の話はいずれまた、別の機会にでも。

今回の旅行の一番の目的は、1年前に自分の中に降って湧いた
「ここに住もう!」
という思いを確認するためのものだったとも言えましょう。同時に家族が少しでも私の思いに与してくれたら・・・という期待もありました。もちろん、いつか住む国を少しでも知っておきたい、何よりもそこに身を置いてみたいと思っていたことは言うまでもありません。2週間近く、ほぼ毎日宿を変え、いろいろなところを訪れ、さまざまな人と言葉を交わしました。

特に意識していた訳ではないのですが、今回ほど現地の人と話した旅はいまだかつてしたことがなく、知らず知らずのうちに"住人モード"が入って、ご近所気分になっていたのかもしれません。それと同時に名実ともに"フレンドリーなNZ"を実感することもできました。こちらから勇気をもって声をかければ、嫌な顔一つせずに相手をしてくれ、向こうからかけてくれた声にこちらが応えれば、そこからひとしきり話しが弾み、楽しいひと時となりました。

旅行中、「効率vs非効率」、「賑やかさvs静かさ」、「忙しさvsのんびりさ」、「新しさvs古さ」、「速さvs緩慢さ」、「多機能vsシンプル」、「多さvs少なさ」、「広さvs狭さ」、「手軽さvs複雑さ」、「画一化vs不揃い」、「自動化vs手作業」といった対比をずっと考えていました。経済効率を最大限に追及するのであれば圧倒的に前者が良しとされ、後者は改善されなければならず、前者に金銭的な豊かさや、大都市・大国、24時間・365日稼働、不眠不休が加われば、最大効率を追及できる理想形となることでしょう。

しかし、NZでの暮らしというのは、かなりが後者に属しています。産業一つをとっても、手間暇かかり、気象条件に左右される第一次産業が大きな比重を占め、超高層オフィスで巨額のマネーを動かしている第三次産業の権現のような国際金融都市、香港とは対局をなしています。

私は図らずも、前者から後者へ、眠らない街から夜明けとともに働き、日暮れにはベッドにつく人々がいる国へと移り住もうとしているのだと気がつきました。でもこれは、過密なコスモポリタンな生活に疲れ、どこかでのんびりしたい、というような優雅で贅沢なものではなく、大きな、とても大きな価値感の転換なのです。

修理すれば使える家電製品を修理が面倒臭いこともあり、お店の言う「修理した方が高くつきますよ」という言葉を意図的に鵜呑みにして捨てる時の後ろめたさは、誰もが感じるものではないでしょうか。本当はそうしたくはないのに、効率さやスピードを追及するために意に染まないことを数多く受け入れていかなくてはいけないのも、現代の生活です。

古いものや使えるものを大事にし、手作りの労を厭わず、もっと他人と近くに暮らし、自然や気候を支配するのではなく、受け入れながら暮らして行きたい・・・そんな思いが抑えられなくなり、1年前のほんの気まぐれな思いつきは、1年を経てますます強くなりました。

でも、
「単に思い込みではないだろうか?」
「NZでの生活を買いかぶり過ぎてはいないか?」
という不安ももちろんありました。けれど今回の滞在を通じてそれが杞憂であると確信できました。

地球上のどこからも遠い、洋上のシャングリラ。価値観を共にできる心から好きな場所で、心穏やに暮らしていこう!そう思いながら再び香港へと戻って来ました。でもいつか、必ず片道切符で出かけていくことになるでしょう。それまで準備を怠りなく、そして何よりも自分を磨いていこうと思っています。


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夫に「メルマガが長すぎる」と指摘され、今回はちょっと短くしてみました。伝えたいことを文章だけで不特定多数の人に伝えていくのは思いがけず難しい作業です。しかも、その内容が自分が興味をもつ非常に特定のものであればなおさらです。

妹にすら「これでメジャーになるのは・・・」という感想をもらいましたが(笑)、ヒットページを作ろうとしているわけではないので、自分の気持ちに忠実かつ、読んでくださる方がいる以上、独り善がりにならないものを追求していきます。しかし、「ビーズ」や「NZ」と、話題がヒラリヒラリと変わっていくのはお許しを・・・

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深いビーズの泉にて

2002-02-03 | アクセサリー作り
地下鉄の駅を出ると、もうそこはディープな香港の下町。露天商が思い思いの物を地面に堆く積み上げて売っているかと思えば、屋台が道にせり出し、商店の軒先の商品も歩道に溢れ、それらを見て回る人が道を埋め、その人たちが手にしている屋台で買った串ダンゴやソーセージから汁がしたたり、彼らがぶら提げている買い物袋が、残された空間を更に狭くしているといった、濃厚な光景が充満しています。そう、ここはシャムシュイポー。

シャムシュイポー(中国語表記では深水に土ヘンに歩)は九龍サイドの中でもかなり下町に属し、コンピューター関連のものなら本物からニセモノまで何でも揃う街でもあります。私のように香港島で生活している身には、ここはもう外国に近く、中国へのボーダーを超えたような気分にさせられます。視界から英語表記やスーツ姿、革靴が目に見えて減り、変わって労働者風の中年男性が増え、競馬新聞を小脇に爪楊枝をくわえながら屋台を冷やかしていたり、半裸の男が納入品を山積みにして足早に荷車を押して行くかと思えば、頬かむりをした老女が回収してきた廃品をやはり荷車に載せてゆっくりと通り過ぎていったりします。

