ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

中国のお買い物

2002-08-21 | 経済・家計・投資
ある朝、オフィスでいつものように香港の経済新聞を手にすると、銀髪に太い眉の西洋人が嬉しそうに写った写真が一面を飾っています。
「あれ、ハワードじゃん」

そう、このご機嫌そうなおじさんはオーストラリアのハワード首相。記事の見出しは英語紙では「中国海洋石油のアジア太平洋事業」となっていましたが、中国語紙では「中国海洋石油、オーストラリア企業に100億米ドル契約発注」とより詳しく、写真も首相ともう1人の大柄な西洋人が満足気に握手しているものでした。

他国の首相が紙面のトップを大きく飾るのは、本人が香港を訪問中ででもなければかなり珍しいことです。NZのクラーク首相が来港した時ですら、1面にはなりませんでした。それが中国国有企業のニュースでありながら当の中国人の写真はなく、受注した民間企業社長とその国の首相が嬉しそうに握手している写真が大きく載っているのですから、何だか妙な話です。ルノーが日産に出資したからといって、日産の社長と当時の首相が
「やったね♪」
と新聞の1面を飾ったでしょうか?

この妙な展開こそが今の中国と資源国の関係を如実に物語っています。中国は高度経済成長で12億人の生活水準が急速に向上しており、全部合わせればアメリカ並みの人口を抱える沿海部の各都市は、上海を筆頭に成長街道まっしぐらです。場所によっては二桁前後の驚異的な成長を遂げています。そのため自国も世界屈指の資源国とはいえ、より確実な資源確保が急務となってきました。常にエネルギー問題に力を注ぐアメリカと同じです。

中国海洋石油は中国第3位の国有オイルメジャーで、最近はインドネシアでも油田買収に出ており、今回のオーストラリアでの最終130億米ドル(1.5兆円ですよ!)の天然ガス購入で、南半球でのお買い物ぶりがことさら顕著になってきました。受注したオーストラリア企業はこれから25年間、上得意にガス供給を行うのです。ハワード首相まで借り出されたのは、これがオーストラリアにとって史上最大の輸出案件であり(そりゃそうでしょう!)、英国BPを破っての受注という、まさに国を挙げての一大事業だったからなのです。

自国で賄えないものは外から買ってくればいいわけですが、資源となると事は単なる輸入品として片付けられなくなってきます。その確保は国家間の利害と利権の絡み合った政治色の強いものとなり、現に今回BPが敗れたのも別の事業で中国政府の心証を悪くしていたからと見られています。中国は世界第2位の外貨準備を持ち、「発展途上国」という位置づけながらも、その途方もない市場規模と侮れない資金力で世界的なプレゼンスを高めています。

その食指はNZにも伸びています。中国国務院(中央政府)直轄の中国国際信託投資(CITIC)がNZでの森林資源獲得に乗り出しているのです。彼らの計画は2億米ドル(235億円)を投じて、NZ上場企業フレッチャー・チャレンジ・フォレスト社の35%権益を取得し、フレッチャーが国内第2位の植林地を保有するセントラルノースアイランド・フォレスト・パートナーシップ(CNIFP)を買収するのを支援し、買収成功のあかつきには、フレッチャーがCNIFPを運営し、実質的にはCITICがその経営権を掌握するというのが彼らの筋書きです。

この計画がまとまって今年5月に発表されるまで、両社は過去1年半をかけてこの問題を話し合ってきました。そもそも両社は過去に提携実績があり、その後の物別れでいったんは疎遠になっていたのですが、CNIFP買収に向け再び手を組んだのです。計画が成功すれば国内2番目の森林資源が中国資本というよりも、中国政府そのものの手中に落ちるのです。世論は多大な懸念を示しましたが、株式市場ではフレッチャーが値を飛ばすなど、さまざまな思惑が噴出しました。

しかし、今月13日、侃々諤々の論争にフレッチャーの株主が一つの答えを出しました。

(つづく)

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編集後記「マヨネーズ」
証券会社の朝は早く、私の出勤は7時です。前の職場は8時だったので、6時前に起きてそのままジョギングに行って6時半までに家に戻れば、シャワーを浴びて朝食をとっても十分間に合いました。しかし、今ではそれがかなわなくなり、朝ジョグを諦めてから3年半経ちました。夕方走るという手もありますが、慢性的な残業に加え、少しでも早く帰って子どもの顔が見たいので、どうも寄り道する気になれません。それに朝の爽快感は夕方の比ではないのです。

