ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

父たるもの泰然と湯を沸かそう

2002-12-14 | 移住まで
男は腕を組んでじっと座っていました。頭を挙げ、背筋を伸ばし、誰もいない大きなテーブルに1人で座っています。スキンヘッドに袖をちぎった黒のTシャツ。逞しい二の腕には程よい筋肉と刺青も載っています。大きめのピアス。裾が編み上げブーツにねじ込まれた黒い特攻パンツ。顔に細く張り付いたサングラスは真っ黒で、男の視線がどこに向かっているのかはわかりませんが、この姿勢からすると真正面を凝視しているようです。

こんないでたちの人に、夜の繁華街で会ったら思わず視線を反らし、なるべく目を合わせないようにしてやり過ごしたいところですが、私は隣のテーブルの彼から目が離せずにいました。燦々と陽が降り注ぐうららかな午後。しかも、渡っていく風が気持ち良い外の芝生の上。私がチラチラ見ていることなどバレバレだったかもしれませんが、男はその姿勢のままぢっと待っていました。

彼は湯が沸くのを待っていたのです。テーブルの上には鍋物をする時に使う見慣れた卓上コンロが置いてあり、その上に小振りのガラスポットが載っています。ガラス越しにガスの青い火も、水の中の空気が一つまた一つと上がってきては爆ぜ、沸点に近づいていくのもはっきりと見て取れました。

グラグラと湯が沸いてきましたが、男は身じろぎもせずに腕を組んだままです。しまいにはポットが揺れ出すのではないかと思われるほど煮えたぎり、思わず立っていって火を止めてしまいたくなるのをぢっと堪えていると、やっと火が消されました。ガラスの中の狂乱はそう簡単には収まらない様子で、なおも派手に泡立っています。男はゆっくり立ち上がると足元からやおら何かを持ち上げ、テーブルの上に置きました。それはかなり大振りのピクニック用バスケットでした。取っ手を左右に開き、その下の蓋も左右に開くと、中が布張りになっていました。

まるで儀式を執り行うように、男は慣れた手つきで事を運んでいきます。きびきびとしていながらどこか優雅で、形式美さえ感じさせる動きです。私が盗み見ている以外、誰一人、気にも留めない中で、無駄のない流れるような仕草が続きます。まずバスケットから取り出した缶から茶葉を出してポットに入れ、次に重ねたケーキ皿を出し、更に底の方からティーカップを1客ずつ取り出しています。全部で6客出たところで、テーブルの上にカップとソーサー、ケーキ皿と、セットで並べ始めました。

並べ終わった後、テーブルの周りを回ってセッティングを確かめている姿は、有能な執事が大事な客人をもてなすために入念なチェックを入れているかのようです。蝶ネクタイの燕尾服ではなく、ブーツを履いたスキンヘッドという外見ながら、大切な人に仕えることを誇りとし、自分の使命をまっとうしているような忠実な姿は優美でした。点検が終わると男はポットの中で美しい琥珀色になったお茶を1客ずつ注いでいき、バスケットから出したクッキーをお皿に並べ始めました。

用意が整ったその瞬間、どこからともなく長いワンピースの裾を翻しながら髪の長い女の子が現れました。テーブルにつくと、胸から上しか見えないような小さな女の子です。パッとお皿のクッキーをつかむといきなり食べ始めました。その時もう1人同じような、けれど少し大きい女の子がやってきて席に着きました。そしてまた1人、また1人。似たような顔つきの長い髪。四姉妹のようです。

子どもたちが着席したところで、ローラ・アシュレイのような小花柄のワンピースを着た、背の高い細身の女性がゆっくりと近づいてきました。長い金髪を無造作に結んだ裾が風に揺れています。手には麦藁帽子を持っています。娘たちの世話を焼いていた男は妻に気付くとすぐに身を起こし、抱き寄せて軽くキスをするとテーブルに招き入れ、自分もその横に座りました。こうして一家の夏の日の午後のお茶が、美しい緑の芝生の上で始まりました。

私たちはオークランドからクルマを飛ばし、日曜日しか走っていないというグレンブルックの蒸気機関車に乗りに来ていたところでした。

(※2001年のグレンブルック)


線路脇のピクニック用のテーブルの上には、どこも同じようなピクニックバスケットが口を広げて置いてあります。お茶かコーヒーが入っているらしいポットは随分見ましたが、コンロまで持ち込んで湯を沸かしていたのはこの一家だけでした。彼の服装、立ち居振る舞い、家族への想い、そのすべてが強烈な美意識で貫かれていました。さんざめく明るい日差しの下、家族にお茶を淹れるという行為がこんなにも美しいことであると、誰が想像し得たでしょう。人生で五指に入る衝撃的な人でした。それと同時に、彼はキウイハズバンドの類まれなる原型として、私の脳裏に深く深く刷り込まれていきました。


