ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

さまよえる氷河

2002-05-29 | 移住まで
夫婦2人は玉の汗でした。子どもたち2人は後部座席でふざけ合ったり、小突き合ったり、朝から相変わらず賑やかです。大人はほとんど口も利けないほど重苦しい雰囲気の中、ただひたすら前を見つめていました。だらだらと緩やかに降りていく坂道。両側はむせる様な濃緑の樹木が道路の際まで迫っています。雄大で手付かずの美しいNZの自然を心から堪能するでもなく、2人はそれぞれ、ただひとつのことだけを頭の中で念じ続けていました。

この苦しみが永遠のものではないことは良くわかっていました。それでもクルマで行くほんの数キロが、ほんの数分が、どれだけ遠く思えたことでしょう。1分でも1秒でも早く行きたいミルフォードサウンドが、中国奥地のタクラマカン砂漠の「さまよえる湖」のように、行けども行けどもたどり着けない蜃気楼のようです。そのうち、
「もう着いても着かなくてもどうでもいい」
という自暴自棄な気分にさえなってきました。氷河を見たってそれが何になる?今の苦しみを越えて行くほどのことか・・・。

子どもたちは相変わらず、ワーワー、キャーキャー。笑っていたかと思えば一瞬にして声のトーンが変り、それを合図に一気に怒涛のようなケンカが始まりますが、当時4才の次男は座布団状といえどもチャイルドシートに括りつけられているので、取っ組み合いにはならず、お互い横並びでシートベルトに押さえつけられながら、蹴りを入れたり、突いたり、つねったり・・・。それ以上にエスカレートしないので、親としては本気で怒らずに済むのが救いでした。今の私たちに子どもを叱る心の余裕など微塵もなく、普段は可愛いいと思う子どもたちの声にまで、胸が締め付けられるような息苦しさを覚えていました。

「あぁ、苦しい。」
2人とも心底そう思っていましたが、やっとの思いで口をついたのは、
「雨が止んだね。」
などと言う、愚にもつかない話。言ったそばからため息が出るような虚脱感。

「雨なんてどうでもいいじゃないの。」
本当はそんなことを言ってしまった自分に当たりたいくらいの、すさんだ気持ち。
夫も、
「ああ。」
とひどく気の抜けた受け応え。
「それが何なんだ?」
とでも言うような余韻を残す、憮然とした態度。

その日の朝、テアナウを出たのがずっと、ずっと過去のことに思えました。戻れないという意味では、数時間前は間違いなく過去です。
「できることならあそこまで時計を戻してもう一度やり直したい」
という理性的な後悔と、
「ここまできてしまって、もうどうすることもできはしない」
という、自明の理への軽いイラつき。ささくれた気持ちをぶつけまいという最後の良心よりも、声を出してなけなしのエネルギーを無駄にしてしまいたくないがための沈黙。

やっとミルフォードサウンド入り口のホーマートンネルに。内側は山を削った時そのままの地肌で、反射板がついているだけで完全無灯という極めてシンプルな造り。かなりの勾配になっているので山越え後、一気に海抜ゼロメートルまで降りていく感じが良くわかります。これを抜ければ目的地まではあと10キロ弱。しかし、安堵よりも苦しみの増幅の方がはるかに強く、その数キロは歯の根が合わなくなるような痛みに近い苦しみとの戦いで、狭い車の中での我慢はピークに。
「嗚呼・・・」

そして、ついに到着!9年前とほとんど変っていないように見受けられたものの、風景などこの際視界に入らず、私は脱兎のごとくにクルマを飛び出し、目の前に差し出されたかのように登場したトイレに駆け込み、夫は前に来た時にはなかったガソリンスタンドにまっしぐら。私が全身きしむような解放感で腑抜け状態なら、夫は「ちょうど2週間前にできたばかりのスタンド」と知らされ、ヘタり込み状態。2人ともまさに、ここにて昇天。


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編集後記「マヨネーズ」  
こうして、今年のミルフォードサウンド行きは私たちにとって忘れえぬ、限界への挑戦と克服(?) の場となりました。たかがトイレ、されどトイレ・・・です。もちろん万が一のことも考えましたが、前方の道路工事でほとんど走っているのか止まっているのかわからないような渋滞で、おまけに私たちのクルマの前後は観光バスが数珠繋ぎ。しかも、そのほとんどが日本人観光客(笑)

夫は夫でテアナウを出る時にガソリンの残量をチェックせず、走り始めてからは子どもたちが山道で車酔いになったりでバタバタしてしまい、1時間も走ってから、
「やっば!ガス欠!」
ということに。残量レベルを示す針はゼロを下回っていて、下り坂だったのでギアをニュートラルのまま惰性に任せて走行距離を稼げたのが幸いでした。スタンドの人にまで「You are lucky!」と言われたほどのラッキーさ。

万事ザルな私は、
「これだけたくさん日本人観光客のバスがあるんだから、どれか1台ぐらい乗せてくれるだろう。それより問題はトイレ・・・」と、自分の苦しみが最大優先で夫の脂汗も見て見ぬ振り。でも実際にエンストしてしまえばレッカー車を呼んだり何だりで、トイレどころではなかったはず。それでも、
「観光バスってトイレあったよね♪」
というこの発想、ひょっとして、コレって、自己チュー?


