問われる心

2013-05-31 07:01:29 | ビジネス

■ 心が揺れる…

今日は梅雨の中日、ちょっと晴れ間が出ました。少しだけ散策してきたのですが…うーん、なんだか色々考えることがありすぎて困るなぁ。

以前話をしたことのある外資の人材バンクから仕事の可能性があるメールが来て… 返事をしたものか、返事をするなら、どううまく返事するか…可能性を殺さず、かといって、卑屈にならず…
こういうケースの返事の書き方は、能力も問われるので、センシティブ… 細心の注意を払って書かないとすぐ見限られてしまいます…

でも返事をしたほうがいいよなぁ。仕事で私のプロフィールが引っかかったのに違いありません。もしこれが東京での仕事の話だったら?というかその可能性の方が濃いですが、受けるか受けないかでまた悩みますが。

大体、夫の転勤について行っても出来て、収入も良いというような都合の良い仕事がそうそうあるわけでなく…日本の場合、薬剤師と看護師くらいではないでしょうか… 

というわけで私のような専門性があっても、マイノリティ職種の場合、仕事をするつもりなら、その仕事のほうに人生を添わせてみるしかありません。

そうなると、結局は、甲府で夫婦そろって暮らすということが仕事の犠牲になるしかなく、そうすると結婚生活自体が…という経緯は、これまでも何度か通過しているので…開けてみなくても書いてあることが
分かる手紙のようなもので、ああ困ったなって感じ…

神様はこうした形で良くその人の本心を問います。どう生きたいのか?

隠遁か別離かみたいな究極の選択に直面することになるかもしれない…(汗)

今日はすずらんでも…とは思っていましたが、家じゅうの整理整頓をしながら頭を冷やして考えてみます…

ああ、でもこういうメール、レスポンスの早さも試されていて…タイムリミットは今日中くらいでしょうか…。

以前あることでTVの取材依頼が来た時にメルボルンに居たという失態をやったこともある… チャンスの女神に前髪は合っても後ろ髪はないといいます。

前髪は山の方角に流れていると思ってて、かつてやっていたようなマーケやソフトウェア関連、語学関連の仕事方面では脇甘すぎの昨今・・・困ったな…

 


マーケティングって

2013-02-15 06:21:39 | ビジネス

最近マーケの面白そうな本のお知らせが来て読まなきゃ!と思い出かけてきたのですが…図書館にはありませんでした。

残念。

マーケティングは、ビジネス学の中でも特別面白い分野です。一般の人からは誤解が多い分野でもあります。

一番多い誤解は、マーケティングを宣伝だと誤解していることではないでしょうかね。

マーケティングはチラシを作ったり広告を作ったりすることとは違います…広告はアドバタイズメント。

マーケティングって基本「売らんかな」の精神と間違われているんですよねぇ(トホホ) 全然違います。

マーケティングとは、自分のビジネスにおいて首尾一貫性を持つ、ということです。

町の八百屋が大型スーパーの真似をすることではない。

そこんとこ理解していない人が多いんですよね。 マーケティングとはハードセリング(押し売り)の対極を行くものです。

うまくマーケティングされたビジネスは、無理に押し売りしなくても、自然にお客さんが集まる。そしてビジネス上、何をしなくてはならず、何をしなくて良いかがはっきりしてきます。

たとえば、マーケの定番 3C分析。

3Cとは「市場(customer)」「競合(competitor)」「自社(company)」です。

市場は町の八百屋と大型スーパーで顧客が違いますよね? そこんところで深い誤解がある業種も多い。
競合相手は? これも誤解が多くて、町の八百屋は大型店を競合相手だと思っていたりするんですよね(汗)
たぶん違う。大体町の八百屋に来るお客は近所で買いたい、少しだけ買いたい、ってお客だったとすると競合はお総菜屋かもしれない。 まったく客層が違えば競合相手ではないんですよ。自社はどういう商売をしたいのか?強みは何か?リソースは?そこんとこ重要です。大型スーパーができないような細やかなことができるのかできないのか?

あるいは4P。 

どんな商品を誰にいくらで、どこで、どんな風に売るのか? 

とってもマイナーな商品をオタクなお客さんにひっそり売るんなら、自然とそういうお客さんだけが目にしてくれるような場所に広告を打つのが最善で、いっくらたくさんの人の目につくからって新聞広告出したり、TVCM売ったりするのは意味がないわけです。

大衆を相手にする商売のやり方は目につくので、ビジネスで勝つためにはそれをしないといけないと思い込んでいる人は多いんですよね。別にしなくっていいのです。商売の中身によっては。コストばかりかかってリターンがない広告活動ならむしろしない方がいいくらいです。

要するに、マーケティングとは、どんな商品を、あるいはどんな価値を誰に提供したいのかがはっきりすればするほど整合性が増してきます。

たとえば、若者向け衣料だったら、HPは若々しい色合いにするでしょう。

でも年配向けなら、派手目なカラーは顧客にアピールしないかもしれませんし、するかもしれません。

自分の顧客の望むものにピタリといかに嵌るか…全体的な整合性をどう作っていくか?それが重要なんですよね。マーケティングって…矛盾することをすると、自分で自分のスカートの裾を踏んづけているようなことになります。 

というわけでマーケティングというのは首尾一貫性の話だという話でした。

 


MBAホルダー一揆?