当時の夫は、
「起き抜けからよくそんなに走れるよな~。いってらっしゃ~い」
と温かいベッドの中からぬくぬくと見送る方でしたが、最近は彼も朝に走り始め、その快感からすっかり虜になってしまいました。やり出したらとことんやるのが夫のいいところ。私が週3回ぐらいだったのに比べ、
「雨が降っていない限り毎日」
という超ハードスケジュールを自らに課し、土曜日も走っています。今度はこっちが
「よくそんなに走れるよね~」
と感心しきり。

時々出勤途中、走り終わった夫が自宅への坂道を上って来るのに出くわします。こちらはタクシーの中で日経新聞を広げ、あちらは朝から一汗かいて・・・、どちらがいいかは一目瞭然。しかし、夫が朝から上半身裸で近所を歩き回っていても誰にも何も言われない香港って、やっぱりいいとこ


後日談「ふたこと、みこと」(2021年2月):
CITICなんて懐かしい社名が出てきました。香港上場だったCITICパシフィックは当時、中国そのものの代替銘柄として何度売買したことか。

10年ひと昔なら、20年前はふた昔ですが、中国の存在を恐れつつも、その購買力には何とかして取り入りたいのは当時も今も一緒。今のオーストラリアと中国は一時的に険悪な間柄になっていますが、これもまた政治的、経済的思惑を経て変わっていくのでしょう。

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遠くにありて

2002-08-17 | 香港生活
陽の長い夏の夕暮れ時。夕食にはあまりにも早い時間でした。しかし、子どもたちが「お腹が空いた」と言い出し、ちょうど手頃な中華料理店を見つけたこともあって、私たちはアッシュバートンで車を止めました。午後6時。店にはお客が1人もおらず、華人系の女性が1人、ポツンとカウンターに座っていました。彼女を見るなり、自然に口をついて出た言葉が、
「オープンしてますか?」
だったくらい、ガランとした店でした。

それでもカウンターの横にはビュッフェ用に大盛りになった料理がいくつか並んでいます。子どもたちは待たずに食べられるので大喜び。さっそく揚げワンタンなどを取ってきました。注文を取りにきた彼女は眉間に深く皺が刻まれた、寂しそうな面影の人でした。中華系の人は普通、見知らぬ人に愛想を振り撒く人たちではありませんが、旅行中にフレンドリーなキウイを見慣れてきた目にはニコリともしない表情がとても強張って見えました。

注文を済ませ、次々に料理が運ばれ、あっという間に食べ終わってしまうと、彼女がお茶を注ぎに来てくれました。自然と言葉を交わし始め、私たちが香港から来たとわかると、彼女は初めて自分のことを話し始めました。
「私も香港から来たのよ。14年前にね。夫はもう少し早く来てたんだけど。」
80年代後半の香港は中国への返還が10年後に迫り、海外移住がピークを迎えていた頃でした。私も同僚や知り合いをどんどん失っていきました。彼女たちもそんな移民組だったようです。

「香港は変わってしまったんでしょうね。」
相変わらず誰も来ない店の中で、彼女は私たちに聞くともなく、まるで独り言のように言いました。ここにいるのが嬉しくはなく、かと言ってもう戻れないと諦めているような物言いです。
「不動産もとても上がったったんでしょう?」
と聞かれたので、
「すごく値上がりしたけど、今では10年以上前の水準にまで値下がりしてるわよ。」
と答えました。

香港人は不動産投資にとても熱心で海外移民した人たちが最も気にしているのが、往々にして不動産価格なのです。
「あのまま持ち続けていたら、2倍、3倍になっていたかも。」
と思うと、さすがに惜しいのでしょう。

しかし、その名の通り動かすことのできない資産ですから、どんなに値上がりが期待できても海外まで持っていくことはできません。私の答えは事実でしたが、その辺の事情を知っていたので、彼女を慰めたいという思いも多少込められていました。不動産は返還後5年間で、本当に半値以下にまで値下がりしていたのです。

彼女の思い出の中の香港。それはどこから沸いてくるのかと思うほどの活気に溢れ、自信満々だった頃の香港。不動産をはじめ、いろいろなものがどんどん値上がりしていた頃でもあり、奇跡的な成長を遂げる"アジアの4匹の龍"の1匹として脚光を浴びていた頃でした。