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
あれ以来、ミルフォードサウンドに行っていないので、氷河の記憶はアレで固定されています(笑)

(※写真によれば2002年2月12日でした)


アンティークショップは宝の山

2002-05-23 | 移住まで
ニュージーランド移住の師と仰ぐレディーDはのたまう。
「他人が見ればただのガラクタ、でも自分にとっては素敵なお宝が見つかる(かもしれない)のがアンティークショップという所なんです」
と。そして
「まるで宝探しでもするみたいに、一歩店内に足を踏み入れてからは、前に進むのを勿体なげにゆーっくりゆーっくり右左物色しながら、背の高い陳列棚の上にまで目をやって進んで行き、ひとつの掘り出し物も見逃すことのないように隅から隅までズズズイーっといくんです。」

嗚呼。さすがレディーDわかってらっしゃる!そうなんです、NZではアンティークショップということになっている偉大な古道具屋はお宝の山!実際はアンティークショップと言うほどカネ目の物はないし、リサイクルショップというほど軽いものでもなく、しっかりと人々の生活に根ざした由緒正しい庶民の店なのです。9年前に初めてダニーデンで足を踏み入れたのが、私のアンティークショップのデビューでした。

ごちゃごちゃ並んだ脈略のない古いものたち。「少しでも見栄え良く」というささやかな希望は数年前に断念された様子で、ただただ持ち込まれるものを隙間無く並べただけの店。突然入ってきた客にもほとんど注意が払われず、その無関心をいいことに、こちらは片端から面白そうなものを吟味するお楽しみにどっぷりと・・・。一気に古道具屋の虜になってしまいました。

「一体何に使うんだろう?」
と首を傾げるしかない、農機具の一部らしい錆びて曲がった鉄だの、素人が描いた油絵、どう見ても何かの景品だった物や、本人しかわからない無名の観光地の写真がはまった灰皿・・・。持ち込む方も持ち込む方なら、並べてしまう店も店です。そこに「もしかしたら売れるかも」という、商売を営む者にとっての最後の望みがあるのかさえも疑問です。

レディーDは続けます。
「意外なほどのアンティーク屋の賑わい。地味な家業と思いきや、老若男女、国籍問わず常に多くの人の興味を惹きつけています。お店巡りをしていて、まだまだ答えの出ないほのかな疑問。それは"アンティークと中古の定義はあるのか?"と言うことです。」

僭越ながら、私はあると思います。昔、株のお客さんにくっついてクリスティーズだか、サザビーズだかの下見会に行ったことがあります。
「確かにステキだけど、なぜこんなにゼロがいっぱい???」
と、いくら目をひん剥いて見ても信じられないような金額・・・。ちょっとした茶碗だの宝石だのが、車1台、家1軒というお値段なのです。実際の競売でも競っている人はその場におらず、代理人が携帯で連絡を取りながら競り落としていくそうですが、こんなに高価というか高額なものを姿も見せずに、電話一本で買うというのも不思議な世界でした。

やはりアンティークは古い物の中のブランド品で、人々が価値を認め、それに値がつくという取引市場が成立するものでないとだめなのでしょう。いくら家に代々伝わる古い物でも第三者が値をつけなければ、商品としてのアンティークにはならないのだと思います。

そこへいくと、古道具は気楽です。古けりゃいいのです。いつか、どこかで新品だったそれを使っていた人がいて、何かの事情で手放し、その間にヘタをすれば何人かを経由して今、私の目の前にある・・・という平凡なストーリーがもれなくついてくる中古品、それが古道具です。価値があろうとなかろうとそんなこたぁお構いなし。自分が気に入っているか、必要としているか、というだけで十二分に存在意義があるお手軽で、身近なものです。

それが個人の思い入れに上手く合うとお宝になり、そうでなくても「ちょっと懐かしい使い勝手のいいものが、こんなに安く手に入った」いうささやかな喜びを、使うたびに思い起こさせてくれる愛用品という、そこそこの地位に収まります。そこには他人の介在はなく、誰もが認める価値は不要。そして道具だからまず使うこと。使わなくても持っていることを積極的に楽しむこと・・・これに尽きるのではないでしょうか。

ダニーデンで買ったのは2客のティーカップでした。

ソーサーは華やかな絵柄のボーンチャイナなのに、カップはスーパーに色違いでズラッと並んでいるような安物でした。でもソーサーの絵柄の黄色に合わせた色です。これを店に持ち込んだ人は、お気に入りのボーンチャイナのカップを割ってしまい、泣く泣く似たようなカップを探してきたものの一瞬の慰めにしかならず、割れる前の姿が思い起こされて、とうとう手放してしまったんでしょうか。

私は見知らぬその人のささやかな努力とその後の虚しさの双方を喜んで引き受けるべく、そのカップを買い、一目で見破れてしまうちぐはぐを楽しみなながら、今でも大切に使っています。

いつかこのカップたちも、海を越えて里帰りさせます。



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編集後記「マヨネーズ」   
初めて行ったエステで「顔がくすんでいる」と言われ、コレを使え、アレを買えと散々言われて、とうとう「試しに」と、そばかすもどきのシミを勝手に2、3個取られてしまいました。

「ひょっ、ひょっとして、コレって、プチ整形っていうヤツ?」
ベッドの上に寝かされた私は何が起きたのかわからないまま、痛みに顔を歪ませながら
「????」

「一体どういう手入れしてるの?えぇ、普段からエステに通ってない?アンタいくつ?考えなさいよ。」
敬語のない中国語の気楽さで、年季の入ったエステシャンは質問攻め。
「いつも1日何時間寝てるの?」
「えっと、4時間くらい・・・」
と小さい声で答えると、
「っぇえええええ?ダメよう。8時間は寝なくちゃ。その顔見てみなさいよ!」
と、渡された手鏡には見慣れた自分の顔。

「あのぉ、これじゃいけないんでしょうか?」


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
このメルマガを配信してから18年が経ち、今のNZからはアンティークショップがすっかり姿を消しています。代わって台頭しているのが、OPショップ(オポチュニティー・ショップの略)と呼ばれる、慈善団体や教会が運営する寄付の品を売るチャリティーショップ。

