ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

第7天国・第9積雲

2004-06-04 | 移住まで
家の中はとても静かでした。2004年5月31日月曜日。

賑やかだった週末が終わり、子供は学校へ、夫は仕事へ。私は散らかし放題の家の中を片付けながら、部屋から部屋へと行ったり来たり。ネコはソファでいぎたなく眠り、動くどころか目を覚ます気配もありませんでした。そんな時に電話の音。出てみるとNZの移住エージェントでした。
"Hi Mikoto, How are you?"
すっかり聞き慣れた彼の声を聞いたとたん、やり残した宿題に気付いた時のように、急に気持ちが萎むのを感じました。

私たちは前週木曜日の27日に、移住申請に向けたすべての追加書類をウェリントンの移民局に送っていました。移民局が書類を受け取るのは提出期限だった翌28日のはずで、そこから再審査が始まる予定でした。27日のエージェントとの最後の電話では、
「これから1週間は電話しないよ。どうせ動きがないから報告することもないし。」
と言われ、お互いしばらく話さないことを前提に、"Have a nice weekend!"と言って電話を切ったのです。

それが週明けの月曜早々に、再び電話がかかってくるとは!さらに追加で何かを出すよう言われるに違いありません。それまでの2週間は平均睡眠時間ほぼ3~4時間で、来る日も来る日も英文での文書作成、会計士が作成する文書の校正や訂正に明け暮れる日々でした。それから解放されただけでも、結果はどうあれひとまずホッとしていたところだったのに、再び予期せぬエージェントからの電話。彼の声に身じろぐのは致し方ないことでした。
「今度は何が欲しいの?」
そう思いつつ、"I'm fine"と、思わずぜんぜんfineではない声が漏れてしまいました。

「決まったよ。ビザがおりたんだ!」
「・・・・・・?」
「おめでとう!」
「・・・本当?こんなに早く?」
「そうさ!」
「だって書類が届いたのって金曜でしょう?」

私はなんともトンチンカンでした。「信じられない!」という気持ちが先走り、まるで事実を否定するかのような受け答えでした。エージェントはそんな顧客の狼狽には慣れ切っているのか、
「ビザを張るから家族全員のパスポートが要るんだ。メールに詳しく書いてるから、そっちを読んでくれ・・・」
と、おろおろする私の気持ちなど置き去りにして、どんどん事務的な話を進めていきます。それに追いつけないまま、会話の半分は上の空で電話を終えると、私は真っ先に神棚に向かって感謝の気持ちを捧げました。
「あぁ、神棚を作っておいて良かった。間に合った。こんな時には祈る場所が絶対必要。でも、シャンペンを冷やしておくのだけは間に合わなかった・・・」

"I'm in 7th Heaven or on cloud 9!"
その時の気持ちを表すとしたら、まさにそんなところでした。天にも昇る夢見心地なのですが、そこを" 第7"天国とか"第9"積雲と限定してくれると、なんだか天国でもずっと上の方、入道雲だったらモクモク伸びた一番高い頭の部分という気がしてピッタリな気分でした。'

「やった~!不可能が可能になった。私たちの主張がとうとう聞き入れられた。夢がかなったんだ!ありがとう、NZ!」
私は一足遅れて、誰もいない家の中で飛び上がりました。そして吉報を夫に知らせるため、電話の受話器を鷲づかみにしました。


(※私のイメージの中の「天国の特等席」@オークランドの友人宅)


移住計画を思い立ってから3年4ヶ月。実際の移住申請を済ませてから1年2ヶ月。長かった西蘭家の移住計画はひとまず成功を収めました。その間、条件は厳しくなる一方でしたが、なぜか私たち夫婦は一度たりとも、「行かれない」と思ったことがありませんでした。こう言うと、いかにも傲慢に聞こえてしまうかもしれませんが、それ以外のことが考えられない以上、どんな方法でも、どれだけ時間をかけても行くつもりでした。運命と言うしかない理屈抜きの選択ゆえの、幸せな思い込みでした。

そうは言っても落胆したり、焦ったりと、気持ちのさざなみはいろいろありました。しかし、移民局からのネガティブな所見を一読した後、私はなぜかやる気が出てきました。ここまで言われたら、こちらも徹底的に反論できるというもの。沸々と反論の文章が頭の中に湧き上がってきたものです。しかし、夫は一枚も二枚も上手でした。

「良かったじゃん。これで思ったより早く行けるね!」
と、なんとも嬉しそうなのです。所見の内容など一切お構いなしに、移民局からとうとう反応があったということで、さっさと勝算を募らせていました。
「行けると思う?」 
「もちろん!」 
お互いの気持ちは二言で確認できました。お気楽ノー天気もここまで極められれば、それはそれで幸せなことです(笑)

7月24日にはオークランド入りする予定です。今回のメルマガでこの成功をご報告できることを、本当に幸せに思います。願をかけるような思いで始めたメルマガも222号という縁起のいいぞろ目に当たり(2=中国語で「易」 "簡単、容易"の意)、幸先も悪くなさそうです(笑) この2年間、本当にたくさんの方からご連絡をいただき、お目にかかった読者の方も少なくありません。まったく無名の者が書いたメルマガを読み、私たち一家を見守り、応援して下さったみなさまの善意に心から感謝いたします。そして、これからもよろしくお願いいたします。

みなさまの夢も、きっとかないますように。


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後日談「ふたこと、みこと」(2022年7月):
自分のHPからこのブログへのメルマガ移行を2019年5月に決意したものの、遅々として進まず💦 今回のメルマガがオリジナルの連番で222本目だったとは 移行すべきメルマガはゆうに700本以上あり、移行が終了したのは今回で54本目。気が遠くなりそうですが(笑)、ぼちぼちやろう。


祈りの場

2003-06-28 | 移住まで
NZ南島。目の前の湖面には夕闇が広がっていました。風は冷たく、自然に服の前をかき合わせ、腕組みをしていました。私と夫は迫り来る闇に背中を押されるように、湖畔に立つ小さな石造りの教会に入りました。奥行きも幅もない小箱のような空間の先には、大きな横長のガラス窓があり、その向こうには今しがたまで目にしていた夕刻のテカポ湖が広がっていました。2人ともその美しさに、思わず息を呑みました。外の冷たさとは裏腹に、そこには昼間の暖かみが満ちていました。


外と同じ眺めなのに、ガラスの向こうの風景はまるで一幅の絵でした。教会の中は外よりも一段と暗かったため、夕闇に包まれていたはずの外の眺めは、まるで一日の残光の中でほのかに輝くように明るく見えました。完全な逆光の中、建物の壁は黒い額縁のように、はかなく消えていく光を縁取っています。雄大な眺めをこの黒縁の中に切り取ったことこそが、この建物の傑作たるゆえんでしょう。まさに静謐という言葉そのものでした。

私はクリスチャンではありませんが、南島のほぼ真中に位置する「善き羊飼いの教会」ほど、祈りの場に相応しい場所を他に知りません。大自然を切り取って目の前に差し出すことで、この教会に足を踏み入れる者に祈る対象を授けているのです。同じ眺めであっても、教会の外では広大過ぎて、その美しさに心を奪われることはあっても、祈りにはつながらないのです。現に私たちは、圧倒的な自然を前に言葉を失い、ファインダーをのぞくのも虚しく、茫然と立ち尽くしているばかりでした。

ここは教会でありながら、人々が本当に祈りを捧げてきたものは窓の前に立つ小さな十字架ではなく、その向こうの大自然そのものではなかったのかと思い当たりました。十字架は切り取られた風景に一つの焦点を与えているに過ぎないように思います。それがゆえ異教徒でも無宗教の者でも、この場所に足を踏み入れたならば、膝まづいたり手を合わせたりせざるを得ない気持ちになっても不思議はありません。それぐらい、そこは信仰で満ち、視界のすべてが神々しく見えました。

こんな場所では祈るという、神への語りかけを通じた自問自答をしてみたくなります。小箱のような部屋全体が懺悔室そのものとなり、「悔い改めよ」という水先案内をする牧師がいないからこそ、直接自らの心に、ひいては神に語りかけ、悔いたり決意を新たにしたりしながら、自分の思考を深めていくことができそうな気がしました。静寂、雄大さ、人工的なものが視界から消える清廉な1日の終わりの一刻。その日の自分を振り返るには最適の場所に思えます。

NZ北島。私の知る限り、NZにはもう一つ祈りの場として相応しいところがあります。それはロトルアにあるアングリカン教会です。こちらもロトルア湖の湖畔に建っていますが、善き羊飼いの教会に比べて規模も大きく、建物も立派で、同じ敷地内にマオリの集会場マラエもあり、北島らしいローカル色豊かな教会です。裏手には戦没者をはじめ、町の人々が美しい湖を臨みながら、とこしえの眠りについています。

方角は北(北半球での南)向きで、朝の祈りに向いた場所です。教会内の右手には大きなキリストを描いたステンドグラスがあり、その向こうにはロトルア湖が広がっています。キリストがちょうど水面に片足を踏み出し、渡って来るような構図になっているのが見事です。顔立ちはどう見てもマオリで、磔にあった痩せ細った姿とは似ても似つかぬ骨太の逞しい姿で、羽毛でできたマオリの長老の服をまとっています。わかり易い容姿を施すことで、マオリたちへの布教に役立てたのでしょう。

でも、私はこの雄々しいキリストがけっこう気に入っています。朝日を背にして後光を放ちながらこちらに向かってくる姿には、信仰心の高揚という目的を超越したものを感じます。親しみ易いキリストと背後の湖とが一体化した構図は人々を惹きつけ、ここを訪れる者は知らず知らずのうちに、外に広がる美しい自然を拝んでいたのではないでしょうか?善き羊飼いの教会の黒く影になる窓枠の中の小さな十字架のように、このキリストは人々に祈る対象を与えてきたのかもしれません。そして、本当の信仰と神はその向こうの無限の空間に在ったのではないでしょうか?教徒でない私には、そんな風に思えてなりません。

私は神の存在を信じています。ただし宗教心はありません。ですから教会だろうが神社仏閣だろうが、道教の廟だろうがヒンズーの寺だろうが、祈れるものには何でも手を合わせます。それぞれ構えが違っても、その向こうの存在は同じもの(少なくとも同じ起源のもの)だと思っているので、見た目の違いは気になりません。そして祈りは決して一方向の"おねだり"ではなく、願うと同時に自分も実現に向けてまい進し、何かが起きれば反省したり喜んだりし、何も起きなければ起きない意味を掘り下げて考え、最終的には感謝につながっていくものだと信じます。朝な夕なに自然に祈れる、神々に近い暮らしの中で、心穏やかに生きていければ・・・と、心から願っています。

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編集後記「マヨネーズ」 
善き羊飼いの教会は日本人観光客に最も人気の高いコースの一つでしょう。午前中に行ったことがありますが、辺りは観光バスで乗りつけた年配の日本人でいっぱいでした。みな嬉しそうに湖をバックに代わる代わる写真に収まり、教会に入りきらない人は外に列を作っていました。しかし、それほどの盛況(?)にもかかわらず誰一人お布施をしていかなかったのにはがっかりでした。


