お寺ふぁん・続

写真撮ってきたから見て~♪ 程度の記事書いてま~す!

三木合戦

2018-03-04 18:39:08 | 日記

 ひなまつり

 3月3日ですね。 ですが、旧のお祭りは旧の暦、それはいつになるんでしょうね・・?

 

 だいぶ古臭くなってしまいましたが、我家にも姫さまがいらっしゃるので形だけでもおひなを飾ってみます。

 

 

 大昔、今の頃合いに大攻囲戦が始まりました・・・って、今頃籠城側がどうしようか悩んでいた頃じゃないかと・・・

 戦国末期、織田氏の中国攻めに際し、三木の別所氏は、織田方についていたものの離反してしまいます。

 なぜ?

 歴史が勝者の記録である以上、敗者である別所氏の真相は永遠の謎かと思いますが、想像はされます。

 学者さん、そのほか好事家さんたちの見解に対し、”そのとおり” というのか ”なにいうとる” なのかはやはりわからないですね・・・

 

 形として残るもの。

 秀吉は籠城した城を囲むための城を築きます。

 それを見てみたいと思っていました。

 ひな祭り時期の今見ます。

 理由は暑くもなく、寒くもない、虫もいず、にょろにょろも出ない。下生えも気にならない・・そんな時期を待っていた・・ということになるかも・・・

 

 大昔のことです。

 しかし、いまだに当時の造作が残っています。

 木は切り払ったはずです。何代目になるのか大きくなった樹木が時間の経過を教えます。

 この段々畑のような構造に兵を収容しました。

 

 主郭跡に展望台が作られています。

 

 そこからは三木城が目前です。

 

 

 

 

 当時こんな展望台作った。 いいや違うよねとご親切にありがとう。

 

 

 

 

 

 

 尾根道は整備されており、その当時からまったくもって快適道だったと思えます。

 しかし、その横は険しいんです。 正直 ”キケン”なんです。

 立派な自然防御施設ですね。 三木側は自前の付城としての考えはなかったんでしょうか・・・?

 

 籠城側の城直下に降りてきました。 ほどなく桜ですね。

 

 

 

 包囲戦が完成していく経過図とも言えるものです。

 それを視覚的にした立体も展示されています。

 

 ほぼ中心の幟が三木城。

 

 城の後背部にある付城が防御施設なら・・・相当な堅城。

 

 

  しかし、これは攻城側の付城です。

 川に面した一角だけが三木城、まさに孤塁です。

 それを最奥秀吉本陣が見ています。

 この方向になるんでしょうか・・? ”おお、毛利殿・・”

 来援はありません・・・

 

 

 ほぼ中央の高台が秀吉本陣になります。

 

 

 この堅城ぶりが判断を誤らせた・・・?

 

  美嚢川。水運もあっただろうし、城の堀としても機能したことでしょう。

 この見えている尾根筋も包囲線となってきます。

 

 23歳、籠城が約2年となると二十歳そこそこの”お殿様”の反抗でした。

 ”わしは室町権威の名家、百姓あがりごときに・・・” 読めませんでしたかね・・

 

 

 破壊しただけなら秀吉は大悪人です。

 しかし、その後の復興をしてるんですよね。 そんな名残の店でしょうか?

 アルコールなしでもうみゃいにゃ〜

 

 三木は栄えました。しかし、その後主要交通手段がわざわざ・・・ 痛いです。

 

 復興策による刃物の街・・ その実習のような刃物制作が行われていました。城跡です。

 

 

 

 超歴史というか、三木は地質でも興味深い地です。

 秀吉本陣は、年寄りは駐車場の関係で大手ではなく竹中半兵衛墓の方から登り下りするんですが、途上に丸みを持った石ころを見かけます。

 

 地層断面が覗いています。

 山の中に河原で磨かれたような石が・・・ この辺の土地というのはどうやってできたのでしょうか・・・?

 節理? のある大きな岩盤も露出してるんですね。

 

 

 帰路、三田辺り・・・ なに、このバス・・ 2両繋がって1編成になっています。一回の運行で2倍のお客さん? やるね神姫さん。

 

 

 

 

 

 (平井 太閤尾根道)

 

 

 ん〜? なに?

 今日視界内にあった駅が燃えた〜 おおお そういえば高速上でも乗用車が燃えてたわ・・こえ〜!