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編集後記「マヨネーズ」
"男気"とか"ダンディズム"とか、日本語でも英語でも古風な形容詞でしか彼の人となりを説明できない感じです。同じことをお母さんがしていても、それなりにステキだったかもしれませんが、彼が一家の父としてやっていてこその、忘れられない光景です。もしも世の中のお父さんの価値が「金持ちとうさん貧乏とうさん」のように財力、もしくは職業や肩書きで測られるのだとしたら、彼はそれとは全く無縁のところにいます。ましてや過去に属する学歴など、彼の圧倒的な存在感を前に何の意味もなさないことでしょう。


後日談「ふたこと、みこと」(2021年3月):
先日グレンブルックに行ってきました。日曜日でしたが、コロナの影響か蒸気機関車は運行していませんでした。


20年ぶりかと思うと感慨深いものがありました。2004年に移住してきたときは子どももすでに大きくなり、一度も戻ることはありませんでした。近くにステキなカフェを見つけたので、これからは夫婦2人でときどき出かけようと思います。

海を越えた電気釜

2002-12-07 | 香港生活
カイタック空港は市場のように混み合っていました。低い天井が人いきれを倍増させるように、上から圧迫してきます。引きも切らない英語と広東語の早口のアナウンス。大きなトランシーバーを持ち、真っ赤な制服にハイヒールで駆け回る航空会社の地上職員。長い民族衣装に身を包んだ中東系の一団がいるかと思えば、ブランドショップの紙袋を幾重にも腕にかけ、帽子を被った日本人観光客の団体も行き交います。活気と雑踏がないまぜになった、とてつもないエネルギーを秘めた空間が、長く長く横たわっていました。

そんな空港の一角、出発ロビーでよく見かけた光景。遠目にも人だかりがはっきりとわかり、近づいて行くと5~6人の家族と思しき人を囲んで20~30人の人垣ができています。周りには普通よりもはるかにたくさんの荷物があります。まるでチェックイン前のようですが、よく見るとどれも小振りでスーツケースなど大きな物が見当たらないことから、全部手荷物として機内に持ち込むようです。もっと近くまで来ると、大人たちが抱き合ったままじっとうつむいていたり、ワーワー大声を上げて泣いていたりします。ここに来てやっと、彼らが旅行に出るのではないことがわかります。

「移民かぁ~」
1987年当時、広告代理店に勤務していた私は頻繁に海外出張がありました。独身の身軽さもあって海外旅行にもよく出かけていたので、今の比ではないほど空港に行く機会がありました。
「飛行機を降りた瞬間から香港だった」
と、日本から来た友人が形容した当時のカイタック空港では、そんな海外移民の姿が珍しくありませんでした。1997年の中国返還まで10年を切り、返還を嫌って香港を発つ人がピークを迎えていた頃だったのです。

あまりに見慣れた光景だった上、世間知らずの若輩者だったこともあり、その頃の私は政治的な理由から海外へ移住して行くことが、どういうことなのかを突き詰めて考えてみるほどの想像力もないまま、
「大変そうだなぁ~。どの国に行くんだろう?まだアメリカって受け入れてくれてたっけ?」
と思う程度の、通りすがりの者でしかありませんでした。大の大人が公衆の面前で身も蓋もなく泣いている姿は異様だったはずですが、当時の香港はそれを一つの風景として完全に取り込んでしまっていました。

そんな中で、1人だけ今でも心に残っている人がいます。年の頃は70歳前後の痩せた老人で、家族の中の"おじいさん"に当たる人です。女子どもが抱き合っては泣き、見つめ合っては泣きと、終わることのない別れを惜しんでいる脇で、1人四角い箱を提げたまま、荷物を床に置くことさえ思いつかない呆然自失の様子で立っていました。深い皺が刻まれた顔には、荒野を流れる川のように涙の筋が光っています。声も立てず、真っ直ぐに前を見つめたまま、まるで目だけが涙を押し出しているかのようでした。

その老人が提げていたものは電気釜でした。段ボールの箱に写真がある、封を切っていない新品でした。西洋のどこかの国で暮らしていくために、どうしても欠かせないものだったのでしょう。人生の晩年で、それまで得たほとんどの物をここに残していかなくてはならない彼が、あえて預け荷物にせず自らの手でかの地まで持って行くことにしたのが、電気釜だったのです。それは彼にとって決して失うことのできない、今の生活の最後のよすがだったのかもしれません。