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後日談「ふたこと、みこと」(2023年3月)
これは移住前の2002年の話でした。善き羊飼いの教会には20年後の2022年に夫婦で再訪しました。柵で囲まれたり周辺の遊歩道が整備されていましたが、基本的には変わっておらずホッとしました。

父たるもの泰然と湯を沸かそう

2002-12-14 | 移住まで
男は腕を組んでじっと座っていました。頭を挙げ、背筋を伸ばし、誰もいない大きなテーブルに1人で座っています。スキンヘッドに袖をちぎった黒のTシャツ。逞しい二の腕には程よい筋肉と刺青も載っています。大きめのピアス。裾が編み上げブーツにねじ込まれた黒い特攻パンツ。顔に細く張り付いたサングラスは真っ黒で、男の視線がどこに向かっているのかはわかりませんが、この姿勢からすると真正面を凝視しているようです。

こんないでたちの人に、夜の繁華街で会ったら思わず視線を反らし、なるべく目を合わせないようにしてやり過ごしたいところですが、私は隣のテーブルの彼から目が離せずにいました。燦々と陽が降り注ぐうららかな午後。しかも、渡っていく風が気持ち良い外の芝生の上。私がチラチラ見ていることなどバレバレだったかもしれませんが、男はその姿勢のままぢっと待っていました。

彼は湯が沸くのを待っていたのです。テーブルの上には鍋物をする時に使う見慣れた卓上コンロが置いてあり、その上に小振りのガラスポットが載っています。ガラス越しにガスの青い火も、水の中の空気が一つまた一つと上がってきては爆ぜ、沸点に近づいていくのもはっきりと見て取れました。

グラグラと湯が沸いてきましたが、男は身じろぎもせずに腕を組んだままです。しまいにはポットが揺れ出すのではないかと思われるほど煮えたぎり、思わず立っていって火を止めてしまいたくなるのをぢっと堪えていると、やっと火が消されました。ガラスの中の狂乱はそう簡単には収まらない様子で、なおも派手に泡立っています。男はゆっくり立ち上がると足元からやおら何かを持ち上げ、テーブルの上に置きました。それはかなり大振りのピクニック用バスケットでした。取っ手を左右に開き、その下の蓋も左右に開くと、中が布張りになっていました。

まるで儀式を執り行うように、男は慣れた手つきで事を運んでいきます。きびきびとしていながらどこか優雅で、形式美さえ感じさせる動きです。私が盗み見ている以外、誰一人、気にも留めない中で、無駄のない流れるような仕草が続きます。まずバスケットから取り出した缶から茶葉を出してポットに入れ、次に重ねたケーキ皿を出し、更に底の方からティーカップを1客ずつ取り出しています。全部で6客出たところで、テーブルの上にカップとソーサー、ケーキ皿と、セットで並べ始めました。

並べ終わった後、テーブルの周りを回ってセッティングを確かめている姿は、有能な執事が大事な客人をもてなすために入念なチェックを入れているかのようです。蝶ネクタイの燕尾服ではなく、ブーツを履いたスキンヘッドという外見ながら、大切な人に仕えることを誇りとし、自分の使命をまっとうしているような忠実な姿は優美でした。点検が終わると男はポットの中で美しい琥珀色になったお茶を1客ずつ注いでいき、バスケットから出したクッキーをお皿に並べ始めました。

用意が整ったその瞬間、どこからともなく長いワンピースの裾を翻しながら髪の長い女の子が現れました。テーブルにつくと、胸から上しか見えないような小さな女の子です。パッとお皿のクッキーをつかむといきなり食べ始めました。その時もう1人同じような、けれど少し大きい女の子がやってきて席に着きました。そしてまた1人、また1人。似たような顔つきの長い髪。四姉妹のようです。

子どもたちが着席したところで、ローラ・アシュレイのような小花柄のワンピースを着た、背の高い細身の女性がゆっくりと近づいてきました。長い金髪を無造作に結んだ裾が風に揺れています。手には麦藁帽子を持っています。娘たちの世話を焼いていた男は妻に気付くとすぐに身を起こし、抱き寄せて軽くキスをするとテーブルに招き入れ、自分もその横に座りました。こうして一家の夏の日の午後のお茶が、美しい緑の芝生の上で始まりました。

私たちはオークランドからクルマを飛ばし、日曜日しか走っていないというグレンブルックの蒸気機関車に乗りに来ていたところでした。

(※2001年のグレンブルック)


線路脇のピクニック用のテーブルの上には、どこも同じようなピクニックバスケットが口を広げて置いてあります。お茶かコーヒーが入っているらしいポットは随分見ましたが、コンロまで持ち込んで湯を沸かしていたのはこの一家だけでした。彼の服装、立ち居振る舞い、家族への想い、そのすべてが強烈な美意識で貫かれていました。さんざめく明るい日差しの下、家族にお茶を淹れるという行為がこんなにも美しいことであると、誰が想像し得たでしょう。人生で五指に入る衝撃的な人でした。それと同時に、彼はキウイハズバンドの類まれなる原型として、私の脳裏に深く深く刷り込まれていきました。


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編集後記「マヨネーズ」
"男気"とか"ダンディズム"とか、日本語でも英語でも古風な形容詞でしか彼の人となりを説明できない感じです。同じことをお母さんがしていても、それなりにステキだったかもしれませんが、彼が一家の父としてやっていてこその、忘れられない光景です。もしも世の中のお父さんの価値が「金持ちとうさん貧乏とうさん」のように財力、もしくは職業や肩書きで測られるのだとしたら、彼はそれとは全く無縁のところにいます。ましてや過去に属する学歴など、彼の圧倒的な存在感を前に何の意味もなさないことでしょう。


後日談「ふたこと、みこと」(2021年3月):
先日グレンブルックに行ってきました。日曜日でしたが、コロナの影響か蒸気機関車は運行していませんでした。


20年ぶりかと思うと感慨深いものがありました。2004年に移住してきたときは子どももすでに大きくなり、一度も戻ることはありませんでした。近くにステキなカフェを見つけたので、これからは夫婦2人でときどき出かけようと思います。

不味くてもいいから

2002-08-14 | 移住まで
「多少不味くてもいいから、安全なものが食べたい。」
ここ数年はこんな思いが抗しきれないほど強くなってきています。特に子どもができてからは切実です。香港は飲料水から食品全般、口に入るもののほとんどを中国をはじめとする外国に頼っています。アメリカやオーストラリアといった主要農産国以外からも、タイのチキン、オランダのトマト、スウェーデンのししゃも、イスラエルのオレンジ、南アフリカの貝、台湾のえのきだけと、枚挙に暇がないほどありとあらゆる国からの食品がスーパーに並んでいます。

農業従事者がほとんどいない場所なので、NZの約2倍に当たる680万人の人口は食品を外部から調達しないと文字通り"食っていけない"のです。そのため世界中からいろいろな物が流入してくるのですが、事は食べ物。工業製品のように同じ物なら安ければ安いほどいい、という訳にはいきません。生鮮食料品を筆頭に「安くて新鮮で・・・」となると勢い中国産に頼ることになります。

ところが、中国からの食品は、残留農薬が強すぎて食べた人が痺れや嘔吐を訴えたり、果ては死亡したこともあるほど汚染された野菜や、ないに等しい工業排水規制の中、水銀等身体の中で分解されない鉱物を含んでいる魚介類が混じっていることなどが、繰り返し報道されています。肉はトリ風邪など、ニワトリをはじめとする家禽が感染するインフルエンザの発症元と見られ(実際の発症報告は香港に限られていますが)、数年前には香港で死者が出たこともあり社会問題化しています。

鳥インフルの感染経路を断ち切るために、1度に200万羽の生きたニワトリを処分したこともありました。あの時は胸が潰されるようでした。
「食用にならない。人に移る」
という人間の都合で200万もの命が失われたのです。しかし、それを決定した香港政府にもほとんど選択の余地がありませんでした。最近でも時々大量処分が行われており、笑い話のようですが、ニワトリに予防接種を受けさせるようにもなっています。

もちろん中国からの食品のすべてが汚染されているわけではないでしょうし、中国と日本が長葱で貿易摩擦を起したことも記憶に新しく、輸入審査が厳しいであろう日本市場にも中国野菜はかなり出回っています。なので色眼鏡で見ることは慎みたいと思いますが、いろいろな問題が次ぎ次ぎに報じられているのも事実なのです。こうした食べ物を毎日口にしなくてはいけない身には、これらの一つ一つが深刻な問題です。

そんな折に持ち上がっている、NZの遺伝子組み換えトウモロコシ問題。ライターのニッキー・ヘイガー氏が最近出版した「疑惑の種」の中で、2000年にアメリカから輸入された5.6トンのスイートコーンの種の中に遺伝子組み換えが行われたものが混じっていたと暴露したことから端を発した疑惑は、クラーク首相がこの事実を把握し、既に作付けが終わったトウモロコシをすべて引き抜かせようとしたにもかかわらず、業界団体の強いロビー活動でそれを断念したという経緯を詳述しています。農林省は既に、疑惑が持たれるトウモロコシ約30トンを見つけ出し、近く破棄することになっています。

ヘイガー氏が組み換え作物に一貫して反対している緑の党と深いつながりがあるため、これは政治問題として扱われかねませんが、農業国NZにとっては党是を超えた非常に重要な問題ではないでしょうか。世論でも言われているように、「組み換えフリー」の農作物というのは、「狂牛病フリー」の牛肉同様、NZ農産品への絶対の信頼となります。しかし、政府は限定的な組み換えの導入を検討しているようです。

遺伝子組み換え野菜や、抗生物質を投じた魚介類や肉類を前にして、消費者にはなす術がないのです。遺伝子操作はいったん受け入れてしまえば、種子を介してなし崩し的に広がってしまうことは素人でもわかることでしょう。組み換え食品は地球の食糧不足を解消する可能性を秘めていることになっていますが、現状ではアフリカの飢餓を解消する訳ではなく、企業のコスト削減の手段となり、「こんなに安いなら・・・」と既に食べ物が十分行き渡っている私たちの更なる飽食を煽っているだけではないでしょうか。

スーパーで鶏肉を買う時に、
「このトリは風邪を引いていないだろうか?こっちの解凍済みのブラジル産の鶏肉とどっちが安全なんだろう?」
と日々考えあぐねながら買い物をしなくてはいけない身には、NZの現状は羨ましい限りです。肉が硬かろうが安全性の高さは何にも変えられません。おまけに産地直送で鮮度も高い訳ですから、いくらでも美味しく食べることができるはずです。次世代を育む身にとって、自分たちを越えたもっと長期にわたる磐石な安全がどうしても必要です。失ってからでは遅すぎるのです。

香港で手に入るNZ産は何でもお試し



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編集後記「マヨネーズ」  
先日、家族で歌舞伎を見に行きました。夫以外はみんな初めて。ド素人でも「連獅子」、「藤娘」と言う名前くらいはわかったので、
「子どもを連れて行くにはいいかも。NZに行ったら見れないし。」
とちょっと奮発してチケットを買い、大雨にもめげずに出かけていきました。

