ニュージーランド移住記録「西蘭花通信」

人生の折り返しで選んだ地はニュージーランドでした

息子の背中

2002-07-31 | 移住まで
私は32歳の誕生日に長男を出産しました。当然ですが2人の誕生日は同じで、息子の誕生は私にとって人生最高のバースデーギフトとなりました。そして、どう説明したらいいのかわかりませんが、その出産を機に私の成長が完全に止まってしまったように感じるのです。もちろん毎年誕生日が来て息子と一緒に祝っていますが、私の中で年を重ね成長している実感がなくなり、上昇志向のようなものがきれいさっぱりなくなってしまいました。

それから3年経って次男が生まれ、彼が3歳になって幼稚園通いが始まると、少し状況が変わってきました。子どもが自分たちの時間を持つようになるに連れ、自分自身の時間が戻ってきたのです。上昇志向がなくなった分、水平志向が強くなり、横へ横へと自分の興味の赴くままに視野が広がっていきました。2000年にビーズ・アクセサリー作りに出会い、1年後の2001年のNZ再訪で人生の後半の方向性が一瞬にして決まりました。アクセのお陰でもともと手作りするのが好きだったことを改めて自覚し、ガラス細工を手始めに、最近では念願だったタイルモザイクも始めました。それでも陶芸、組み紐、レース編み、ステンシルと、やってみたいことは目白押しです。

長男は私と同じ誕生日にこの世に生を受けて以降、母親の分までスクスクと竹のように成長しています。いつの間にか膝にも乗らなくなり(35キロもあるからムリですが)、今年から大人のカジュアル服を着せることにし、子ども服とは完全にサヨナラしました。
「2人で着よう!」
とニュージーランド行きの前には一緒にダウンジャケットを買いにも行きました。(今年の滞在は1月だったのにクライストチャーチでは9度という日がありました)

先日、夕食前にジョギングに行こうとすると、
「ボクも行きたい。」
とついて来ました。歩いて5分の近所の競馬場に1周1キロのジョギングトラックがあるので、2人で走り始めると200メートルもしないうちに、
「ママ、お腹痛くなりそう。」
と言って立ち止まってしまいました。子どもなので長い距離を走ることに慣れておらず、呼吸と足が合っていないのです。それが隣にいてよくわかったので、一応、足の動きに合わせて息を吸って吐いて・・・と教えてみたものの、
「ちょっと休む。」
というので、
「じゃ、先に行ってすぐ戻ってくるからここで待ってて。」
と言い残しその場を去りました。

1周走って同じ場所に戻ってみると姿が見えませんでした。
「あれ?走り始めたんだろうか?」
と思い、長男を探しながらもう1周走ってみましたが見つかりません。

「暗くなってきて1人で帰ったんだろう。」
と思いながらもしばらく待ってみましたが、同じジョガーが2周してくるほど経っても来なかったのでひとまず家へ戻りました。ところが彼は家にもいなかったのです!慌てて外に飛び出し、いくら陽の長い夏とはいえ、もうとっぷり暮れてしまった夜の中を競馬場に向かって駆け出しました。大きくなったといっても彼はまだ8歳・・・

その時、坂の下の方から白いTシャツが闇に浮かび上がるように誰かが上ってくるのが見えました。
「いた!」
と走り寄ると、ニコニコしながら軽く手を挙げ、
「やっぱり、ママ帰っちゃったんだ~」
と言うではありませんか?
「どうしたの。探してたのよ!」
と言うと、
「走ってたんだよ。ボクだってママのこと探したよ。」
「走ってた?」
「うん。3周走ったよ」
「!!!!」

息子は歩いたり走ったりしながら、私の姿を探しつつトラックを3周したんだそうです。計3キロ!中央に電光掲示板や植え込みがある上にこの闇。お互い見失ってしまったようです。息子の快挙に思わず抱きしめ、
「すごいじゃない!やったね!」
と興奮気味に言うと、本人は初めてそんな距離を走ったにもかかわらず至って淡々としたもので、
「水泳のウォーミングアップでプールを8往復させられる方がもっと大変だよ。」
と謙遜でもなくケロリ。

(※この頃から水中が好きだった長男)


子どもに対して、つい私の口をついて出てしまうのは、
「1人でできる?」
「大丈夫?」
という転ばぬ先の杖的なことばかり。親だから心配して当然ですが、本人の能力を信じていないことの表れでもあります。でも息子は成長しない私の分まで日々成長しており、昨日できなかったことが今日はできるという日進月歩の変化を遂げているのです。そう遠くないうちに息子の背中を見ながら走る日が来るのでしょう。
「ママ、大丈夫?ボク先に行ってるからね」
と言われながら・・・


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編集後記「マヨネーズ」 
バリで何年ぶりかでビキニを着ました。夫と知り合った90年代はハイレグ全盛期。最近は日焼け怖さで水着になることもなかったので、ブームがビキニに変わってからもすっかりご無沙汰でした(確か善が生まれた年、子どもプールにお風呂状態で漬かっていたのが最後だったはず)。着てはみたもののお腹の周りのゆとり(!?)にギョッとして、旅行前の走り込みで(まさに競馬場のジョギングはソレ)、急きょ1.5キロ落として臨みました(笑)


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
本人の能力を信じていないことの表れでもあります、と言っていますが、子育てでこうした経験を繰り返す中、『愛の正体は信頼』という私なりの結論にたどり着きました。

長男はNZの高校で水中ホッケーという世にも不思議なスポーツに目覚め、競技人口がめちゃくちゃ少ないという利点はあるにしても、高校在学中に2回全国大会で優勝しました。


アロータウンの再会

2002-07-27 | 移住まで
記憶にある限り、私がこれまでの生涯で出会った一番美しい白人女性は、クイーンズタウンから少し入ったアロータウンのカフェにいました。バレリーナのように伸びた背筋の上に信じられないくらい小さな頭を上品に戴き、輝く金髪をきりりと引詰めにして、カウンターの中で立ち働いていました。

ランチ時間の混んだカフェの中で、レジに続く列に並びながら、
「なんて綺麗な人なんだろう」
と、同性ながらうっとりする思いで彼女を見つめていました。

彼女はオルゴールの上で踊る人形のように華麗で、笑みをたたえてオーダーをとり、後ろのキッチンに声をかけながらてきぱきとお客を裁いています。綺麗でも血の通わない人形とは違って、きびきびとした立ち居振る舞いが彼女を一層優美に見せていました。着ていた真っ白なシャツと金髪のせいもあるのでしょうが、彼女の立つそこだけが石造りの重厚な一角の中で輝くように華やかでした。

