今の社会に対応するのに必要なスキルは、
アプリ更新なんかで如実に現れているように、
分単位、秒単位で変化していく。
片や、人間としての成長に必要なのは、
1000年、2000年単位。
文字がなかった時代から人類は
物語や哲学や真や善や美を求めていたはず。
今生きて行くことも、
人として成長していくことも、
どっちも大事なんだけど、
「必要」のスケール感がまるで違う。
…てな事を昨日考えてました。
どっちも同じように大事なはずなのに、
人はどちらかに偏りがち。
今の私は、人間って何? とか考えたりするから、
明らかに1000年2000年変わらない事の方に興味が偏っているけど、
年代で変わる要素もありそう。
若い頃は、もっとショートスパンに巻き込まれてた。
その場でしか通用しない試験勉強の一夜漬けとか、
目の前の仕事を片付けるために、ただ急いだり、
髪質が合わないのに流行りの髪型にしてみたり…。
あんまり、私の本質的な成長には関係なかったけど、
やってる時は生き生きしてる。
その場、その時を生きるには必要だったこと。
ショート、ロングっていう言い方もちょっとヘンだね。
髪型でもあるまいし(^^)。
うーんと、そうだな、たとえば、
今のこの社会に対応して生きていく方を「刹那」。
人間って何? 私はどう生きるの? を求める方を「永遠」。
と名付けてもいいかもしれません。
もしくは、
短い方は、「身体の必要」への対応、
長い方は、「精神の必要」への対応、
という風に整理できるかな。
おお、そうだったのか!
どちらかに偏りすぎると
カラダが死ぬか、精神が死ぬかどっちかになる。
身体のニーズに応えるだけなら、
(てか、それがとても大変なんだけど)
人間でなくてもいい。動物でいい。
精神だけ育てたいのなら、
死んでカラダがなくなってからでもできそう。
両方大事にするのって、難しい。
だけど、どっちもバランスよく大事にする必要がある。
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