ところが、次男は始まる直前から突然の爆睡!そんな~、夏休みになってからは10時くらいまで起きているのに、
「まだ7時半・・・(汗)」
長男も最初の「歌舞伎とは・・」という説明の時はかろうじて起きていたのに、獅子が真っ白な長いたてがみを振り乱して出てきた頃はZZZZZと夢の中。

夫は寝入っている2人を1人ずつ指差し、
「コレも、コレも160㌦(約2500円)」
とため息。しかし、次男は翌日の絵日記に“I saw Kabuki!”と書き、舞台の絵も堂々と・・・。世渡り上手なヤツになりそうです💦


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
これを書いて香港に移住した後、香港の知り合いが肝臓ガンになりました。テニスボール大に育ったガンでした。その後、本人に香港で会い話を聞いた時、
「どうしてガンになんてなったのかしら?」
とふと口をついてしまうと、
「スーパーに行くたびに何を買ったらいいのか迷って、店の中でボーっと立ち止まってしまうことがよくあったのよ。」
と彼女が言いました。

意味がわからすに説明を待つと、
「家族に、子どもに、こんなものを食べさせていいんだろうか。これは安全だろうか、と食卓を預かる身としてずっと心配していたら、自分がガンになっちゃったみたい。」
という言葉が続きました。自分と同じように考えていた人が大病になったことは、身につまされるものでした。


キスで終わる物語

2002-08-07 | 移住まで
"テムズで76歳の老人が74歳の老女殺人の罪で起訴された。オルガ・エミリー・ロウは昨朝7時45分に自宅で殺されているのが発見されたが、警察は彼女の死因を明らかにしていない。老人は本日、ハミルトン地方裁判所に出廷する”
オルガ・ロウ殺人事件を伝える3月8日付けの新聞記事はわずか数行のものでした。

それから5ヶ月たった8月4日の続報は詳細を伝える長いもので、この事件の全容が初めて明らかになりました。見出しは「キスで終わった妻殺し」。
"殺人は簡単なことだった。レックス・アーサー・ロウは妻がこれ以上アルツハイマーに苦しむことに耐えられないと悟り、睡眠薬、木槌、枕を用意した"。
"3月6日、妻をべッドに寝かせ、睡眠薬を飲ませ、眠りに落ちたところを小槌で殴り、枕を押し付けて息の根を止めた。そして、妻の額にキスし、「すぐにお前のところに行くよ」と囁やいた"。

"レックスは1時間待って妻の死を確認した。妻が生き返った時に自分が既にこの世を去っているようなことがあってはならなかった。彼はナイフで手首を切り、死を待つ間に1人息子のジョンに遺書を書いた。
「すまない。でも私はこれ以上耐えられなかった。オルガは日増しに悪くなっていくばかりだ。家を売って金を作ってくれ。そして我々を荼毘に付し密葬にしてくれ。」
彼は部屋を汚さないよう滴る血を集めるために、ベッドの脇にバケツを置いて眠りについた"。

しかし、レックスは永久の眠りにつくことはできませんでした。傷口で血が凝固してしまったのです。明け方4時に目が覚めてしまったものの、すぐには警察に通報せず、夜明けを待ちました。これに対し彼は、
"彼らを起こしたくなかったのです。警察にできることは何もなかったのですから"
と語り、通報の際には「私は生き甲斐を失いました」と告げています。そのためオルガは7時45分になって初めて死亡しているのを発見されたのです。

8月3日、オークランド高等裁判所はレックス・ロウを殺人の罪で有罪としましたが、懲役が確定する8月30日まで引き続き息子の監督のもとで保釈の身とすると発表しました。弁護人は実刑をともなわない判決を求めています。というのもNZでは法律を見直しており、レックスは殺人罪が確定しながらも実刑を免れる初のケースになる可能性があるのだそうです。しかし、本人は自分に実刑判決が下りなかった場合、他の殺人事件を誘発してしまうのではないかと懸念しています。
「私は実刑になった方がいい。金のために同じことをしかねない奴らを誤解させてしまう。」
と語り、心の準備ができていることを表明しています。

夫婦は今から56年前の1946年にダンスホールで知り合い、64年にテムズに移り住みました。洋品店を営んでいたオルガがある日、お客からアルツハイマーで苦しんでいる人の話を聞いたことをレックスに語り、
「もしも私がそうなったら殺して。」
と頼みました。夫はそれに同意し、もし自分が同じ目にあったら同じようにするよう妻に頼んだのでした。
「それは心から真摯なものでした。」
とレックスは回顧しています。

そんな妻の様子に変化が出てきたのは7年前でした。始めは魚のエサを庭に撒いたり、小切手を隠したりというほんの"ささいな事"だったのですが、4、5年前にはアルツハイマーと診断され、皮肉なことにその病気を最も恐れていた妻こそが発症してしまったのです。夫は老人ホーム行きを嫌がる妻のため、家でたった1人で介護することを決めました。1年前からは病状が一段と重くなり、妻は夫すら判らなくなってしまいました。子どもに戻って両親を呼び求め、訳の分からないことを口走り、夜中に徘徊し始めました。

計画は実行の3週間前に決定したそうです。夫は妻がこの苦しみから逃れたがっていると分かっていました。
"妻の変わり果てた姿を見るにつけ心が痛みました。彼女はあんなにも生き生きとした明るい性格で、私たちは素晴らしい夫婦でした"。
"今でも妻のことを思うと胸が張り裂けそうですが後悔はしていません。彼女は私の人生そのものでした。彼女の傍に居たかったのです。明日死んでも悔いはありません。すべきことができていれば、今、私はここにいないはずですから"。

日曜の朝、珍しく早起きしてしまいパソコンを立ち上げた時、不意に飛び込んできたこの記事。家族がまだ寝静まっている中、1人で読みながら思わず目頭が熱くなりました。妻への愛を淡々と語る夫に疑問も後悔もありません。これが無人島の2人だけの生活であれば、罪ですらないのです。誰にも迷惑をかけず、妻の希望をかなえた彼を、誰が「生の尊厳を踏みにじった」と責めることができるでしょうか。

ただし、社会の中で生きる身である以上、経緯はともあれ殺人は重罪で、あってはならず、罰せられなくてはならないのです。レックスは社会の1人としてその罰を甘んじて受けるつもりです。もう彼にとって自分が社会からどう裁かれるかということなど、どうでもいいことなのでしょう。世間の喧しい法制度へ論議も彼の耳には届かず、ただひたすら妻への尽きることのない想い抱きながら、深い哀しみの淵に1人静かに佇んでいるばかりなのでしょう。


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編集後記「マヨネーズ」  
テムズに行ったことがあります。夏の午後の昼下がり人っ子1人見かけない、忘れ去られたような町でした。今でも使われているのかどうか判然としない無人駅や炭鉱学校、普通の家と変らない大きさの美術館もありました。かつての繁栄の跡が偲ばれるだけに、今の静かさが染み入るようなひと時でした。でも陽の光を浴びる端正な町並みに暗さはありませんでした。あの中のどこかの家で、ロウ夫婦はお互いを見つめあいながら暮らしていたのでしょう。

なぜか心惹かれる小さな家をいくつか見つけ、そのうち最も気に入ったものは売りに出ていました。置物のネコが飾り窓からこちらを見ている中、誰も出てこないのが分かっているせいか、心置きなく何枚も写真を取りました。クルマさえ通らない通りもレンズに収め、何の変哲もない町でフィルムを1本使ってしまい、夫に呆れられました。その時の印象が、「事件の舞台にはもってこいだな」というものだったのを今でも良く覚えています。



後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
これを書いた約20年前ですら胸が熱くなったラブストーリー。アルツハイマーがぐっと身近になってきた今の年齢で読み返すと一層切なく感じられます。私たちは56年間も夫婦でいられるのか?私85歳、夫81歳。長生きしなきゃ~(笑)💦

今のテムズはオークランダーのリタイア先としても人気で、発展を遂げており、時々立ち寄っています。

息子の背中

2002-07-31 | 移住まで
私は32歳の誕生日に長男を出産しました。当然ですが2人の誕生日は同じで、息子の誕生は私にとって人生最高のバースデーギフトとなりました。そして、どう説明したらいいのかわかりませんが、その出産を機に私の成長が完全に止まってしまったように感じるのです。もちろん毎年誕生日が来て息子と一緒に祝っていますが、私の中で年を重ね成長している実感がなくなり、上昇志向のようなものがきれいさっぱりなくなってしまいました。

それから3年経って次男が生まれ、彼が3歳になって幼稚園通いが始まると、少し状況が変わってきました。子どもが自分たちの時間を持つようになるに連れ、自分自身の時間が戻ってきたのです。上昇志向がなくなった分、水平志向が強くなり、横へ横へと自分の興味の赴くままに視野が広がっていきました。2000年にビーズ・アクセサリー作りに出会い、1年後の2001年のNZ再訪で人生の後半の方向性が一瞬にして決まりました。アクセのお陰でもともと手作りするのが好きだったことを改めて自覚し、ガラス細工を手始めに、最近では念願だったタイルモザイクも始めました。それでも陶芸、組み紐、レース編み、ステンシルと、やってみたいことは目白押しです。

長男は私と同じ誕生日にこの世に生を受けて以降、母親の分までスクスクと竹のように成長しています。いつの間にか膝にも乗らなくなり(35キロもあるからムリですが)、今年から大人のカジュアル服を着せることにし、子ども服とは完全にサヨナラしました。
「2人で着よう!」
とニュージーランド行きの前には一緒にダウンジャケットを買いにも行きました。(今年の滞在は1月だったのにクライストチャーチでは9度という日がありました)

先日、夕食前にジョギングに行こうとすると、
「ボクも行きたい。」
とついて来ました。歩いて5分の近所の競馬場に1周1キロのジョギングトラックがあるので、2人で走り始めると200メートルもしないうちに、
「ママ、お腹痛くなりそう。」
と言って立ち止まってしまいました。子どもなので長い距離を走ることに慣れておらず、呼吸と足が合っていないのです。それが隣にいてよくわかったので、一応、足の動きに合わせて息を吸って吐いて・・・と教えてみたものの、
「ちょっと休む。」
というので、
「じゃ、先に行ってすぐ戻ってくるからここで待ってて。」
と言い残しその場を去りました。

1周走って同じ場所に戻ってみると姿が見えませんでした。
「あれ?走り始めたんだろうか?」
と思い、長男を探しながらもう1周走ってみましたが見つかりません。

「暗くなってきて1人で帰ったんだろう。」
と思いながらもしばらく待ってみましたが、同じジョガーが2周してくるほど経っても来なかったのでひとまず家へ戻りました。ところが彼は家にもいなかったのです!慌てて外に飛び出し、いくら陽の長い夏とはいえ、もうとっぷり暮れてしまった夜の中を競馬場に向かって駆け出しました。大きくなったといっても彼はまだ8歳・・・

その時、坂の下の方から白いTシャツが闇に浮かび上がるように誰かが上ってくるのが見えました。
「いた!」
と走り寄ると、ニコニコしながら軽く手を挙げ、
「やっぱり、ママ帰っちゃったんだ~」
と言うではありませんか?
「どうしたの。探してたのよ!」
と言うと、
「走ってたんだよ。ボクだってママのこと探したよ。」
「走ってた?」
「うん。3周走ったよ」
「!!!!」