今年2月に9年ぶりにNZ南島を回ることを決めた時、このカフェは是非立ち寄ってみたかった所の一つでした。夫もあそこで飲んだねぎスープの美味しさを良く覚えていて、私たちは迷わず再訪しました。店はすぐに見つかりましたが外見が若干違って見えます。

少しドキドキしながら中を覗いてみると、様子がかなり違っていました。彼女が立っていたカウンターはなく、もちろん彼女もいませんでした。あれから9年も経っているのですから当然と言えば当然なのでしょう。

それでも少しがっかりしながら、新しくしつらえられたカウンターに行き、遅いランチを頼みました。メニューも全然異なり、店の名前「クロスロード」にも見覚えがありません。前の店の名前が何だったのかは思い出せませんが、違う店であるのは一目瞭然です。

当時の彼女と年の頃は同じでも別人の若い女性2人に、
「9年前にここに来たことがあるんですけど・・・」
と、いったい何を聞くつもりだったのか自分でもよくわからないまま声をかけると、
「9年前?それは別の店だわ。私たちがここに来たのは数年前だから。えっと、何年になったっけ?」
と1人がもう1人に聞いています。

美しかった彼女の面影をぼんやり思い浮かべながら外のテラスでゆっくりランチをとり、夫が、
「あの木とか変ってないね。でも店は増えたな~」
などと言っているのを聞き流しながら、心のどこかでは、
「会ってみたかったな。一目でもいいから。」
と正直な自分がつぶやいていました。

髪を束ねてシャツの袖をめくり長いスカートで立ち働く姿は、子どもの頃に見ていた「大草原の小さな家」のローラのお母さんとして、私にとって開拓民女性の象徴でした。1年半前に突然NZに住むことを決心し少しずつ建国の歴史を学ぶうちに、そうした女性たちを歴史の本の古ぼけた白黒写真に、early settlers(初期入植者)の妻たちとして何回も目にするようになりました。

9年前の私はNZのことなど何も知らず、ただただ彼女の匂い立つような美しさに目が釘付けでした。ひょっとしたら同性として、外見の美しさを越えた内面に秘められた意思の力を見抜き、知らず知らずにその強さに惹かれていたのかもしれません。

今では2度と会うことのない彼女のイメージは、世界で初めて女性参政権を獲得した入植者の子孫、自由で自立したキウイ女性の象徴として私の中で勝手に昇華していきました。時代や生活環境の差はあっても、移住したら諸先輩の歩んだ道を自分も辿ることになるのです。先達が切り開いてくれた十分に整備された道を行くという恩恵にあずかりながらも、期待と不安が入り混じった新しい生活が始まるのです。

「そうは言っても、いくらなんでも大袈裟、荒唐無稽かな。」
と、羽を伸ばし過ぎた想像力を打ち消すように、ちょうど運ばれてきた食後のコーヒーに手を伸ばしました。カップを手にして思わず絶句!白いカップには"Stone Cottage"(ストーンコテージ)と印字されていました。これこそが思い出せなかった以前の店の名前だったのです。

まるであの時の彼女が満面の笑みで
"That's right!”(そのとおり!)
と言ってくれたようで、カップを手にしながら思わずニンマリ。
「彼女たちに続こう・・・」
木洩れ陽の下、一人静かに誓いを立てていました。


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編集後記「マヨネーズ」
ストーンコテージは内装の美しさでも抜きん出た店でした。灰色の重厚な外観とは裏腹に、彼女の立っていたカウンターの内側は白いペンキを塗った板壁で、天井近くには壁に沿ってL字型の細い棚がしつらえてあり、その上にはさまざまな青磁のカップや皿が並んでいました。その白と青の爽やかなコントラストは息を呑む美しさでした。シンプルさの中に惜しげもなく披露される高い美意識は私の最も好きなものの一つでもあります。「いつか家にもあの棚をつけよう」と、今でも心密かに思っているほどです。

実はネコ対策もあって西蘭家は天井近くに棚を吊っているのですが、上に並んでいるのはケースに入ったアンモナイトの化石だの小さいエッフェル塔、ケニアで買った木彫りの人形だのとそれなりに思い出の品ではあるものの、洗練とは程遠いてんでバラバラなモノ。どうもこのままNZ行きを迎えそうなので、白い棚に青いガラス器や陶器が並ぶのはちょっと先になりそうです。

今では人口が1000人を切る小さな町アロータウンは、1860年代にはゴールドラッシュで沸きに沸いた時期もあったNZ史の生き証人です。そこでの女性の生活や、歴史の本に「際立った掘り手」として紹介されている中国人のことなど、この町には興味深い話がたくさん詰まっています。

アロータウンでのお2人さん


変わらない場所

2002-07-24 | 移住まで
前回はNZとインドネシアのバリ島(の山村のウブド)という、私にとっての"二大楽園"の共通点から、みこと流楽園の定義を探ってみましたが、脱線ついでに再度バリの話を。
「今度はバリ移住ですか?」
という感想も寄せられましたが(笑)、今しばしお付き合い下さい。

(※バリの原風景)


今回のウブド再訪で何よりも嬉しかったのは、「変わっていなかったこと」です。ウブドにもこの5年間でラグジュアリー系ホテルがいくつかできましたが、幸いどこも隠れ家のようにひっそりとした佇まいのため、ほとんど目立たないのは幸いです。

メインストリートの街並みはほとんど変わりなく(スパが増え、ブランドショップができてたのはちょっとご愛嬌。なんと似合わないんでしょう!)、前に絵葉書を買った店、コーヒーを飲んだカフェのテーブルの位置まで思い出せるほどでした。この懐かしさという親しさに裏打ちされた、過去・現在・未来が1本につながるような安心感に心から安らぎを覚えました。

有名なライステラス(棚田)はバリ全体では年々縮小しているそうですが、宿泊したホテルから見渡せる棚田の美しさは、私が初めてそこを知った15年前と同じものでした。それからも何年か置きに、同じ場所から瑞々しい水田を眺めて午後のひと時を楽しんだものですが、今回は初めて下まで降りてみました。そこで目にした青々とした稲、水草の鮮やかさ、その上を渡っていく風の清々しさは身を置いて初めて知るものでした。

