よく、「自分を愛する」とか
「自分をありのままで肯定する」とかって
「好き勝手にやっていい」ってのと勘違いされる。
暴走族が自分のやってることを肯定して、
夜中にブオンブオン走られたり、
お金払わないでケーキ食べたいからって、
食い逃げしましょう、っていう話なわけがない。
バリバリ大きな音で暴走する人にも、
自分を肯定し、自分を愛して欲しいと思う。
だけど、暴走や食い逃げは、
社会的には肯定できないことでしょ?
どーゆーことなん?
じゃあアカンやん、
何ナイーブなこと言ってんの?
って思うよね。
この場合、近視眼的に、
その時のその衝動を愛するのかどうかじゃなくて、
「その道筋の家々で、寝不足の親が仕事から帰って、
むずかる赤ちゃんに絵本を何冊も読んで、子守歌を歌って、
やっと寝かしつけたところを、
またイチからやりなおすことを強制する自分」を、
愛せるのかどうか、だね。
それは、きっと走る爽快感やスリルへの愛情もあるけど、
それよりも、
社会の中での自分の無力感からの八つ当たりも大きいだろうから、
「関係ない人に八つ当たりする自分を愛せるのか」って考えると、
この場合の「自分を愛する」「自分を肯定する」は、きっと、
「暴走する」とか「食い逃げする」ってことには、
ならないと思うんだよな~。
人様のことはいいとして、じゃあ、こうやって、
うだうだ考えている自分を愛せる?
まぁ、基本、愛してるとは思うけど、
愛せない部分もあって、それは、
考えるわりに行動が少ないこと。
考えるのと同じくらい行動できたら、
もっと愛せるだろうな。
なんか、チープで気持ち悪い…。
「自分を愛する」とかいう言葉、
何のスピリチュアルブームよ?
スピ系やナントカ教は苦手。
派閥(?)ごとに役立つ法則とかを教えてくれて、
それによって一時的に救われちゃうようなのは、
ケガした時のバンドエイドとして必要な時はあるけど、
それだけが正しいって思うのには、違和感がある。
そういう、既存の枠組みを越えて、
自分の力で一歩ずつ近づいていく、
もっと大きなひとつの精神性こそ、
大事にしていきたいな~と思う。
ことさらにスピ界に通じてるとか言い立てなくても、
この、日常生活を生きる、不器用なワタシの中に、
精神的に成長したい「私」が、
運命共同体として存在しています。
「私」は、おいしいもの食べても、
旅行に行っても育たない。
食べたり旅行に行ったりすると
身体は喜ぶ。
精神性は、身体の快不快とは別問題。
意識的に育てることで、
身体の物理法則を越えて成長していく。
精神としての「私」。
それを無視しないだけでいいと思うんだけどね。
連動している時もあるし、
していない時もある。
身体は日々、
少しずつ死に向かっていくんだから、
中年期を越えたら、今度は、
中身を育てるのが課題。
身体を喜ばせなくても
「私」を喜ばせることができるようになれば、
いつか、身体から離れる日が来ても、
わりと安らかに手放せるんじゃないか、
と、期待しているんですが、どうなるでしょうか~。
あ、精神性を高めるのと同時に、
その時が来て安らかに身体を手放すには、
身の回りのアレコレを、物理的に片づけていかねば。
周りの人のためには、その方が重要かもしれないな~。
▼本日のフォルメン 92/100
上は、ほどけない結び。
下は、ほどける結び。
この2図は見るために参考として示されていたのだけれど、
テキストを2ページ分読み、
いろんな図を参照していたら、
「とにかく動きたい!」と思った。
ので、動いてみました。
さらに、ホントにほどけるのか確かめたくて
紐を置いてみたら…
2回やって2回とも失敗しました…。
ホントにほどけるの~~コレ???
※「何コレ?おもしろそー」という方は、
コチラをどうぞ。
私にとっては、
心を整えるヨガであり、瞑想の時間です。
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