息子は歩いたり走ったりしながら、私の姿を探しつつトラックを3周したんだそうです。計3キロ!中央に電光掲示板や植え込みがある上にこの闇。お互い見失ってしまったようです。息子の快挙に思わず抱きしめ、
「すごいじゃない!やったね!」
と興奮気味に言うと、本人は初めてそんな距離を走ったにもかかわらず至って淡々としたもので、
「水泳のウォーミングアップでプールを8往復させられる方がもっと大変だよ。」
と謙遜でもなくケロリ。

(※この頃から水中が好きだった長男)


子どもに対して、つい私の口をついて出てしまうのは、
「1人でできる?」
「大丈夫?」
という転ばぬ先の杖的なことばかり。親だから心配して当然ですが、本人の能力を信じていないことの表れでもあります。でも息子は成長しない私の分まで日々成長しており、昨日できなかったことが今日はできるという日進月歩の変化を遂げているのです。そう遠くないうちに息子の背中を見ながら走る日が来るのでしょう。
「ママ、大丈夫?ボク先に行ってるからね」
と言われながら・・・


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編集後記「マヨネーズ」 
バリで何年ぶりかでビキニを着ました。夫と知り合った90年代はハイレグ全盛期。最近は日焼け怖さで水着になることもなかったので、ブームがビキニに変わってからもすっかりご無沙汰でした(確か善が生まれた年、子どもプールにお風呂状態で漬かっていたのが最後だったはず)。着てはみたもののお腹の周りのゆとり(!?)にギョッとして、旅行前の走り込みで(まさに競馬場のジョギングはソレ)、急きょ1.5キロ落として臨みました(笑)


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
本人の能力を信じていないことの表れでもあります、と言っていますが、子育てでこうした経験を繰り返す中、『愛の正体は信頼』という私なりの結論にたどり着きました。

長男はNZの高校で水中ホッケーという世にも不思議なスポーツに目覚め、競技人口がめちゃくちゃ少ないという利点はあるにしても、高校在学中に2回全国大会で優勝しました。


アロータウンの再会

2002-07-27 | 移住まで
記憶にある限り、私がこれまでの生涯で出会った一番美しい白人女性は、クイーンズタウンから少し入ったアロータウンのカフェにいました。バレリーナのように伸びた背筋の上に信じられないくらい小さな頭を上品に戴き、輝く金髪をきりりと引詰めにして、カウンターの中で立ち働いていました。

ランチ時間の混んだカフェの中で、レジに続く列に並びながら、
「なんて綺麗な人なんだろう」
と、同性ながらうっとりする思いで彼女を見つめていました。

彼女はオルゴールの上で踊る人形のように華麗で、笑みをたたえてオーダーをとり、後ろのキッチンに声をかけながらてきぱきとお客を裁いています。綺麗でも血の通わない人形とは違って、きびきびとした立ち居振る舞いが彼女を一層優美に見せていました。着ていた真っ白なシャツと金髪のせいもあるのでしょうが、彼女の立つそこだけが石造りの重厚な一角の中で輝くように華やかでした。

今年2月に9年ぶりにNZ南島を回ることを決めた時、このカフェは是非立ち寄ってみたかった所の一つでした。夫もあそこで飲んだねぎスープの美味しさを良く覚えていて、私たちは迷わず再訪しました。店はすぐに見つかりましたが外見が若干違って見えます。

少しドキドキしながら中を覗いてみると、様子がかなり違っていました。彼女が立っていたカウンターはなく、もちろん彼女もいませんでした。あれから9年も経っているのですから当然と言えば当然なのでしょう。

それでも少しがっかりしながら、新しくしつらえられたカウンターに行き、遅いランチを頼みました。メニューも全然異なり、店の名前「クロスロード」にも見覚えがありません。前の店の名前が何だったのかは思い出せませんが、違う店であるのは一目瞭然です。

当時の彼女と年の頃は同じでも別人の若い女性2人に、
「9年前にここに来たことがあるんですけど・・・」
と、いったい何を聞くつもりだったのか自分でもよくわからないまま声をかけると、
「9年前?それは別の店だわ。私たちがここに来たのは数年前だから。えっと、何年になったっけ?」
と1人がもう1人に聞いています。

美しかった彼女の面影をぼんやり思い浮かべながら外のテラスでゆっくりランチをとり、夫が、
「あの木とか変ってないね。でも店は増えたな~」
などと言っているのを聞き流しながら、心のどこかでは、
「会ってみたかったな。一目でもいいから。」
と正直な自分がつぶやいていました。

髪を束ねてシャツの袖をめくり長いスカートで立ち働く姿は、子どもの頃に見ていた「大草原の小さな家」のローラのお母さんとして、私にとって開拓民女性の象徴でした。1年半前に突然NZに住むことを決心し少しずつ建国の歴史を学ぶうちに、そうした女性たちを歴史の本の古ぼけた白黒写真に、early settlers(初期入植者)の妻たちとして何回も目にするようになりました。

9年前の私はNZのことなど何も知らず、ただただ彼女の匂い立つような美しさに目が釘付けでした。ひょっとしたら同性として、外見の美しさを越えた内面に秘められた意思の力を見抜き、知らず知らずにその強さに惹かれていたのかもしれません。

今では2度と会うことのない彼女のイメージは、世界で初めて女性参政権を獲得した入植者の子孫、自由で自立したキウイ女性の象徴として私の中で勝手に昇華していきました。時代や生活環境の差はあっても、移住したら諸先輩の歩んだ道を自分も辿ることになるのです。先達が切り開いてくれた十分に整備された道を行くという恩恵にあずかりながらも、期待と不安が入り混じった新しい生活が始まるのです。

「そうは言っても、いくらなんでも大袈裟、荒唐無稽かな。」
と、羽を伸ばし過ぎた想像力を打ち消すように、ちょうど運ばれてきた食後のコーヒーに手を伸ばしました。カップを手にして思わず絶句!白いカップには"Stone Cottage"(ストーンコテージ)と印字されていました。これこそが思い出せなかった以前の店の名前だったのです。

まるであの時の彼女が満面の笑みで
"That's right!”(そのとおり!)
と言ってくれたようで、カップを手にしながら思わずニンマリ。
「彼女たちに続こう・・・」
木洩れ陽の下、一人静かに誓いを立てていました。


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編集後記「マヨネーズ」
ストーンコテージは内装の美しさでも抜きん出た店でした。灰色の重厚な外観とは裏腹に、彼女の立っていたカウンターの内側は白いペンキを塗った板壁で、天井近くには壁に沿ってL字型の細い棚がしつらえてあり、その上にはさまざまな青磁のカップや皿が並んでいました。その白と青の爽やかなコントラストは息を呑む美しさでした。シンプルさの中に惜しげもなく披露される高い美意識は私の最も好きなものの一つでもあります。「いつか家にもあの棚をつけよう」と、今でも心密かに思っているほどです。

実はネコ対策もあって西蘭家は天井近くに棚を吊っているのですが、上に並んでいるのはケースに入ったアンモナイトの化石だの小さいエッフェル塔、ケニアで買った木彫りの人形だのとそれなりに思い出の品ではあるものの、洗練とは程遠いてんでバラバラなモノ。どうもこのままNZ行きを迎えそうなので、白い棚に青いガラス器や陶器が並ぶのはちょっと先になりそうです。

今では人口が1000人を切る小さな町アロータウンは、1860年代にはゴールドラッシュで沸きに沸いた時期もあったNZ史の生き証人です。そこでの女性の生活や、歴史の本に「際立った掘り手」として紹介されている中国人のことなど、この町には興味深い話がたくさん詰まっています。

アロータウンでのお2人さん


変わらない場所

2002-07-24 | 移住まで
前回はNZとインドネシアのバリ島(の山村のウブド)という、私にとっての"二大楽園"の共通点から、みこと流楽園の定義を探ってみましたが、脱線ついでに再度バリの話を。
「今度はバリ移住ですか?」
という感想も寄せられましたが(笑)、今しばしお付き合い下さい。

(※バリの原風景)


今回のウブド再訪で何よりも嬉しかったのは、「変わっていなかったこと」です。ウブドにもこの5年間でラグジュアリー系ホテルがいくつかできましたが、幸いどこも隠れ家のようにひっそりとした佇まいのため、ほとんど目立たないのは幸いです。

メインストリートの街並みはほとんど変わりなく(スパが増え、ブランドショップができてたのはちょっとご愛嬌。なんと似合わないんでしょう!)、前に絵葉書を買った店、コーヒーを飲んだカフェのテーブルの位置まで思い出せるほどでした。この懐かしさという親しさに裏打ちされた、過去・現在・未来が1本につながるような安心感に心から安らぎを覚えました。

有名なライステラス(棚田)はバリ全体では年々縮小しているそうですが、宿泊したホテルから見渡せる棚田の美しさは、私が初めてそこを知った15年前と同じものでした。それからも何年か置きに、同じ場所から瑞々しい水田を眺めて午後のひと時を楽しんだものですが、今回は初めて下まで降りてみました。そこで目にした青々とした稲、水草の鮮やかさ、その上を渡っていく風の清々しさは身を置いて初めて知るものでした。

子どもたちは初めての田んぼにワーワーキャーキャー。
「足が汚れた!」
「虫がいた!」
と言っては大騒ぎ。でも自然の中にすっぽりと抱かれる心地良さから不平はすぐに感嘆に変わり、池のように豊かな水をたたえた水田に挟まれた、幅30センチ足らずの畦道の固さに驚き、美しい稲に一生懸命ファインダーを覗き込んでいました。私の子ども時代には横浜の端っこでもこんな田園風景が広がっていたものですが、今となっては懐かしさとそれらを完全に失ってしまった喪失感とで、甘酸っぱい思い出でしかありません。

ウブドで一番気に入っているレストラン「ミロ」で、バリ料理に舌鼓。ミロは手入れの行き届いたガーデンで食事ができ、夜は木々や石像がキャンドルやランプの炎に浮かび上がり、昼は鮮やかな花々と緑と水との調和が見事で、滞在中についつい2回は行ってしまいます。

1日はレンタカーでキンタマーニ高原に繰り出し火口湖バツー湖を遠くに眺め、行き帰りにはたくさんのギャラリーや道端で黙々と彫刻を彫る人、茅葺の家々を写真に収めます。夜は何度見ても見飽きることのない合唱舞踏劇ケチャ(ケチャックダンス)に出かけ、魂に届くような原始のリズムを堪能。何度訪れても私たちがするのは同じことの繰り返しですが、その普遍さが言葉にし難い寛ぎであり、それを可能にしてくれる変わらない場所に限りない愛着を感じます。

NZにも同じことが言え、今年の南島旅行では9年前の1993年に泊ったクライストチャーチのB&B(もうB&Bではなく普通の民家になっていましたが張り出し窓、庭の感じはそのままでした)を始め、以前宿泊したいくつかのモーテルを見つけ出し、周囲の風景とともに変わっていないことを確認しては、遠い親戚にでも再会したような懐かしさと親しみ覚えたものです。