2013-01-07 22:12:59 | ビジネス

今日は買い物に行ったら車から見える鳳凰三山の稜線… 素晴らしい稜線。

地蔵岳と観音岳の間は、ぐっと切れ落ちてあれを歩くと、もっと感慨深いだろうなぁ。まぁ夏に歩いているんだけど。車なんで縦走はしづらいから御座石まで降りるのはやりそうにない。となるとピストン・・・うーん、なかなかやりそうにないなぁ。

しかしホント、いいところに住んじゃったものです。甲斐駒君は「待ってるよ~」と言っていました(笑)

■個人vs組織

今日は久しぶりにGMS時代の友人と議論。 といっても私はマーケティングと経営戦略しか取っていない単科受講生なんだが。

キッカケは友人が寄せた『180日間でグローバル人材になる方法』の感想だ。

グローバル化によって価値を生み出すのは個人的な人脈だという論旨が書かれているらしい。

確かに。 福岡で気になって追っかけていたIT関係の潮流に、ルビーという開発言語がありましたが、あれなんかは完全に個人のつながりのようでしたね。

世界はBtoB から、BtoCへ。 さらにCtoCへ。それにはネットは最強のツールなんだがな・・・

この世界(ソフトウェア)は使う人が多ければそれがデファクトになる、という世界なので開発した者勝ち&普及させた者勝ちです。 つまり早く始めた人の勝ち。スピード勝負。大きな初期投資が幅を利かせる、っていう世界じゃない。

実はその前の仕事でも、私はグローバル化の流れにいたんである… 端っことはいえ。というのも、前にいたソフトウェア販売会社では製品を引っ張ってくるところから私は情報通だったのだ。

大阪支社には社員が2名しかおらず一名は営業で一日会社にいない上、もう一名は私なわけでそんなことなら、無理にオフィスを構えず、自宅で働きたいと申し出たら、組織としての看板は使わせないから、○○社の○さんは君とは意思疎通しなくなる、と脅しをかけられた。

○○株式会社と言う地所がないと活動できないって思想が古いんだよな。大体。アメリカ、オーストラリア、あるいはドイツあたりでもエンジニアはほどんど遠隔勤務なんだし。今はスカイプもあるから国際電話はタダなのだ。実際、おとどし西穂で会ったクリスはスマホで西穂頂上から仕事してたんである。

まぁいいんだけど。その○○社の○さんとは、会社を辞めた今でも今ではクリスマスカードを送り、互いの家を行き来する間柄なんだがな…。

まぁとりあえず日本では人脈は個人ではなく組織に属す。ので会社で友達作りしても仕方ない。というか日本では公私混同しないという不文律がある。 会社の人も本音はタブーなのでそんなところで友達ができるわけがないんだな。
会社とは友達をつくるところじゃなくて仕事するところなのよ、とか言われたこともあったけど、そんなギシギシした環境で外資が仕事しているかと言うとしてないよな。

基本的に欧米以外の人種の場合、グローバル人材と言うとすぐ海外留学になるんだが、海外留学と言った場合に日本人は「横社会」に入っていけない。

のは、たぶん、社費で行くような”グローバル人材”が、実質ぜんぜんグローバルではなかったりするからなのだ。

私が男の子2人のベビーシッターとしてアメリカで住んでいた家は母が大学教師、父が内科医で、ある日、どこかの大学の講師くらいのレベルの人が国費で母親が勤める大学に留学してきたので、家に連れてきた。その大学の女性同僚と。その男性はたぶんどこかの学閥の一派で泊をつけるために留学してきたのだろう…ずーっと私に自慢話をしていた(日本語で)。けど肝心の英語での討論ができないんだな。ディナーの席では大人は知的会話をするものなんである。そしたら、まだ渡米して3ヶ月の私の英語を聴いて、その女性同僚が「あなた、この彼が○大学の○コースに行けるんだから行けるわよ」とあとでこっそり耳打ちしてくれた。罪作りな耳打ちだ(^^;) 

同じ人ではないが帰国して、若い講師が海外留学で仕込んできた英語というので、講座を取ったら、たまたまそのとき私のアメリカ人の恋人も日本に来ていたので暇だというので一緒に並んで授業をとっていたら、その先生が教えている英語に彼は赤ペンを連打。別に英語力だけがグローバル人材を示すわけじゃないんだが、”ブイブイ鳴らしている割りにショボイ”ということが学生にバレてしまったわけなんであった(笑)

このように海外留学ってのは実力のためではなく泊付けのため行くところなんだな、日本では。

企業からのMBA派遣は矛盾だらけだ。

人材の流動性が高い組織では、その場その場で必要となる個が変わるので流動的に組織形成される
      
   ↓

一方、日本企業はそういう形態ではないために個を活かしきれず、個を従えてしまう。
   ↓

流動性が徐々に高まった場合や組織として個を評価しきれない場合には、個が流出

   ↓

個に組織として投資することは難しい(例えば米国にMBAを社費で取得させることは難しい)

   ↓

なぜなら取得してもすぐやめてしまうから。
   
   ↓
組織に忠誠心があれば辞めない。
   
   ↓
組織の拘束をきつくする。
   
   ↓

アレ?! 個の話のはずが、また組織に拘束?!

とまぁどこまでも ”お上”に”奉公気分”が抜けないわけなんですねぇ。組織大好き日本。 思うに人材を選ぶときに、注意に注意を払って義理堅く、腰の低い人を選ぶべきだ。何しろ、義理堅くないと出て行ってしまうし、腰が低くないと出る杭になって現場から打たれて玉砕してしまう。

ただ確実にいえているのは、そもそも を忘れていることだ。

そもそも個を生かすのは何のためか? それはその集団にとってメリットが最大化するからだ。個が生きることは集団が活きることと同じなのだ。本来は。 そこが対立構造なんだな。なぜか日本では。

私の英語力はたいしたことはないが、みんながTOEIC500点なんて職場では925あるともう右に出るものはいないなんて話になってしまう。でも通訳仲間の間では990点が最高点であり、一発で990って人もいるのだ。925は930の壁を越えていない。今一歩なんだが、要するに比較の問題だといいたいわけだ。 集団において個は輝くように配置されれば、集団も輝く。自分が相対的に優位に立てる集団に行くことは自然であり、その自然が行われた結果はおそらく集団にとってもメリットが多いはずだ。

が、そうはならないのは、個が集団の役に立つことを日本の組織は嫌がるからだ。って、つまり、基本役に立たないほうがいいってこと?!

