「自然科学」を考える時に、
心や精神を含めず、肉体レベルまでに限定する者なら、
その自然科学のうちに、自由な一人ひとりは
どう関係するのかわからないだろう。
筋の通った進化論者
(肉体の器官の発展の中に、
精神が潜んでいることも認める人)ならば、
肉体レベルに限定するような狭苦しさに
はまることはあるまい。
自然の発展を猿までだと結論づけながらでも、
人の進化に超自然(神など)を持ち出さなくていいし、
猿の研究者ですら、
きっと自然のうちに精神を探ることができるだろう。
肉体の器官の成り立ちまでだけを進化として認め、
そこまでを「自然」の発展だと見なすのではなく、
その続きに、倫理的に自由に生きることをも、
肉体の器官の命の精神的な続きと見て取ることができる。
※
なんのこっちゃ、という感じだけれど、
これ、神を持ち出さなくても、
人でも、そう、私でも、
自然界のあれこれと自分の精神が呼応するのを
実感できる時がある。
たとえば、虫や葉っぱを見ている時。
集中して、じ~っとそれらを見ていると、
それら・彼らと自分の精神が重なる時がある。
こないだは、目の片隅にふと動くものを見つけて、
よーく目をこらすと、かまきりがいた。
どこかからふわっと降りてきて、
そのままガシッと葉っぱの裏側にくっついた。
なんで裏側にくっつくことになったのかは謎だけど、
ホントに細くて小さな足で、逆さまにぶら下がっている。
接地面の足4本分を合わせても1mm四方もない。
それなのに、全く安定して葉っぱに立ち(ぶら下がり?)、
前足2つの鎌は、隣の葉っぱを捉えようと、
風に揺られながら、さらに隣の葉っぱに手を伸ばす。
「すごいな~キミは!」と、
しばし、ほれぼれと見とれていたのだけれど、
カマキリにとっては全然すごいことじゃなくて、
ごく普通のことなんだろうな。
人が2本足で立っているのもスゴイんだし。
ってことは、誰か・何かをスゴイと思う時、
それらがスゴイのは、それららしさを存分に生きているからで、
私も、私らしさを存分に生かして生きれば、
それらと同じようにスゴイのだ、ということを感じた。
こないだはたまたま
カマキリがふわりと降りて来たからそう思ったけれど、
葉っぱや石、山や川を見ても、
何らかの印象を受け、自分を開いてそれらに沿えば、
何からでも、何かを学ぶことができる。
ここで言っていることが、そういうことかどうか、
イマイチ自信はないけれど、
石や虫や葉っぱに、自分の精神との呼応を感じられるなら、
猿はもちろん、動物なんかには、
もっとたくさんの自分の精神との呼応を感じられるはず。
器官レベルでどこまで同じかどうかは、
解剖したらわかるけど、
精神レベルでどこまで同じなのかは、
解剖しなくても気持ちを寄せればわかる。
ん?気持ちと精神は違うけど。
動物の動きを見ながら、その気持ちになって
アフレコして遊んでたら、結構おもしろいもんね。
彼らの喜怒哀楽は、人の精神につながっていくだろうな。
…と想像できるのは、私が人だからか?