それを見て、私も初めて涙がこみ上げてきました。
「この人たち、本当は行きたくないんだ!」
そんな当たり前のことが、その時やっと理解できたのです。それでも香港を出て行くという辛い選択を下したのは自分たちのためではなく、限りなく次世代のためだったはずです。この時期に移住していったほとんどの友人が口を揃えて言っていたのは、
「私たちはどうでもいいの。でも子どもたちには未来があるから。」
と、いう言葉でした。あの老人もまた孫のために海を越える決心をしたのかもしれません。

あれから15年。通りすがりの傍観者だった私は結婚して家を成し、NZ移住を目指す毎日を送っています。私たちは100%自分の意思で、子どもだけではなく自分たちのためにも、住み慣れた香港を離れ、新天地に向かおうとしています。新しくなったチェクラプコック空港から旅立つ日には、不安よりも、たくさんの夢と希望をバッグに詰めて飛び立って行くことでしょう。でも私も新品の電気釜を持って行くつもりです。諸先輩の生活の知恵として、私の心の中での移民の原形として、そしてあの日見た老人への、遥かなオマージュとして・・・・・
                

(新しくなったチェクラプコック空港)


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編集後記「マヨネーズ」  
私が独身時代を過ごした80年代最後の香港は、移民のほとんどがカナダを目指していました。もうアメリカは入れなくなっており、家族などつてのある人以外、行ける可能性がほとんどなくなっていたのです。行き先は気候が温暖で華人社会も大きく、風光明媚なバンクーバーが人気でしたが、条件がかなり厳しくなってきており、トロントやフランス系勢力が強いケベックなどにも人が分散し始めていた頃でした。

マイナス何十度にもなるこうした場所での暮らしは、亜熱帯の香港から行った身にはさぞや辛かったことでしょう。当時、オーストラリアやNZも移住先の一つでしたが、オーストラリアは今よりもっと白豪主義のイメージが強く、「仕事もないし、行っても苦労する」という認識が強かったように思います。

後で知りましたが電気釜は移住する人へのプレゼントの筆頭だったそうで、「現地でも買えるものの、高くていいものがない」ということで、香港から持って行く必需品だったようです。


後日談「ふたこと、みこと」(2022年8月)
かれこれ40年にもならんとする昔の話。電気釜はまさにアルミの蓋と本体が別々になる釜で、炊飯器ではありませんでした。

今の香港はまた、当時と同じ現実に直面しています。中国の統制強化を嫌う移住の急増で、過去3年間で人口が21万人も減少したとか。香港に14年も育ててもらった身。「いざとなったらすべてを捨ててでも海外に出る」というのは学んだ事の一つ。そして自分も実現したことの一つ。


人生の10年周期

2002-12-04 | 人生・老後・夫婦
玄関のベルが鳴り、ドアを開けてみると隣のご主人でした。ご主人と言っても夫の元同僚で、家族ぐるみのお付き合いをしている友人でもありました。そもそもシンガポールで3軒目となったそのマンションに越してきたのは、彼らの家に遊びに来ているうちに気に入ったからです。それは1992年のことだったと思います。

「せっかく早く帰ってきたのに、うっかり鍵を忘れて家に入れなくて・・・」
と、言う彼にお茶を出しながら2人で世間話を始めました。いつも2組の夫婦として会うので、こうして2人だけで話したことは後にも先にもあの時だけでした。今から思うと、あのひと時はまるで神様が授けてくれたような一刻でした。

「人生に周期があるって知ってた?」
突然、彼が切り出しました。こちらが反応しかねているのを見て取ると、
「ある日、何でこう何もかもが上手くいかないんだろう、って考えてたんだ。そうしたら急にわかったんだよ。"俺には7年に1度、運のいい年がある"って。」
と、言い出しました。彼は当時、脱サラして自分で事業をしていました。
「"だから、あと1、2年でこの難局も乗り切れる"ってわかったら急に気が楽になってね。最近はちょっと調子がいいんだ。」
と、嬉しそうに語りました。

じきに外で音がして奥さんが帰宅したらしく、彼は強い余韻を残したまま帰っていきました。話していたのはせいぜい20分ぐらいなものでしょう。しかし、私にとっては人生の啓示にも匹敵する貴重な時間でした。1人になってから彼のアドバイス通り、思い出せる限りの記憶を辿り、その年の一番印象に残る出来事を思い出し、それがプラスだったのか、マイナスだったのかを判断して周期を探してみました。2、3歳の記憶が一番古いものの生活の断片でしかなく、はっきり甲乙がつくのはやはり小学校に上がってからのものでした。ちなみに私は2月生まれの早生まれです。

