とあるものごとについて、
実際に自分で見たことだけを物事のすべてとし、
考えながら見なければ理解できないことを
物事の付け足しとするのは、それこそワガママというものだ。
今日、バラのつぼみをもらって
私が実際に見る状態は、今の様子にすぎない。
バラのつぼみを水に入れておけば、
明日はまた全然違う様子を見せるだろう。
今日から明日まで、ずっと目を離さずにいたら、
今日のから明日のまで、数限りない間の様子が
ひと続きに見えるはずだ。
でも、私がその都度見るバラの様子は、
たゆみなく育って移ろいゆくバラの、
たまたま、私が見た瞬間の様子にすぎない。
もし水に入れてやらなければ、
育つはずのバラも育たずに終わるだろう。
明日になれば、もはや花が咲くことはなく、
私は、バラが咲く姿を見ることはない。
バラの花を知らないまま、私はバラを理解したと思うだろう。
その都度、見える様子を根拠にして
それが「バラだ」というのは、
ものごと(バラ)に沿わない、たまたまの姿に縛られた理解だ。
※
これ、めっちゃおもしろい!
外見で判断して、物事(人)を決めつけてしまうことが多いけど、
考える力を使えば、その時たまたまの物事(人)じゃなくて、
より全体に近いものが、私たちに開示されるんだね。
たとえば、目を覆いたくなるような行儀の悪い服装の女の子がいて
「うわぁ…」とその印象で、その子を決めつける。
私は、そういうことを日常的につい行ってるんだけど、
その子が電車でお年寄りに席を譲ったとする。
その時に、先入観に縛られた私の印象は変わらざるを得ない。
「結構いい子やん」と思うのは、
まだ自分のワガママな見方から出てない。
「結構いい子やん、私、彼女を見くびってたな。
この子はどうしてこういう格好をしているんだろう、
この子はどうして席を譲ったんだろう」と、
その子に沿って考えていくと、その子に関する新しい認識が
私の中に開示される可能性が出てくる。
これ、自分のことを思い出した。
中学時代に、あの黒い制服が窮屈でキライだったので
「自由な服装で学校に来たい」と先生に言ったら、
「服装の乱れは生活の乱れだよ」とか言われて、
「あ~あ、違うのにな~。派手な格好がしたいんじゃなくて、
人に服装まで決められるのがイヤなだけなんだけど。
TシャツとGパンみたいな、楽な格好で来たいだけなのにな~」
といくら言っても通じなくて、歯がゆく思ったことがある。
あれは、まさに「そういう言葉を吐く生徒はこういう生徒」と
断片で決めつけられたんだろうな。
または、高校時代までサルだった私。
そのままの意識で大学に行ったら、いきなりモテた。
誰もが素材だけで十分美しい時代があるけれど、
今思えば、その時代に入ったタイミングだったんだろうな。
外見だけきれいで、中身はサルの意識のままだから、
高校時代のように色気も何もなく、男女分け隔てなくしゃべってたら、
「気がある」と誤解されちゃったり。
今でもあるな。
見た目、どうもアクティブに見えるようで、
だから運動神経があると思われがちだけど、
実は、めちゃくちゃ体力がない。
夏の暑さにへばって、陸上では動くこともできない。
どっちかっていうとアート系なんだけどね。そうは見てもらえない。
逆の場合もあるな。
というか、むしろそればっかり。気をつけたい。
人を見る時に、断片的な印象や感情に捕らわれて、
「こんなことしたから、この人はこういう人」
「こんなこと言ったから、この人はこうだろう」とかね。
やりがち。
先入観に囚われずに、その人を見るには、
目の前のその時々の様子や一つずつの出来事はもちろん、
覚えた印象だけの世界から抜け出して、
一貫した論理を見いだすために考える必要があるんだろうな。
それは、時としてとても難しい。
特に、迷惑な相手や、怒りを感じる相手に対しては。
でも、相手に沿って考えることで、
時々の印象ではなく、その人の全体を貫くものが開示される。
とするならば、相手に沿って考えてみる意志を
掘り起こしてみる価値はある。
でも、それってすごくハードルが高いから、
まずは、過ぎ去った出来事や、人畜無害なもので練習しよう(^^;)。
背伸びしても追いつかないから、長期計画だな。
そういうことを考えれば考えるほど、
知識の詰め込みなんてあんまり意味がなくて、
必要なのは、意志の力で、
それがあれば人間的な成長ができるんだろうな、と思う。
実際に自分で見たことだけを物事のすべてとし、
考えながら見なければ理解できないことを
物事の付け足しとするのは、それこそワガママというものだ。
今日、バラのつぼみをもらって
私が実際に見る状態は、今の様子にすぎない。
バラのつぼみを水に入れておけば、
明日はまた全然違う様子を見せるだろう。
今日から明日まで、ずっと目を離さずにいたら、
今日のから明日のまで、数限りない間の様子が
ひと続きに見えるはずだ。
でも、私がその都度見るバラの様子は、
たゆみなく育って移ろいゆくバラの、
たまたま、私が見た瞬間の様子にすぎない。
もし水に入れてやらなければ、
育つはずのバラも育たずに終わるだろう。
明日になれば、もはや花が咲くことはなく、
私は、バラが咲く姿を見ることはない。
バラの花を知らないまま、私はバラを理解したと思うだろう。
その都度、見える様子を根拠にして
それが「バラだ」というのは、
ものごと(バラ)に沿わない、たまたまの姿に縛られた理解だ。
※
これ、めっちゃおもしろい!