"楽園"はあらゆる面で一定水準に達した場所で、コロコロとは変わらず、その必要もないはずです。そうは言っても経済という化け物を前に、開発と言う名の強制的な変化が四方から押し寄せてくるのに、抗していくのは並大抵のことではありません。人気がある場所であればあるほどそれは難しく、目先の利益から安易に変化を受け入れてしまい、取り返しのつかないものを失ってしまう例は枚挙に暇がないことでしょう。

ですからそれを水際で食い止め、自らの来し方と行く末にこだわる暮らしに限りない慈しみを覚えるのかもしれません。山を下りてビーチへ向かう道すがら、遠ざかっていく緑を眺めつつ、いつか同じ道を戻っていく日に早くも思いを馳せていました。


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「マヨネーズ」  
「バリどうだったぁ?」
と声をかけてくれる日本人の女友だちのほとんどが期待しているのは、
「○○のスパは良かった~♪」
「◇◇で△△を買ってぇ~♪」
という最新情報でしょう。

ですから、
「何も変わってなくて最高~。ライステラスは三毛作かしらねぇ」
なんて、トンチンカンな答えをもらっても、
「アレ?どこ行ってたんだっけ?」
と会話が成立しません。空港から街中まで至るところで「スパ」「マッサージ」「エステ」というカタカナを目にしたので、かなりの日本人がこれらを求めてやって来ているようです。でも私のバリにはスパもショッピングもありません。あるのは"何もしない贅沢"だけ。

とっっっころが、どっこい!
プールサイドでは子どもたちが5分置きに、
「ママ~、見て。泳げるようになった」(次男の単なるホラ)
「チェスやろう!」
「何か飲みたい!」
「ビーチサッカーやろう!」
「ゴーグルがなくなった~」
「何で泳がないの?競争しようよ!」
「お腹すいた~」
と代わる代わるやって来て、もうヘトヘト。絶対読み終えようと持って行った本も半分読んだだけ(涙)


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
日付を見てビックリ&ニッコリ
この丸2年後の2004年7月24日にNZに移住しました。

その前にもう1度バリを訪ねていました。今のバリはもう見覚えがないほど変わってしまったことでしょうが、コロナが終息したらぜひ再訪したいです。


楽園の定義

2002-07-20 | 移住まで
5年ぶりに訪れたバリは楽園のままでした。私たちが気に入っている極端に限定された一角での定点観測の限りでは、拍子抜けするぐらい何も変っていませんでした。最後に訪れたのがアジア経済のバブル絶頂期96年のクリスマスだったので、その後の5年間はインドネシアにとって、屋台骨がかしぐほどの金融不安とアジアのどの国よりも深刻な政局不安に見舞われ、揺れに揺れた時期のはずでした。でもそんな薄っぺらな聞きかじりなど何の役にも立たないほど、実際のバリはゆったり、まったり、以前のままでした。

ニュージーランドとバリ。私にとっての2つの楽園はいずれも南半球という以外、一見何の共通点もなさそうな西洋VSアジアの構図ですが、これがどっこい、
「実は共通項だらけ・・・」
ということに、今回の滞在で気がつきました。

私にとってのバリの真髄は観光客で溢れる賑やかなビーチではなく、ひっそりと山間に息づく"芸術家の村"ウブドのことです。ですからNZとの比較と言ってもウブドというごく限定された一角の話となりますが、以下はそんな大胆不敵なみこと流"究極の楽園の定義"のいくつかです。

(※緑に包まれる山間のウブド)


豊かな緑:
NZもバリの山間部もいずれも緑豊かですが、適度に開墾され決して手付かずの大自然という訳ではないところが似ています。NZは見渡す限りの牧草地や植林、片やバリは棚田やヤシがびっしり・・という違いはありますが、緑の中に生活感があり人の気配やぬくもりが感じられるのです。人を拒むような厳しさよりも豊かで温和な風景が続き、何よりもその豊かさが究極のゆとりと心の開放につながっているように思います。

恵みの水:
私にとってNZの水の象徴は、神聖ささえ漂う純白のフカ滝ですが、バリの場合は至るところにしつらえられた小さな湧き水がその象徴です。香港人にとって絶対の価値観である風水において、水は富の象徴です。ですからオフィスの入り口だの店のレジの横だの、知らない人が見たら「?」というところに、モーターで水が回るようになった"人工湧き水セット"や"ミニ滝キット"がおもむろに置いてあったりします。

しかしバリの場合は本当の湧き水がほとんどで、その豊穣感や清涼感は電動仕掛けとは段違いです。これこそが本来の風水が意味するところなのでしょう。こんこんと湧き出る一条の流れ。見ているだけでも心が洗われていくようです。

神々の島:
バリの形容詞として最も良く使われる"神々の島"。文字通り朝起きてから夜寝るまで神の存在がそこここに溢れている暮らし。宗教の基本はインドから渡来したヒンドゥー教ですが、すっかり土着化しているので、バリの人たちは見たこともない象を神として崇めるのと同じように、生活の隅々に息づいている八百万の神を崇めています。元々が一神教ではない日本人にとっても、しめ縄のある巨木だの、神聖な石だのという発想は非常にしっくりくることでしょう。

NZにはいたるところに教会があって、表向きは西洋社会としてごく平均的なキリスト教が主体に見えますが、今はなきワンツリーヒルの名に残る松の木に寄せたキウイ達の想いは、愛着というものを越えた一種信仰に近いものだったように感じます。いずれにも圧倒的な自然の中での森羅万象への崇拝を感じます。神だけでなく、人も、動物も、あらゆる生きとし生けるものがとても身近かな環境なのでしょう。

創造する人たち:
これだけ自然に恵まれた人たちがそれを愛でる作品を作り出していくのは、ごく自然なことなのでしょう。独特の遠近法と色合いのバリ画からお土産屋でわんさか売られている木彫りやペイントされた木のネコまで、バリの人は本当にあらゆるものを手作りしてしまう天才です。そこには"物がないから仕方なく作る"というネガティブなイメージは一切なく、自然の素材をふんだんに使って自由自在にイメージを形にしていく洗練された贅沢が溢れています。

NZでも玄関のドア窓に素敵なステンドグラスがはまっていたり、ブリキの風見鶏が手入れされたガーデンの中でクルクル回っていたり、あちこちで匠の業を目にします。誰かの手で無から生じてきた物には知らず知らずのうちに見る者を惹きつけるチカラがあるようです。

自給自足の暮らし:
楽園の生活を維持していくためには、極度に外部依存することはできません。自分たちの価値観を守り、外からいろいろなモノやヒトが入ってきても、ビクともしない生活基盤を持ち続けるためにも、この点は譲れないでしょう。

バリが経済的に多くを観光客に依存していることは間違いありませんが、アジアのリゾート地で度々目にする痛々しいまでの媚をウブドではあまり見かけません。彼らの宗教心に裏打ちされた地に足の着いた生活のせいなのかもしれません。合唱舞踏劇ケチャ(ケチャックダンス)もウブドで見るものは水準が高いだけでなく、より魂に訴えてくるものがあります。

NZの自給自足度の高さは言うまでもないでしょう。グローバリズムの権化であるアメリカ企業の昨今のスキャンダルを見聞するにつけ、つい最近まで世界的に信じられていた自分の手に負えないほどの生活の広がりや、事業の裾野の拡大での無限の繁栄という夢が、今となってはなんと遠くに感じられることでしょう。ひっそりと、しかし、しっかりと生きることへの尊さを改めて感じています。


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編集後記「マヨネーズ」 
バリ・デビューを飾った次男。旅行中は「ご飯があるかどうか」が彼にとっての最大の関心事で、これさえ満たされれば、
「いい"ころと"だね~("ところ"と言えない)」
ということになります。それに味噌汁は無理としてもスープがあって、できたらその中に炊き立てのご飯を入れられたら最高なのです。

その点でバリは満点に近い場所でした。朝のホテルのビュッフェにあるソトアヤム(春雨野菜入りチキンスープ)にご飯を入れてあげたら、
「朝からこんなの食べてもいいの?」
と目はキラキラ。一口食べたら、
「ママ、これラージャ?(永谷園のラーメン茶漬けのこと)」
と、もう極楽♪


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月): 
今になって読み返すと、イタいほどの内容(笑)、そして誤字💦 ブログに移行して残すかどうかかなりギリな1本 でも、まぁ、こんな時代もあったと。次男の"ころと”は懐かしい。


南半球体質

2002-07-17 | 移住まで
身長が2メートル以上あるオーストラリア人の同僚がいたことがあります。彼は完全なベジタリアンで、キリンのように野菜だけを食べていました。
「香港でベジタリアンメニュー探すのって、けっこう大変なんだよね~」
と嘆きながら、時々べジマイトを塗ったサンドイッチをお弁当に持ってきたりもしていました。

ここで素朴な疑問。
「野菜だけ食べて、どうしてそんなに大きくなったの?」
別の同僚のイギリス人が、
「オーストラリア人といえども元はイギリス人。でも彼らはぼくたちよりはるかに体躯に恵まれている。食生活とか生活習慣はほとんど変らないと思うけど、どうしてなんだろう?」
と、言っているのを耳にしたこともあります。

本当にどうしてでしょう?ニュージーランドに行っても大柄な人をよく見かけます。それもただ太っているのと違って、ほどよくフィットしている人が多いので、男性でも女性でもとても逞しく、頼もしく見えます。

自分の経験から言うと、身体が健康な時、特にジョギングやジムの後は、身体が多少疲れていても、とてもストレスフリーになっているのを感じ、身体が軽く、フットワーク良く思えるものです。精神的に強く、優しく、ゆとりをもって過ごすには、ある程度の肉体的な強靭さが必要ではないかと常々思っていますが(ですから肉体的にそうでなくても強靭な精神力を兼ね備えている人を尊敬します)、そういう目で見るとキウイのほどよく筋肉が乗った身体は、気持ちの余裕を期待させてくれるものです。

ロトルアに行った時、羊の毛狩りショーを見ました。その後ファームの中を散策していた時のことです。私たちの行く手にどうも日本のJAの一団と思しき年配男性の一群が、ガイドさんに連れられてゆっくりゆっくり歩いていました。すぐに追いついてしまいましたが、道幅が狭いので追い抜いていくという感じでもなく、なんとなく彼らの後ろにくっついて歩き始めました。そのうちガイドさんの説明がとても面白いことに気付き、聞き耳を立て始めました。

「さて、この木は樹齢何年だと思われますか?」
慣れた感じのガイドさんがある大木の前で立ち止まり、質問しました。私にはその針葉樹のトシなど想像もできず、「30年や40年ではこうはならないだろう」程度にしかわからずにポカ~ンと見上げていると、JAの皆さんは、
「90年!」
「いや100年は越えてるだろう。」
とポンポン答えていました。その前のニジマスの説明の時には、ひたすらうなずいていたのと打って変わり実に生き生きとした反応。林業関係の方々とお見受けしました。

答えが出揃ったところで、ガイドさんが、
「70年です!」
と言うと、ド~っとどよめきが漏れました。
「こんなにデカくなるんか~」
と、賞賛と感嘆が入り混じった声。そのやり取りから見てNZの木は彼らの想定、つまり日本の平均よりもかなり速く成長しているらしいのです。

「地球の自転の関係で、北半球から持ち込んだ木でもここでは同じ期間内に2、3割大きくなるんです。」
とガイドさんが説明しています。
「自転~~~????」
内心ビックリ!でもタダ聞き中なので、あからさまに反応することは憚られ、ましてやガイドさんに質問してしまうなんてことはできようはずもなく、「自転」「自転」「自転」・・・とその一言が私の中でグルグル回っていました。

木が大きく育つのだからNZのマスが丸太のように太くなり、体長60センチなんてとても食欲をそそられるようなものではなくなってしまうのも、不思議ではないのかもしれません。となると平均的なイギリス人より大きなオージーやキウイというのも、地球の自転がなせる業なんでしょうか?あの巨大な野菜も?ヘチマかと思うようなキュウリや洗面器ぐらいありそうなキャベツも?絶滅してしまった体長が4メートルもあったと言われる飛べない怪鳥モアも???