8歳=特に印象はなく中立
9歳=友人関係で苦労してマイナス
10歳=転校生と仲良くなりプラス。担任の先生からも大きく影響を受ける
11歳=その継続で中立

12歳=中学生になり新たに女ともだちに苦労しマイナス
13歳=男子が急に大人びて、いい友だちとなりプラス
14歳=受験勉強に専念し中立

15歳=第1志望校に入ったものの受験校の中で平々凡々な成績。片思いで鳴かず飛ばずのマイナス
16歳=片思いが実り一気にプラス
17歳=クラブの女子の先輩が入った大学を第1志望校に決め、クラブもやめて受験勉強突入で中立

ここからが大学生で、大人の生活のスタート。
18歳=一番入りたかった大学に入学したものの学科が第2志望で目標が定まらずに冴えない1年でマイナス
19歳=初の台湾訪問で突然、台湾に開眼。中国語に本腰を入れ始めてプラス。実家を出て女友だちと共同生活開始
20歳=独り暮らしを始め、バイトと台湾と映画に専念して中立
21歳=ゼミの担当教諭が客員教授として渡米。指導教授不在のまま卒論を書き終えややマイナス気分で卒業

ここからはいわゆる遊学(今のプー?)時代。
22歳=大学卒業後1週間で台湾へ。嬉しくて道を歩いているだけで涙が出るほどバラ色の毎日。仕事、友人にも恵まれる
23歳=その継続で中立
24歳=渡仏したはいいけれど、アジアが恋しく即後悔。でもせっかくなので1年は居ようと思い直すが気分はかなりマイナス
25歳=香港で職探し。誕生日直後に仕事が見つかり絶好調
26歳=その継続で中立
27歳=天安門事件勃発で中国ビジネスが中断しマイナスに。すべてを仕切り直したく退社して香港を離れる

28歳=シンガポールへ。直後に夫に知り合い婚約、転職して金融業界へと、大きな変化がプラスに出た年
29歳=結婚

こうして見て来ると、私は3年周期なのが良くわかります。好転した年の次の年もまずまずで、その次に冴えない年が来ます。でもそこを乗り切ると、次の年にはまた好転・・・この繰り返しが約20年続きました。ところが、結婚以降はこの3年ごとの大波小波が均質化し、プラスとマイナスが良くわからなくなってしまいました。結婚を通じて運気が完全に変わってしまったようです。

その代わり、もっと長期の10年周期がはっきりとしてきました。19歳の台湾初訪問、中国語、アジアとの本格的な出会いで、その後10年間のアジアの時代が幕を開けました。実家を出たのも大きな転機でした。29歳では結婚と金融業界での仕事という、これまた子育てや転職などその後の10年間を左右することがスタートしました。そして迎えた39歳。かなり確信的に何かが起きるのを待っていましたが、どっちの方向から、いつ何が起きるのか皆目見当もつきませんでした。でもそれがNZ旅行中のオークランドで、雷に打たれるように突然判ったのです。
「ここだ!これだったんだ」

移住は運命です。


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編集後記「マヨネーズ」  
お慕いする香港の風水師ケン・リー先生によれば、人生は数え年で回っているそうで、私が19、29、39歳で転機を迎えているのは20代、30代、40代での変化ということで、非常に理に適っているそうです。

面白いことに転機の予兆は1年前に既にあるのですが、本人が気づいていないことです。大学の第二外国語で中国語を習い始めて中国に行ったのは18歳でしたし、28歳で夫に出会い、大学の先輩に声をかけられて銀行に転職しました。38歳にはビーズのアクセサリー作りを始め手作りに開眼しているので、40代は「NZ」と「手作り」がキーワードになりそうです。

そして大きな変化が2月の誕生日以降、2、3月辺りに集中しているのも興味深いです。ですからその直前の新年をどツボ状態で迎えたことが何度あったことか・・・💦


後日談「ふたこと、みこと」(2022年8月)
20年前に自分で書いたものを読み返している今はまた、60歳という10年周期の節目を迎えたところです。58歳で予期せず突然仕事からリタイアし、38歳の香港で始めたものの、その後ずっと塩漬けだったビーズアクセサリー作りやリメイクを本格的に再開し、年間3、4,000点を寄付するまでに。周期は今でも生きていると思います。