『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学5章10

2012年08月24日 | 『自由の哲学』
ものごとを見て取る時、
「考える」こと自体は、ほとんど見過ごされる。
それがなぜかは、3章で述べた。

ふつう、私たちは考える対象に向かい、
考えるという行為自体には向かわない。
(「あれは何だろう」とは考えるけど、
「あれは何だろうと考えている私」のことは考えない)。

そのために、素朴な意識は、
「考える」を物事から切れた、
物事から完全に離れて世を理解しようとする働きだ
という風に扱うだろう。

人が世の現象について考えて抱く像は、
現象のうちにあるのではなくて、
ただ、人の頭の中にあるだけだ、と思うのが一般的だ。
言ってみれば、世はそれだけで完成していて、
私が考えようと考えなかろうと、関係ない。

「世の素材という素材、力という力が
すでに決まりきって、仕上がり済みで、
その、仕上がり済みの世について、
人があれこれ考えて、像を描く」と考えるとして、
じゃあ、こう問うてみたらどうだろう?

「世は、それだけで仕上がり済みで、
あなたが考えようと考えなかろうと、
世には何の変化もないし、関係もない」と言うのは、
いったい、どういう根拠があるのか。

世は草木に花を引き出す。
世はまた、人の頭に「考える」を引き出しはしないか?

土に種を蒔いてみてください。
種から根が出て茎が伸びるだろう。
茎から葉が出て花が咲くだろう。

草木を自ら迎えてみてください。
草木は迎える私たちの心の中で、それなりの考えと結ばれるだろう。
葉も花も草木のうちだと言うなら、
なぜその考えも草木のうちだと言えるのではないか。

しかし、と言われるかもしれない。
葉や花は認識する人がいなくても、そこにある。
かんがえは、人が「草木」を迎えるからこそ、現れる。
なるほど、それはその通り。

だが、花も葉も土があって芽がきざし、
光と空気があって、種から草木に育ちながら出てくる。
同じように、「草木」という考えも、
考える意識があって、それが草木にせまることで出てくる。



草木を見て、自分勝手に「きれいだ」とか「好きだ」とか、
草木を自分との関わりの中で捕らえるのではなくて、
草木を見て、草木の法則にぴったり沿った考えをするなら、
その法則は、草木の内にある精神世界の法則を引き出したものだ。

たとえば、種を見て「仁丹?ゴミ?」と言うのでは、
それは種の中に含まれる法則だとは言えない。
でも、種だけを見て、それを土に埋めたらどうなるか、
どんなふうに育つか、どんな花が咲くか、実になるか、
それを、目の前の種に沿って考え、
それがその種にぴったり沿っているなら、
その考えは「種の中に含まれる法則」だと言える。

自分の中の考えは、自分の中の考えとしてあるけれど、
それを現実世界(たとえば種)と重ねて見直し、考え直し、
現実世界とぴったり合わさった時、
世界は初めて現実として露わになる。
その一粒の黒い粒を見て、自分の思いこみで完結してしまえば、
世界はいつまでも明かされない。

日常生活でも、たとえば苦手な人のことや、社会の問題を、
先入観にとらわれて決めつけてしまっても、
わけがわからないままだ。

それがヒマワリなのか、朝顔なのか、砂粒なのか、錆びた鉄なのか、
現実を見ようとすれば、
その黒い粒を見て、それに沿って考えることが求められる。
それが、本当に相手が悪いのか、社会が悪いのか、
自分にはどうにも手出しの出来ない問題なのか、
周囲を見ずに、先入観と自分の中の印象だけで決めつけてしまえば、
現実世界はいつまでも夢の中だ。

現実と思考を重ね合わせること。
その作業を一つずつ積み上げていくことで、
世界の法則が一つずつ、私に明かされていく。


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