水が排水溝に流れていく渦巻きが北半球と南半球では反対になるそうですが、どうも私には南半球があっている気がします。
「またまた何でもNZにこじつけて~」
と夫の野次が入りそうですが、それを何となく最初に感じたのはNZでではなく、実はアフリカの横のマダガスカルの、そのまた横のモーリシャスでした。

5年ぶりの再訪でその良さを噛み締めてきたインドネシアのバリも立派な南半球です。同じようなリゾートでもプーケットをはじめ他の場所でここまでくつろいだ記憶はなく、リラックス度がダンチです。
「クリスマスは真夏!」
という南半球ライフ、けっこう性に合っているのかもしれません。


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編集後記「マヨネーズ」 
5年ぶりのバリ!とりあえず自分たちが回ったところは何~も変っておらず最高でした。次回は「NZ vs バリ」の超こじつけ、お気に入り対決をお送りしま~す。


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
北半球歴42年半、南半球歴16年半。
人生の圧倒的な時間を北半球で過ごしてきたのに、もう過去となったらすっかり忘れてます。

1月=暑い
7月=寒い
で刷り込み終了(笑) ただ今、夏休みの真っ最中

そういえばNZ育ちの長男(26歳)は身長186センチになりました。これって関係ある?でも次男(23歳)は175センチなので関係ない?


英語を習おう

2002-07-13 | 移住まで
スターバックスの前で所在なげに待っていたのは、銀髪の白人男性でした。軽く挨拶をして2人で店に入ると、
「何をお飲みになりますか?」
と、丁寧に聞かれ、
「ラテをお願いします。ショートで。」
と言うと、少し戸惑ったように、
「ラテ?ショートですね?」
と聞き返されました。
「発音がヘタだったかな。」
と思っていると、
「そのう、私はコーヒーを飲まないもので。」
と、こちらを気遣ってくれてから、彼はレジへ向かいました。

「やはり思った通り。コーヒーはお飲みにならないんですね。」
トールの紙コップに並々と入った、あまり美味しそうに見えない紅茶を飲んでいる彼に言うと、映画「インサイダー」のラッセル・クロウを少しエレガントにした感じのベル先生は、
「ええ、まあ。」
と曖昧に言って話題を変えました。多分スタバに入ったのは初めてで、ラテがコーヒーの1種で、それが普通のコーヒーとどう違うのかもご存知なかったことでしょう。香港にいるちょっと年配のイギリス人にはこんな人もいるのです。

この面接を経て、彼から英語のプライベートレッスンを受けることに決めました。これまでも移住に向けてケーキ作りやステンドグラス作りを習ったり、脱毛(!)を始めたりしていましたが、準備の一環として夫をはじめ、周囲に納得してもらうのが難しいものばかりでした(笑) でも英語を習うことにはかなり説得力があります。

「NZに移住するのだから!」
と、「キウイの英語の先生募集」と新聞に広告を出したり、知り合いのキウイに英語を教えている友人がいないか聞いてみたりしたのですが、いかんせんキウイは人数が少な過ぎ、見つかりませんでした。日本では駅前留学の先生にもかなりキウイがいると聞き羨ましく思いつつ、諦めてイギリス人の先生にしました。

そもそも英語を習うのですから、イギリス人で文句を言う筋合いはありません。お会いしたベル先生は24年間イギリス軍にいて、退役後に英語教師の資格を取り直したという折り目正しい人で、一目で気に入り契約しました。週2回ランチタイムにオフィスに来てもらい、みっちりしごいてもらうことにしました。

あまりにも理想にかなった先生だったので子どもたちにも教えてもらうことにし、夫にも勧めたら土曜の午前中という貴重な時間を割いて習うことになりました。これで西蘭家全員の英語がベル先生にかかってくることになりました。移住の頃には鼻から抜けるようなバリバリのクイーンズイングリッシュが!(話せるようになっているといいのですが・・・)

日本の英語教育はアメリカ英語を基準にしており、映画でもテレビでも耳から入って来るのは圧倒的に米語ですが、ここ香港は旧英領、同僚の西洋人の多くはイギリス人で、息子の学校もイギリス系のため先生も保護者もイギリス人やオーストラリア人など英連邦の人が主流です。移住先はNZなのですから、米語を習う理由は特にないのです。

ただ、何となく米メディアの影響力の強さからか、クイーンズイングリッシュは堅苦しくて、古臭い気がして、「How are you?」と言うよりも「What's up?」とやった方がカジュアルでフレンドリーな感じがするのではないかと、響きの違いもろくにわかりもしないのにそう思い込んでいる面もありました。ですからベル先生とお会いするまで一度も考えたことがなかったのに、彼の美しい英語を聞いているうちに、
「クイーンズイングリッシュを習おう!」
と突然前向きになりました。

「英語を習う目的を教えてもらえないだろうか?」
と聞かれ、
「まず日常会話。そして、いつになるかわからないけれど自分のウェブサイトをバイリンガル化したいのです」
と言うと、さすがにポーカーフェイスの彼も3cmくらい引いた感じでした。
「そりゃ、引くだろう。」
と内心思いながらも、相手は先生、こちらは生徒。どんな内容でも学びへの意欲は堂々と口にしていいはずです。千里の道も一歩から。アオテアロア(=ニュージーランド)目指して、Shall we go?


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編集後記「マヨネーズ」 
ある夜、
「水着でも買ったら?」
と夫に言われ、
「明日は雪?」
と思うほどビックリしましたが、本当にめったにないことなので2人で出かけました。

夏休みに久し振りにバリに行くので、私が水着をほしがっていたのを突然思い出してくれたのです。香港ではデパートや大きなショッピングセンターが夜10時まで開いているので、夕食後でも十分買い物ができます。

香港系デパートのレーンクロフォード(通称レンクロ)へ行って水着コーナーに行くと、な~んとNZ製の水着発見!珍品と言っていいくらい見たことがない代物です。ハイレグ発祥のイスラエル製、リゾート気分いっぱいのオーストラリア製、セクシーで凝ったイタリア製などが並ぶ中、なぜか2枚だけ混じっていたキウイ・ビキニはともに黒一色で下着と見まごうようなシンプルなデザイン。

「こんなところまでオールブラックス?」
と思いながら、ちょうどサイズが合ったので敬意を表して試着してみました。上のブラ部分は可もなく不可もなく。さて下は?それが、ちょっと・・・・。2枚ともひと回り大きいんです。上に比べてワンサイズ大きい気がしました。レア物だったけれど着られないのでは仕方ないので断念。あれでは水から上がったら、絶対落ちるレベル💦

このメールが配信される頃には、早めの夏休みをとってバリのサヌールでのんびりしています。前半はお気に入りの山合いのウブドに4泊、後半はビーチに移りサヌールに3泊する予定。ヌサドゥアがどんどん開発され、クタが拡張の一途をたどっても西蘭家はハイアットホテルの城下町としてこぢんまりまとまったサヌール一辺倒。でも久しく行っていないので、どうなっていることか


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
この10年後に日本に進学した長男が大学時代のアルバイトで、キウイの先生として駅前留学で英語を教えていたのだから、人生なにが起きるかわからない(笑)

長い間バリの定宿だったサヌールのバリ・ハイアット。「再開するんだろうか?」と不安になるほど長かった5年の改装を経て、ハイアット・リージェンシーに格上げされて2019年にとうとうリオープン。

懐かしさのあまり「行ってみよう!」と夫婦で話がまとまり、予約を入れたのが2020年6月。もちろん、コロナの真っ最中で旅行はキャンセル。外国人がいなくなり、「バリの観光業は8割の落ち込み」とずい分前に読みましたが、問題の長期化でどうなっていることか。いつかの再訪を楽しみに。

十年彗星:楊貴妃になる夏

2002-07-10 | 移住まで
空前の化粧ブームだというのに、最近、化粧を止めました。メークはかれこれ20年間、ずっと続けてきたことなので私にとっては一大事です。正確には基礎化粧を止めたので、アイシャドウやアイラインなどは若干しますが、それもしたりしなかったりでスッピンに眉を描いて、マスカラと口紅だけ塗って出勤することも珍しくなくなりました。

化粧は好きでした。仕事へ行く前の慌しい中、化粧水から始まって最後に香水の一振で終わる一連の作業は、儀式のように毎日欠かさず繰り返されてきました。鏡の中でケからハレへと変わっていく顔は平坦な日々の中でのささやかなメリハリであり、女を感じる時でもあり、家庭から外へと出て行くのに気合いを入れる瞬間でもありました。子どもたちは小さかった頃、鏡に向かっている私を見て平日と週末を区別していたほどです。

でもその儀式を止めました。朝、洗顔したら化粧水もつけずにクリームを塗るだけ。これだったら着替えてもファンデーションが服につくことはないし、午後になって化粧崩れすることもありません。化粧ポーチも持ち歩かないし、化粧をしていた時間で出勤前にパソコンでメールやニュースのチェックができるようになりました。今のように暑ければ好きな時に思いきり顔を洗ってスッキリすることもできます。これはみんな化粧をしないことがなせる業です。そして毎月かなりの出費だった化粧品代が激減しました。

すべては10年に1度、とんでもない贈り物をしてくれる彗星のような友人からのメールで始まりました。
「漢方の化粧品に切り替えたら肌がどんどん白くなり始め、もう気持ち悪くてファンデなんて塗れなくなってしまった」
ということが唐突に書いてあり、化粧をしないで会社に行くなど想像もできなかった私には、何のことやらさっぱりわかりませんでした。でも「肌がどんどん白くなる」という一言には、子どもを出産して以来のシミに悩まされていただけに、大いに心惹かれ何度かメールをやり取りしてみました。

その結果、シンガポール在住の台湾人エステシャンのリリー・ウォンさんが独自に開発した、漢方化粧品がすべての発端だということがわかりました。自身も化粧焼けで悩んでいたリリーさんは中国人の間では最も美人で誉れの高い楊貴妃が使っていた化粧品の研究に取り組み、美肌で知られた彼女が使っていたものを古典文献を基に漢方医と再現したのだそうです。
「そんなバカな~!」
正直言って半信半疑だった私を見透かしたように、友人は前回の猫同様、天空を通り過ぎながらリリーさんの化粧品一式を送り届けてくれました。

