祖母との最期の夜を過ごしてます。
告別式に出された食事には全く手を着けられず。食欲はないけどビールや酒やらやけに入る。
なのにちっとも酔えない自分が悲しい。
みんな寝静まって、若い従兄弟(全部男)3人と飲んでいたんだけど、1人寝て、2人寝て…
さっきまで起きていた最後の1人もとなりで寝てしまった。
全くの独り…
葬儀場に到着したのはお昼前。
一年前に出来たというここは高級なホテルのよう。
陰惨な全くないのが助かった。
化粧をしなかった祖母は、綺麗にお化粧されて生前より美しいくらいだった。
綺麗にしてくれた方に感謝した。
そのせいか、意外と冷静に現状を受け止め、昔のアルバムなんか見たりして。
告別式が始まったのは夕方。
親族として参列。
読経が始まると…
突如、私の古い記憶の扉が開けられた。
祖父の時と同じお寺、同じ声…
一気に記憶が遡り、私は24の娘にかえってしまった。
あの日、勤務中に危篤の連絡を受け新幹線に飛び乗った。
広島駅に着いて、改札に迎えに来た叔父はすでに泣いていた。
間に合わなかった。
広島は遠かった…
宅に着いて、安置された祖父の遺体を見るのが怖かった。認めたくなかった。
涙が枯れるほど泣いて、その晩は手をつないで隣で寝た。
葬式でもお棺にすがってただ泣いていた。
出棺では、お棺閉めないでってワガママ言った…。
どうしようもないワガママ、駄々っ子だった。
あれから十数年。
いい年した女が、焼香する壺が見えず、手がふるえ、足がもつれた。
何とか参列者に挨拶して席に着いたものの、心臓が飛び出るくらい激しく鼓動し、涙が溢れて止まらなかった。溜めに溜めた巨大なダムの決壊は止まることがなかった。
あの日と何も変わってなかった…。
社交的で世話好き、華やかで努力家だった祖父の葬儀は近くの公民館でやった。
地味にやろうとしたのに、参列者の列が絶えず、花輪の数がすごかった記憶がある。
“葬式なんかせんでええ、わしゃ軽騎兵かけてくれりゃええ”
そう話していた彼の口癖通り、私が買ってきたCDをかけた室内は、トランペットが鳴り響き、異様に勇ましかったっけ。
厳しく、激しく、熱く、大きくて、とてつもなく優しい。
スゴい人だった。
そんな祖父と対照的に、祖母の葬式は慎ましく淡々としていた。
家族、親族以外は本当に僅かな参列者しかいなかった。
何一つ変わったことはなかった。
派手なことを好まない彼女らしいと思った。
生きてきた全てがここにあった。
そして、厳しくて分かり難い彼女の不器用な愛に感謝して、東京から駆けつけた孫の私が、ここで別れを惜しんで泣いている。
“康子ちゃんは可愛がってもらったからね”
親族、参列された私を知る方は口々に言う。
そうなの?
人から見たらそうなんだろうか。
母方の孫はあと私の弟2人。
私ばかりいつも叱られて、反抗したし心配かけたけど、そうやって愛を教えてくれたんだね。
感受性豊かで、感情に左右され、人の辛さが自分の辛さで、感情が高ぶると気を失ってしまう。
本当に生きるのが苦しかった若い頃。
“人は人”。
突き放し、感情を抑え、クールに、平気な振りするのが大人だと思った。
拒絶が怖くて深入りしないようにした。
違うね
私はやっぱり何も変わってないよ。
おばあちゃんが思い出させてくれた。
こんな大人もいていいのよね
“おばあちゃんなんかキライ”
言ったことあった…傷ついただろうね。
ごめんね
私は感謝の言葉は言えてただろうか?
たくさんの愛情ありがとう…
またいつか
それまで