自然科学とは、本来どういうものかを深めていくなら、
自然科学の世界にいても、倫理の個人主義にたどりつく。
科学というのは、
見る+考えることで深めていく行為だけれど、
まさに、見て考えて言うことで、
人の(自分の)行為の中に自由を発見できる。
人の意志が、
紛れなく考えて得た悟りを現実にしていこうとする限り、
きっと、それは自由と呼ぶにふさわしい。
そもそも「悟り」は、外からの必然に左右されず、
精神だけで成立するからだ。
人が、何かをするとき、
全体は把握していないにしても、
何となく「間違っていない」と知ってする時は、
全体は把握できてなくて、
ただ悟りの面影で動いているにしても、
感情的に、自由な行動だと感じられるだろう。
そういう時の行為には、
はっきりと「自由」の印がついている。
※
精神科学と自然科学は、
イマイチ折り合いが悪くなることもあるけれど、
ちゃんとつながっている。
科学の方法(見て考える)を重ねて自然を見れば、
自然の中に考えが潜んでいることに気づく。
見た人にだけ見えてくる考えがある。
それは、特別に秘教的なことでも何でもなくて、
何かを見て感じること、考えることは、みんな違う、
そして、それぞれが、それぞれに必要なことを得ている、
というだけの話。
この方法をしっかりと身につけたら、
あらゆるものの中に秘められた考えが見えてくる。
他の人ではなく、その人に、見えてくる。
見ること、考えること。そして、
そこで浮かぶ言葉を素直に表してみる。
外に向けて言うなら、恥ずかしいとか、
間違っているとかの感情のバランスもあるけど、
自分に向けて言うだけでいい。
自分を開放して、素直に言ってみる。
その言葉の中には、必ず自由が含まれている。
ま、私は言霊を信じる人だから、
変な言葉を発すると、それに縛られる気もするし、
なるべく毒のある言葉は使いたくないんだけどね。
自分でコッソリ言うなら、
あんまり、それに縛られすぎなくてもいいかな。
その言葉に基づいて、
自分の中に秘められた考えに気づいて、
知らなかったな~ということを発見する。
何かをしている時は、するだけで精一杯で、
見ることはできないから、思い切りすればいい。
その後で、したことを見て、全体を見て、
それについて考えて、気づくことも多い。
わからないまま動くのは不自由だけれど、
なんとなく「これでいい」とわかる。
感情でわかる。
感情のバランスが崩れている時は、
自分もそれに翻弄されるかもしれないけど、
感情バランスが崩れていること自体が
あきらかに何かのサインだから、
ちゃんと感情を見てあげる必要があるね。
そう思うと、科学の前に感情を大事にしてあげるのは
大事なことだよな~と思う。
自分の感情を大事にすることで、
人を傷つけちゃったりするのは不本意だから、
ワンクッション置いて、深呼吸して、
両方見てあげて、どうしたいか考えて、
人があまり困らない程度に表現する、って感じかなぁ。
表現するタイミングが相手に合わないと通じないから、
表現するタイミングが1年後に来たりするの。
なかなかに、まどろっこしい性分だね(^^)。
もちろん、こういう私には、突破力はありません。
周囲とあったかく過ごすことはできます。
そして、一緒にゆっくりと成長していくことはできます。
だから、結果をすぐ求められる場面には
あんまり向いていない気がする。
だけど、向いている人もいるから、その人が突破して、
私が暖めて、新しい風を吹き込む人がいて、
難しいことを教えてくれる人がいて…。
いろいろな個性が自分を生かして関わるのって、
シアワセだね。
一人が頑張るんじゃなくて、
人にもたれ合うんじゃなくて、
一人ひとりが、惜しみなく自分を生かすこと。
それでどうしても足りないところは、ヘルプを出しながら
当面、ちょっとずつ無理して、補い合うこと。
そうやってできた社会は、
なかなか素晴らしいと思うんだけど。
その社会で生きている人が
自分を社会に生かしてシアワセ感じてるってだけで、
もう、サイコーじゃないの?