そんな風景の中に、会社帰りの私はスーツにハイヒールという場違いな格好で飛び込み、足早に屋台街を抜けていきます。目指すのは汝州街という殺風景な問屋街。この両脇には手芸用品問屋が鈴なりで、レース糸、ジッパー、ボタン、レース、リボン、皮ひも等ありとあらゆるものが、店の天井まで堆く積まれています。売っているものは総じて美しいはずのものなのに、よくもここまで味気なくディスプレーできたなと感心してしまうくらい、どの店も雑然とした印象です。整理のされていない店は倉庫がそのまま店舗になっているような状態です。これらの店の間に目指すビーズ問屋が点在しています。

着いた時間によって回る順序が決まりますが、6時までなら連豊に走り、大振りなガラスビーズや仕上げが凝っているプラスチックビーズを見て回ります。ここは問屋の中では広い方で、奥行き15メートルぐらいある店に入ると、5列の棚の両側にプラスチックケースに入ったビーズがびっしり並んでいます。それだけでも壮観ですが、壁にもきれいに研磨した天然石が紐につなげられてずらりと掛けてあります。

入り口でまず一つ深呼吸。どんなところかよく知っているのに、ここに来ると胸が高鳴り息苦しくさえ感じます。
「今日はどんなのが入っているだろう」
「この間買ったアレはまだ残っているかな?」
「もっとお金をおろしてくれば良かった」
などと一瞬にしてさまざまな思いが心を過ぎるものの、
「ええい、ままよ!」
と、おもむろに近くにある"おたま"と薄汚れたプラスチックのバスケットを手にしていざ出陣!

香港の問屋はプラスチックケースに入ったビーズを、"おたま"もしくは"ちりれんげ"(本当に食事に使うアレです。すべてプラスチック製)で好きなだけすくい、それを店が用意している小さなビニール袋に入れてレジに持っていくという、完全な量り売り制です。いつものように10数枚ビニールを用意し、気に入ったデザインのものを見つけると全色ビニールに入れていきます。

ものによっては10色近く揃うのもあるので、同じ袋に2~3 色混ぜてしまっても見る見る袋が埋まっていきます。ビーズの粒にもよりますが、通常では好きな色は"おたま"で3杯、それ以外は2杯、「ちょっとどうかな?」と試し買いなら1杯…を目安にしています。例え1杯でも"おたま"なので、きれにパックされて一つ数百円で売っている日本のパッケージ物に比べれば10倍ぐらいの量になります。

お目当てはレジ近辺にある新作です。定番は在庫を切らした時に買い足す程度ですが、毎回この量を買うので使い切るということがほとんどないため、98%は新作を仕入れることになります。新作はせいぜい3種類ぐらいですが、それ全部を全色買っているとすぐ数キロ単位になってしまいます。

新作の脇当たりにある前回の新作も気に入ったものであれば買い足し、プラスチックケースの残りが少なければ、もう"おたま"ですくわずに、残りをザーッとビニール袋に入れて買い占めてしまうこともあります。それから店内を軽く一周して見落としがないか確認し、最後に壁にかかった紐に通した天然石を10本近く外してレジに持っていきます。

店は家族経営で、老夫婦、若夫婦と使用人が数人、いつもレジのところでおしゃべりをしながら米袋並みの大きさの袋に入ったビーズをプラスチックケースに空けています。まるでセメントでも流し込んでいるように投げやりで機械的な作業ですが、私の目はその袋から流れ出るビーズに釘付けです。もしも新作であれば、その段階で「待った!」をかけて見せてもらいます。

例え新作でなくてもそのザァァァーという重みのある音に心が踊ります。人によってはこれがお金であれば・・・と思うところかもしれませんが、私にとってはそれがビーズであるからこその胸の高鳴りなのです。本当にこの一粒一粒の美しさは私にとり、金額以上の価値はないコインに比べ、組み合わせやデザインでいか様にもその価値である美しさを高めていける、大きな可能性を秘めたものなのです。それを眺め、手にし、カタチあるものに作り替えていくことは、私にとって宝石の原石を磨いていくような楽しみなのです。

しかし、そんな私の思い入れには全く無頓着の店の人たちは、市場で肉でも売っているかのように、古ぼけた秤に私の選んだビーズを乗せ、中味にはひとかけらの興味も示さず、
「5ポンド(約2.5㌔)」
と重さだけをぶっきらぼうに言ってきます。この店のガラスものはポンド当たり約千円強なので、そこから気分で軽く値段交渉をし、15~20%負けてもらったりします。ビーズはビニールの袋の口をホチキスでバチバチ留められ、更にスーパーのレジ袋のようなペラペラの袋に入れられて一丁上がり。

この一連の無造作な流れを経て、いよいよビーズは私の手に。本当は抱えて走って帰りたいぐらいですが、連豊が閉まる6時以降は次の店へ。ここに足を踏み入れてしまった以上、これぐらいでは帰れないのです。 


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編集後記「マヨネーズ」
今回の「西蘭花通信」読まれて、
「問屋に出入りするって、西蘭みことは業者?」
と思われる方がいるかもしれませんが、残念ながらそんないいモノではなく、単に趣味が高じて大人買いに走っているだけです。でも目くるめくシャムシュイポーの様子もお伝えしたく、何回かに分けてその魅力(?)をお届けできれば・・・・


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後日談「ふたこと、みこと」(2019年5月):
連豊なんて、なんて懐かしい名前(涙) 趣味が高じた当時の大人買いも、40代後半から徐々に始まった老眼で宝の山。そろそろ、どうにかしないと~


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