移住早々にOPショップでボランティアを始め、私のボランティア歴も15年目に入りました。なんだかんだとアンティークや古道具とつかず離れずの生活をしています。

件のカップは香港から再びNZに捲土重来。その後も長らく持っていましたが、16年経って2009年にOPショップに寄付しました。


逆行通貨

2002-05-21 | 経済・家計・投資
ニュージーランド準備銀行(中央銀行)は今月15日、この2ヵ月来で3回目の利上げに出ました。上げ幅は前回2回と同様の0.25%。金利というものには明確なサイクルがあり、一度上がり出すとしばらくの期間は段階的に上がっていきます。いわゆる金利上昇局面というものです。しかし、いつまでも上がり続けることはなく、ある程度の水準まで行ったら打ち止め感が出てきて、ある日を境に下がり始めます。これも上がった時と同様で、段階的に下がっていきます。

猛スピードで走っている車が急には止まれないように、経済でも一度モメンタムという勢いに乗ると、一定のところまで行ってしまうことがよくあります。そして、その反動から今度は逆の方向を目指して一斉に動き出すため、結果的にサイクルが生み出されていくのです。金利だけでなく、景気サイクル、株価サイクルもあるし、今では半導体サイクルという言葉もすっかり定着しています。

NZの2ヵ月で3回の連続利上げというのは、一般的に言えばかなり急ピッチな金利上昇です。勢いがついているのは明白で、このまま行けば第4次利上げも近いでしょう。現にロイターの調べでは、エコノミスト13人のうち、12人が次回の中銀会議がある7月3日にも更に0.25%の利上げがあると予想しています。

1年以内に1%かそれ以上の利上げとなると、預金者にとっては嬉しい話。日本の定期預金金利がやっと1%あるかないかの時に、悠々4%台かそれ以上で預金できるわけです。香港もほぼゼロ金利で最近は口座残高が少な過ぎると口座管理料を徴収され、預金金利を受け取るどころか手数料を支払わないとお金を預かってもらえないというマイナス金利状態に突入しています。しかし、利上げは変動金利で借金をしている場合には、上昇分が金利負担としてのしかかってきますから辛い話です。そのため企業や個人が急速に借り入れを見合わせるので、それが好景気へのブレーキ役になるのです。

それ以外では金利が高くなるとどうなるのか?高い預金金利を求めて資金が移動してくるので、通常であれば通貨高になります。NZドルはまさにこの状態で、先週には2000年7月以来22ヵ月ぶりの高値である、1NZドル=0.46米ドル台にまでNZドル高が進みました。0.45~0.46米ドルは心理的上値抵抗線と見られていたので、この水準の突破は相場が新たな展開に入ってきた可能性を強く示しています。単純に言えば、ここ2年間で米ドルを売ってNZドルを買い今でも持っている人は、大なり小なりの利益が出ていることになります。

4月13日の「通貨のスーパー12」でも取り上げたように、NZドル、オーストラリアドル、南アフリカのランドは、今年に入って以来、世界で最も好調に推移している最強3通貨ですから、対米ドルだけでなく他通貨に対しても相対的に強含んでいます。ちなみに、日本円はと言うと、政府の「景気底入れ宣言」を受けて、20日に昨年12月13日以来、約5ヵ月ぶりとなる1ドル=125円台をつけてきました。しかし、NZドルは22ヵ月ぶり高です!

なぜ金利を上げるのでしょう?それはずばり、景気がいいからです。世界中が景気低迷やデフレに苦しみ続け、やっとほのかな改善の兆しが出てきたかどうかという時に、金利を上げてでも景気過熱感からくるインフレを抑えなくてはいけないとは、なんと贅沢な話。これこそがサイクルの妙です。全面的にダメなように見えても、どこかで必ず調子のいい国や金融商品、企業や投資家というものはいるものです。これだけアメリカ経済の影響力が世界的に甚大になり、アメリカがくしゃみをしただけで風邪どころか肺炎になってしまう国が多数ある中で、南半球諸国の逆行は見上げたものです。

「スーパー12」の3ヵ月の中でも3月から利上げに出たのはNZだけで、この急ピッチな利上げ局面はNZ中銀が認めているように、昨年9月の米同時多発テロ以降、景気の落ち込みへの予防的な利下げが行き過ぎたことへの反動で、掛け過ぎた保険を解約しているようなものです。そして、中銀総裁は「NZ は世界的な景気低迷の影響を受けていない」高らかに宣言しています。でも同時に「それは運が良かったことと、景気サイクルからのマイナス影響への対応が抜かりなかったため」と、非常に現実的かつ冷静でもあり、景気同様にのぼせ上がり過ぎてないクールさには◎。


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編集後記「マヨネーズ」  
昨年1月のNZ訪問で突然移住を決心したため、私は帰るやいなや、ささやかなへそくりはモチロン、家計のお金にまで手をつけてせっせと香港ドル売りのNZドル買いに出ました。しかし当時の相場は0.44~0.45米ドルと今とさほど変らない高水準で、その後は0.40米ドル割れにまで10%以上値下がりしたことも何度かありました。

通常であれば短期間で1割のやられを出せばビビってしまうところでしょうが、ナンピン買い(買値より下がった時に買い増し平均取得価格を下げておくこと)を続け、
「そんなに香港ドル売ってしまって、今月の支払いにまで事欠く!」
と、家計を預かる夫から悲鳴が出るほどでした。そして今日、やっと買値を上回るNZドル高に・・・。大勢に逆行しているNZの景気サイクルに加え、私にとっては世界的な景気不振の中で、サイクル以上に自給自足的な経済の底力に惚れこんだことが大きな決め手でした。

「どうせ2006年には自国通貨さ♪」
という、行ってまえ的要因もかなりあり、NZ中銀のクールさには程遠いザル投資。実際の移住までにはまだまだ何サイクルもありそうで、波乱含みの展開です。


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
「どうせ2006年には自国通貨さ♪」
と言っているところをみると、2002年の段階では4年後の移住を計画していたよう。どこからそんな数字が???一刻も早く行こうと思っていたはずなので、まったく記憶がありません(笑)