そんな恐ろしい論理にはなっていないことを願うが・・・ 

問題は、スキルをもった人材を適材適所で使えないってことなんだけど、そもそもそういう話だったのなら、日本では就職ではなく就社であるからして、採用からして適材なんてことは最初から主眼にないのである。

日本の就職市場での売り物はスキルではなく、身分なんであるからにして(--;)

そんなことを知らずに就職戦線に参加してはいけない。それはウブというもので、無知を自覚すべきだ。しかるに、持てる才能を生かせないと感じた若い有能な人は基本的には海外を目差す。 要するに人材流出だ。

でもまぁこれは将来変わっていくでしょう… 今のところ、日本の若者は臆病で海外には出たがらない。メルボルンでも日本人は激減していた。変わりに増えているのは中国、インド、コロンビアだった。 

それとも、そもそも、問題の核心は

「人々はしたくもない仕事をし、同時にそれを失うことを恐れているんだ」
                                            P25『仕事は楽しいかね?』デイル・ドーテン

 かもしれない。 この本が書かれたのはアメリカなんだが。

”退屈”と”不安”という双子…と言われている。 が、これが豊かさでなくて一体何なんだ?!

結局は、「したくない仕事なら、しなかったらいいんじゃん」ということに落ち着かないか? 

不安が勝れば、それは”したい仕事”であり、”退屈な仕事”ではなくなる。やらせてもらえるだけありがたい仕事になるわけで。

適材適所はやりたい仕事をやることから始まるのではないだろうか?

ということは、適材適所を与えられるもの、と感じている限り、適材適所は成立しない。MBAホルダーが会社を去るのは論理的に叶ったことなのだ。やりたくない仕事はやらなくていいのだからして。まぁ去るときには社費留学ならその分は返済すべきと思うが。

やっぱり ”変える” ことより、”変わる” ことのほうが重要なんじゃないか?

残るは”やりたくない仕事を去る不安”なんだが・・・1人で去るのが不安と言うのなら、大きな社会的潮流にするには結束しかない。

ならどうだろう? MBA一揆でも起こしてみたら・・・・


ネットの可能性 PostSecret

2012-10-11 20:51:22 | ビジネス
先日NHKでPostSecretを考案した男性のスピーチをやっていました。

ポストシークレットとは?

ーーーーーーーーーーーーー
Frank Warrenが2004年に実験的に始めたオンライン・コミュニティー・アート・プロジェクト。「匿名であなたの秘密を教えて下さい」と書かれた葉書を街中で見知らぬ人に配った事から始まった。
ーーーーーーーーーーーーーーhttp://www.kanshin.com/keyword/1236553 より引用。
ウェブが大きなアートプロジェクトになった事例…。

そのものはここで見れます。

やっぱりウェブ、ネットなんて道具なんだから、道具は使う人次第なんだなと思いました。

実は知られていない面白いウェブサイトいっぱいあるんでしょうね。日本は日本語と言う壁に取り囲まれているので少々世界的にみると不利です…

それはいかんともしがたいですが… 

■ Jango

最近インターネットラジオにつながるチューナーアンプを買ったので、パソコンから接続する必要がなく、やっていませんが…

ネットを使った面白い試みとしてはJangoがおススメです。以前記事を書きました。

これは新人アーティストに投票する代わりに、自分の好きな楽曲をラジオで聞けるというもの…

新人アーティストは自分の曲を聞いてもらえる機会と評価される機会を得ることができます。

なかなか面白い仕組みでしょう?

今では、有名な曲であれば、リリック(歌詞)もダウンロードできます。

日陰のリーダーシップ

2012-10-06 10:49:34 | ビジネス
ある定義によると、リーダーシップとは「共同体の利益のために奉仕すること」だそうです。これは正しいのですが、表現として難しすぎます…
これでは実は誰だってリーダーシップが取れるということが感じられません。

リーダーシップはごくごく小さな行動の中にも現れます。
それをここでは書きたいと思います。

(なぜなら、英雄型のリーダーシップ以外に想像がつかない人が多いからです)

■ 指定席のリーダーシップ(笑)

先日は中央線で指定席を取って東京に向かいました。指定席を取るときは、いつも機械任せにせずに、一番空いている車両を選び、さらに前後に空席が一番多い場所で、その窓側を取ります。席はペアシートなのですが、満席にならない限り、となりに誰か座ることはめったにありません。

まさか指定席を取るのに混んでいる車両や一人旅なのにペアシートに見知らぬ誰かと2人で座るなど、不利な席へわざわざ座りたい人はいませんね?