返還への不安が地下水のように社会の根底に流れてはいたものの、目に見える日常の生活はインフレと手を携えた、昇り龍の勢いを肌で感じるものでした。激しいインフレの中、株でも何でも、「何か買わなくては・・」とみんなが焦り、焦って行動に出た分、見返りのある環境でもあったのです。一生懸命頑張れば、必ず報われると誰もが疑わなかった、まっすぐで明快だった時代・・・

それは、私がパリからスーツケース1つで降り立った頃の香港でもあります。香港のことなど何も知らなかったのに、
「絶対何かできる!」
と、ゾクゾクするような期待で胸がいっぱいでした。仕事を見つけて住み着き、営業に、出張にと飛び回り、アフター5は友だちと街に繰り出し、熱に浮かされたような香港を縦横無尽に闊歩していました。そんな頃の香港は彼女にだけでなく、みんなにとって懐かしいものであり、誰も戻ることのできない場所なのです。

その時、店の中を散策していた子どもたちが、
「ママー。この香港、"バンク・オブ・チャイナ"がない~」
と言って、店にかかった1枚の写真を指差していました。それは香港の写真の定番である、九龍側から写した香港島の高層ビル群でした。89年にできた、今では香港の摩天楼の顔であると同時に、中国返還の象徴でもある中国銀行ビルが写っていません。その時、彼女が苦笑して、
「そうね、古いからね。」
と息子に言いました。初めて彼女がニコリとしたのです。懐かしい、中国銀行ビルがない頃の香港は、写真の中に少し色褪せて残っていました。

「ここでの14年は幸せでしたか?香港に残った友人が羨ましいですか?」
写真を指差しながら話す子どもの相手をしてくれている彼女の横顔に、私は心の中で語りかけていました。
「2つの生を同時には生きられない。どこかで決心しなければ。そして決めた以上はとことんやってみなくては。でも、それでも、どうしてもだめだったら、元の場所に戻ればいい。」
それは十数年を経て彼女の後に続こうとする、自分に贈る言葉でもありました。

「あなたはここに踏み留まって店まで構えたではないの。遠くにありて想う故郷はいつでも、いつまでも輝いて見えるものなのよ、きっと。」


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編集後記「マヨネーズ」
中国銀行ビルを施工したのは大手日系ゼネコンでした。大学の先輩がプロジェクトにかかわっていて、
「1度ビルに入ってみたいなぁ。」
と軽い気持ちで言った私の一言を覚えていてくれ、「明日引渡し」という日の前日に「見に来ないか?」と電話をくれました。

ところが、どうしてもその日はお客さんとの約束があって時間が空かず、せっかくの機会を無にしてしまいました。2度とない機会だったことと先輩の思いやりとを思うたび、
「仕事の方をドタキャンしてでも行くべきだった。」
と、いまだに後悔しています。



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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
20年近い歳月を経て読み返すと、自分でも感慨ひとしおです。今や当時の彼女よりも長い年月をNZで過ごしています。

独身時代を過ごした80年代の香港。家族で過ごした90年代から2004年までの香港。そして、今の揺れに揺れる香港。彼女は今でも南島のアッシュバートンにいるのでしょうか。だとしたら今の香港を、今の暮らしをどう思っていることか。

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不味くてもいいから

2002-08-14 | 移住まで
「多少不味くてもいいから、安全なものが食べたい。」
ここ数年はこんな思いが抗しきれないほど強くなってきています。特に子どもができてからは切実です。香港は飲料水から食品全般、口に入るもののほとんどを中国をはじめとする外国に頼っています。アメリカやオーストラリアといった主要農産国以外からも、タイのチキン、オランダのトマト、スウェーデンのししゃも、イスラエルのオレンジ、南アフリカの貝、台湾のえのきだけと、枚挙に暇がないほどありとあらゆる国からの食品がスーパーに並んでいます。

農業従事者がほとんどいない場所なので、NZの約2倍に当たる680万人の人口は食品を外部から調達しないと文字通り"食っていけない"のです。そのため世界中からいろいろな物が流入してくるのですが、事は食べ物。工業製品のように同じ物なら安ければ安いほどいい、という訳にはいきません。生鮮食料品を筆頭に「安くて新鮮で・・・」となると勢い中国産に頼ることになります。