子どもたちは初めての田んぼにワーワーキャーキャー。
「足が汚れた!」
「虫がいた!」
と言っては大騒ぎ。でも自然の中にすっぽりと抱かれる心地良さから不平はすぐに感嘆に変わり、池のように豊かな水をたたえた水田に挟まれた、幅30センチ足らずの畦道の固さに驚き、美しい稲に一生懸命ファインダーを覗き込んでいました。私の子ども時代には横浜の端っこでもこんな田園風景が広がっていたものですが、今となっては懐かしさとそれらを完全に失ってしまった喪失感とで、甘酸っぱい思い出でしかありません。

ウブドで一番気に入っているレストラン「ミロ」で、バリ料理に舌鼓。ミロは手入れの行き届いたガーデンで食事ができ、夜は木々や石像がキャンドルやランプの炎に浮かび上がり、昼は鮮やかな花々と緑と水との調和が見事で、滞在中についつい2回は行ってしまいます。

1日はレンタカーでキンタマーニ高原に繰り出し火口湖バツー湖を遠くに眺め、行き帰りにはたくさんのギャラリーや道端で黙々と彫刻を彫る人、茅葺の家々を写真に収めます。夜は何度見ても見飽きることのない合唱舞踏劇ケチャ(ケチャックダンス)に出かけ、魂に届くような原始のリズムを堪能。何度訪れても私たちがするのは同じことの繰り返しですが、その普遍さが言葉にし難い寛ぎであり、それを可能にしてくれる変わらない場所に限りない愛着を感じます。

NZにも同じことが言え、今年の南島旅行では9年前の1993年に泊ったクライストチャーチのB&B(もうB&Bではなく普通の民家になっていましたが張り出し窓、庭の感じはそのままでした)を始め、以前宿泊したいくつかのモーテルを見つけ出し、周囲の風景とともに変わっていないことを確認しては、遠い親戚にでも再会したような懐かしさと親しみ覚えたものです。

"楽園"はあらゆる面で一定水準に達した場所で、コロコロとは変わらず、その必要もないはずです。そうは言っても経済という化け物を前に、開発と言う名の強制的な変化が四方から押し寄せてくるのに、抗していくのは並大抵のことではありません。人気がある場所であればあるほどそれは難しく、目先の利益から安易に変化を受け入れてしまい、取り返しのつかないものを失ってしまう例は枚挙に暇がないことでしょう。

ですからそれを水際で食い止め、自らの来し方と行く末にこだわる暮らしに限りない慈しみを覚えるのかもしれません。山を下りてビーチへ向かう道すがら、遠ざかっていく緑を眺めつつ、いつか同じ道を戻っていく日に早くも思いを馳せていました。


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「マヨネーズ」  
「バリどうだったぁ?」
と声をかけてくれる日本人の女友だちのほとんどが期待しているのは、
「○○のスパは良かった~♪」
「◇◇で△△を買ってぇ~♪」
という最新情報でしょう。

ですから、
「何も変わってなくて最高~。ライステラスは三毛作かしらねぇ」
なんて、トンチンカンな答えをもらっても、
「アレ?どこ行ってたんだっけ?」
と会話が成立しません。空港から街中まで至るところで「スパ」「マッサージ」「エステ」というカタカナを目にしたので、かなりの日本人がこれらを求めてやって来ているようです。でも私のバリにはスパもショッピングもありません。あるのは"何もしない贅沢"だけ。

とっっっころが、どっこい!
プールサイドでは子どもたちが5分置きに、
「ママ~、見て。泳げるようになった」(次男の単なるホラ)
「チェスやろう!」
「何か飲みたい!」
「ビーチサッカーやろう!」
「ゴーグルがなくなった~」
「何で泳がないの?競争しようよ!」
「お腹すいた~」
と代わる代わるやって来て、もうヘトヘト。絶対読み終えようと持って行った本も半分読んだだけ(涙)


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
日付を見てビックリ&ニッコリ
この丸2年後の2004年7月24日にNZに移住しました。

その前にもう1度バリを訪ねていました。今のバリはもう見覚えがないほど変わってしまったことでしょうが、コロナが終息したらぜひ再訪したいです。


楽園の定義

2002-07-20 | 移住まで
5年ぶりに訪れたバリは楽園のままでした。私たちが気に入っている極端に限定された一角での定点観測の限りでは、拍子抜けするぐらい何も変っていませんでした。最後に訪れたのがアジア経済のバブル絶頂期96年のクリスマスだったので、その後の5年間はインドネシアにとって、屋台骨がかしぐほどの金融不安とアジアのどの国よりも深刻な政局不安に見舞われ、揺れに揺れた時期のはずでした。でもそんな薄っぺらな聞きかじりなど何の役にも立たないほど、実際のバリはゆったり、まったり、以前のままでした。

ニュージーランドとバリ。私にとっての2つの楽園はいずれも南半球という以外、一見何の共通点もなさそうな西洋VSアジアの構図ですが、これがどっこい、
「実は共通項だらけ・・・」
ということに、今回の滞在で気がつきました。

私にとってのバリの真髄は観光客で溢れる賑やかなビーチではなく、ひっそりと山間に息づく"芸術家の村"ウブドのことです。ですからNZとの比較と言ってもウブドというごく限定された一角の話となりますが、以下はそんな大胆不敵なみこと流"究極の楽園の定義"のいくつかです。

(※緑に包まれる山間のウブド)


豊かな緑:
NZもバリの山間部もいずれも緑豊かですが、適度に開墾され決して手付かずの大自然という訳ではないところが似ています。NZは見渡す限りの牧草地や植林、片やバリは棚田やヤシがびっしり・・という違いはありますが、緑の中に生活感があり人の気配やぬくもりが感じられるのです。人を拒むような厳しさよりも豊かで温和な風景が続き、何よりもその豊かさが究極のゆとりと心の開放につながっているように思います。

恵みの水:
私にとってNZの水の象徴は、神聖ささえ漂う純白のフカ滝ですが、バリの場合は至るところにしつらえられた小さな湧き水がその象徴です。香港人にとって絶対の価値観である風水において、水は富の象徴です。ですからオフィスの入り口だの店のレジの横だの、知らない人が見たら「?」というところに、モーターで水が回るようになった"人工湧き水セット"や"ミニ滝キット"がおもむろに置いてあったりします。

しかしバリの場合は本当の湧き水がほとんどで、その豊穣感や清涼感は電動仕掛けとは段違いです。これこそが本来の風水が意味するところなのでしょう。こんこんと湧き出る一条の流れ。見ているだけでも心が洗われていくようです。

神々の島:
バリの形容詞として最も良く使われる"神々の島"。文字通り朝起きてから夜寝るまで神の存在がそこここに溢れている暮らし。宗教の基本はインドから渡来したヒンドゥー教ですが、すっかり土着化しているので、バリの人たちは見たこともない象を神として崇めるのと同じように、生活の隅々に息づいている八百万の神を崇めています。元々が一神教ではない日本人にとっても、しめ縄のある巨木だの、神聖な石だのという発想は非常にしっくりくることでしょう。

NZにはいたるところに教会があって、表向きは西洋社会としてごく平均的なキリスト教が主体に見えますが、今はなきワンツリーヒルの名に残る松の木に寄せたキウイ達の想いは、愛着というものを越えた一種信仰に近いものだったように感じます。いずれにも圧倒的な自然の中での森羅万象への崇拝を感じます。神だけでなく、人も、動物も、あらゆる生きとし生けるものがとても身近かな環境なのでしょう。

創造する人たち:
これだけ自然に恵まれた人たちがそれを愛でる作品を作り出していくのは、ごく自然なことなのでしょう。独特の遠近法と色合いのバリ画からお土産屋でわんさか売られている木彫りやペイントされた木のネコまで、バリの人は本当にあらゆるものを手作りしてしまう天才です。そこには"物がないから仕方なく作る"というネガティブなイメージは一切なく、自然の素材をふんだんに使って自由自在にイメージを形にしていく洗練された贅沢が溢れています。

NZでも玄関のドア窓に素敵なステンドグラスがはまっていたり、ブリキの風見鶏が手入れされたガーデンの中でクルクル回っていたり、あちこちで匠の業を目にします。誰かの手で無から生じてきた物には知らず知らずのうちに見る者を惹きつけるチカラがあるようです。

自給自足の暮らし:
楽園の生活を維持していくためには、極度に外部依存することはできません。自分たちの価値観を守り、外からいろいろなモノやヒトが入ってきても、ビクともしない生活基盤を持ち続けるためにも、この点は譲れないでしょう。

バリが経済的に多くを観光客に依存していることは間違いありませんが、アジアのリゾート地で度々目にする痛々しいまでの媚をウブドではあまり見かけません。彼らの宗教心に裏打ちされた地に足の着いた生活のせいなのかもしれません。合唱舞踏劇ケチャ(ケチャックダンス)もウブドで見るものは水準が高いだけでなく、より魂に訴えてくるものがあります。

NZの自給自足度の高さは言うまでもないでしょう。グローバリズムの権化であるアメリカ企業の昨今のスキャンダルを見聞するにつけ、つい最近まで世界的に信じられていた自分の手に負えないほどの生活の広がりや、事業の裾野の拡大での無限の繁栄という夢が、今となってはなんと遠くに感じられることでしょう。ひっそりと、しかし、しっかりと生きることへの尊さを改めて感じています。


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編集後記「マヨネーズ」 
バリ・デビューを飾った次男。旅行中は「ご飯があるかどうか」が彼にとっての最大の関心事で、これさえ満たされれば、
「いい"ころと"だね~("ところ"と言えない)」
ということになります。それに味噌汁は無理としてもスープがあって、できたらその中に炊き立てのご飯を入れられたら最高なのです。

その点でバリは満点に近い場所でした。朝のホテルのビュッフェにあるソトアヤム(春雨野菜入りチキンスープ)にご飯を入れてあげたら、
「朝からこんなの食べてもいいの?」
と目はキラキラ。一口食べたら、
「ママ、これラージャ?(永谷園のラーメン茶漬けのこと)」
と、もう極楽♪


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月): 
今になって読み返すと、イタいほどの内容(笑)、そして誤字💦 ブログに移行して残すかどうかかなりギリな1本 でも、まぁ、こんな時代もあったと。次男の"ころと”は懐かしい。


南半球体質

2002-07-17 | 移住まで
身長が2メートル以上あるオーストラリア人の同僚がいたことがあります。彼は完全なベジタリアンで、キリンのように野菜だけを食べていました。
「香港でベジタリアンメニュー探すのって、けっこう大変なんだよね~」
と嘆きながら、時々べジマイトを塗ったサンドイッチをお弁当に持ってきたりもしていました。

ここで素朴な疑問。
「野菜だけ食べて、どうしてそんなに大きくなったの?」
別の同僚のイギリス人が、
「オーストラリア人といえども元はイギリス人。でも彼らはぼくたちよりはるかに体躯に恵まれている。食生活とか生活習慣はほとんど変らないと思うけど、どうしてなんだろう?」
と、言っているのを耳にしたこともあります。

本当にどうしてでしょう?ニュージーランドに行っても大柄な人をよく見かけます。それもただ太っているのと違って、ほどよくフィットしている人が多いので、男性でも女性でもとても逞しく、頼もしく見えます。

自分の経験から言うと、身体が健康な時、特にジョギングやジムの後は、身体が多少疲れていても、とてもストレスフリーになっているのを感じ、身体が軽く、フットワーク良く思えるものです。精神的に強く、優しく、ゆとりをもって過ごすには、ある程度の肉体的な強靭さが必要ではないかと常々思っていますが(ですから肉体的にそうでなくても強靭な精神力を兼ね備えている人を尊敬します)、そういう目で見るとキウイのほどよく筋肉が乗った身体は、気持ちの余裕を期待させてくれるものです。

ロトルアに行った時、羊の毛狩りショーを見ました。その後ファームの中を散策していた時のことです。私たちの行く手にどうも日本のJAの一団と思しき年配男性の一群が、ガイドさんに連れられてゆっくりゆっくり歩いていました。すぐに追いついてしまいましたが、道幅が狭いので追い抜いていくという感じでもなく、なんとなく彼らの後ろにくっついて歩き始めました。そのうちガイドさんの説明がとても面白いことに気付き、聞き耳を立て始めました。

「さて、この木は樹齢何年だと思われますか?」
慣れた感じのガイドさんがある大木の前で立ち止まり、質問しました。私にはその針葉樹のトシなど想像もできず、「30年や40年ではこうはならないだろう」程度にしかわからずにポカ~ンと見上げていると、JAの皆さんは、
「90年!」
「いや100年は越えてるだろう。」
とポンポン答えていました。その前のニジマスの説明の時には、ひたすらうなずいていたのと打って変わり実に生き生きとした反応。林業関係の方々とお見受けしました。