この日も8号車は空いており、私が取った席の前後2列は誰も座る人がおらず、5列並んだペアシート空席で、真ん中の列の一番窓側を取ったのでした。
なので私の隣は空くはずでした。

というわけで、快適な列車の旅は約束されたものと思って乗り込みました。
仮に私の後から指定席を取った人がいたとしても、前か後ろかのペアシートの一席を取り、一人ひとりはパーソナルスペースを維持できるでしょう・・・

ところが…この日は不思議なことに、私の隣に、サラリーマンがやってきたのです。あら~ なんで…

前述の通り、前後は2列とも誰も座っていません。そんな中、彼は私の隣の通路側の不利な席に。

私は空いているものと荷物を置いていたので、驚いて「ここですか?!」というと返事もなく黙ってうなづくだけでした。見るからに疲れた様子の人でした。きっとハイとかすみません、とかいうのも省エネ中なのでしょう。

甲府駅からは一駅先の山梨市駅では、あまり乗り降りする人はいません。そこからは先は停車駅は、八王子で、八王子は東京の電車圏内なので、特急を利用する人はさらにいないのです。

なので、私は山梨市駅で前の席に座る人がいないのを確認すると、そこへ自分から移動しました。

これが日陰のリーダーシップです。

だって彼にとっても私にとっても、他にも席が空いている状態で窮屈にお隣同士座っているメリットって何でしょう?

この方は考えることも出来ず、10Aではなく11Aに座っているために車掌さんに聞かれる「切符拝見できますか?移動をお願いすることがありませんがよろしいですか?」の尋問(笑)に耐える精神的ゆとりも持ち合わせていなかったのでしょう。

むろん、私が移動したので、窓側に座ればいいのに、それも彼は出来ないようでした…ずっと通路側に座り、むっつり目を閉じていました。

私には日本人の思考停止癖はこんな些細な現実を自分で処理することもできないまでに麻痺してしまったのだと思えました。

あるいは彼は貴重な成長のチャンスを逃したのかもしれません。何しろこの日ほど
移動した先に誰かが座るなど考えなくても良い列車はなく、案の定私は特に問題もなく、移動した先の席で快適な旅を満喫していたのですから(笑)

彼にちょっとした勇気と合理思考があれば、「じゃ私は前の席に座っていますね」と一言、言えば済んだことだったのです…。どっちが移動しても同じことですから。

いえるのは彼は、私にリーダーシップを発揮してもらったのだとは夢にも思っていないだろうということです。でも私は自分のリーダーシップを彼のために発揮してあげたのです。

■ ある小道のリーダーシップ

同じ日に帰り道、電車沿いの細い道を通りました。ここは自転車がたまに通るだけの細い道で、二人並んで歩けばもう一杯です。

前方から60代くらいのご夫婦が仲良く並んで歩いてきました。夕涼み兼散歩というところでしょうか…

ただ道の幅が2人分しかないので、このまま並んで歩いていると、私とぶつかります。

私は近づいてきたので、「どうしましょう?」と声をかけました。「どいてください」と言っても良かったのですが、もう少し感じ良くしたかったのです。

私は1人なのでどけようにもどうしようもありません。二人並んでいる側が一列になるしかない。

相手のお返事は…「どうしましょう?」でした。

仕方が無いので「一列になってください」と指示しました。私は年配の人に指示するのは嫌いなのです。

というか指示をしないといけない立場に今は追いやられているのでした。

この方達面白くて一列になれず、二人並んだままズレただけでした(笑)だから、私は2人の間を縫うように通り抜けることになりました。まぁいいけど…並んで歩いているときに間を通り抜けられるのは嫌ではありませんかね?私はいやですが…

このように「どうするべきか?が明らかな」状況であっても、指示を必要とするほど、日本人の頭の中はフリーズしてしまっているんだなぁ~と感慨深いものがありました。思考停止もここまで来ると重症ですね。


■ あるボランティアで起きていたこと

サンフランシスコにいた頃、日赤でもボランティアをしようとしたことがありました。

簡単なボランティアで、検診だか、注射だか忘れましたが、体育館のような広い場所で机を並べるというものでした。肉体労働のボランティアですね。

行ってみて驚いたのが、机を並べるというだけに、”どこに何のために”が伝達されていないことです。なので、”いくつの机をどう”並べるかが決定できません。

私以外はみんな中国の人で、結局、終いには口論と争いが始まっているのでした…幸いにも私には中国語は理解できないのでしたが…お手伝いに行ったつもりなのに、もうびっくりです。

仕方が無いので、私はボランティアオフィスに戻り、アメリカ人に、机をどう並べたいのか聞き、そのレイアウトを紙に書いてから、現場に戻り、紙だけ置いて帰りました。

それからは二度とそのボランティアには参加しませんでした(笑)。

■ リーダーシップとは?

私は、これらの3つの出来事のどれでも、自分のリーダーシップを発揮したと思っています。

それは、「全体のメリット」を考えて、一番適切な行動をした、と思うからです。

リーダーシップって言うのは、誰かに命令したり、人を率いて何かを実行したりするものだけではありません。

日本の人はリーダーシップを最近は誤解していて、強くて頼りになる人を求めます。それは、求めているのはリーダーじゃなくて依存です。

本当は強くて頼りになる人なんてイラナイのです。頼りになったら頼りにしてしまい、自分で考えなくなるからです。 

むしろ必要なのは弱くてもいいから、みんなのことをじぶんのことより 先に考えてくれるリーダーです。そうであれば、足りない力はみんなが出し合ってくれるのです。

昔、学級委員をしているときは、朝早く学校に行くと、校長先生がいつも校庭を掃いていました。

誰も居ない朝の学校はとても静かで、皆が来る前に私はクラスの窓を開けるのが好きでした。新しい空気を入れ、黒板消しを掃除し、教壇を整頓したり、張り紙のちょっとした歪みや折れて先のなくなっている押しピンなんかを掃除し、きれいに机がピシッと並んでいるととてもすがすがしい…

そして、先生に会いに職員室へ行くと、もう先生達はついていて、「今日の連絡はありますか」と聞くとたいていは「何もありません」です。 でもみんなが朝の支度でヤル気に満ちているのでした。

たぶん、学級委員でそんなことをやっていたのは私だけのようでしたが…当時は
他のクラスの学級委員が何をやっているかなんて、気にしたこともなかったんですよね。

それはバレエを観るようになって思うのですが…舞台の幕が開ける前と少し似ています。チャイムが近づくほど、やるべきことが明らかになっていく。

「みんなのために」「手伝うことは何かありますか」

それがリーダーシップの本質だと思います。 

ウェブの進化? 