最終的に2004年7月に移住決行


夕暮れのミルトンにて

2002-05-18 | 移住まで
夕方というには遅すぎる7時少し前。私たちは背後から迫ってくる夕暮れを振り切るように、ダニーデンを後にしました。翌日のミルフォードサウンド観光に向けて、その日のうちにテアナウ入りをしたかったからです。しかし目的地までは289キロ。平均時速100キロで飛ばしても着くのは10時。それから宿探しとなると、どう考えても小さい子連れでは無理な行程でした。どこかで夕食もとらなくてはなりません。

「まあ、行けるところまで行ってみよう。」
早々にテアナウ泊はあきらめ、目先の問題は夕食に。NZでも特に小さい町が多い南島では夕食のタイミングを外してしまうと、一気に食べるところも買うところも閉まってしまい、モーテルにチェックインして強制自炊ということになりかねません。子どもはさっきから雛鳥よろしく、口を開けば
「おなか空いた~~」
とピーチクパーチク。

50キロも行かないうちに最初の町らしい町ミルトン着。NZでは町が近づくと、国道の制限速度が100キロからいきなり50キロに変わり、赤ちゃんが眠った絵の道路標識が出てくるため、すぐにわかります。その標識がなかったら、国道の両側の1キロあるかないかの町、というよりも集落は夜目の中ではうっかり走り抜けてしまうところです。

教会を中心に学校や小さな店が道路脇に並んでいるだけの童話の挿絵のような町に入るやいなや、何日も旅して鍛えられた勘で、
「ここにはレストランがない」
と直感しました。その次に考えることは、
「どこで買えるか?」
です。

いきなり左手にテイクアウェイの控え目なネオン。メインストリートが1キロあるかないかなので即決しなくてはいけません。チラリと見えた店の人がアジア系には見えなかったのでパス。
「次の店・・・」
と思ったら、いきなり町並みが切れて、もう目の前は高速道路・・・・。

しかし、その最後の最後、そこから先は隣の町まで何十キロも何もないのを覚悟しなくてはいけない最後に、"FOOD"と場違いに大きな看板を出したテイクアウェイが。このセンスが感じられない看板の大きさ、
「ひょっとしたら移民系の店?上手くすればアジア人かも。」

果たして、ドアを開けると一家総出状態の中華系一家。一気に我が家に戻ったような気楽さに。次男は
「ご飯がある♪」
と目がキラリ。実は彼は大のご飯党。しかも白米が大好きで、それさえあれば空飯でもいいくらいなのです。その分パンが苦手なのでNZに来てからパン食続きで半泣き状態。まだ4才ですから強要するのもかわいそうで、現地の物を食べたい親はジッと我慢し、見つけられる時はなるべくアジア系の物を食べるようにしていました。なのでこんなところで、こんな時間に中華料理とは本当にラッキー。

いきなり入ってきた東洋人一家にお店の人も、
「アレ?」
っという感じでしたが、高校生ぐらいの娘が英語で対応してくれました。半分以上が洋風メニューでしたが、
「あるじゃないのぉ!チャーハンに焼きそば!」
早速オーダー開始。「コンビネーションフライドライスにフーヨンシュリンプ。それから、チキンフライドヌードルに、え~と・・・」

あ~~面倒臭っ!いきなり普段使い慣れている中国語に切り替えて、
「楊州炒飯、芙蓉蝦仁、鶏絲炒麺・・・」
とオーソドックスなところをとっとと頼むと、それまで黙っていた奥さんらしき人がパッと反応して、
「好唖!」(OK!)

その後はお決まりの展開で、お互い
「なに人?」
(中華系は世界中に散らばっているので、お互いどこの国籍か確認し合うことがよくあります)
「どこから来たの?」
(これは単に住んでいる場所。これも往々にして国籍と合わないことがよくあります)
「何してるの?」
(旅行か移住か?)
と、敬語のない中国語の気楽さで、初対面ながら気分はアンタ状態。

「私はさぁ、英語はからっきしダメなんだよ~」
と奥さん。料理を作り終えたご主人も出てきてニコニコしながら話を聞いています。聞けば広東省から1年前に移住してきたそうで、「これからテアナウに行く」と行っても、3人ともその地名を知らず、逆に
「道を間違えてるんじゃないかい?」
と心配されたくらい。彼らがわかったのは40キロ離れたゴアだけで、それも友だちが住んでいるから知っているという程度。

「冬は雪で大変だよ。広東省は暖かいからねぇ。生活も楽ではないけど、ここに来てよかったよ。」
と奥さん。人の良さそうなご主人が隣でうなずいています。娘は1年でかなり英語をマスターしたようで、夫婦の自慢の種。
「私たちも移住して来ようと思ってるの。」
と正直に言うと、
「そうかい、いつ来るんだい?南島かい?」
と、お世辞抜きで嬉しそう。
「また来ておくれよ。」
「ええ、いつになるかわからないけれど、必ず。」

外に出るともうとっぷりと暮れていて真っ黒な夜が広がっていました。私たちの車だけがポツンと取り残されたように停まっているだけで、他に車の影はありません。ウィンドウの向こうで遠ざかっていく大きな、暖かい色のネオン。
「どうもありがとう。本当にまた来ます。どうかそれまで元気でね。」


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「マヨネーズ」  
町にテイクアウェイが3軒、レストラン0軒のミルトンで立ち寄った「1&1テイクアウェイ」。ここまで来るとモヤシや豆腐は手に入らないようで、ニンジン、玉ネギ、セロリ、トマトといった中華素材では脇役の野菜が堂々主役を張っていました。



でもこれが街中の中華レストランよりよっぽど美味しくてビックリ。NZ移住の思い入れを噛み締めながら、かなりの量をみんなでペロリ。中国語の会話に入れなかった夫が聞きたかったのはただ一つ。
「ビザは何ですか?」