答えが出揃ったところで、ガイドさんが、
「70年です!」
と言うと、ド~っとどよめきが漏れました。
「こんなにデカくなるんか~」
と、賞賛と感嘆が入り混じった声。そのやり取りから見てNZの木は彼らの想定、つまり日本の平均よりもかなり速く成長しているらしいのです。

「地球の自転の関係で、北半球から持ち込んだ木でもここでは同じ期間内に2、3割大きくなるんです。」
とガイドさんが説明しています。
「自転~~~????」
内心ビックリ!でもタダ聞き中なので、あからさまに反応することは憚られ、ましてやガイドさんに質問してしまうなんてことはできようはずもなく、「自転」「自転」「自転」・・・とその一言が私の中でグルグル回っていました。

木が大きく育つのだからNZのマスが丸太のように太くなり、体長60センチなんてとても食欲をそそられるようなものではなくなってしまうのも、不思議ではないのかもしれません。となると平均的なイギリス人より大きなオージーやキウイというのも、地球の自転がなせる業なんでしょうか?あの巨大な野菜も?ヘチマかと思うようなキュウリや洗面器ぐらいありそうなキャベツも?絶滅してしまった体長が4メートルもあったと言われる飛べない怪鳥モアも???

水が排水溝に流れていく渦巻きが北半球と南半球では反対になるそうですが、どうも私には南半球があっている気がします。
「またまた何でもNZにこじつけて~」
と夫の野次が入りそうですが、それを何となく最初に感じたのはNZでではなく、実はアフリカの横のマダガスカルの、そのまた横のモーリシャスでした。

5年ぶりの再訪でその良さを噛み締めてきたインドネシアのバリも立派な南半球です。同じようなリゾートでもプーケットをはじめ他の場所でここまでくつろいだ記憶はなく、リラックス度がダンチです。
「クリスマスは真夏!」
という南半球ライフ、けっこう性に合っているのかもしれません。


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編集後記「マヨネーズ」 
5年ぶりのバリ!とりあえず自分たちが回ったところは何~も変っておらず最高でした。次回は「NZ vs バリ」の超こじつけ、お気に入り対決をお送りしま~す。


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
北半球歴42年半、南半球歴16年半。
人生の圧倒的な時間を北半球で過ごしてきたのに、もう過去となったらすっかり忘れてます。

1月=暑い
7月=寒い
で刷り込み終了(笑) ただ今、夏休みの真っ最中

そういえばNZ育ちの長男(26歳)は身長186センチになりました。これって関係ある?でも次男(23歳)は175センチなので関係ない?


英語を習おう

2002-07-13 | 移住まで
スターバックスの前で所在なげに待っていたのは、銀髪の白人男性でした。軽く挨拶をして2人で店に入ると、
「何をお飲みになりますか?」
と、丁寧に聞かれ、
「ラテをお願いします。ショートで。」
と言うと、少し戸惑ったように、
「ラテ?ショートですね?」
と聞き返されました。
「発音がヘタだったかな。」
と思っていると、
「そのう、私はコーヒーを飲まないもので。」
と、こちらを気遣ってくれてから、彼はレジへ向かいました。

「やはり思った通り。コーヒーはお飲みにならないんですね。」
トールの紙コップに並々と入った、あまり美味しそうに見えない紅茶を飲んでいる彼に言うと、映画「インサイダー」のラッセル・クロウを少しエレガントにした感じのベル先生は、
「ええ、まあ。」
と曖昧に言って話題を変えました。多分スタバに入ったのは初めてで、ラテがコーヒーの1種で、それが普通のコーヒーとどう違うのかもご存知なかったことでしょう。香港にいるちょっと年配のイギリス人にはこんな人もいるのです。

この面接を経て、彼から英語のプライベートレッスンを受けることに決めました。これまでも移住に向けてケーキ作りやステンドグラス作りを習ったり、脱毛(!)を始めたりしていましたが、準備の一環として夫をはじめ、周囲に納得してもらうのが難しいものばかりでした(笑) でも英語を習うことにはかなり説得力があります。

「NZに移住するのだから!」
と、「キウイの英語の先生募集」と新聞に広告を出したり、知り合いのキウイに英語を教えている友人がいないか聞いてみたりしたのですが、いかんせんキウイは人数が少な過ぎ、見つかりませんでした。日本では駅前留学の先生にもかなりキウイがいると聞き羨ましく思いつつ、諦めてイギリス人の先生にしました。

そもそも英語を習うのですから、イギリス人で文句を言う筋合いはありません。お会いしたベル先生は24年間イギリス軍にいて、退役後に英語教師の資格を取り直したという折り目正しい人で、一目で気に入り契約しました。週2回ランチタイムにオフィスに来てもらい、みっちりしごいてもらうことにしました。

あまりにも理想にかなった先生だったので子どもたちにも教えてもらうことにし、夫にも勧めたら土曜の午前中という貴重な時間を割いて習うことになりました。これで西蘭家全員の英語がベル先生にかかってくることになりました。移住の頃には鼻から抜けるようなバリバリのクイーンズイングリッシュが!(話せるようになっているといいのですが・・・)

日本の英語教育はアメリカ英語を基準にしており、映画でもテレビでも耳から入って来るのは圧倒的に米語ですが、ここ香港は旧英領、同僚の西洋人の多くはイギリス人で、息子の学校もイギリス系のため先生も保護者もイギリス人やオーストラリア人など英連邦の人が主流です。移住先はNZなのですから、米語を習う理由は特にないのです。

ただ、何となく米メディアの影響力の強さからか、クイーンズイングリッシュは堅苦しくて、古臭い気がして、「How are you?」と言うよりも「What's up?」とやった方がカジュアルでフレンドリーな感じがするのではないかと、響きの違いもろくにわかりもしないのにそう思い込んでいる面もありました。ですからベル先生とお会いするまで一度も考えたことがなかったのに、彼の美しい英語を聞いているうちに、
「クイーンズイングリッシュを習おう!」
と突然前向きになりました。

「英語を習う目的を教えてもらえないだろうか?」
と聞かれ、
「まず日常会話。そして、いつになるかわからないけれど自分のウェブサイトをバイリンガル化したいのです」
と言うと、さすがにポーカーフェイスの彼も3cmくらい引いた感じでした。
「そりゃ、引くだろう。」
と内心思いながらも、相手は先生、こちらは生徒。どんな内容でも学びへの意欲は堂々と口にしていいはずです。千里の道も一歩から。アオテアロア(=ニュージーランド)目指して、Shall we go?