宇宙人なら、もっと違うものが見えるだろうけど、
人として見るに値するものは私が見ている範囲だ、と
どこかの章に書いてあったような気がする。
象がお葬式する、とか聞いたことあるし。
動物の行動の中に、自然物の中に
自分の精神につながるあれこれを見つけるのは、
その気になれば、散歩しながらでもできるお楽しみ。
その気にならない時、疲れている時は、
早く目的地に到着したいだけなんだけどね。
自然界のあれこれを感じたい時には、
ゆっくり歩くのも自由、
早く到着したい時には、
車で行くのも自由ってことで。
強い感情が出てきた時、それをちゃんと見てあげて、
自分の状態や周囲とのバランスを見て、
自分のしたい方向に向かって自覚的に動くことは、
自由につながっていくよね。
心や精神を含めず、肉体レベルまでに限定する者なら、
その自然科学のうちに、自由な一人ひとりは
どう関係するのかわからないだろう。
筋の通った進化論者
(肉体の器官の発展の中に、
精神が潜んでいることも認める人)ならば、
肉体レベルに限定するような狭苦しさに
はまることはあるまい。
自然の発展を猿までだと結論づけながらでも、
人の進化に超自然(神など)を持ち出さなくていいし、
猿の研究者ですら、
きっと自然のうちに精神を探ることができるだろう。
肉体の器官の成り立ちまでだけを進化として認め、
そこまでを「自然」の発展だと見なすのではなく、
その続きに、倫理的に自由に生きることをも、
肉体の器官の命の精神的な続きと見て取ることができる。
※
なんのこっちゃ、という感じだけれど、
これ、神を持ち出さなくても、
人でも、そう、私でも、
自然界のあれこれと自分の精神が呼応するのを
実感できる時がある。
たとえば、虫や葉っぱを見ている時。
集中して、じ~っとそれらを見ていると、
それら・彼らと自分の精神が重なる時がある。
こないだは、目の片隅にふと動くものを見つけて、
よーく目をこらすと、かまきりがいた。
どこかからふわっと降りてきて、
そのままガシッと葉っぱの裏側にくっついた。
なんで裏側にくっつくことになったのかは謎だけど、
ホントに細くて小さな足で、逆さまにぶら下がっている。
接地面の足4本分を合わせても1mm四方もない。
それなのに、全く安定して葉っぱに立ち(ぶら下がり?)、
前足2つの鎌は、隣の葉っぱを捉えようと、
風に揺られながら、さらに隣の葉っぱに手を伸ばす。
「すごいな~キミは!」と、
しばし、ほれぼれと見とれていたのだけれど、
カマキリにとっては全然すごいことじゃなくて、
ごく普通のことなんだろうな。
人が2本足で立っているのもスゴイんだし。
ってことは、誰か・何かをスゴイと思う時、
それらがスゴイのは、それららしさを存分に生きているからで、
私も、私らしさを存分に生かして生きれば、
それらと同じようにスゴイのだ、ということを感じた。
こないだはたまたま
カマキリがふわりと降りて来たからそう思ったけれど、
葉っぱや石、山や川を見ても、
何らかの印象を受け、自分を開いてそれらに沿えば、
何からでも、何かを学ぶことができる。
ここで言っていることが、そういうことかどうか、
イマイチ自信はないけれど、
石や虫や葉っぱに、自分の精神との呼応を感じられるなら、
猿はもちろん、動物なんかには、
もっとたくさんの自分の精神との呼応を感じられるはず。
器官レベルでどこまで同じかどうかは、
解剖したらわかるけど、
精神レベルでどこまで同じなのかは、
解剖しなくても気持ちを寄せればわかる。
ん?気持ちと精神は違うけど。
動物の動きを見ながら、その気持ちになって
アフレコして遊んでたら、結構おもしろいもんね。
彼らの喜怒哀楽は、人の精神につながっていくだろうな。
…と想像できるのは、私が人だからか?
宇宙人なら、もっと違うものが見えるだろうけど、
人として見るに値するものは私が見ている範囲だ、と
どこかの章に書いてあったような気がする。
象がお葬式する、とか聞いたことあるし。
動物の行動の中に、自然物の中に
自分の精神につながるあれこれを見つけるのは、
その気になれば、散歩しながらでもできるお楽しみ。
その気にならない時、疲れている時は、
早く目的地に到着したいだけなんだけどね。
自然界のあれこれを感じたい時には、
ゆっくり歩くのも自由、
早く到着したい時には、
車で行くのも自由ってことで。
強い感情が出てきた時、それをちゃんと見てあげて、
自分の状態や周囲とのバランスを見て、
自分のしたい方向に向かって自覚的に動くことは、
自由につながっていくよね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます