しかし、褒められたがりが
人から褒められることによって、
ある事実に実際より高い値打ちを付けることがある。
でも、実際に感じている快感から、
見かけの幻の快感を閉め出して
正しい快の値を出そうとしたら、
逆に、その値が間違ってしまうだろう。
なにしろ、褒められたがり屋さんは、
認められてあんなに喜んでいたのだから。
後でそれが「たいしたことないんじゃない?」と
人に言われようが、自分で気づこうが、
その時に感じていた喜びが、減ることはない。
「幻だよ」という感情のすべてを、
人生を生きる値から差し引こうとしたら、
感情について正しい値を出すのではなく、
感情自体を人生からもみ消すことになってしまう。
※
ぬか喜びも喜びのうち。
宝くじが当たるかも!と思って10枚買って、
結果が出るまでは10億円当たるかも!!
とワクワクしているのも、喜びのうち。
結果が出て、300円しか当たらなかったとしても、
買ってから結果が出るまでのワクワクは、
たしかにその時にはあったもので、
振り返れば、ワクワクした気持ちは思い出せるし、
アテは外れたにしても、その時のワクワクは誰にも消せない。
ここでは、褒められたい人が出てくるけど、
感じやすい人や、怒りっぽい人だって同じ。
誰かに言われた言葉で傷ついた時。
トラウマになるほど傷ついた事実は、
「悪気はなかった」と後で言われたところで、
他の誰かに「大したことないじゃん?」と言われたところで、
なかなか消せるものじゃない。
誰かの言った一言で、ものすごく腹が立って、
居ても立ってもいられなくなった事実は、
「そんなに怒ることでもないじゃない」と言われて、
確かにたいしたことない、と後で思ったところで、
その時の腹立ちは、消えるものじゃない。
そういうことって、誰にでも身に覚えがあるはず。
それから見ても、
人は理性だけじゃ生きてないことが
よくわかるってもんです。
だからこそ、やっかいで、
だからこそ、愛することもできるのだと思います。
なんで急に「愛」なのか自分でもわかりませんが、
たぶん、そう。
個性の現れない、いつも正解のデータの計算結果は、
愛する対象にはなり得ません。
人から褒められることによって、
ある事実に実際より高い値打ちを付けることがある。
でも、実際に感じている快感から、
見かけの幻の快感を閉め出して
正しい快の値を出そうとしたら、
逆に、その値が間違ってしまうだろう。
なにしろ、褒められたがり屋さんは、
認められてあんなに喜んでいたのだから。
後でそれが「たいしたことないんじゃない?」と
人に言われようが、自分で気づこうが、
その時に感じていた喜びが、減ることはない。
「幻だよ」という感情のすべてを、
人生を生きる値から差し引こうとしたら、
感情について正しい値を出すのではなく、
感情自体を人生からもみ消すことになってしまう。
※
ぬか喜びも喜びのうち。
宝くじが当たるかも!と思って10枚買って、
結果が出るまでは10億円当たるかも!!
とワクワクしているのも、喜びのうち。
結果が出て、300円しか当たらなかったとしても、
買ってから結果が出るまでのワクワクは、
たしかにその時にはあったもので、
振り返れば、ワクワクした気持ちは思い出せるし、
アテは外れたにしても、その時のワクワクは誰にも消せない。
ここでは、褒められたい人が出てくるけど、
感じやすい人や、怒りっぽい人だって同じ。
誰かに言われた言葉で傷ついた時。
トラウマになるほど傷ついた事実は、
「悪気はなかった」と後で言われたところで、
他の誰かに「大したことないじゃん?」と言われたところで、
なかなか消せるものじゃない。
誰かの言った一言で、ものすごく腹が立って、
居ても立ってもいられなくなった事実は、
「そんなに怒ることでもないじゃない」と言われて、
確かにたいしたことない、と後で思ったところで、
その時の腹立ちは、消えるものじゃない。
そういうことって、誰にでも身に覚えがあるはず。
それから見ても、
人は理性だけじゃ生きてないことが
よくわかるってもんです。
だからこそ、やっかいで、
だからこそ、愛することもできるのだと思います。
なんで急に「愛」なのか自分でもわかりませんが、
たぶん、そう。
個性の現れない、いつも正解のデータの計算結果は、
愛する対象にはなり得ません。
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