ところが、中国からの食品は、残留農薬が強すぎて食べた人が痺れや嘔吐を訴えたり、果ては死亡したこともあるほど汚染された野菜や、ないに等しい工業排水規制の中、水銀等身体の中で分解されない鉱物を含んでいる魚介類が混じっていることなどが、繰り返し報道されています。肉はトリ風邪など、ニワトリをはじめとする家禽が感染するインフルエンザの発症元と見られ(実際の発症報告は香港に限られていますが)、数年前には香港で死者が出たこともあり社会問題化しています。

鳥インフルの感染経路を断ち切るために、1度に200万羽の生きたニワトリを処分したこともありました。あの時は胸が潰されるようでした。
「食用にならない。人に移る」
という人間の都合で200万もの命が失われたのです。しかし、それを決定した香港政府にもほとんど選択の余地がありませんでした。最近でも時々大量処分が行われており、笑い話のようですが、ニワトリに予防接種を受けさせるようにもなっています。

もちろん中国からの食品のすべてが汚染されているわけではないでしょうし、中国と日本が長葱で貿易摩擦を起したことも記憶に新しく、輸入審査が厳しいであろう日本市場にも中国野菜はかなり出回っています。なので色眼鏡で見ることは慎みたいと思いますが、いろいろな問題が次ぎ次ぎに報じられているのも事実なのです。こうした食べ物を毎日口にしなくてはいけない身には、これらの一つ一つが深刻な問題です。

そんな折に持ち上がっている、NZの遺伝子組み換えトウモロコシ問題。ライターのニッキー・ヘイガー氏が最近出版した「疑惑の種」の中で、2000年にアメリカから輸入された5.6トンのスイートコーンの種の中に遺伝子組み換えが行われたものが混じっていたと暴露したことから端を発した疑惑は、クラーク首相がこの事実を把握し、既に作付けが終わったトウモロコシをすべて引き抜かせようとしたにもかかわらず、業界団体の強いロビー活動でそれを断念したという経緯を詳述しています。農林省は既に、疑惑が持たれるトウモロコシ約30トンを見つけ出し、近く破棄することになっています。

ヘイガー氏が組み換え作物に一貫して反対している緑の党と深いつながりがあるため、これは政治問題として扱われかねませんが、農業国NZにとっては党是を超えた非常に重要な問題ではないでしょうか。世論でも言われているように、「組み換えフリー」の農作物というのは、「狂牛病フリー」の牛肉同様、NZ農産品への絶対の信頼となります。しかし、政府は限定的な組み換えの導入を検討しているようです。

遺伝子組み換え野菜や、抗生物質を投じた魚介類や肉類を前にして、消費者にはなす術がないのです。遺伝子操作はいったん受け入れてしまえば、種子を介してなし崩し的に広がってしまうことは素人でもわかることでしょう。組み換え食品は地球の食糧不足を解消する可能性を秘めていることになっていますが、現状ではアフリカの飢餓を解消する訳ではなく、企業のコスト削減の手段となり、「こんなに安いなら・・・」と既に食べ物が十分行き渡っている私たちの更なる飽食を煽っているだけではないでしょうか。

スーパーで鶏肉を買う時に、
「このトリは風邪を引いていないだろうか?こっちの解凍済みのブラジル産の鶏肉とどっちが安全なんだろう?」
と日々考えあぐねながら買い物をしなくてはいけない身には、NZの現状は羨ましい限りです。肉が硬かろうが安全性の高さは何にも変えられません。おまけに産地直送で鮮度も高い訳ですから、いくらでも美味しく食べることができるはずです。次世代を育む身にとって、自分たちを越えたもっと長期にわたる磐石な安全がどうしても必要です。失ってからでは遅すぎるのです。

香港で手に入るNZ産は何でもお試し



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編集後記「マヨネーズ」  
先日、家族で歌舞伎を見に行きました。夫以外はみんな初めて。ド素人でも「連獅子」、「藤娘」と言う名前くらいはわかったので、
「子どもを連れて行くにはいいかも。NZに行ったら見れないし。」
とちょっと奮発してチケットを買い、大雨にもめげずに出かけていきました。

ところが、次男は始まる直前から突然の爆睡!そんな~、夏休みになってからは10時くらいまで起きているのに、
「まだ7時半・・・(汗)」
長男も最初の「歌舞伎とは・・」という説明の時はかろうじて起きていたのに、獅子が真っ白な長いたてがみを振り乱して出てきた頃はZZZZZと夢の中。

夫は寝入っている2人を1人ずつ指差し、
「コレも、コレも160㌦(約2500円)」
とため息。しかし、次男は翌日の絵日記に“I saw Kabuki!”と書き、舞台の絵も堂々と・・・。世渡り上手なヤツになりそうです💦


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
これを書いて香港に移住した後、香港の知り合いが肝臓ガンになりました。テニスボール大に育ったガンでした。その後、本人に香港で会い話を聞いた時、
「どうしてガンになんてなったのかしら?」
とふと口をついてしまうと、
「スーパーに行くたびに何を買ったらいいのか迷って、店の中でボーっと立ち止まってしまうことがよくあったのよ。」
と彼女が言いました。

意味がわからすに説明を待つと、
「家族に、子どもに、こんなものを食べさせていいんだろうか。これは安全だろうか、と食卓を預かる身としてずっと心配していたら、自分がガンになっちゃったみたい。」
という言葉が続きました。自分と同じように考えていた人が大病になったことは、身につまされるものでした。


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癒しのビクトリアピーク

2002-08-10 | 香港生活
「香港でどこが一番好き?」
と聞かれたら答えは迷わず、
「ピーク」

地元でピークと呼ばれているのはビクトリアピークのことで、有名なピークトラムに乗って百万ドルの夜景を見に行く山頂です。我が家では土曜日の朝、ピークのトラム駅の真上にあるカフェに出かけることがあります。大人はソファで寛ぎながらコーヒー片手に新聞を読み、子どもたちはおもちゃのある一角や無料のパソコンで遊びながら午前中の一時を過ごすのです。香港に10年近くもいると休日のブランチは、飲茶よりもこんな所でのんびりする方が性に合ってくるようです。


窓の外は大概、水蒸気とスモッグが混じってぼんやりしていますが、それでも中国と陸続きの九龍半島の端の方まで見渡せ、夜景だけでなく朝の景色もなかなかいいものです。埋め立てで年々狭くなっている香港島と九龍の間のビクトリアハーバーはまるで河のようですが、行き交う船の大きさで海だということがわかります。狭くなった分、潮の流れが速くなり、水をお金に例える風水では運気が弱くなりつつあることになるそうですが、この一片の海の価値はまだまだ測り知れません。世界随一のコンテナヤードのあるクァイチョン港もこの一角に位置し、中国本土や世界中から運ばれてくる大量の物資が荷揚げされます。それが陸路や海路でそれぞれの仕向け先に運ばれており、現在のシルクロードの玄関口の一つはいまだに健在です。

香港人以外には、にわかには信じられないことでしょうが、香港では家から海を眺めることにお金を払っています。「そんなバカな…」と思われるかもしれませんが本当です。賃貸でも売買でも、広東語で「海景」と呼ばれる海が見える物件は、見えない同じ条件の物件より値段が高いのです。海が見えるくらいだから見晴らしが良い訳で、この狭苦しい香港でそれに価値があっても不思議ではないでしょう。しかし、海といっても香港島南側のリゾート風超高級住宅地か、立地条件の悪いかなり端の方に行かない限り水平線が見えるような物件ではなく、マリン気分など微塵もありません。

それでもみんなが「海景」にこだわるのはその開放感だけでなく、風水対策も大いにあるからです。生活の中で金儲けの意義がことのほか高い香港人にとって、マンションでもオフィスでも少しでもお金を意味する水、つまり海の見える物件に高い値をつけます。角度によって見える海の面積が小さくなるに従い、価値が下がっていきます。中には「これでも海景?」と首を傾げたくなるような、ビルとビルの隙間から縦にしか海が見えないような物件もあります。

あまりにも香港人が「海景」をありがたがり、不動産業者も当然のように、
「これは海景ですからもう2,000ドル(約3万円)は出さないと」
と、その価値観を基準にしているため、始めは戸惑う外国人もだんだんこれに傾き、
「コレしか海が見えないのにこの値段は高いっ!」
と、文句が出るようになるまで、さほど時間はかかりません。

山の頂上で全方位に海が見渡せるピークの開放感は格別です。入植したイギリス人が風水のご利益を知っていたのかどうかは知りませんが、彼らは100年以上も前にピークトラムを走らせて山の上で暮らし始めたのです。クルマがあっても、狭くて急勾配の山道は輿に乗って移動していたような時代ですから、トラムの開通はさぞや画期的なことだったことでしょう。

辛かった時、悲しかった時、嬉しかった時、何でもない時、私は幾度となくピークに上り、足元から広がる亜熱帯の濃緑の森、それに続くぎっしりと林立するビル群、その向こうの霞が立ち込めた海面、そして対岸の九龍という眺めに、どれだけ慰められたことか。視界の中の濃縮された香港は、
「必ずどこかに身の置き場があるよ!」
と無言で語りかけてくれているようで、何度も力づけられました。大切な友人を白血病で亡くした時も、子どもを生む直前も、友人の結婚披露宴クルーズに乗り遅れてしまった夜も、私はそこに立って海を眺めていました。そこでの癒しは何にも代えがたく、限りある香港滞在中、これからも何度となく足を運ぶことでしょう。


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編集後記「マヨネーズ」  
緑色の封筒を受け取りました。香港では緑封筒は税務署からのものと決まっていて、できることなら受け取りたくはないけれど、受け取ってしまったからにはきちんと対処しないと、後で大変なことになる痛し痒しの代物です。開けてみると今年度の納税通知でした。ここでの財政年度は日本と同じ4月から3月なので実際の納税は年明けです。

日本と違って源泉徴収ではないため、勤め人といえども各自の年間所得を1人1人申告し、通知を受け取ったら指定された納税日までに支払います。面倒でも非常に明瞭なシステムで、自分の納税額や支払った税金の行く末が否が応でも気になってきます。そうこうするうちに外国人であっても市民意識が芽生えてくるから面白いものです。

納税額が通知されても支払いは半年先。今から税金分をコツコツ貯金するアリ派、年明けのボーナスを当てにして夏場は楽しくやるキリギリス派、直前に納税ローンを組んで切り抜けるたくましいゴキブリ派(?)まで、これからの半年は人それぞれ。
「きっとこの通知が最後になる!」
と念じながら、勝手に香港回顧モードに入っている昨今です。


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キスで終わる物語

2002-08-07 | 移住まで
"テムズで76歳の老人が74歳の老女殺人の罪で起訴された。オルガ・エミリー・ロウは昨朝7時45分に自宅で殺されているのが発見されたが、警察は彼女の死因を明らかにしていない。老人は本日、ハミルトン地方裁判所に出廷する”
オルガ・ロウ殺人事件を伝える3月8日付けの新聞記事はわずか数行のものでした。

それから5ヶ月たった8月4日の続報は詳細を伝える長いもので、この事件の全容が初めて明らかになりました。見出しは「キスで終わった妻殺し」。
"殺人は簡単なことだった。レックス・アーサー・ロウは妻がこれ以上アルツハイマーに苦しむことに耐えられないと悟り、睡眠薬、木槌、枕を用意した"。
"3月6日、妻をべッドに寝かせ、睡眠薬を飲ませ、眠りに落ちたところを小槌で殴り、枕を押し付けて息の根を止めた。そして、妻の額にキスし、「すぐにお前のところに行くよ」と囁やいた"。

"レックスは1時間待って妻の死を確認した。妻が生き返った時に自分が既にこの世を去っているようなことがあってはならなかった。彼はナイフで手首を切り、死を待つ間に1人息子のジョンに遺書を書いた。
「すまない。でも私はこれ以上耐えられなかった。オルガは日増しに悪くなっていくばかりだ。家を売って金を作ってくれ。そして我々を荼毘に付し密葬にしてくれ。」
彼は部屋を汚さないよう滴る血を集めるために、ベッドの脇にバケツを置いて眠りについた"。

しかし、レックスは永久の眠りにつくことはできませんでした。傷口で血が凝固してしまったのです。明け方4時に目が覚めてしまったものの、すぐには警察に通報せず、夜明けを待ちました。これに対し彼は、
"彼らを起こしたくなかったのです。警察にできることは何もなかったのですから"
と語り、通報の際には「私は生き甲斐を失いました」と告げています。そのためオルガは7時45分になって初めて死亡しているのを発見されたのです。

