『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学5章11~12

2012年08月25日 | 『自由の哲学』
とあるものごとについて、
実際に自分で見たことだけを物事のすべてとし、
考えながら見なければ理解できないことを
物事の付け足しとするのは、それこそワガママというものだ。

今日、バラのつぼみをもらって
私が実際に見る状態は、今の様子にすぎない。
バラのつぼみを水に入れておけば、
明日はまた全然違う様子を見せるだろう。

今日から明日まで、ずっと目を離さずにいたら、
今日のから明日のまで、数限りない間の様子が
ひと続きに見えるはずだ。

でも、私がその都度見るバラの様子は、
たゆみなく育って移ろいゆくバラの、
たまたま、私が見た瞬間の様子にすぎない。

もし水に入れてやらなければ、
育つはずのバラも育たずに終わるだろう。
明日になれば、もはや花が咲くことはなく、
私は、バラが咲く姿を見ることはない。
バラの花を知らないまま、私はバラを理解したと思うだろう。

その都度、見える様子を根拠にして
それが「バラだ」というのは、
ものごと(バラ)に沿わない、たまたまの姿に縛られた理解だ。



これ、めっちゃおもしろい!
外見で判断して、物事(人)を決めつけてしまうことが多いけど、
考える力を使えば、その時たまたまの物事(人)じゃなくて、
より全体に近いものが、私たちに開示されるんだね。

たとえば、目を覆いたくなるような行儀の悪い服装の女の子がいて
「うわぁ…」とその印象で、その子を決めつける。
私は、そういうことを日常的につい行ってるんだけど、
その子が電車でお年寄りに席を譲ったとする。

その時に、先入観に縛られた私の印象は変わらざるを得ない。
「結構いい子やん」と思うのは、
まだ自分のワガママな見方から出てない。

「結構いい子やん、私、彼女を見くびってたな。
この子はどうしてこういう格好をしているんだろう、
この子はどうして席を譲ったんだろう」と、
その子に沿って考えていくと、その子に関する新しい認識が
私の中に開示される可能性が出てくる。

これ、自分のことを思い出した。

中学時代に、あの黒い制服が窮屈でキライだったので
「自由な服装で学校に来たい」と先生に言ったら、
「服装の乱れは生活の乱れだよ」とか言われて、
「あ~あ、違うのにな~。派手な格好がしたいんじゃなくて、
人に服装まで決められるのがイヤなだけなんだけど。
TシャツとGパンみたいな、楽な格好で来たいだけなのにな~」
といくら言っても通じなくて、歯がゆく思ったことがある。
あれは、まさに「そういう言葉を吐く生徒はこういう生徒」と
断片で決めつけられたんだろうな。

または、高校時代までサルだった私。
そのままの意識で大学に行ったら、いきなりモテた。
誰もが素材だけで十分美しい時代があるけれど、
今思えば、その時代に入ったタイミングだったんだろうな。
外見だけきれいで、中身はサルの意識のままだから、
高校時代のように色気も何もなく、男女分け隔てなくしゃべってたら、
「気がある」と誤解されちゃったり。

今でもあるな。
見た目、どうもアクティブに見えるようで、
だから運動神経があると思われがちだけど、
実は、めちゃくちゃ体力がない。
夏の暑さにへばって、陸上では動くこともできない。
どっちかっていうとアート系なんだけどね。そうは見てもらえない。

逆の場合もあるな。
というか、むしろそればっかり。気をつけたい。

人を見る時に、断片的な印象や感情に捕らわれて、
「こんなことしたから、この人はこういう人」
「こんなこと言ったから、この人はこうだろう」とかね。
やりがち。

先入観に囚われずに、その人を見るには、
目の前のその時々の様子や一つずつの出来事はもちろん、
覚えた印象だけの世界から抜け出して、
一貫した論理を見いだすために考える必要があるんだろうな。

それは、時としてとても難しい。
特に、迷惑な相手や、怒りを感じる相手に対しては。
でも、相手に沿って考えることで、
時々の印象ではなく、その人の全体を貫くものが開示される。
とするならば、相手に沿って考えてみる意志を
掘り起こしてみる価値はある。

でも、それってすごくハードルが高いから、
まずは、過ぎ去った出来事や、人畜無害なもので練習しよう(^^;)。
背伸びしても追いつかないから、長期計画だな。

そういうことを考えれば考えるほど、
知識の詰め込みなんてあんまり意味がなくて、
必要なのは、意志の力で、
それがあれば人間的な成長ができるんだろうな、と思う。

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