2012-10-03 12:10:20 | ビジネス
ウェブの進化というのは、説明しても、例えば、TVをみたことがない人に文字列でテレビを説明したところで、単なる奇想天外な作り話に聞こえるのと同じことでちょっと難しいですね。

「それは黒い板である。厚みは約10センチほど。その黒い板には紐がついており、電流をその紐に流すと、様々な映像が表示され、音が聞こえる」

「人々は毎夜その前に座り、1~2時間、人によっては何時間もその絵を見て過ごす」

「そこに写される映像により人々は世界とつながっていると感じることが出来る」

どうです? なんか怪しげなカルトでは?

同じことでウェブなどというもの、テクノロジーと言うものの本質は、知らない人に聞かせたらカルトです…たぶん。

ここにウェブの進化を説明したサイトを見つけましたが…

http://www.evolutionoftheweb.com/?hl=ja

ここにはそもそもインターネットは、軍事用に開発されたことが書かれていません。

一つのコンピュータが集中して仕事をしていると、そのコンピュータが攻撃されたら負けてしまいます。なので、全体に機能を分散したのがインターネットの始まりです。(教科書に載っている有名な話)

それにこの表では1980年代より前がない…インターネットはもっと前からあったしな。起源は1960年代に遡る。既に長い歴史を持つ仕組みなのだ。

最近出てきたものと思っている人は実は自分より古いシステムかもしれないのに知らなかっただけ。今は爆発的な普及期に入ってしまい、誰もが使うようになったけれど、私が大学に入学した頃はEメールは図書館でバイトしている私だけの特権でした。ブラウザもネットスケープとかだし…。20年前。よく接続するバイトしていました。

今ウェブ、ウェブと言っているのはWWWのネットワークのことです。だからブラウザ技術だけになるから、インターネットそのものの起源は書いていないのでしょうか?

EメールはTelnetというプロトコルを黒い画面に叩き込んでやっていたし、GUIといって今見ているような画面が出来たのはウィンドウズ95以来です…たかだか20年です。ウェブはWWWというプロトコル(こういう風にやり取りしましょうという決まり)でやりますが、別にプロトコルはWWWだけでなく、ファイル交換のFTPだってあるし…ブラウザはWWWというプロトコルを表示するソフトに過ぎません。

要するに言いたいのは、ウェブはネットの一部分でしかないです。まぁいいけど…普通の人の目に9割はウェブがブラウザなのですから、大体はあらわしていると思うので。

このところ目を見張るのは閲覧数の急増ですね。 こんなに急増しているのはやはりメモリが安くなったせいですね。ムーアの法則です。

「半導体の集積密度は18~24ヶ月で倍増する」という法則。

要するに半導体(メモリ)の性能は倍倍ゲームで向上し安くなる、しまいにはメーターで計量しないでいいほど安くなる。限りなく無料に近くなる。

ってわけですね。

指数関数的に進化する世界では、ほんのちょっと立ち止まるだけのことが、大昔に置いてきぼりを食うことになります。

■ 子供世界はコミュニケーション狂い 仲間の承認が何より大事

子供達が携帯でツイッターだのフェイスブックだの、SMSだの現を抜かしているのが人格形成に気になる人は、技術に八つ当たりシテイマス。

昔私は男の子の親友と5時間も6時間も耳が痛くなるまで電話して母親に莫大な電話代の請求書が来ました。(あっちの家も) 要するに手段が向上しただけで同じことです。コミュニケーションしているだけ。

だからといって電話が世の中から無くなればいいとは極論でしょう。

去年はオーストラリアの知人の娘さんがSNS中毒だといって友人が嘆いていました。
オーストラリアではまだ日本のように定量制が普及していないので莫大な通信料になったんだそうです(笑)

そんなのむかーしからティーンネイジャーはやっていることです。若者はお互いを知り合うのに、莫大な通信料を必要とする…それだけ。

”インターネットがけしからん論”は、ローマ時代の人々が「近頃の若者は」と嘆いていたのと同じことです。

親である自分自身が、向上しハイテクした手段についていけなくなった(もしくはついていく努力を放棄した)ことを、八つ当たりしているのです。

そーんな暇人な愚痴を言っている暇があったら、ネットでやったことがないことにトライするほうがいいです。

例えば、特定の人だけに一斉メールを送るとか(BCCじゃありありませんよ?)
特定の人だけが見れる写真サイトをオープンするとか。
同じ好奇心を持つ人だけが集まるグループをフェイスブックに立ち上げるとか。

一体一 ではなく、一体多。 多体多だって可能なのがこの世界なのです。

おそらくこうした技術の進歩についていくのを諦めたり敵視したりする心情は、

・怠惰
・恐怖
・自己防衛 

です。そういう人には「怖くない怖くない。電話と同じ電話と同じ」という呪文を唱えるのをおススメします。

PS 夫の実家のお父さんは80過ぎです。でもネットもメールも平気です。毎日パソコンしているようです。小学校時代の同級生と仲良くするために。
仮に60代と仮定して、今通信技術をアップデートしないことは今後20年間、多大な不利をこうむることになります。

