『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学5章13

2012年08月27日 | 『自由の哲学』
時事刻々と移り変わる、それぞれの変化を見て、
「それがバラだ」と言うのも、同じように、
たまたまの印象に縛られた理解にすぎない。

もしかしたら、多いにありうることなんだけど、
とあるスペシャルな精神が、
覚えと同時に、覚えに沿う考えも受け取れると仮定しよう。

そういう精神にしてみたら、
考えと覚えの他のものだと見なすことなど、
思いも寄らないだろう。

つまり「物事の考え」は、
ものごとと切っても切れないひとつのものだ、と言える。



つぼみ、花、散った後のバラなど、
その時々の印象1回分だけじゃなくて、
時間を経過するごとに10回見たら、
10回分の印象を総合して「これがバラだ」と言うのも、
同じく、真実とは言えない。

見た印象だけじゃなくて、
それぞれに見たことを貫く論理の糸を、
自分でそれに沿って考えることで見いだすことで、
そこから一歩真実に近づける。

生まれたばかりの赤ちゃんと、1年経った赤ちゃん、
3歳の幼児と6歳になった少女。
それら、それぞれの印象は全然違うけど、
それらを貫くその人の本質は変わらない。

2~4歳の頃、その子がすごく怒りん坊だったからと言って、
早々と「この子は怒りん坊だ」と決めつけるわけにはいかない。
これから、どんどん花開いて行くだろうし、
実際、5歳になると、ぐずぐず言うこともほとんどなく、
小さな子の世話が大好きな、いいお姉ちゃんになっている。

「覚えのもろもろをひっくるめてものごとを理解したと思う」
というので思い出すのが、歴史の時間。
時代に沿って、いっぱい年号を覚えて、
過去から現在までつなげたとしよう。
でも、それでは歴史を理解したとは言えない。

なぜそれが起こったのか、その時代的な背景や時代の流れ、
その時代に生きる人の意識などを理解することで、
歴史を理解できたことになる。

年号暗記マシーンと、人との違いは、そこだ。
諸々を貫く糸を考えることができるかどうか。
そして、年号暗記マシーンは過去のことしかわからないけれど、
人は、それらを貫く糸という考えに沿って、
未来を予想することも、未来を変えることもできる!


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もうひとつ、例を挙げてはっきりさせたい。
石を投げてみれば、石は刻々と場所を移す。
その刻々と移る点を結べば、ひとつの線になる。
数学で習うさまざまな線の中に放物線がある。

私が習って知るところでは、
一点がしかるべき動きをして、放物線ができる。
石がどんな条件で動いたかを調べると、
その動きの線が、
私の知っている放物線と同じように動くのがわかる。
石が放物線を動いたことが、特定の条件から、導き出される。

放物線の形は、見てとられる他のいろんなものと同じく、
現象のひとつである。

先に挙げた精神(パッと見て物事の考えもパッとわかる精神)には、
見た目の石が刻々と場所を移すのもひとつの現象だ。
私たちが見て考えて付け足す放物線の形も
そういう精神からしてみれば、
石が動いているという現象と切っても切れないひとつのものだろう。


でも、人はそういう精神を持ってないんだよな。
見ることと考えることを別々に行わないと、
そのものの持つ考えには至れない。

特定の形、特定の重さの石を、特定の角度、特定の力で投げれば、
その石が描く放物線は、毎回、決まっている。
その放物線は、人が勝手に考えて決めつけているんじゃなくて、
物事に沿って考えていると言える。

ただ、その放物線は、いくら目を凝らして見ても、
超高速度カメラで連続撮影しても、点にしか見えない。
そのそれぞれの点は、考えることで、
「放物線」という考えになる。

毎日の最高・最低気温を記録していても、
単なる数字の記録にすぎないが、
暑い日に「暑いな~、セミ鳴いてるな~」と考えてみることで、
それが「夏だ」とわかる。

って、当たり前だけど、考えるってスゴいな。

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