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編集後記「マヨネーズ」 
ある夜、
「水着でも買ったら?」
と夫に言われ、
「明日は雪?」
と思うほどビックリしましたが、本当にめったにないことなので2人で出かけました。

夏休みに久し振りにバリに行くので、私が水着をほしがっていたのを突然思い出してくれたのです。香港ではデパートや大きなショッピングセンターが夜10時まで開いているので、夕食後でも十分買い物ができます。

香港系デパートのレーンクロフォード(通称レンクロ)へ行って水着コーナーに行くと、な~んとNZ製の水着発見!珍品と言っていいくらい見たことがない代物です。ハイレグ発祥のイスラエル製、リゾート気分いっぱいのオーストラリア製、セクシーで凝ったイタリア製などが並ぶ中、なぜか2枚だけ混じっていたキウイ・ビキニはともに黒一色で下着と見まごうようなシンプルなデザイン。

「こんなところまでオールブラックス?」
と思いながら、ちょうどサイズが合ったので敬意を表して試着してみました。上のブラ部分は可もなく不可もなく。さて下は?それが、ちょっと・・・・。2枚ともひと回り大きいんです。上に比べてワンサイズ大きい気がしました。レア物だったけれど着られないのでは仕方ないので断念。あれでは水から上がったら、絶対落ちるレベル💦

このメールが配信される頃には、早めの夏休みをとってバリのサヌールでのんびりしています。前半はお気に入りの山合いのウブドに4泊、後半はビーチに移りサヌールに3泊する予定。ヌサドゥアがどんどん開発され、クタが拡張の一途をたどっても西蘭家はハイアットホテルの城下町としてこぢんまりまとまったサヌール一辺倒。でも久しく行っていないので、どうなっていることか


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
この10年後に日本に進学した長男が大学時代のアルバイトで、キウイの先生として駅前留学で英語を教えていたのだから、人生なにが起きるかわからない(笑)

長い間バリの定宿だったサヌールのバリ・ハイアット。「再開するんだろうか?」と不安になるほど長かった5年の改装を経て、ハイアット・リージェンシーに格上げされて2019年にとうとうリオープン。

懐かしさのあまり「行ってみよう!」と夫婦で話がまとまり、予約を入れたのが2020年6月。もちろん、コロナの真っ最中で旅行はキャンセル。外国人がいなくなり、「バリの観光業は8割の落ち込み」とずい分前に読みましたが、問題の長期化でどうなっていることか。いつかの再訪を楽しみに。

十年彗星:楊貴妃になる夏

2002-07-10 | 移住まで
空前の化粧ブームだというのに、最近、化粧を止めました。メークはかれこれ20年間、ずっと続けてきたことなので私にとっては一大事です。正確には基礎化粧を止めたので、アイシャドウやアイラインなどは若干しますが、それもしたりしなかったりでスッピンに眉を描いて、マスカラと口紅だけ塗って出勤することも珍しくなくなりました。

化粧は好きでした。仕事へ行く前の慌しい中、化粧水から始まって最後に香水の一振で終わる一連の作業は、儀式のように毎日欠かさず繰り返されてきました。鏡の中でケからハレへと変わっていく顔は平坦な日々の中でのささやかなメリハリであり、女を感じる時でもあり、家庭から外へと出て行くのに気合いを入れる瞬間でもありました。子どもたちは小さかった頃、鏡に向かっている私を見て平日と週末を区別していたほどです。

でもその儀式を止めました。朝、洗顔したら化粧水もつけずにクリームを塗るだけ。これだったら着替えてもファンデーションが服につくことはないし、午後になって化粧崩れすることもありません。化粧ポーチも持ち歩かないし、化粧をしていた時間で出勤前にパソコンでメールやニュースのチェックができるようになりました。今のように暑ければ好きな時に思いきり顔を洗ってスッキリすることもできます。これはみんな化粧をしないことがなせる業です。そして毎月かなりの出費だった化粧品代が激減しました。

すべては10年に1度、とんでもない贈り物をしてくれる彗星のような友人からのメールで始まりました。
「漢方の化粧品に切り替えたら肌がどんどん白くなり始め、もう気持ち悪くてファンデなんて塗れなくなってしまった」
ということが唐突に書いてあり、化粧をしないで会社に行くなど想像もできなかった私には、何のことやらさっぱりわかりませんでした。でも「肌がどんどん白くなる」という一言には、子どもを出産して以来のシミに悩まされていただけに、大いに心惹かれ何度かメールをやり取りしてみました。

その結果、シンガポール在住の台湾人エステシャンのリリー・ウォンさんが独自に開発した、漢方化粧品がすべての発端だということがわかりました。自身も化粧焼けで悩んでいたリリーさんは中国人の間では最も美人で誉れの高い楊貴妃が使っていた化粧品の研究に取り組み、美肌で知られた彼女が使っていたものを古典文献を基に漢方医と再現したのだそうです。
「そんなバカな~!」
正直言って半信半疑だった私を見透かしたように、友人は前回の猫同様、天空を通り過ぎながらリリーさんの化粧品一式を送り届けてくれました。

友人に全幅の信頼を寄せる私は試してみることに。化粧を落とし、全く泡立たないカレー粉と亀ゼリーを足して2で割ったような匂いがする洗顔粉でスクラブするように洗顔した後は、かなりまったりした専用クリームを塗るだけ。あとは日焼け止め、下地、ファンデを除くどんな化粧品も使っていいそうです。夜は虫干し前の着物のような匂いがする真緑色の水溶き粉パックを毎晩する以外、やはり洗顔+同じクリームのみの超カンタンさ。全部で洗顔、クリーム、パックの3ステップしかないのです。

私は妊娠以降ホルモンバランスの変調で、頬に横に広がる形で薄く広くシミができてしまいました。色といい、場所といい、日焼け止めを塗らないで日焼けした感じにそっくりで結構健康的に見えたりもし、知らない人には、
「アレ?ゴルフでも行って来たの?」
と言われます。陽に当たると濃くなるし、2人目の妊娠+出産で更に広がって色も一段と濃くなってしまいました。カバー力のあるファンデで隠し、プチ整形以外のほとんどのことを試してもいたのですが目立った効果はなく、かれこれ8年の付き合いでもあり半分諦めかけていた矢先でした。ですから「どんどん白くなる」の一言に賭けてみることにしました。