輝きの連鎖:松任谷由実2002年香港公演

2002-05-15 | 香港生活
伝説に立ち合った夜でした。ユーミンが数メートルも離れていないところで歌っています。DVDでしか見たことのなかった人たちが、目もくらむような天体をかたどったセットの中で演奏しコーラスしています。5月10日、松任谷由実、香港公演。

私は中学校に入り初めてラジオを聴くようになって、すぐにユーミンに出会いました。透明で華麗な音楽は、他の曲とは違う周波数で届くような不思議な美しさでした。普通の曲が地上から発信されたものなら、ユーミンの曲だけは天空から降ってくるような気がしました。一次元空間ですらない視覚を伴わない楽曲に、歌詞という物語が乗ると目の前に立体的な三次元空間が現れ、しかもそこは時間の流れをも自由に行き交う四次元の世界でした。
「こんなに美しいものがあるなんて。」
想像が次々に裏切られていく魔法のようなからくり。それに翻弄されることを心から楽しみながら、私は彼女の迷宮に、深く、深くいざなわれていきました。

ユーミンはよく自分が巫女であることをはばからずに口にしますが、自身の才能を通じて、この世に生を受けた使命を悟っているのでしょう。謙遜してその才能を使わず使命を果たさないことも、自分の力に酔い知れて凡人以下に成り下がってしまうことも、自らに与えられた勤めへの背徳であることを理解しているからこそ、淡々と仕事やステージをこなし、アルバムを出し、ここまでやってきたのではないかと思います。この世に在る時間を惜しむように、丁寧に優しく生きる姿勢は彼女の曲やステージに色濃く映し出されています。これだけ影響力のある存在になりながらも、ひとかけらの奢りの影も見いだせないのはその使命ゆえなのでしょう。

ライブをDVDに収めた「シャングリラ」を初めて目にした時、震えるような感動に言葉を失いました。それは、大勢のロシア人による華麗で豪華なサーカスや水中バレーで再現された現世のシャングリラの中で、耳慣れたナンバーを軽やかに歌い続けるユーミンの姿に対してではなく、彼女の声に対してでした。しかも歌声にではなく、人の名前を読み上げる高らかとした声に対してでした。

「オレグ・ダニーロ」
「イリーナ・フリードロワ」
「アレキサンドロ・ベロー」
「マキシム・フローシン」
終盤に唐突に始まったのは、裏方であるはずのロシア人たちの名前を一人一人読み上げていくことでした。全部で30~40人はいたでしょうか。ユーミンの紹介に合わせて、当の本人達がステージの上で一人、また一人と深く、エレガントに挨拶していきます。彼らの顔は緊張から解き放たれている以上に、自身の名前がスポットライトの下に照らされ、自分だけに向けられた温かい拍手を受ける喜びと誇りに満ちていました。

名前を読み上げるという、いとも簡単なことがこれほどまでに彼らを輝かせているのです。ユーミンの声は彼らに喜びを与えただけでなく、読み上げられる名前を聞きながら、彫刻のように美しく逞しいロシア人たちが単なるステージの背景ではなく、血の通った私たちと同じ感情を持った人々なのだということに気付かされた観客は、新たな発見への感動とそれを知らされた嬉しさで、ユーミンに送るのと同じくらい強く、惜しみない拍手を送っていました。

ユーミンの御技を目にした瞬間です。その喜びの連鎖がDVDを見ているだけでも手に取るように伝わってきました。きっと彼らは東方の小島を回ったツアーをいつまでも覚えていることでしょうし、一座を率いた東洋人の姿をしたディーバのことを一生忘れないでしょう。

今回の香港公演もそうでした。ユーミンは日本人が9割を占めたであろう観客席に向かって、淀みない広東語で話しかけていました。ほとんどの日本人は彼女の言っていることがわかりませんから最初は戸惑い、挨拶が日本語に切り替わった時には、ほっとしたため息が会場にこだまするようでした。その後も曲と曲の合間に、彼女は広東語で語り続け、そのうちごく少数の香港人たちがそれに応え始めました。そして日本人たちも、たとえ内容がわからなくても、ここまで真摯に語る彼女のメッセージに耳を傾け始めたのです。観客の心が一つになった瞬間でした。

喜びが連鎖していくのが目に見えるようでした。
「今日ここに来て良かった。」
ずっと好きだった遠い存在の人を目に、耳にできたという現実よりも、こうして彼女の送り出す輝きを受け止められたことは、何にも代えがたい喜びでした。それを今こうして自分の言葉に置き換えて伝え、それを目にしてくださった方の心にも、小さな温かい灯が灯ったらいい。まぶたの裏のユーミンは、両手を高く差し上げ、飛び切りの笑顔で、いつまでもいつまでも、連鎖の中央に佇んでいます。


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「マヨネーズ」  

ユーミンの紹介を受けたバックコーラスやバンドのメンバーも、一人一人がステージ中央に立ち、それぞれが広東語で挨拶していました。ちょっとテレたり、すごく上手だったり各人各様でしたが、どれも心がこもったものでユーミンの情熱を十分に受け継いでました。

その後車座になって始まったアカペラの時に、観客の心が本当に一つになっているのを感じました。
「ユーミンのステージには失敗なんてものはないんだろうな」
と、つくづく思います。観客もステージのメンバーも所詮はユーミンの掌で踊っている子どもたちに過ぎないのです。なんて幸せな、一足早い真夏の夜の夢。


アオテアロアのレディーD

2002-05-11 | 移住まで
「ホームページ拝見しました。」
と、見慣れぬアドレスのメールがメールボックスに届いたのは4月の終わりでした。開いてみてしばらく、二の句が告げませんでした。メールによれば、「NZへの移住、移住」と大騒ぎしている私たちのやろうとしていることを、同じようにお子様が2人いる日本人サラリーマン家族があっさり実現させ、しかもさっさと海の見える1軒家を買って悠々自適なキウイライフを始めているというではないですか!