外見で判断して、物事(人)を決めつけてしまうことが多いけど、
考える力を使えば、その時たまたまの物事(人)じゃなくて、
より全体に近いものが、私たちに開示されるんだね。
たとえば、目を覆いたくなるような行儀の悪い服装の女の子がいて
「うわぁ…」とその印象で、その子を決めつける。
私は、そういうことを日常的につい行ってるんだけど、
その子が電車でお年寄りに席を譲ったとする。
その時に、先入観に縛られた私の印象は変わらざるを得ない。
「結構いい子やん」と思うのは、
まだ自分のワガママな見方から出てない。
「結構いい子やん、私、彼女を見くびってたな。
この子はどうしてこういう格好をしているんだろう、
この子はどうして席を譲ったんだろう」と、
その子に沿って考えていくと、その子に関する新しい認識が
私の中に開示される可能性が出てくる。
これ、自分のことを思い出した。
中学時代に、あの黒い制服が窮屈でキライだったので
「自由な服装で学校に来たい」と先生に言ったら、
「服装の乱れは生活の乱れだよ」とか言われて、
「あ~あ、違うのにな~。派手な格好がしたいんじゃなくて、
人に服装まで決められるのがイヤなだけなんだけど。
TシャツとGパンみたいな、楽な格好で来たいだけなのにな~」
といくら言っても通じなくて、歯がゆく思ったことがある。
あれは、まさに「そういう言葉を吐く生徒はこういう生徒」と
断片で決めつけられたんだろうな。
または、高校時代までサルだった私。
そのままの意識で大学に行ったら、いきなりモテた。
誰もが素材だけで十分美しい時代があるけれど、
今思えば、その時代に入ったタイミングだったんだろうな。
外見だけきれいで、中身はサルの意識のままだから、
高校時代のように色気も何もなく、男女分け隔てなくしゃべってたら、
「気がある」と誤解されちゃったり。
今でもあるな。
見た目、どうもアクティブに見えるようで、
だから運動神経があると思われがちだけど、
実は、めちゃくちゃ体力がない。
夏の暑さにへばって、陸上では動くこともできない。
どっちかっていうとアート系なんだけどね。そうは見てもらえない。
逆の場合もあるな。
というか、むしろそればっかり。気をつけたい。
人を見る時に、断片的な印象や感情に捕らわれて、
「こんなことしたから、この人はこういう人」
「こんなこと言ったから、この人はこうだろう」とかね。
やりがち。
先入観に囚われずに、その人を見るには、
目の前のその時々の様子や一つずつの出来事はもちろん、
覚えた印象だけの世界から抜け出して、
一貫した論理を見いだすために考える必要があるんだろうな。
それは、時としてとても難しい。
特に、迷惑な相手や、怒りを感じる相手に対しては。
でも、相手に沿って考えることで、
時々の印象ではなく、その人の全体を貫くものが開示される。
とするならば、相手に沿って考えてみる意志を
掘り起こしてみる価値はある。
でも、それってすごくハードルが高いから、
まずは、過ぎ去った出来事や、人畜無害なもので練習しよう(^^;)。
背伸びしても追いつかないから、長期計画だな。
そういうことを考えれば考えるほど、
知識の詰め込みなんてあんまり意味がなくて、
必要なのは、意志の力で、
それがあれば人間的な成長ができるんだろうな、と思う。
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