友人に全幅の信頼を寄せる私は試してみることに。化粧を落とし、全く泡立たないカレー粉と亀ゼリーを足して2で割ったような匂いがする洗顔粉でスクラブするように洗顔した後は、かなりまったりした専用クリームを塗るだけ。あとは日焼け止め、下地、ファンデを除くどんな化粧品も使っていいそうです。夜は虫干し前の着物のような匂いがする真緑色の水溶き粉パックを毎晩する以外、やはり洗顔+同じクリームのみの超カンタンさ。全部で洗顔、クリーム、パックの3ステップしかないのです。

私は妊娠以降ホルモンバランスの変調で、頬に横に広がる形で薄く広くシミができてしまいました。色といい、場所といい、日焼け止めを塗らないで日焼けした感じにそっくりで結構健康的に見えたりもし、知らない人には、
「アレ?ゴルフでも行って来たの?」
と言われます。陽に当たると濃くなるし、2人目の妊娠+出産で更に広がって色も一段と濃くなってしまいました。カバー力のあるファンデで隠し、プチ整形以外のほとんどのことを試してもいたのですが目立った効果はなく、かれこれ8年の付き合いでもあり半分諦めかけていた矢先でした。ですから「どんどん白くなる」の一言に賭けてみることにしました。

結果はビックリするくらい良好です。シミはもちろんわかりますが、スッピンでも生きられるようになりました。回りの人からも、
「ずい分薄くなったね。」
と驚かれるほどです。何よりも化粧をしない気持ち良さを知ってしまい、ファンデの息苦しさには戻れません。リリーさんと友人に心から感謝しながら、今日も鏡に向かい、「人を幸せにしたい」というリリーさんの心意気に心底感服しています。今年は楊貴妃が大好きだったというライチが空前の豊作で驚くほど安く出回っていますが、その甘酸っぱさに舌鼓を打ちながら"楊貴妃になる夏"本番です。


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「マヨネーズ」 私の"十年彗星"ことシンガポール在住(当時)の久保優子は、確かちょっと前に、
「"本書いたんだ~”と言ってたような?」
と思って、名前を検索してみると、ヒットするする(笑)

親しいはずの友人の近況を検索して知る昨今。しかし、私たちの間柄は十年一日。相変わらずの猫談義に花が咲き、仕事だの夢だのの話はほとんどなし。
「NZに移住しようと思ってるの。」
と言うと、
「あそこにはイチジク農園をやってる友人がいる。」
と明後日の方向からの返事が届く始末で、天晴、天晴。


後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
リリーさんのリリアンナはいまだに愛用していて、肌の調子は使い始めた20年前より、冗談ではなく今の方が断然好調で、目の下の日焼け風のシミもなくなりました。リリーさんは一生の恩人ですが、いまだにお会いしたことがなく、化粧品を紹介した友人たちの方がアメリカだの、香港だのから会いに行っています(笑)

紹介された頃のパッケージ。
パッケージと値段の格差にも
効果を確信する思いでした。


十年彗星からは、その10年後になんとフリーランスの仕事も紹介されましたが、ちょうどセミリタイアして投資に力を入れ始めるタイミングだったので、贈り物を受け取る機会がありませんでした。

そう言っているうちに、来年は4回目の10年目。雲の合間から何か落ちて来るかな


移住脱毛

2002-06-26 | 移住まで
「すべての道はニュージーランドに続く!」を完全に地で行っている昨今の私。とうとうこの度、100万円近くかけて永久脱毛に挑戦することにしました。女性にとってワキ毛の処理は永遠の課題。剃っても抜いても絶対生えてくるし、"まるで生えてないように"ツルツルであるのが理想であっても、どんな処理でもなかなかそうはならないのは、女性だったらよくご存知のはず。ノースリーブで電車のつり革にいつでも思いきり捉まれる人ってそうはいないのでは?

とは言ってもワキだけなら20万円もしないのですが、説明を聞いているうちにだんだんその気になってしまい、とうとうこんな金額に。その代わり襟足や額の生え際を好きな形にするとか、顔の産毛だの、脚だのといろいろ注文いっぱいの完全テーラーメイド型となりました。日本だったらいくらになるのか全く知りませんが、お店の人と意気投合したこともあり決めました。保証期間が2年なので移住前には完全に終わっているはずで、これも私にとっては立派な移住準備の一環です。

別にワキ毛があろうがなかろうが移住には差し支えないのですが(笑)、決定に至るにはクライストチャーチで見た光景がなんとなく脳裏にありました。あれは香港に帰る前日の夕刻でした。最後のひと時をボタニックガーデン(植物園)で過ごした私たちは、クルマを停めていたカンタベリー博物館の方に向かって、既に人気がなくなった庭園内を歩いていました。

その時、ふと木立の影に白いものがフワリと通り過ぎ、なんとなく
「天使かな?」
と思ったら、本当に妖精のドレスを着た小さな女の子でした。その子1人ではなく、他にもきれいにメイクした7、8歳の女の子たちがドレスの裾を翻しながら気持ち良さそうに裸足で走り回っています。

真っ赤な付け鼻をしたピエロが一輪車の練習をしていたりもします。
「ショーがあるんだね」。
と話ながら出入口の方に向かって歩いていくと、音響セットが見え始め、子供たちを引率をしている先生が木の下で台本片手に最後の稽古をつけているのに出くわし、楽器の音も聞こえてきました。

それが幾重にもなった夕暮れの濃い緑の中で、現れては消え、消えては現れして、なんとも幻想的。そして出入口正面の芝生の上には真っ白なテーブルクロスの裾が風にはためく円卓がいくつもできていて、リボン付のシャンペングラスが並んでいます。同じく真っ白な制服のボーイが忙しそうに行き来し、来賓はグラスを片手に一塊になって話に花を咲かせているところでした。月並みですが映画のワンショットのように美しい眺め・・・

きっと子どもたちの保護者や学校関係者なのでしょうが、盛夏の夜のひと時をこんな風に過ごせる贅沢と、こういうことを企画してしまうキウイたちのセンスに心から脱帽しました。集まった人の服装はスマートカジュアルがほとんどで、男性は蝶ネクタイからトラッドな半ズボンまでいろいろ、女性もワンピースからエレガントなパンツルックまで思い思いのスタイルながら、どこかに本人たちなりの正装を感じさせるものでした。

そんなシーンの片隅をエキストラのように通り過ぎようとした時、ふとライトアップされた一角の中に、背中がV字型に開いた白っぽい細身のイブニングを着て、髪をゆるくアップに上げた人の姿を見たように思いました。実際にはそんな人はいませんでしたが、その後ろ姿は紛れもなく私自身だったのです。こんな風に、頭の中のイメージなのかこの目で見たことなのか判然としないようなシーンが、パッと頭の中に広がることが時々あります。そしてそれが何年も後、自分でも忘れた頃に実現することもたまにあります。

私は白っぽいイブニングを持っていないし、襟足の形が嫌いなので髪をアップにしたこともありません。でも、いつか短い夏の終わりを、湿り気を帯びた夜気の中、グラスのリボンを夜風に泳がせて、弾けていくシャンパンに身を委ねながら過ごす時が来ないとも限りません。
「今はエキストラでも、いつかはあのライトの当たっている人たちの中にいるのかもしれない・・・」
そう思うと何だか嬉しくなりました。本当にNZというところはいくつもいくつも白昼夢を見せてくれます。

イブニングだったらワキの処理は完璧でなくてはいけないし、髪もアップにしないと垢抜けないし、背中が波打っているなんて言語道断。それが一気に永久脱毛となるのは、あまりにも飛躍した話であることは重々分かっているものの、私の中ではそれほど突拍子もない話ではなく、
「移住のためにも脱毛しよう!」
とあいなった訳です。そしていつか周りの緑を吸い込んだように少しグリーンを帯びた白っぽいイブニングも探さねば・・・


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編集後記「マヨネーズ」 
「信じられない・・・」
脱毛の金額を聞いて夫は唖然。

「ワキぐらいオレが剃ってやるよ。毎日ヒゲ剃ってるから上手いぜ。一生でもいいからさぁ。」
と、早速説得攻勢に。私がなびかないと、
「その金額だったらNZを何往復もできるよ。」
と、私の急所と思ってるらしいところを突いてきたり、
「そんなに気にしてたの?オレは全然気にならなかったけど・・・」
と下手に出たり・・・

でも結局は彼が一番良く知っているように、すべては馬耳東風。私は昔から誰にも相談しない代わりに、一度決めたら自分の気が変らない限り、どんなに周りに説得されても平気のヘイさで実行してしまう質なのです。100人のうち99人が「辞めとけ」ということを断行してしまうことなど朝飯前で、台湾留学やマンションの転売など、周りの反対や嘲笑を買ったことの方が後々結果を生むこともままあり、逆張り人生まっしぐら。これで行くと周りで誰も憧れないNZ移住も上手く行きそうです(笑)


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
がっつり稼いで、がっつり遣う。結婚以前からの私の基本方針。夫と2人、必死で働いて得た報酬や投資の利回りは家族を養い、自分の英気も養っていくものだと思ってきました。なので自分で自由にできる資金で、家族に迷惑をかけない限り、フォスターペアレントになろうが、脱毛しようが自由という考え方。2人で経済力を持つことは、夫婦円満の大きな要素でもあると信じています。

いざ移住してきたら、イブニングを着る機会など全くなく、一度友人の結婚式で着ただけで、逆に手持ちのものを全部寄付しました。永久脱毛はやって正解でした

お勝手口から失礼します

2002-06-22 | 移住まで
夫と行ったイタリアンレストラン「ダルッカ」で大好物のアーティチョーク料理を見つけ、すっかりご機嫌のホロ酔い加減で帰って来た時でした。
「やっぱり粗塩で焼いたに限る」
とブツブツ言いながら頭の中は何層にもなった分厚い皮に包まれたアーティチョークでいっぱいの私のところへ、パソコンを立ち上げメールのチェックをしていた夫が、
「ごめん、つい読んじゃった・・・」
と、ちょっと深刻な顔してやって来ました。

「寝る前に読んでおいた方がいいと思うよ」
という夫の一言に従ってフラ~とパソコンのある部屋に行ってみると、メールボックスに届いていたのは、ニュージーランド移住の師と仰ぐレディーDからの私宛のメールでした!
「なんて、ラッキーな日♪」
と、読み始めると・・・・

「更新されたNZ移住のパスマークのことはご存知ですよね?オットは"そのページを添付して差し上げなさい"と言うのですが、もう目を通されていますよね?通常5週間前の通達のところが、今回はなんとたった1週間前!18日からは3ポイントアップの28ポイントとなり・・・」
「何のことかしら?28ポイント?パスマーク?」
そして次の瞬間、ワインの回った頭にも何のことだか理解でき、
「ねぇねぇ。大変~」
と、とっくに何が起きたのか理解していた冷静な夫を呼ぶ羽目に・・・