結果はビックリするくらい良好です。シミはもちろんわかりますが、スッピンでも生きられるようになりました。回りの人からも、
「ずい分薄くなったね。」
と驚かれるほどです。何よりも化粧をしない気持ち良さを知ってしまい、ファンデの息苦しさには戻れません。リリーさんと友人に心から感謝しながら、今日も鏡に向かい、「人を幸せにしたい」というリリーさんの心意気に心底感服しています。今年は楊貴妃が大好きだったというライチが空前の豊作で驚くほど安く出回っていますが、その甘酸っぱさに舌鼓を打ちながら"楊貴妃になる夏"本番です。


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「マヨネーズ」 私の"十年彗星"ことシンガポール在住(当時)の久保優子は、確かちょっと前に、
「"本書いたんだ~”と言ってたような?」
と思って、名前を検索してみると、ヒットするする(笑)

親しいはずの友人の近況を検索して知る昨今。しかし、私たちの間柄は十年一日。相変わらずの猫談義に花が咲き、仕事だの夢だのの話はほとんどなし。
「NZに移住しようと思ってるの。」
と言うと、
「あそこにはイチジク農園をやってる友人がいる。」
と明後日の方向からの返事が届く始末で、天晴、天晴。


後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
リリーさんのリリアンナはいまだに愛用していて、肌の調子は使い始めた20年前より、冗談ではなく今の方が断然好調で、目の下の日焼け風のシミもなくなりました。リリーさんは一生の恩人ですが、いまだにお会いしたことがなく、化粧品を紹介した友人たちの方がアメリカだの、香港だのから会いに行っています(笑)

紹介された頃のパッケージ。
パッケージと値段の格差にも
効果を確信する思いでした。


十年彗星からは、その10年後になんとフリーランスの仕事も紹介されましたが、ちょうどセミリタイアして投資に力を入れ始めるタイミングだったので、贈り物を受け取る機会がありませんでした。

そう言っているうちに、来年は4回目の10年目。雲の合間から何か落ちて来るかな


十年彗星:猫はかすがい

2002-07-06 | ペット・動植物
どうも10年に1度、飛びきりの贈り物をしてくれそうな友人がいます。まるで"その時"になると天空を通り過ぎながら、パラシュートにつけた贈り物を空の彼方から落とし、長い尾を引きながらまたどこかへ行ってしまう彗星のようです。普段はどこで何をしているのか・・・。一応、メールか(それもここ数年の話ですが)、いざとなったら電話でも連絡を取る方法はあるのに、日常生活ではお互いほとんど没交渉。しかし、ある時、ふと高い高い空の雲間から降ってくる私の人生に極めて大切な贈り物

10年前初めて授かったものは猫でした。今では私たちのかけがえのない家族、子どもたちにとっては兄貴でもある、2匹のシンガポール生まれの猫は彼女からの贈り物でした。
「会社の敷地内に住んでいる猫が管理人室で子どもを産んだの。とにかく可愛いから見に来て。」
そんな電話をもらい、2人とも猫好きの私たちは軽い気持ちで出かけていきました。自分たちが飼うことになるなど全く想定していませんでしたから、もちろん手ぶらで。

しかし、見たとたんにもうメロメロ。毛皮をまとったもぞもぞと動く4匹の生まれたての猫たちはミーミー泣きながら、私たちの掌で指をかじってみせたり、後ろ足で頭をかこうとしながら上手くいかずに転んだり、もう可愛さ全開。夫とかわるがわる掌に乗せて、
「かわい~い、かわい~い、かわい~~い!」

「1匹じゃ可哀想だから、2匹にした方がいいわよ。昼間2人がいなくても寂しくないでしょう。ウチの2匹も猫同士で楽しくやってるみたいだから。」
「世話はとってもカンタン。猫はきれい好きだからトイレのトレーニングもとってもラク。場所さえ決めておけばもうバッチリ。」
「餌だって昼間はドライのキャットフードとお水をたくさんあげておけばいいし、夜は缶詰のキャットフードあげたり、好物を手作りしてあげてもいいわね。」
「爪も研ぐ場所を決めておけば家具とかは大丈夫。」

友人はまるでこちらの脳裏をかすめる不安が読めるように、一つずつ不安の種を潰していきます。安っぽいセールストークのように畳み掛けるのではなく、優雅に知的に私たちを絡め取っていく魔法のお言葉。

「どれにしよう?」
まんまとそれに乗った私たち。とっくに問題は飼うか飼わないかではなく、どの猫にするかにすり替わっていました。
「コレとコレにしよう!」
最終的に選んだのは2人が気に入ったトラ猫と4匹のうち一番痩せっぽちで、頼りなくて最も引き取り先が見つからなさそうな白に茶のブチが入った猫でした。

「白猫は大きくなるって言うから、元気に大きく育つわよ・・・」
友人のご神託は私たちが段ボールを抱えて車に乗り込むまで続きました。

果たして、白猫ピッピ(夫命名、意味不明)とトラ猫チャッチャ(私命名、茶色なので)は友人の予言通り、元気に、そして大きく育ちました。窓辺で昼寝する2匹を見たマンションのお隣さんに、
「お宅、2匹も犬がいるのね!」
と言われたほどに(笑)

特にピッピは痩せっぽちだった子猫時代の片鱗も忍ばせないほど、巨猫になってしまいました。今では2匹とも好奇心のかけらもなくなり、窓辺に来たハトにガラス+網戸越しの絶対安全な場所から、
「アァァァァァ」
と、よもや猫とは思われないような腹話術の妙な声を出し、本人たちはそれで十分威嚇し、番猫(?)としての務めを果たしたつもりで、後はひたすら、ひねもすのたりのたりかな。

「何かの役に立てよ~」
と、夫は昼寝三昧の2匹に不満を漏らし、誰も見ていないとろでこっそりシッポを踏んだり、突然抱き上げて猫が身をよじって耐えられなくなるほど撫で殺しにしたりと、最近では愛情表現も倒錯してきています。しかし、この2匹は間違いなく西蘭家の長男、次男で、「子はかすがい」の諺通り、その後香港で子を授かり、たった2人で育て始めることになる私たちに、忍耐と愛を教えてくれました。

(※香港での長男・次男)



あれから10年。ここ1、2年音信不通だった彗星から突然メールで交信がありました。そして私はまたまた、一生事となるであろう、とんでもない贈り物をしてもらうことになったのです。(つづく)


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「マヨネーズ」  
先日、大きな飲茶レストランチェーンが倒産しました。これで約2,000人が職を失ったそうです。返還以降の景気悪化でこれまでも有名無名の多数の店が潰れ、夜逃げ同然、出勤してみたらもぬけの空、オーナーはとっくに中国や海外にトンズラ・・・などということが繰り返されてきましたが、さすがに今回は「飲茶まで」と、香港人への衝撃もひとしおのようです。

倒産ということは、「香港人が飲茶を食べなくなっている」とも思いますが、
①包んで、蒸して、運んで、と人件費がかかる上、朝食か昼食なので夜は食べない飲茶というものが、店にも客にも割高になってきた
②ちょっと足を伸ばせば中国でかなり安く食べられる
③食生活の洋風化、個人化で、大勢で2~3時間をかける食文化が廃れてきた
など、いろいろな理由があるのでしょうが、景気の悪さが状況に拍車をかけているのは間違いないようです。

体育館のような広い場所を12人掛けの円卓が埋め尽くす中、店員やお客が右往左往している活気に満ちた独特の雰囲気は、香港の元気の素を見る思いでしたが、そんな姿が"経済効率"という味気も素っ気もない物の前で膝を屈していかざるを得なくなっているのです。


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
次男ピッピは2007年9月18日に15歳で、長男チャッチャは2010年12月24日のクリスマスイブに18歳で、それぞれ天に昇りました。贈ってくれた友人には今でも感謝しています。

本当に仲のよい2匹でした。



Same After the Rain

2002-07-01 | 香港生活
7月1日。

香港は返還5周年を迎えました。一国二制度で保証されている50年の自治と主権の10分の1の期間が終わったのです。最近、身の回りの外国人で返還を体験している人がかなり少なくなっていることに気付きました。駐在員が多いので5年は一昔前なのでしょう。
「日本にいてテレビで式典を見ていました。」
という人もいました。

ですから返還前後、香港が記録的な長雨に祟られていたことを覚えている人も、少なくなってきました。
「イギリス統治への別れの涙」
と、誰もが月並みな形容を思いつくほど長い長い雨が続いたのです。返還当日も大雨で、中国が主催した祝賀式典も完成したばかりの会場が雨漏りする中で行われ、撤退するイギリス軍への最後の閲兵をしたチャールズ皇太子は身じろぎもせずに雨に打たれていました。

「どうなる香港?」
「世界初の一国二制度は成功するのか?」
云々、当時はメディアがありとあらゆる可能性をこぞって報じ、チャイナウォッチャー、政治評論家、エコノミストといった専門家たちが新聞やテレビで、「香港はこうなる」「経済はああなる」と盛んに予想してくれたものでした。当然ながら香港人がそんなコメントをありがたがって聞くはずもなく、「何も変わらないサ」と聞き流していました。

英国の香港政庁に代わって中華人民共和国香港特別行政区政府(The Government of the Hong Kong Special Administrative Region of the People's Republic of China)と、「香港人でもこの英語のフルネームは馴染まないだろう」というほど長い名前の政府が成立し、あまりの長さに英語では特別行政区の頭文字、"SAR"と略称しています。オーストラリア人の友人は言ったものです。
「Same After the Rain(雨の後も同じ)だから"SAR"なんだ。」

SAR政府は、成立するや否や「明天更好」(明日はもっと良くなる)というスローガンを掲げて親しみ易さを演出しようとしました。私はその四文字を街のあちこちやテレビコマーシャルで目にするたびに何か不吉なものを感じていました。
「こんなに"明日はもっと良くなる"、"明日はもっと良くなる"と繰り返さなくてはいけないほど、今まで恵まれていなかったとでも?」
と思わず自問してしまうほどでした。

あれから5年。当時と比べ不動産価格は6割値下がりし、ほぼ完全雇用状態だった雇用情勢は7%を上回る未曾有の高失業率となり、財政も赤字に転落。日本人だけでなく多数の外国人がこの地を離れて行きました。もっと良くなるどころか、あの返還時をピークにいかなる専門家も予測し得なかったほど、香港は失速してしまったのです。こうして"借り物の土地、借り物の時間"と言われ、明日をも知れず心臓破りのスピードで発展してきた香港は、その回転速度を緩めることによってどんどん普通の場所になってきているのです。

これも予想外だった急激な中国本土化。今までは遅れているものが進んでいるものに追いつくのが当然と思われていたのに、進んでいるはずの香港が遅れているはずの中国に合わせる形で、急速に変わっていったのです。テレビを見ていると目を疑うような垢抜けないコマーシャルが流れたり、"本土風味"を謳う、屋台にドアをつけただけのようなレストランがあちこちにできてきたり・・・と、一度手に入れた洗練を香港はいとも簡単に手放し始めたのです。景気悪化で何事も安上がりになっているのも、大きな一因なのでしょうが。

そして香港人の北上。高失業率が押し出し要因にもなり、香港人が職を求めて中国に向かい始めたのです。
「給料が1、2割、何だったら3割減っても・・・」
と中国での就職を厭わなくなり、
「どうせ失業中。仕事があるなら給料半分でも行きたい。」
「今までの実績を活かせる千載一遇の好機到来。」
とそれぞれの思惑でたくさんの香港人が境界線を越え始めました。人材の空洞化はまだ微々たるものですが、この傾向は日増しに強くなっています。

こうした流れの中で、香港人が香港の明日を信じなくなってくれば、景気回復を期待する人もそれに肩入れしていく人も少なくなり、長い物には巻かれろ式に中国に下駄を預けるまでそれほど長い時間はかからないかもしれません。少なくとも「一国二制度」で保証されている45年もかかることはないでしょう。SAR政府は既に「香港ドルをどうするか」という話を、かなりオープンにし出しています。

周囲で北上していく人が増え、外国人の知り合いですら上海や広州に転勤になる人が珍しくない中で、西蘭家はせっせと南下計画を進めています。これが吉と出るか凶と出るかはわかりませんが、自分たちの心の趣くところに従っているので、どういう展開になっても悔やむことはないでしょう。方向は違ってもそれぞれの土地で新しい人生を生きていくことには変りなく、この7月1日に誰にともなく、そして自分たちに小さくつぶやく、
「Good luck!」


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後日談「ふたこと、みこと」(2021年1月):
あれから19年。今の香港の実情を踏まえて読み返すと、一段と感慨深く本当に「Good luck!」

メルマガ「西蘭花通信」を始めた頃はまだブログもなく、週2回定期的に配信していたので、ブログへの移行も大量で大変ですが、やっと2002年7月に入りました。