それだけではなく、このご家族も海外生活が長く、特にメールを下さった奥様は以前に香港にもいらしたことがあって大のアジア贔屓。「チャイナタウンがあれば日本食なしでも生きていける」とのたまうところなど、はからずも私とそっくり。私もパリで暮らしていた頃は、名前はプラスディタリー(イタリア広場)と言いながら、実際はベトナム系シノワ(チャイニーズ)のメッカだった実質チャイナタウンが生命線でした。

「この風景に一目惚れして、この町に住みたい!」
と思ったあたりも私と良く似ていて、何だか宇宙のかなたの分身からコンタクトを受けたかのようでした。でもあちらは移住を即実行されていて、身軽にして柔軟に新生活をスタートされています。のたりのたりとしている私にとっては神業です。それ以来、"アオテアロア(「白い雲のたなびく国」というマオリ語でのNZのこと)のレディーD"(故ダイアナ妃にちなんだわけではないのですが、たまたまイニシャルが同じだったので)を師と仰ぐことに・・・

「永住権獲得に全霊を傾ける人間にとってはタイミングが全て」
「脱サラを憂うことなく、永住権を獲得できる国で子供たちとのんびり暮らしたい」
と、レディーDは移住における基本のキを、実践者ならではの説得力で淡々と開陳してくれます。
「お金を貯められるだけ貯めてくるのがよろしいようで」
「自給自足の半分ぐらいこなす心意気で来られるといいですよ」
と、的確なアドバイスも実感がこもっていて改めて考えさせられます。

「どうにもならなかったら、夫婦間もギクシャクして責任転嫁バトルが火を噴いて、子供たちも情緒不安定とエラいことになっているのでしょうが、幸い文字通りどうにかなってここまでこぎつけました。不安も喉元過ぎれば"どうにかなるさ"で乗り切れているのが私のようです。夫は最初から"どうにかなるっしょ"の人です。」
と、背中をぐいぐい押してくれます。これを読んだら私たちならずとも移住を目指す人たちであれば、
「何とかやれるかも・・・」
と勇気100倍です。

レディーDのメールにもあったように、移住には各人のドラマがあります。その中で自分と同じような理由や経緯でとっくに夢を達成している人がいるということは、どんなに心強いことでしょう。
「あの風景に心打たれただけで人生決めてしまってもいい。そこに特別な理由や計画がなくても、『ここに住みたい!』という思いがすべてであっても構わない・・・・」
白い雲のたなびく国から届く長い長いメールは文面の端々に、そんなメッセージがこめられています。

私は移住という、自身の突然の思いつきに、家族を巻き込むことをどう受け止めていいのかよくわからないままここまで来ました。さすがに思い立ってから早1年3ヵ月、今でこそ家族の中でNZ行きは規定路線化していますが、いったいどこまでが夫や息子2人の真意で、どこまでが我慢なのかよくわからず、不安に思うことがあるのも本音です。彼らはとても優しく、私が望むことであれば、強く「NO」という人間が家族にいないので、その経緯に関しては多少霧が晴れていくことがあってもすべてを見極めることは難しいことでしょう。

私にできることは彼らのそんな優しさゆえに実現する夢に誠心誠意で臨み、日々感謝の気持ちを忘れずにやっていくことだけです。しかし実際はそんな綺麗事では済まされず、夫を仕事から、子どもたちを生まれ育った場所や友人たちから引き離してしまうことに代わりありません。そんな時、レディーDからのメールに移住後の自分たちを重ね合わせられたことは、私にとってどれほど救いになったことか。彼女への長い返事をしたためながら、いつか家族が「来て良かった!」と、心の底から思える日が来ると信じて、
「夢をかたちに・・・」
と、思いを新たにしています。


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「マヨネーズ」 
「飲茶デザートの締めくくり、私は亀ゼリーで決めます。NZではまだ見たことはないけれど缶詰のならお店にあります。」
と、レディーD。実は私も本当の亀が入っている漢方デザートの王様、亀ゼリーが大好物!
「もう、どうしてここまで似てるの?」
と、メールを前にしばし腕組み。

長男は5歳から私に連れられ亀ゼリー屋に出入りしてますが、夫も次男も「一生に一回でいい」というクチで付き合ってくれません。なので長男と香港随一の繁華街であるコーズウェイベイに出ると(実は家から歩いて15分くらいですが)、
「アレ行こうか?」
と2人でいそいそと、亀ゼリーの老舗、恭和堂に入ってしまいます。

真っ黒に怪しく震えるなみなみ入ったゼリーに長男はお砂糖たっぷりで。私は漢方の五花茶が煎じこめられた、顔がゆがむような苦味を五臓六腑にまでしみわたらせるべく、そのままいただきます。レディーDのご主人のデザートは「マンゴープリン」だそうで、これも西蘭家にそっくりです。

哲学する鳥

2002-05-08 | ペット・動植物
今年はウマ年だというのにトリ年かと思うほど、年頭から鳥づいています。まず元旦に「ハリーポッター」を観終わって子どもたちと映画館から出てくると、街路樹の下にうずくまる生き物が・・・。ぱっと見には死んでいるようにも見え、
「何も死んだ生き物を子どもに見せなくても・・・」
とも思いましたが、念のためによく見てみるとスズメに良く似た首の周りにうっすらと模様のある茶色の小鳥でした。

虫の息ですが、生きています。すぐにタオルにくるみましたが、掌でもぐったり。まともに鳥を飼ったことがないので、どうしたらいいのかわかりませんでしたが、すぐに鳥かごとエサを買い、とにかく温かく、暗くしようと、鳥かごをタオルでくるみバスルームのシャワーカーテンのレールに掛けてみました。

翌朝。毎朝6時前には起きる、家族で一番早起きの私はそっと鳥かごを覗いてみました。中はタオルがグチャグチャになりエサも飛び散っています。よく見ると、前日は立つこともできなかった鳥が、止まり木に止まっています。しかも別の止まり木に飛び移ったりしています。

