『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学13章18段落

2015年12月26日 | 『自由の哲学』
しかし、褒められたがりが
人から褒められることによって、
ある事実に実際より高い値打ちを付けることがある。

でも、実際に感じている快感から、
見かけの幻の快感を閉め出して
正しい快の値を出そうとしたら、
逆に、その値が間違ってしまうだろう。

なにしろ、褒められたがり屋さんは、
認められてあんなに喜んでいたのだから。
後でそれが「たいしたことないんじゃない?」と
人に言われようが、自分で気づこうが、
その時に感じていた喜びが、減ることはない。

「幻だよ」という感情のすべてを、
人生を生きる値から差し引こうとしたら、
感情について正しい値を出すのではなく、
感情自体を人生からもみ消すことになってしまう。


ぬか喜びも喜びのうち。
宝くじが当たるかも!と思って10枚買って、
結果が出るまでは10億円当たるかも!!
とワクワクしているのも、喜びのうち。

結果が出て、300円しか当たらなかったとしても、
買ってから結果が出るまでのワクワクは、
たしかにその時にはあったもので、
振り返れば、ワクワクした気持ちは思い出せるし、
アテは外れたにしても、その時のワクワクは誰にも消せない。

ここでは、褒められたい人が出てくるけど、
感じやすい人や、怒りっぽい人だって同じ。

誰かに言われた言葉で傷ついた時。
トラウマになるほど傷ついた事実は、
「悪気はなかった」と後で言われたところで、
他の誰かに「大したことないじゃん?」と言われたところで、
なかなか消せるものじゃない。

誰かの言った一言で、ものすごく腹が立って、
居ても立ってもいられなくなった事実は、
「そんなに怒ることでもないじゃない」と言われて、
確かにたいしたことない、と後で思ったところで、
その時の腹立ちは、消えるものじゃない。

そういうことって、誰にでも身に覚えがあるはず。
それから見ても、
人は理性だけじゃ生きてないことが
よくわかるってもんです。
だからこそ、やっかいで、
だからこそ、愛することもできるのだと思います。

なんで急に「愛」なのか自分でもわかりませんが、
たぶん、そう。
個性の現れない、いつも正解のデータの計算結果は、
愛する対象にはなり得ません。

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