8月3日、オークランド高等裁判所はレックス・ロウを殺人の罪で有罪としましたが、懲役が確定する8月30日まで引き続き息子の監督のもとで保釈の身とすると発表しました。弁護人は実刑をともなわない判決を求めています。というのもNZでは法律を見直しており、レックスは殺人罪が確定しながらも実刑を免れる初のケースになる可能性があるのだそうです。しかし、本人は自分に実刑判決が下りなかった場合、他の殺人事件を誘発してしまうのではないかと懸念しています。
「私は実刑になった方がいい。金のために同じことをしかねない奴らを誤解させてしまう。」
と語り、心の準備ができていることを表明しています。

夫婦は今から56年前の1946年にダンスホールで知り合い、64年にテムズに移り住みました。洋品店を営んでいたオルガがある日、お客からアルツハイマーで苦しんでいる人の話を聞いたことをレックスに語り、
「もしも私がそうなったら殺して。」
と頼みました。夫はそれに同意し、もし自分が同じ目にあったら同じようにするよう妻に頼んだのでした。
「それは心から真摯なものでした。」
とレックスは回顧しています。

そんな妻の様子に変化が出てきたのは7年前でした。始めは魚のエサを庭に撒いたり、小切手を隠したりというほんの"ささいな事"だったのですが、4、5年前にはアルツハイマーと診断され、皮肉なことにその病気を最も恐れていた妻こそが発症してしまったのです。夫は老人ホーム行きを嫌がる妻のため、家でたった1人で介護することを決めました。1年前からは病状が一段と重くなり、妻は夫すら判らなくなってしまいました。子どもに戻って両親を呼び求め、訳の分からないことを口走り、夜中に徘徊し始めました。

計画は実行の3週間前に決定したそうです。夫は妻がこの苦しみから逃れたがっていると分かっていました。
"妻の変わり果てた姿を見るにつけ心が痛みました。彼女はあんなにも生き生きとした明るい性格で、私たちは素晴らしい夫婦でした"。
"今でも妻のことを思うと胸が張り裂けそうですが後悔はしていません。彼女は私の人生そのものでした。彼女の傍に居たかったのです。明日死んでも悔いはありません。すべきことができていれば、今、私はここにいないはずですから"。

日曜の朝、珍しく早起きしてしまいパソコンを立ち上げた時、不意に飛び込んできたこの記事。家族がまだ寝静まっている中、1人で読みながら思わず目頭が熱くなりました。妻への愛を淡々と語る夫に疑問も後悔もありません。これが無人島の2人だけの生活であれば、罪ですらないのです。誰にも迷惑をかけず、妻の希望をかなえた彼を、誰が「生の尊厳を踏みにじった」と責めることができるでしょうか。

ただし、社会の中で生きる身である以上、経緯はともあれ殺人は重罪で、あってはならず、罰せられなくてはならないのです。レックスは社会の1人としてその罰を甘んじて受けるつもりです。もう彼にとって自分が社会からどう裁かれるかということなど、どうでもいいことなのでしょう。世間の喧しい法制度へ論議も彼の耳には届かず、ただひたすら妻への尽きることのない想い抱きながら、深い哀しみの淵に1人静かに佇んでいるばかりなのでしょう。


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編集後記「マヨネーズ」  
テムズに行ったことがあります。夏の午後の昼下がり人っ子1人見かけない、忘れ去られたような町でした。今でも使われているのかどうか判然としない無人駅や炭鉱学校、普通の家と変らない大きさの美術館もありました。かつての繁栄の跡が偲ばれるだけに、今の静かさが染み入るようなひと時でした。でも陽の光を浴びる端正な町並みに暗さはありませんでした。あの中のどこかの家で、ロウ夫婦はお互いを見つめあいながら暮らしていたのでしょう。

なぜか心惹かれる小さな家をいくつか見つけ、そのうち最も気に入ったものは売りに出ていました。置物のネコが飾り窓からこちらを見ている中、誰も出てこないのが分かっているせいか、心置きなく何枚も写真を取りました。クルマさえ通らない通りもレンズに収め、何の変哲もない町でフィルムを1本使ってしまい、夫に呆れられました。その時の印象が、「事件の舞台にはもってこいだな」というものだったのを今でも良く覚えています。



後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
これを書いた約20年前ですら胸が熱くなったラブストーリー。アルツハイマーがぐっと身近になってきた今の年齢で読み返すと一層切なく感じられます。私たちは56年間も夫婦でいられるのか?私85歳、夫81歳。長生きしなきゃ~(笑)💦

今のテムズはオークランダーのリタイア先としても人気で、発展を遂げており、時々立ち寄っています。

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