「やったねぇ!」
と声をかけると、
「ピイィ」
とかすかに声が出るほど元気になっていました。ほとんど開かなかった目もぱっちり開いて、そのつぶらで輝くような瞳と目が合いました。
「元気になったら空に返してあげるからね。行ってきます。」
そう言って、陽が入るように南向きの窓を大きく開けて出勤しました。

ところが、その鳥に2度と会うことはありませんでした。1.5cmもない鳥かごの柵の間から逃げ出したのです。しかも家族が起き出してくる前に!何度も脱出を試みたのか、バスルームにはエサがたくさん散らばっていたそうです。幸い羽がなかったので大脱走でも本人は傷つかなかったようで安心しました。きっと窓から差し込む陽光に、居ても立ってもいられなくなったのでしょう。そこまで快復していたのなら、こちらも本望。「元気でね」と祈るばかり。

そして4月。日記やギャラリーにも登場しましたが、今度はマンションの敷地内で羽を大量に散らしたハトに遭遇。前回の経験から「鳥は結構快復が早い」ということがわかっていたものの、
「今回はダメか。」
と思うほど弱っていました。大きいので猫のケージとバスタオルで捕獲しましたが、大きな羽もたくさん落ちていたので、
「助かってももう飛べないかも。」
と心配でした。

マンションの管理人の許可を得て、彼らの目の届く駐車場内にケージを置かせてもらうこと1週間。そのうち立てるようになり、毎日大量のフンをしエサをひっくり返し、ケージの中でドタバタドタバタ。ただし飛べる保証はありません。慎重を期して、安全そうな場所に放してみました。眩しそうにキョトキョトしながらもトコトコ歩くではないですか・・・。フェンスにも飛び乗れたので、木に飛び移ることも難なくできそうです。
「これなら大丈夫だろう。」
とホッとして、2羽目を見送りました。

そして5月。子どもたちがマンションの敷地内で、小スズメを見つけてきました。5歳の次男が手で持ってこられたくらいですから、これもかなり弱っています。大きさから見て巣から落ちた雛でしょう。元旦に買った鳥かごを用意していると、再び次男が、
「ママ~もう一コ!("1羽"だってば) 
今度はつかまれない("捕まえられない"だってば)」
捕獲に行くと、1羽目ときょうだいと思しき同じスズメの雛でした。動かない2羽をタオルにくるんで鳥かごへ。

それから半日。目も開かなかった鳥たちは今、西蘭家のバスルームで、
「ピィーピィーピィーピィーピィーピィーピィーピィー」
と一定のリズムで鋭く高く鳴いています。なんという快復力!野性の逞しさなのか、寿命の短い生き物にとって半日は人間の数日に匹敵するのか?!

あの声は親を呼んでいるのでしょう。「シートン動物記」にかなり詳しくカラスの会話の話がでてきますから、スズメだってこれぐらいの話はできるに違いありません。寒くもないし今日中にも放せるかもしれません。

昨年ニュージーランドを訪れた時、ロトルアへの道すがらダチョウに一目惚れしました。
「なんとキレイな鳥なんだろう!」
まともに見たこともなかった見上げる高さの巨鳥は今まで見たどんな鳥よりも知的に見えました。長く伸びる薄ピンクの首の上に品良く収まる小さな顔。その中の濡れて輝く知的な瞳がこちらをじっと見ています。

まるで哲学者のようです。お互い初めて会う相手と見つめ合いましたが、そのまま言葉を交わせそうでした。拾ってきた鳥たちのつぶらな瞳を見ながら思うことはただ一つ。
「移住したら絶対にダチョウを飼おう。」


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「マヨネーズ」 
ここまで先週の水曜日に書いた時に、さっさとスズメを放すべきでした。ところが、夕方になり少し冷たい風が吹いてきたので様子を見ようと思い、元気な方だけ放して弱っていた方は残しました。次の日にはエサも食べだしたので、
「これは順調。土曜日に子どもたちと一緒に放そう。」
と思った矢先、金曜に突然死んでしまいました。

朝、出勤する前は生きていて静かに座っていました。目もパッチリ開いていたので一声かけて家を出たのですが。本当にかわいそうなことをしました。エサを食べた時点で、放してあげるべきだったのかもしれません。野生の生き物を鳥かごで死なせてしまったのは不憫です。

ちょうど手頃な黒い箱が見つかったので、やわらかい紙とベランダに咲いているピンクの花を敷き詰め、白いリボンをかけて近くの自然公園の植え込みに弔いました。付いて来た子供たちも自然と手を合わせていました。
「早く元気に生まれ変わって、大空を思いっきり飛ぶんだよ。助けてあげられなくてごめんね。」


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2019年5月の後日談:
ダチョウを飼おうだなんて、いったい移住後はどこに住むつもりだったのか(笑)?!
というか、オークランドを何だと思っていたのでしょう(爆)

当時は、
「まずはオークランド。場合によっては、その後どこかへ。」
とのんびり構えていましたが、いざ移住して生活が始まると、子どもの学校だ、スポーツだ、補習校だ、そして仕事だと、あっという間に土着化。

「ここに住みたい・・・・」
という最初の閃きに従って正解でした。

砂時計の時間

2002-05-04 | 香港生活
大矢壮一賞を受賞した星野博美氏の「転がる香港に苔は生えない」という本を初めて知ったときの感動は、今でも良く覚えています。香港の真骨頂を言い得たタイトルだと思いました。通算12年近くここに暮らし、一見根を生やしているかのような私にとって、香港は常に移ろい行く"水もの"です。かつて「借り物の土地、借り物の時間」と言われたこの地が、97年の返還を経ても依然"借りの地"であるという思いは、住めば住むほど強まってきます。しかも残された時間がどんどん少なくなっていくのを感じています。