「私はこうです」という個人主義。
「私はこれが道だと思う」という個人の倫理主義。
それを、ガリガリ通す気質の人はガリガリ通し、
のんびり通す気質の人はのんびり構え、
社会を変えたり、暖めたりしながら、
それぞれに気づいていくことがある。
自分を見れば見るほど、
紛れなく考えれば考えるほど、
見えてくるものがある。
そこで見えてくるものが「精神の自由」かな。
自由に生きるのは、
気持ちも生き生きして、本当に人生が充実するけど、
結構な試練でもあるよね。
それを自覚した上で、自分がどうしたいか、だけど。
できる範囲で進み、退却し、また進み
…の繰り返しでいいや。
ちょっと刹那的だけど。身の丈から。
自然科学の世界にいても、倫理の個人主義にたどりつく。
科学というのは、
見る+考えることで深めていく行為だけれど、
まさに、見て考えて言うことで、
人の(自分の)行為の中に自由を発見できる。
人の意志が、
紛れなく考えて得た悟りを現実にしていこうとする限り、
きっと、それは自由と呼ぶにふさわしい。
そもそも「悟り」は、外からの必然に左右されず、
精神だけで成立するからだ。
人が、何かをするとき、
全体は把握していないにしても、
何となく「間違っていない」と知ってする時は、
全体は把握できてなくて、
ただ悟りの面影で動いているにしても、
感情的に、自由な行動だと感じられるだろう。
そういう時の行為には、
はっきりと「自由」の印がついている。
※
精神科学と自然科学は、
イマイチ折り合いが悪くなることもあるけれど、
ちゃんとつながっている。
科学の方法(見て考える)を重ねて自然を見れば、
自然の中に考えが潜んでいることに気づく。
見た人にだけ見えてくる考えがある。
それは、特別に秘教的なことでも何でもなくて、
何かを見て感じること、考えることは、みんな違う、
そして、それぞれが、それぞれに必要なことを得ている、
というだけの話。
この方法をしっかりと身につけたら、
あらゆるものの中に秘められた考えが見えてくる。
他の人ではなく、その人に、見えてくる。
見ること、考えること。そして、
そこで浮かぶ言葉を素直に表してみる。
外に向けて言うなら、恥ずかしいとか、
間違っているとかの感情のバランスもあるけど、
自分に向けて言うだけでいい。
自分を開放して、素直に言ってみる。
その言葉の中には、必ず自由が含まれている。
ま、私は言霊を信じる人だから、
変な言葉を発すると、それに縛られる気もするし、
なるべく毒のある言葉は使いたくないんだけどね。
自分でコッソリ言うなら、
あんまり、それに縛られすぎなくてもいいかな。
その言葉に基づいて、
自分の中に秘められた考えに気づいて、
知らなかったな~ということを発見する。
何かをしている時は、するだけで精一杯で、
見ることはできないから、思い切りすればいい。
その後で、したことを見て、全体を見て、
それについて考えて、気づくことも多い。
わからないまま動くのは不自由だけれど、
なんとなく「これでいい」とわかる。
感情でわかる。
感情のバランスが崩れている時は、
自分もそれに翻弄されるかもしれないけど、
感情バランスが崩れていること自体が
あきらかに何かのサインだから、
ちゃんと感情を見てあげる必要があるね。
そう思うと、科学の前に感情を大事にしてあげるのは
大事なことだよな~と思う。
自分の感情を大事にすることで、
人を傷つけちゃったりするのは不本意だから、
ワンクッション置いて、深呼吸して、
両方見てあげて、どうしたいか考えて、
人があまり困らない程度に表現する、って感じかなぁ。
表現するタイミングが相手に合わないと通じないから、
表現するタイミングが1年後に来たりするの。
なかなかに、まどろっこしい性分だね(^^)。
もちろん、こういう私には、突破力はありません。
周囲とあったかく過ごすことはできます。
そして、一緒にゆっくりと成長していくことはできます。
だから、結果をすぐ求められる場面には
あんまり向いていない気がする。
だけど、向いている人もいるから、その人が突破して、
私が暖めて、新しい風を吹き込む人がいて、
難しいことを教えてくれる人がいて…。
いろいろな個性が自分を生かして関わるのって、
シアワセだね。
一人が頑張るんじゃなくて、
人にもたれ合うんじゃなくて、
一人ひとりが、惜しみなく自分を生かすこと。
それでどうしても足りないところは、ヘルプを出しながら
当面、ちょっとずつ無理して、補い合うこと。
そうやってできた社会は、
なかなか素晴らしいと思うんだけど。
その社会で生きている人が
自分を社会に生かしてシアワセ感じてるってだけで、
もう、サイコーじゃないの?
「私はこうです」という個人主義。
「私はこれが道だと思う」という個人の倫理主義。
それを、ガリガリ通す気質の人はガリガリ通し、
のんびり通す気質の人はのんびり構え、
社会を変えたり、暖めたりしながら、
それぞれに気づいていくことがある。
自分を見れば見るほど、
紛れなく考えれば考えるほど、
見えてくるものがある。
そこで見えてくるものが「精神の自由」かな。
自由に生きるのは、
気持ちも生き生きして、本当に人生が充実するけど、
結構な試練でもあるよね。
それを自覚した上で、自分がどうしたいか、だけど。
できる範囲で進み、退却し、また進み
…の繰り返しでいいや。
ちょっと刹那的だけど。身の丈から。
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