NZ移民局が今月11日出した通達によれば、まさに私たちには「このカテゴリーしかない!」という「一般技能部門」での移住申請に必要とされるポイント制のパスマークが、従来の25ポイントから18日以降は一気に28ポイントへと3ポイントも引き上げられることになったのです。

3ポイントがどれほどのものかと言うと、「同一職種で6年以上の業務経験」に相当します。大学院卒でも大卒より2ポイント多いだけだし、配偶者が博士号を持っていようが、移住資金で1,200万円用意できようが、どちらも2ポイント追加になるだけです。ですから3ポイントはゆゆしき事態。

通達を読み進めると、昨年10月に年間移民上限数が従来の3万8,000人から4万5,000人(+/-10%)にまで拡大されたにもかかわらず、「一般技能部門」での申請件数比率が予想以上に増えてしまったことに対する対策だということがわかりました。ダルジエル移民相は、
「ここ1年で申請は急増しており今年度は5万3,000人が認可される見込みで、移住需要が下火になる兆候はまったく見られない」
と現状を説明しています。

ここまで読み進めて妙に納得してきました。
「そりゃそうだろう。こんなにファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)が整っていて、世界的な景気不振の中でピカピカの経済を維持して、物価も安く、安全で、自然も豊かで、自給自足度が高くて・・・」
自分がこんなに行きたいのだから、世界中に同じような考えの人が5万3,000人ぐらいいても、不思議ではありません。

更に「Clearly New Zealand is an attractive migrant destination・・」(NZが魅力的な移住先になっていることは明白だ)と続きます。
「そうだ!そうだ!」
と思わず合の手。そして「資格やこれまでの業務経験に関連する仕事を確保している人には今回の変更は影響しない」とはっきりと断言し、こうした仕事が確保できた人には従来の5ポイントに3ポイント上乗せした8ポイントを認めるとしています。つまり今回引き上げられる3ポイント分をこれで相殺しようと言う訳です。

裏を返せば、"今までのキャリアに関連する仕事を見つけられた人のみ受け入れる"ということになるのでしょう。ですから美容師や看護師といった手に職がある人は影響を受けないのです。

「素晴らしい!」
手に職のない自分たち勤め人にとってはめちゃくちゃ狭き門となってしまったことは棚に上げ、私はホロ酔い気分もすっかり覚めて心底感心していました。この迅速にして明確な政策決定、しかもその決定過程のディスクロージャー(情報開示)の完璧さ(ご丁寧に8月からは申請条件を毎月見直すと予告してますから、これからどんどん条件が厳しくなる可能性大)。

同時に国にとって必要と思われる人材への適切な対応・・・「国家運営とはかくあるべし」というお手本を見せつけられたようで見事な政治手腕に舌を巻き、ますます惚れ直しました。
「こんな国の国債買いたい。こんな国に税金納めたい・・」
本気でそう思いました。ブラジル生まれの人に国籍をとったからと言って「三都主」を名乗らせるのとは、大違いの大局感ではないですか!

しかし、よくよく考えたら西蘭夫婦はどちらの名義で申請しても自己診断では24ポイントで、もともと1ポイント足らなかったのです。
「移住コンサルタントに相談すれば1ポイントぐらいどこからかひねり出して来るんだろうか?」
などと、呑気に構えつつ何もしてこなかった私たち。それが仇になって(?)この度いよいよ門前払い状態に。まあ、1ポイントだろうが4ポイントだろうが足りないことには変わりないので、私たちには残念がったり悔しがったりする理由は特になかったのです。

「表玄関があるなら必ずどこかに勝手口もあるさ・・・」
移住への夢はますます熱く・・・


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編集後記「マヨネーズ」  
ワールドカップ・サッカーは、
「あれだけボロボロに言われていたトルシエ監督への餞にも、決勝トーナメントで1回ぐらい勝てたら・・・」
な~んて軽く思ってましたが、そんな感傷でどうかなる甘い世界ではありませんでした。私たちは日本に住んでいないし、ここでもスポーツ新聞をとっていないのに、「トルシエ解任か?」という大見出しを何度も見た気がします。それだけ恒常的に出ていたってことでは?

ともあれ、日本を離れて18年。日本人として日本をこれほど誇らしいと思ったことはこのW杯が初めてです。心から「ありがとう!」


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
たかが4ポイント、されど4ポイント。移住前に仕事が決まっていない限り、ほぼ移住できなくなったのはこの2002年の決定が最初でした。それまでは「大卒」か「10年の業務経験」があればかなりの確実で移住前に永住権が取得できるという、今思えば夢のような時代でした(笑) でも、NZの移民政策は経済政策と完全に表裏一体なので、どの政権にとっても重要な政策課題。

私たちの移住は移住サイクルのまさに谷間にあたってしまいましたが、サイクルということは谷の次は山が来る?!大奮闘の末、その後2年で移住が実現しました。

(※オークランド着陸直前の朝焼け)


キウイのコミットメント

2002-06-19 | 移住まで
オークランド空港。私たちは香港に帰るべく、クライストチャーチから到着した国内線ターミナルから国際線ターミナルに移動するため、空港内のシャトルバスに乗っていました。前の座席には大柄な年配女性2人が座っていて盛んにおしゃべりをしています。空港関係者らしく制服を着て1人は手にトランシーバーを持っており、交信の声が盛んに漏れてきます。

全行程5分前後の短い距離でしたが、途中の唯一のバス停で何人かが降りていきました。その時、前の2人も立ち上がったかと思うと、やおら私たちの方に向き直り、
「どちらまでですか?ターミナルはおわかりですか?」
と、とても丁寧に話しかけてくれました。

「ありがとうございます。香港まで参りますので次で降ります。」
と、こちらも思わずかしこまって答えると、
「おわかりでしたら何より。それでは・・・・」
と、その後に「ごきげんよう」とでもつきそうなクラシカルな挨拶で締めくくるとバスを降りていきました。

ニュージーランドで数限りなく受けるこうした対応を、何と表現していいのか長い間わかりませんでした。「丁寧さ」「フレンドリーさ」「優しさ」「責任感」「思いやり」「おせっかい」「人懐っこさ」「野暮ったさ」・・・人によっていろいろな印象があることでしょう。

高い人口密度の割に他人とは異常に距離を置く都会暮らしにどっぷり漬かっている人間には、見ず知らずの人が頼んでもいないのに自分にかかわってくるということは、かなり珍しく、戸惑うことで、嬉しかったり、面倒くさかったりするものです。

しかし、私はキウイのこうしたさり気ない気遣いが非常に心嬉しく、その度に反省させられることしきりです。「他人を他人と認めるのが良識」とばかりに知らない人と徹底して没交渉でいるうちに、都会に住む人は他人とのかかわり方を忘れ、道を聞く以外、声をかけることすらできなくなっているのではないでしょうか?それどころか、明らかに助けが必要とされる状況でも、故意に見なかったことにして通り過ぎてはいないでしょうか?

ある日、同僚のキウイとNZの不動産市況の話をしている時に、彼が何気なく"コミットメント"という言葉を使った時、私の頭の中でパッと電球が灯りました。
「これだ!」
英辞郎によれば、「献身、参加(意欲)、かかわり合い、肩入れ、義務、責任、約束、方針、公約、交際すること」等、4項目に分かれた解釈がありますが、これらすべてがこの1語にギュッと凝縮されており、それがまたキウイと他者との関わりを端的に表現しているように思えたのです。

まるで謎解きのパスワードが分かったみたいに、
「そう言えば、あそこで会ったあの人も・・・」
「あの時のこの人も・・・」
と、旅先で会ったキウイたちがコミットしてきてくれた場面が、次から次へと蘇ってきました。

オークランドで水族館のケリータールトンに行った時のこと。チケット売り場で、
「大人2人、子どもが・・・」
と言いかけた私たちに、
「その人数だったら・・・」
とファミリーチケットを薦めてくれたアルバイト風の若いお兄さん。彼にとっては一期一会の私たちがいくら払って入場しようがどうでもいいはずですが、その一言で私たちはNZの行楽地には家族向けの割引チケットがあることを知り、以来、どこに行ってもチケットを買う際には確認するようになりました。

日曜日だけ運行している蒸気機関車に乗ろうと、ティマルから少し入ったプレザントポイントに行った時には、
「子連れだったら丁寧に頼めば、機関室に入れてもらえるかもしれませんよ。ウチは先月、入れてもらったんです。」
と、駅前のカフェのウェイターに声をかけてもらったこともあります。私たちが彼の忠告に従ったことは言うまでもなく、親子でとても楽しい、特別な思い出ができました。

(※ボランティアによる手弁当の運行)


たくさんのキウイ達から教わった"コミットメント"は、今では"継続は力なり"と並ぶ、私の生きる指針になりました。知らない人や事に関わっていくことは、面倒だったり、気恥ずかしかったり、
「厚かましいと取られはしないだろうか。」
と心配だったりで、結局、「ま、いいか」と流してしまう方が圧倒的に多いことでしょう。でも、最近の私は「ま、いいか」の直前で多少は踏み留まれるようになりました。この勇気はキウイたちからもらいました。移住前でもキウイ生活への小さな一歩を踏み出しています。


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編集後記「マヨネーズ」  
先日、ご近所に誘ってもらい、家族で行った小学校の学園祭。子どもたちが通うイギリス系インターナショナルスクールの系列なので、親しみがあり毎年のようにお邪魔しています。校庭を走り回っていた長男が、
「ママ!"ママ・ティナ"のお店がある!」
と教えてくれました。"ママ・ティナ"とは、ベトナムやモンゴルでストリートチルドレン支援を行っている、自らもアイルランドでストリートチルドレンだった経歴のあるクリスティーナ・ノーブル氏のことです。

行ってみると、クリスティーナ・ノーブル子供基金の香港支部がブースを出していました。ずっと活動が気になっていて、インターネットで調べればすぐにでも連絡先がわかることを十分承知していながら、何もして来なかった私の前に忽然と現れたブース。

座っていた白人とインド系女性2人と挨拶しパンフレットをもらい、家に帰ってからはベトナムの子どもの里親になるために小切手を切り、買ったきり積読していたノーブル氏の著書を改めて手にしました。以来、少しずつ読んでいます。その後、基金の方から丁寧なご連絡ももらい、私の"コミットメント"は後戻りできないところまで既成事実化しました。

ここまで来れば大丈夫。躊躇いを乗り越え自分以外の人を巻き込んだので、あとは前に進むだけ。そう言えば、ずっと見つけられずにいたノーブル氏の著書2冊は、NZ旅行の際にオークランド空港の本屋で、新刊書を押しけ店頭にズラっと平積みされていたものでした。とことん、キウイつながり♪


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
基金を通じてベトナムの女の子の里親になりました。当時11歳でした。赤ちゃんには里親候補がすぐ見つかっても、大きい子にはなかなか見つからないと聞いて手を挙げ、大学卒業まで支援しました。

(※トランちゃん)


支援終了後は16歳の別の女の子の支援に切り替えましたが、その子が進学を諦めて働き始めたので10年以上続いたベトナムへのコミットメントはそこで終了しました。今はNZとオーストラリアでできることを息長く続けています。