もんく [とある南端港街の住人になった人]

映画「スカイ・クロラ」 -大人の責務

この歳になるまでいろいろな人がいろいろな仕事をしているのを見てきているが、根本的に何かを変えようとしてやっている人はほとんど見たことがない。例えばもっと幸せになろうとかもっと誰かに何かを提供しようと言うようなことだ。

仕事をすると言うのはその仕事上のオブジェクトに対してのみ身体機能(手作業でも頭脳労働でも)を作用させる事で成り立っていると誰もが思っている。だから仕事をしている上でその対象物に対しては何か変化させようとか工夫しようとはするが仕事のやり方そのものまで変化させるべきだとは誰も思いはしない。

新人で入って5年もすればいっぱしの何者かには必ずなれる。だいたいその程度経過すると大きな顔をして専門家ぶるとか少なくとも先輩顔するようになるのがオチだ。世の中の全てのものはそんなに簡単な仕組みで全てができているわけでは無いのであるが、そうして大きな顔ができるのはそのオブジェクトに対して何でもできると言うより、職場の慣習のようなものをほとんど全て知ったと言うに過ぎない。

こう言う場合にはこうすれば良い、ああ言う場合にはああすれば良い、この手の問題が起こった時には誰にお伺いを立てれば良いか、作成する書類とその書き方、メールを書くときの会社なりのちょっとした作法のような細かい点に至るまで知ったに過ぎないのだ。

そうした作法なり慣習なり文化なりを一通り身に着けたと言うことがオブジェクトに対して何でも知っていたりできると言う本来の目的とすり換えられて理解される。そしてその作法を次の世代に伝授する事が一番の仕事であり責務となってしまうのだ。そして次から次へとフォロワーが作られる。


こうした事に対して子供は無力であるが、実は大人もそれ以上に無力なのである。大人とてそれ以外に生きていく方法を知らないのである。結局は子供に対して何かの変化を促すよりはフォロワーになることを勧める方が安全なのだ。それがどう言う結果をもたらすか、それが手っ取り早く生きて時間を潰すのに役立ったとしても、それ以上のものを手にする手段では無いと分かっていても。

日本には長い歴史と伝統がある。伝統を伝えるのはすべき事とされる。伝統はその時間を経る過程で形になる。動作は作法となり道(どう)となる。形となった上でその形を継承する事が伝える者の責務となり意味や意図は失われる。失われたとしてもそれは形として残りその責務は伝承される。

大人はそれを止める事ができない。それが大人と言うものだ。大人は自らと違うものへ変化しなさいと、子供には言えない。そして意味を捨てた形は次第に積み重なり身動きの取れない社会を構成する。

それが大人の責務だったのか。伝承を促すだけが大人のすべき事なのか。そして結果、自らは何を手に入れたのか。

むしろ「自分達はきっと間違っている。君たち、変えちゃってみてくれよ。」と言ってみるべきではないのだろうか。







期待せずに見て、以外によく出来た映画だと思った。原作がしっかりしているのだろうと想像できる。もちろんそちらは読んではいない。

登場人物の無表情については、最近のアニメではクールさを演出するために普通に使われているが、普通の場合、その事事態に意味は無い。この作品が始まった時点でその無表情もそれかと思ったが、見ているうちに意味がある無表情であるとわかってきた。無表情表現も形として伝承されているがこの作品では意味を持っていたのは好ましい。

この映画は公開されてからきっと多くの子供達に見られたのだろうと思う。ただ、残念ながらそれを機に社会が何か変化したかと言うとそうでは無いだろうと思えるのが残念だ。きっとスクリーンの中の単に"作品"として継承されるものの一つとなったのだろう。


この作品はとても分かり易い。特に日本人にとっては。きっと皆似たような視点で作品評が書けるのだと思う。それはもちろん子供として。ただ、この作品には大人もちゃんと登場していてそれなりの役割も表情も見せている。それはこの作品の環境設定(大人が構成している)となっていて実際はそちらの方が重要なのだ...........
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