1月後半、身内や周りの人から、
片手の指にあまるくらいに訃報が続いた。
悲しいお知らせが続きすぎたせいか、
命の重さに対する感覚が麻痺して来て、
なんだか、よくわからなくなってきた。
でも、実際にお悔みに足を運ぶと、
1人ひとりの喪失の重さがそこにある。
ちょっと若い時の、写真うつりのいい額と白い花の前で、
「昔おじさんに、こんな事言われたことある」
なんて、笑って話しながらも、急に言葉が詰まったり、
誰かが涙したら、あっという間にみんなもらい泣きしたり。
決して、はやり病の死者が
名前から数になっていくようには、
1人の死は客観的データにならない。
戦時中も、こんな感じで、
命に対する感覚が、
少しずつ麻痺していったのかな。
特定の職業に対する活動の制限も、
今みたいな感じで、
少しずつ「今だけ」「仕方ない」って、
麻痺していくのかな。
話は変わるけれど、
お悔みに行った時、両親と一緒に、
田舎の小さなお店でお昼ごはんを食べた。
店構えやカウンター、板前の様子は、
お刺身を出すお店のような風情だったけど、
生け簀には何も泳いでいない。
板前のガラスケースにも何も出ていない。
板前のガラスケースにも何も出ていない。
冒険かな?と思いつつ刺身定食をお願いしたら、
冷蔵ケースから出してきた材料で、
ていねいに刺身を盛り込んでくれた。
5種類の中には焙りまで入れてくれて。
12時前にお店に入った時には貸し切り。
刺身定食は、コリコリ、とろとろ、プリプリの、
思いがけないおいしさで、驚いた。
そこから一時間あまり。最後まで貸し切りだった。
帰り際、「ごちそうさまでした。
久しぶりにおいしいお刺身をいただきました」
って言った時の
コワモテの板さんの笑顔が誇り高かった。
こういう人が、必要な対策に協力しながら、
真っ当に営業して作っている生活と、
そうできない事情のある店の営業とを十把一絡げにして、
言葉ひとつで奪うことに対する理不尽さも、
私の中で、少しずつ麻痺してきている気がする。
こうやって、いろんな感覚が麻痺して行ったら、
もっと無茶な事も麻痺したまま受け入れてしまいそうだ。
自分の感性をビビッドに保っていなくちゃ!
今こそ
「自分の感受性くらい
自分で守れ ばかものよ!」by茨木のり子
を思い出さなくちゃ!
会社だってそうだけど、
「客観的」っていう言葉を盾にして、
心を麻痺させたまま考えたら、
正解だと思える考えも冷たくなってしまう。
「客観的」な指標のひとつとして、
自分が「主観的」にどう感じるかも含めること。
客観と主観を、両方ちゃんと見て考えること。
それが、
機械にはできない「人間」の考え方のはず。
(shotarrow sakamotoによるPixabayからの画像)
得体の知れない通販サイトの広告動画と何ら変わりはないわけだが、その個人のアテにならない判断を多数集めて数値化し、測定結果に置き換えることによってエビデンスという透明性に基づいた客観的判断が成立する。
確かにそれは説明責任という観点においても、これ以上疑いようのないものに思われる。
がしかし・・・