おいしい朝ごはん

おいしい朝ごはん食べましたか 私はまだです

ALWAYS 三丁目の夕日/ブーフーウー

2005年11月09日 23時56分50秒 | ALWAYS三丁目の夕日
映画ではテレビのスイッチを押すと、
力道山が空手チョプを振るう場面が現れた。


私の家に、初めてテレビが入ったとき
スイッチを入れたると
ブーフーウーが始まった。
たとえようもなく幸福だった。

しかし、幸福な時間は長くはつづかなかない。
テレビが来たのは昼間だった。

そして、その当時
たとえそれがNHKでも
昼間のテレビには
休み時間が多かった。
だから、
ブフーウーが終わると、
テレビはお休みの時間になった。

当時ほとんどすべて生放送だったから
放送局の中の人も大変だったのだ。



鈴木オートのテレビは、
プロレス中継の途中で画面が暗くなってしまった。
はたして、何がおこったのだろう。

ALWAYS 三丁目の夕日/ラジオの時間/みんなのラジオから個のラジオへ

2005年11月09日 06時21分35秒 | ALWAYS三丁目の夕日
映画はラジオの音で始まった。
この間まで、家庭の娯楽の中心はラジオだった。
しかし、家にテレビがやってくるとラジオは個人で聞くものになった。

テレビで放送される力道山の勇士を一目見るために
町内の人たちが、みんな自動車修理店にやってくる。
戦災で妻子をなくされた
三浦先生や
タバコ屋のおばさん、
普段中の悪い茶川先生も見にきている。
昭和33年当時、テレビのある家は
東京の下町でもかなり少なかった。

家庭で娯楽王座から滑り落ちたのはラジオだったが、
外では映画がまだ空前の繁栄を続けていた。
しかし、映画界はテレビを警戒していた。
そして、その危惧はあたった。

ラジオ放送の業界では
ソニーがトランジスタラジオを売り出すころから
深夜放送を始めた。

真空管式のラジオと異なりトランジスタラジオは
どこででも聞くことができた。
ニッポン放送のオールナイトニッポンは
糸井五郎に続いて
カメちゃんを人気パーソナリティにしていった。
TBSのパックインミュージックでは
キンキンこと愛川欣也が現れた。

やがてビートたけしもオールナイトニッポンに登場した。

そして、ホリエモンのおかげで、
今年カメちゃんこと亀淵氏が
ニッポン放送の社長になっていることを知った。

ラジオはパーソナルメディアになったが、
新聞はテレビに負けず依然として報道の主役だった。
朝の家庭では新聞の奪い合いが続いていた。
一瞬にして昨日の情報を確認できるからだ。

ところがインターネットが出でくると、
もう誰も新聞を読まなくなった。
だってどの記事も
インターネットで見たことのある記事だ。

新聞はテレビ欄を見るためだけにとっている。

そしてラジオは
私の場合、
百円ショプで買った
中国製のイヤホンラジオで
済ませるようになった。