※11月に行った松島観光のレポートです。
ウォーキング開始!
7.五大堂
福浦島で結構歩いて疲れたのですが、休憩の前に重要文化財の「五大堂」(宮城県松島町)を見ておきたいと、
直行しました。
松島のシンボルである五大堂は大堂2年(808年)、坂上田村麻呂が東征でこの地に来たとき、
多聞天を祀って建てらた一小堂が開基と伝えられ、当時は毘沙門堂と呼ばれていたそうです。
堂へ渡る透かし橋には、2枚の縦板が備え付けられていますが、最初はなく、はしご状だったそうです。
縦板のお陰で渡れましたが、結構怖かったです。(汗)
参詣の前に気を引き締めさせるのが目的のようです。
天長5年(828年)、慈覚大師円仁が延福寺(現在の瑞巌寺)を開基の際、
「大聖不動明王」を中心に、「東方降三世」、「西方大威徳」、 「南方軍荼利」、「北方金剛夜叉」の五大明王像を安置したことから、
五大堂と呼ばれるようになりました。
写真左:堂四面の蟇股(かえるまた)にはその方位に対して十二支の彫刻が施されています。
写真右:伊達家の家紋の一つ、「九曜紋」が配されています。政宗公はこの紋が大変お好きだったそうです。
現在の建物は、 伊達政宗公が慶長9年(1604)に創建したものです。
東北地方最古の桃山建築と言われ、国の重要文化財に指定されています。
五大堂の御開帳は33年に1度、行われ、次の御開帳は2039年の予定だそうです。
(うーん、行けるかなぁ… 覚えているかなぁ…)
8.SHOBIAN CAFE
五大堂の透かし橋を内心恐々としながら再び渡り、国道に出ると、休憩することにしました。
お邪魔したのは2回目の訪問となる「SHOBIAN CAFE」。松島の風景を眺めながらの休憩タイムです。
夕飯の時間が遅くなると思い、おやつも注文しました。
後半のウォーキングに備えたのでした。
9.雄島
カフェを出ると、日が傾きかけていました。
この旅の最後の目的である夜景鑑賞の前に、「松島」の地名発祥の地、「雄島」に向かうことにしました。
途中、観瀾亭や博物館がありますが、夜景鑑賞のために戻ることにしていたので、そのまま通り過ぎます。
雄島はかつて、多くの僧侶や巡礼者が修行をした場所であり、「奥州高野」と呼ばれました。
岩窟には五輪塔や卒塔婆、仏像などが彫られています。
松島海岸、3つの赤い橋の1つ、雄島に架かる「渡月橋」は「悪縁を絶つ縁切り橋」とも呼ばれています。
「雄島」はここで修業した見仏上人の高徳を讃えるため、
鳥羽天皇が1,000本の松の苗木を賜ったことから「御島」と呼ばれるようになり、それがこの島の名の由来となっています。
千本の松を賜ったことにより「千松島」とも呼ばれるようになり、
それが転じてこの辺り一帯を「松島」と言うようになったらしいです。(諸説あるようです。)
古くから歌枕として詠まれてきた雄島には、松尾芭蕉も足を運んでおり、
弟子の曽良が詠んだ「句碑」が建てられています。
島の南端には、国の重要文化財に指定されている「頼賢の碑」があります。
最初、説明板(左)の横にある石碑(右)が「頼賢の碑」かと思いましたが、実物は六角堂の中に納められているそうです。
(良かった!)
頼賢の碑はこの地で22年間修行した鎌倉時代の名僧・頼賢の高徳を偲んで建てられたもので、
この島の歴史についても知ることができる貴重な石碑です。
人気(ひとけ)がない、夕暮れ時の雄島はちょっとうら寂しく、頼賢の碑を拝見すると、早々に島を後にしました。
10.いよいよ夜景鑑賞へ
ライトアップイベントが開始するまで街の中心部にある松島観光協会レストハウスで休憩をすると、
まずは会場の1つである「観瀾亭」に向かいました。
続いて、円通院へ。
こちらの夜景については、既に別枠で記事を作成しておりますので、ご興味がありましたら、そちらをご覧ください。
また、松島を代表する観光スポットの「天麟院」、「円通院」、「瑞巌寺」についても、既に見学を済ませており、
記事が別にありますので、よろしければご一読下さい。
- 2016年11月18日の記事:夜景鑑賞めぐり・松島 円通院
- 2016年6月16日の記事 :散策!松島(1) 円通院へ行く 前編
- 2016年6月17日の記事 :散策!松島(2) 円通院へ行く 後編
丸一日の観光を終え、すっかり疲れ果てた私、駅までゆっくり歩いて帰りたかったのですが、
なにせ本数の少ないJR線、駅で待つ元気もなかったため、一番早く帰れる電車に乗るため、
ダッシュで松島駅に向かうのでした。
散策マップ
参考資料
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ウィキペディア「五大堂」
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宮城県が設置した説明板「雄島」
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日本三景 松島ガイドマップ
おわり