『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

こっちとあっちと両方から「ホントウ」に向かう

2020年08月30日 | 考える日々


今の社会に対応するのに必要なスキルは、
アプリ更新なんかで如実に現れているように、
分単位、秒単位で変化していく。

片や、人間としての成長に必要なのは、
1000年、2000年単位。
文字がなかった時代から人類は
物語や哲学や真や善や美を求めていたはず。

今生きて行くことも、
人として成長していくことも、
どっちも大事なんだけど、
「必要」のスケール感がまるで違う。

…てな事を昨日考えてました。

どっちも同じように大事なはずなのに、
人はどちらかに偏りがち。

今の私は、人間って何? とか考えたりするから、
明らかに1000年2000年変わらない事の方に興味が偏っているけど、
年代で変わる要素もありそう。

若い頃は、もっとショートスパンに巻き込まれてた。
その場でしか通用しない試験勉強の一夜漬けとか、
目の前の仕事を片付けるために、ただ急いだり、
髪質が合わないのに流行りの髪型にしてみたり…。

あんまり、私の本質的な成長には関係なかったけど、
やってる時は生き生きしてる。
その場、その時を生きるには必要だったこと。

ショート、ロングっていう言い方もちょっとヘンだね。
髪型でもあるまいし(^^)。

うーんと、そうだな、たとえば、
今のこの社会に対応して生きていく方を「刹那」。
人間って何? 私はどう生きるの? を求める方を「永遠」。
と名付けてもいいかもしれません。

もしくは、
短い方は、「身体の必要」への対応、
長い方は、「精神の必要」への対応、
という風に整理できるかな。

おお、そうだったのか!

どちらかに偏りすぎると
カラダが死ぬか、精神が死ぬかどっちかになる。

身体のニーズに応えるだけなら、
(てか、それがとても大変なんだけど)
人間でなくてもいい。動物でいい。
精神だけ育てたいのなら、
死んでカラダがなくなってからでもできそう。

両方大事にするのって、難しい。
だけど、どっちもバランスよく大事にする必要がある。


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