そうは思っても、それを不安がったり焦っていたわけではなかったのですが、昨年のニュージーランド再訪の際に味わった、何かから解き放たれるような思いに、自分が縛られていた呪縛というものに初めて気がつきました。内なる私は、"借りの地"に代わる"約束の地"をずっと求めていたのかもしれません。

しかし、実際の香港の生活はそんなことを突き詰めて考える余裕もないほど忙しく、時間に追われたものながら、濃厚で楽しいものでもあります。何かに急かされるように休む間もなく動いていく香港。しかし、ただ突き進むのでも、駆け上がっていくのでもなく、時には退き、譲り、そしてまた上を目指して行く・・・。それが延々と繰り返されていくのです。どこの国でも調子のいい時もあれば悪い時もありますが、香港の場合はこのスピードが異常に速く、まさに"転がる"と呼ぶにふさわしい速度なのです。

裸一貫で中国から逃げてきた人が、巨万の富を築くといった成功談は掃いて捨てるほどありました(今はほぼ自由に行き来できるので逃げてくる人はいなくなりましたが)。そして一度はミリオネラーになった人が、事業や株の失敗で全財産を失い、道端の物売りという振り出しに戻ることも珍しくありません。先日も一時は大手レトランチェーンを経営していた大金持ちがバブルで財産を擦り、路上のDVD売りで生計を立てている、という記事を読みました。

ここ20年ぐらいの香港の生活水準は日本を遥かにしのぐスピードで上昇してきましたが、その実態は日本の高度成長期のような社会全体が底上げされていくようなものとは異なり、上手く時流に乗れた者は豊かになり、そうでない者は高インフレの中で相対的に貧しくなっていくという状況が隣り合わせでした。

この明確な「勝ち組」と「負け組」の図式。でもそれが定着してしまわないのが香港のすごいところで、「勝ち組」であるはずの、一生遣っても遣い切れないような金を稼ぎ出した人でも、それを更に増やそうと、新たなリスクを取りにいきます。"No Pain,No Gain"を熟知しているからこそ、成功の保証がないにもかかわらず、リスクテイクに出るのです。もちろん「負け組」もそのまま腐ってはいられません。借金をしてでも次の一手に出たり海外に活路を求めたり、底辺から再起を狙います。

そして両者がどこかで行き交い、立場が入れ替わって再び同じことが繰り返される可能性もある訳です。その過程での途方もないエネルギーの放出と吸収、ピンチを切り抜け、身がすくむような決断を下しながら、ここの人たちは類まれな鍛えられ方をし、それが華人社会の中でも独特なバイタリティーを生んでいるようです。皆に共通することは、立ち止まらずに転がり続けることなのです。

柔軟でしたたかな生き方は、立ち止まることを許さないものでもあります。個人でも企業でも自社ビルや持ち家でない限り、同じ住所に10年も留まることはかなり珍しいでしょう。持ち家さえも転がしていく人たちです。かつてのインフレ下でも今のデフレ下でも、馬鹿を見ないように守るか責めるかは市民の最大の関心事と言っても過言ではないでしょう。

飲茶レストランでのんびりと2、3時間を過ごす微笑ましい一家団欒の時でも、よく見てみると夫婦が別々の新聞に顔を突っ込み、ジッと見つめているのが不動産広告であることは珍しくありません。自宅を売買したり賃貸に出す予定がなくても、こうして市況の最新情報を押さえておくことは香港人の常識なのです。

このテンションの高さがずっと好きでした。そして、ここで暮らしていくには香港人と同じようにするのが最も賢明だということも学びました。郷に入れば郷に従えです。ですから私も持ち家の時でも賃貸の時でも、自分のマンションの市場価値や賃貸価格をかなり正確に把握しています。これは、「外国人だから・・・」と足元を見られて割高なものをつかまされたくないという生活防衛と、賃貸と購入とどちらが家計に有利かという攻めの計算でした。

しかし、そうした全方位にアンテナを張り巡らす生活も、香港の回転速度が緩やかになって来る中で変わってきました。私の中で、
「香港に残された時間が少なくなってきている」
という思いが一段と強まってきたからかもしれません。残された時間がどれぐらいあるのか?それはいつ中国が香港を必要としなくなるかにかかっています。

これまでの香港の目覚しい成長は、中国の門戸が世界に対して閉ざされていたことを抜きには語れませんでしたが、その中国は今、自ら全世界に扉を開いています。こうなれば香港を素通りした中国と外の世界とのつながりが築かれていくのは時間の問題でしょう。

「西蘭さん、砂時計がひっくり返されて砂がサラサラと落ちてきています。もう時間はあまりありません。」
私が最も尊敬する友人の一人はそう言って、数年前にこの地を去っていきました。私も彼女の言わんとすることが痛いほどわかっていながら、香港への愛着が先に立ち、どこかへ向かう自分たちを思い描けずにいました。

でも今はここを卒業していく日が近づいていることを肌で感じています。例えNZに出会わなかったとしても、西蘭家は次の一歩を考え始めていたことでしょう。香港の教え通り、私たちはまだまだ転がり続けなくてはいけないのです。


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「マヨネーズ」 
たまに行っていた近所のアウトレット。子ども服がけっこうあり、子どもが小さい時はお世話になりました。先日のぞいたら、外に「銀主価」の張り紙。
「まさか!」
と思って中に入ると柄の悪そうなおニイさんが数人たむろしていました。

「やっぱり!」
銀主の"銀"は銀行の"銀"(サラ金である可能性もあります)です。彼らは取り立て専門業者で、店のオーナーの借金返済が滞ったため抵当に入っていた店を差し押さえ、商品を売りさばいているところでした。

いつも無愛想にテレビを見ながら店番していた小母さんや、たまに手伝っていたその夫はいずこに?彼らに大きな変化があったものと察します。これは転がる香港のほんの一面です。持ち主には過酷ながらも、いずれ店は人手に渡り、金融機関は債権の一部を回収し、店は新しいオーナーとともにまた転がっていくのです。