まったく新しい考えが出てくるのは、
まったく新しい種が古い種から出てくるのと同じだ。
ただし、その進化を説明するのに、一元論として、
自然界でも考えの世界でも、仮の想い設けは必要ない。
仮の想い設けとは、次のようなこと。
ある人の倫理の「する」がどうやって生まれたのか、
その原因を探るために、
神様の計画です、などと、仮の存在を設定する必要はない。
それは、自然科学の進化論を考える時、
生き物の進化に神の計画を持ち出さないのと同じだ。
神や形而上的なものを通しても、通さなくても、
人間の中で起こることが、倫理的なものになるのは、
自分自身の経験になった時だ。
一元論にとっては、倫理のことも、
世の、他のあらゆる存在と同じように
世が生み出したことだ。
人が倫理の担い手なので、
倫理の進化が起こる原因も、人に求めるのが筋だ。
このように、倫理の個人主義は、
ダーウィンやヘッケルが自然科学のために
打ち立てようとした建物のてっぺんに輝く冠だ。
つまり、自然科学だけじゃなくて、
精神科学にもまたがる進化論だ。
※
世の生み出したものの法則を探る自然科学者が
「神の意志だから」とか言わないのと同じように、
自分が生み出した倫理の原因を探るのには、
「遺伝子が」とか「神が」とか言わずに、
自分を探るのがマトモな考えだ。
というのが、一元論的なとらえ方。
進化論は、体(肉体)はもちろん、
心や精神の分野にも広げられる。
会社に色白で骨細で無口で、何を主張するでもなく、
一日中パソコンに向かっている人がいる。
入社数年目の若い人。
妻に言われて、まぁ、おもしろそうなら出かけるか、
くらいな感じで、社交的とは言いがたいし、
一般ウケする感じでは、決してない。
パソコンに向かって、分進秒歩のIT業界で、
新しい技術をどんどん吸収している。
それが、お客様のニーズがあるから、とか、
そこを学んで1級の資格を取れば給料に反映されるから、とか、
そういうことじゃなくて、単純に「好きだから」なのだ。
じっくり話をする機会があって、
その時に彼が言ってて印象的だったのは、
自分の好きなことを使って、世に役立ちたい、
というスタンス。
目の前に、何か問題があって、
それを自分の力で解決できるなら、したいじゃないですか、と。
「出張ついでに3時間余ったけど、
どこかでおもしろいイベントないかな~」と思ったとして、
それを自分の技術でなんとかできるから、
そういうアプリを作って配布する、とかね。
「機械ができることは機械がしたらいいんです。
人はそこから解放されて、
考えることをしたらいいんじゃないかな。
考えないと、永遠に同じことを繰り返さなきゃいけないし」
だって。
機械が出来ることの中にも楽しみがある、とか
丁寧にやってみることで喜びがある、とか、
そういう意見はあるとして、いったん彼の言葉に沿ってみる。
そしたら、機械に任せる範囲を広げることで、
機械に任せること、自分の手でやることを、
自分で選ぶことができるし、
そこで生まれた自由な時間を、何に使うか、
それを考えることもできる。
そこで生まれた自由な時間の退屈に耐えかねて、
娯楽に走るのもいいけど、
それをホントは自分で望んでいるかどうかは
ちょっと立ち止まってみてもいいかもしれない。
世と自分とを重ね合わせていくことで、
世と自分が共に進化していく。
世と自分が噛み合わなくて空回りしているなら、
自分は進化しているけど、世の進化には影響できない。
世の流れがあって、自分もそれに合わせるなら、
自分と世とが一緒に流れていく。
これが、何も考えない一番ラクな状態かもしれない。
でも、世も自分も進化はしないかな。
世と自分。
どのあたりのスタンスを望んでいるのかは、
自分で自由に決めたらいいことだ。
一人で立っていたい時は、頑張って立っていたらいい。
疲れた時は「誰か支えて~」ってSOSを出せばいい。
また元気になってきたら「立ってみるね」と立てばいい。
世は、どこかで進化しているんじゃなくて、
人が進化させている。
世が決まったスピードで動いていて、
それに合わせなきゃ落伍者だ、というんじゃなくて、
それぞれの人が、自分にあったスピードで動くことで、
世が動いていく。
そういう社会になればいいな~。
と、思うなら、社会に対して怒ってもいいけど、
それより、自分がそう動くことで輝いていればいいのであって。
早いもん勝ちでも、多いもん勝ちでもない。
幸せの種類は、自分だけが決められるよね。
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