つまりプッシュホンに電話が切り替わったときにダイヤルに固執し、携帯になったときに固定電話に固執し、メールが普及したときにFaxに固執した人々と同じ末路がすでに想像できます。諦めるにはその不利を受容する必要がありますが…20年は長すぎやしないでしょうか。







ソフトウェア開発とカタストロフィ

2012-09-28 07:58:15 | ビジネス
昨日は夫が11時過ぎても帰ってこないので、さぞかし疲れて帰ってくるだろうと待っていたら、ものすごく楽しそうに帰ってきました。会社で意気投合しておしゃべりして帰ってきたそうです。どこで?と聞くと休憩室で立ち話。

それはよかった、と私も嬉しくなりました。自分の思いを共有できる人に出合ったんだろうな。

夫の仕事はソフトウェア開発です。と言っても、機械の中に組み込まれるソフトウェアなので組み込み系と呼ばれ、不特定多数の人がどんな使い方をするか分からないパーソナルコンピュータのソフトウェアとは根本的に用途が違います。機械を動かすためのソフトウェアなのでソフトウェア利用者は機械。

機械のソフトウェアは例えるなら、その機械の中に一つの別の宇宙を持っているようなものですね。PCとはOSから何から違いますから。

「今はでっかい絆創膏をあてがうことになっているから」
「絆創膏もシステム化されているんだけどね」
「理想が無いから品質が悪くなる」
「なんでみんな長い時間仕事したいんだろう?」
「先にちゃんと設計思想があれば、設計に3ヶ月掛かったとしても残り9ヶ月じゃなくて8ヶ月で終れたりするじゃん?」
「でもそうしないんだなぁ。何でだろ?今はなし崩しに20ヶ月掛かってる」

「この仕事はおもしろいんだよ?品質と納期さえ守っていれば後は自分の好きにしていいんだよ?」
「なんで今の若い人はこういうの作りたいってのがないんだろう?」
「最初にちょっと考えるより、みんな延々と奴隷労働するみたいに働くほうを選ぶんだ」

これは日本社会を凝縮して再現していますね。

ソフトウェア開発では何らかのソフトウェアの欠陥が見つかるとパッチと言って修正プログラムを作ります。

そのパッチが絆創膏なのですが、今では、ソフトウェアを格納するためのメモリ領域が巨大で無料に近い格安になったので(『Free』という書籍に詳しい)、間違いがないプログラムを書くより、間違ってから修正プログラムをどんどん作る、と言う流れになっており、本体よりも絆創膏がでかい、なんてことに(汗)。

ところが、絆創膏は対処療法なので対処しているだけで、きりがないんですね。パッチのパッチなんて良くあること。そしてパッチのパッチを充て始めると、なんともやりきれない感があります。つまりパッチが間違っているってわけですね。エンドレスにパッチ…パッチのパッチのパッチ… 嘘の上塗りが支離滅裂化するのと似ている(笑)?

そうしていると仕事はエンドレスに続きますが、達成感があるわけがない。永遠のいたちごっこです。

さらにそれが昨今ではシステム化(つまり手順化)されているため、大きな根本原因が分かった時点では、影響する範囲が広大過ぎて時既に遅し、で、その根本原因を解決する労力と別のパッチを充てながら生きながらえさせる労力を天秤にかけると、後者が勝つために結局は根本原因を解決しないまま、引きづるのです。停められない暴走列車に似ています。

そのような仕事をそういうものだと思って受け入れる人々…あるいはむしろそれを好む人々…は、仕事に喜びも見出せず、創造性も発揮できず、ただどれだけ長い時間をかけても終わらないパッチ充て作業に、諦めと徒労感をもって、奴隷のように取り組む。そこには人間の敗北があります。思考停止という名の絶望ですね。ただ長時間労働なのでお金にはなるんですけれども。

まるで南アの林道修復工事みたいです。「孫の代まで仕事がある」し「完成してもどこか他所が崩れる」のだから、基本エンドレスな修復が続く・・・から、のんびり。

「若い人って素直でいいね!」
「なんで?」
「だって、これぜーんぶやり直そう!って言ったら”はーい”だって。」
「それ年と関係ないんじゃない?」
「いやあるよ、年取ると頼んでも”え~面倒だから嫌だ”って言うんだよ」
「それ、年じゃなくて”めんどくさがり”なんじゃないの?」
「じゃ年を取ると面倒くさがりになるんだよ」

たしかにね~ めんどくさいというのは大量の処理を引き受けるということですが、私も開発部では若かったのでその辺りの力仕事の引き受け役だったよーな気がする。

しかし、ソフトウェア開発がこのようなパッチ地獄に陥ったのは、元を正せば、それもこれも

”メモリが安くなったから”。つまり”豊かになったから”。

無料に近い資源が供給されると人は無駄遣いを始める。それが結局は人間を間化したのです。

便利になった現代社会に置き換えると”生きている実感”が得られなくなったように。

ずいぶん昔の往時は、メモリが高価で貴重で、それこそ無駄がないコードを書ける人が神様だったのです。敬意を集め、なんとか近づこうと努力された。その方角にきちんと収斂していっていたのです。いうなればあるべき姿が見えていた。理想ですね。

そういう時代のソフトウェアは洗練されているゆえに非常に難しい。そして美しいと評されていました。美しいソフトを書ける人が偉かったんだな。それは、修行ととたしなみがある人以外読めなかったし、かけなかったんです。

今はソフトウェアは誰でも書ける世界になりました。大衆に門戸が開かれたけれど、誰でも書けるので、無駄で洗練されていないコードがあふれ、それゆえにパッチが必要になる。世間はパッチだらけ。

だけど元を正すと元凶は ”豊かさ”なのです。
そしてその豊かさの結果は、”人間生活の奴隷化”なのです。

メモリという資源は豊かになったのに、人間の時間と言う資源は浪費され、貧しくなった。

人間が自分の生活時間と言う主権を放棄して、安くてほとんど無料のメモリが生み出した肥大化したスパゲッティコードに人間労働を奉仕してつぎ込んでいる。まさに命をつぎ込むかのごとくです。

「ガラガラポンしたいんだけど、誰も怖くてできないんだよ」

必要なのは、カタスロフィーなんですかね。(カタストロフィは英語で”がらがらぽん”のことです。天変地異。)

ソフトウェア開発の世界に限らず、この人類が築いてきた世界全体が肥大化して行き詰まり現象を見せている現代…

カタストロフィが必要だ、だから、起こる!と言っているのが ”2012年12月21日論”って感じですね。

奇妙な相似形現象。世界は相似形の集まりなのでしょうか。


求められるのはリーダーシップではなくメンバーシップ?

2012-09-27 20:45:29 | ビジネス
幻滅ということの生成に期待という成分が大いに役割を果たしていることに思いがいたりました。

期待があるところに幻滅がある。これは真理ですよね。

そして、幻滅の最たるところと言えば、政治でしょう。

期待とはある種の仮定です。ですから仮定(仮説)が間違っているのでは?というのは必ず成り立ちます。

然るに政治への幻滅と言うのはどういうことになるでしょう?

私たちの間に幻滅が蔓延して長いということは、政治や行政(国)に対する期待という仮説が間違っているということなのでしょうか?

期待がなければ、幻滅もしないのではないか?

それでは何があったらいいのでしょう? 

日本の政治は常に親子関係を連想させます…親を慕う子の立場を常に想定している国民…大将に従う臣下を期待している国民…そもそもそこが前時代的で時代錯誤なのでは?

リーダーシップ不在の時代と言われて久しいですが、リーダーシップが不在ならば、リーダーシップを期待しなければ良いこと。今こそ求められるリーダーってなんだかうそ臭い(笑)。 

むしろリアリティのある解としては、行政や政治には、期待ではなく、監視のまなざしをあてがうべきなのではないか? つまりメンバーシップの向上ですね。

という思いを持つのは別に日本に限ったことではなく世界中の市民が同じ思いをしていると思われます。権力は必ず腐るからです。どんな立派なリーダーもクロではないだけましなだけのグレーです。白くはない。

つまり、政治なんかは期待したり、当てにしたりするものではなく、他により良い仕組みが存在しないのだから、まったくゼロよりはまし、という程度のものなのではないでしょうか?。

”ないよりまし”が、”あると有害”に変容しないよう、なすべきは期待ではなく、監視なのかもしれませんね。

つまり期待という仮説をひっくり返して考えてみる。期待しないのだから、管理者、コントロールはこちら側にあります。

英語に有名な子育てクリシェがあります。Children should be seen, not heard.(子供は見よ、聞くな)

同じように政治も The government(leaders) should be seen, not heard.

政治(行政)は、聞くべき対象として認知するのではなく、見るべき対象として考えるべきなのでしょう。

相手が進化しないことを嘆くより、こちらが進化する。それなら幻滅と言う脱力モードに入らずに済みます。

これを思うときに思い出すのは、オープンソースという開発手法です。いいですよねぇ、政治や行政がオープンソース開発だったら…夢想するとふふふと思わずにはいられない(笑)

リーダーシップの終焉とメンバーシップの拡大は、集中システムから分散システムへの進化を連想させます。まさに時代は分散化。知が頭脳ではなく全身にある時代。

実際そうなりつつあると思うんですけどね…



犯罪の境界が甘いんです、日本は。

2012-09-14 10:01:37 | ビジネス
■ イジメと犯罪と集団黙認

最近イジメのニュースが絶えません…

イジメという言葉に飼いならされてしまった感がありますが…

殴る&蹴る は もはやイジメではありません! 暴行は犯罪です!!

犯罪とイジメの境界線が、学校と言う治外法権の場で、あいまいになっています。

これは日本を開戦に導いた旧日本軍のメンタリティと一緒です!!!

閉じた集団の中で、イジメという名の犯罪が黙認される → エスカレートする。

大体、畳の上にこぼれた水を飲ませるなんてものは…一体この子供達は何をみてこんな仕打ちを覚えたのでしょう?!

既に人ではありません。畜生です。歩いている道は人の道ではなく、畜生道です…。
子供にはホームレスを毛嫌いするよう、にではなく、同情するように教えましょう。

■ イジメ

イジメには、立ち向かいましょう!

相手の中に間を見たら、とっとと逃げましょう!もう、その人は人間ではありません。理性での話し合いなどありません。

中にあるのは、ただの”相手を打ちのめしたい”という衝動のみです。

イジメを見たらイジメめられている人の味方になりましょう!

その人と一緒に逃げ、生涯の友情を築きましょう!

命の恩人という言葉がありますが、人間、みんな友達が命の恩人です!! 命の恩人が多ければ多いほど豊かな人生です!!!

■ アチラ側の人

イジメる人は”アチラ側の人”です。 これは便宜上”アチラ側”という言葉でくくっています。

アチラ側の人というのは、人間性の中にそもそもある凶暴性が、遺伝的な形質異常の一種と環境(愛されない環境、孤独な環境、他の人間との付き合い方を学べない環境)などの要因で開花してしまった人のことです。

動物の本(『動物感覚』テンプル・グランディン)によると、動物の場合ですが、一旦凶暴になってしまった動物(オス)には、どのような矯正プログラムを施しても、矯正できることはほとんどないそうです。

動物がそうなのですから、人間がそうでない理由がどこにあるでしょう?
それはもう半ば生まれつきなのです。

つまり更正の見込みは限りなく小さいです。まして、今このとき、そのような凶暴な仕業を平気でしているのを説得などで納得させられるはずがありません!

ということで、とっとと逃げる。そして二度と前に現れないのが懸命です。この際、命がかかっているのですから、学校教育なんか二の次にしましょう!

■ 犯罪に寛容な日本

日本は、実は、アメリカなんかと比べて、犯罪に寛容な文化です… たぶん、権利ではなく、恥の文化で、その恥感覚が失われたからですね。

アメリカで、子供に対する体罰なんかは公共の場で一切ありえません。学校が生徒をぶつなど一切ゼロです。(その代わり家庭内暴力DVはあります)

親が子供をぶつということも、かなり否定されています(ちなみにぶつことをスパンキングといいます)。性犯罪も同様。

一方、日本は、しつけと言う名で、許容されています。また性犯罪についても甘く、それは夜這いが許されていた文化的背景があるようです。

性犯罪については親の認識が日本では甘く、特に男親は自分の娘がまさか標的になるとは思っていません。が実際は多くの女の子が標的になっています。

男の子にとっては同級生である同性のオスからのイジメ、女の子にとっては年長の異性のオスに狙われれる。

男の子 : 同性のオスからの攻撃
女の子 : 異性のオスからの攻撃

これは、どちらもオスの凶暴性のはけ口になっているという点で同じ現象です。集団(群れ)の中の一番弱そうな個体に凶暴性がむけられるのです。

■ 事例集

下記は、通り一遍、10人並みの容姿の女の子が、20代になるまでに経験した性犯罪の色々です(私の実体験)。

その① 小学生へのナンパ
小学生6年のときナンパは茶飯事でした。バスを待っていたら、「バイクに乗せていってあげるよ」&「車で家まで乗せていってあげるよ」は茶飯事。買い物していたら「重いから持って行ってあげるよ」などなど。乗ったらレイプされるでしょう。あ~ヤバイヤバイ。良い子は「結構です!」と言ってやりましょう。
これは仮にナンパに失敗しても、「親切で言っただけです」という逃げ道があるから相手はやりやすいのです。知り合いでも1対1では乗るべきではありません。
その際は、バスに乗るんではなく、降りる人を待っているんです、などテキトーにあしらいましょう。

その② 中学テニス部への覗き痴漢。
これは近所のオジサンでした。テニス部の部室はただのブロック塀。上のほうに小窓がついており、そこでおじさんは着替えの覗きをしていたそうです。この人、水泳の着替え部屋も覗いていたそうです。 警察には届けられませんでした。

その③ 中学通学時の痴漢&露出狂 
中学ではある日から集団下校…あるいは、帰りの方角が同じ男子の生徒が送るか、先生に車で送ってもらう。はーっ(溜息)!!これは田んぼで痴漢が出たからです、田んぼですよ? 

その④ 電車での露出狂
女子高、女子大、のある沿線は多発地帯。撃退のコツは、けっ!って感じに笑ってやること。何がおもしろいんだ? やつらは絶対病んでいる!けど多いです。
3ヶ月に一回くらいの頻度でいます。混んでない電車にいます。

その⑤ 大学での覗き痴漢
学内のトイレで、男子学生による小型カメラ設置。こやつは警察署にしょっ引かれるべきなのに”将来”とやらのために無罪放免となった。ゆるせん!
これは部長、課長クラスのリーダーの判断…もっと上まで情報があがれば違うかもしれませんが、日本では、低レベルで握りつぶされます。
きっと握りつぶすタイプのリーダーは痴漢に共感し、自分には娘がいないのでしょう。

その⑥ 援助交際の申し出 
中学生にたいし、コンビニで「1回3万円でどう?」
大学生に対し、「月2回で15万!どうだ!!」 バナナじゃないんですから…
日本人って犯罪に、犯罪じゃなさそうな名前をつけるのが上手ですよねぇ。
援助交際は売春です。つまり買春の申し出です。恥を知るべし。

その⑦ 下着泥棒
4人家族の実家にて。男物の存在も無効。 
女性は1Fではなく2F以上に住んだほうが良い。1人暮らしの女性は鍵を安易に
あけてはいけない。

その⑧ 痴漢
自転車などに乗っている男性が近づいてきたら、振り返るべし。1m以上離れるべし。追い抜きざまに痴漢する人がいます。胸を握るとか。

その⑨ 夜這い?
中学のある夜、おなかの辺りにひやりとするものを感じて、飛び起きたら、弟の同級生がそこにいた!ちなみに私は2段ベッドの下で寝ており、弟は上で寝ていた。なんであんたがここにいるのよ?!

これはぜーんぶ、日本社会では容認されています。アメリカじゃ考えられないなー。警察沙汰。

アメリカでは女の子の親は子供を護るため、ズボンをはかせています。特に美少女は要注意です。5,6歳の幼児でも最近は対象になりますから、子供が大きくなるまでは、露出の少ない服を着せてあげるべきです。
日本では、高校生がミニスカートですが、アメリカじゃ考えられないですね。
高校生のミニスカは集団でやっているからなんとかなるけど…。

ちなみに、日本人が危険だ、危険だと言っているアメリカの、さらに危険だといわれるエリアに住んでいましたが、一切危険なことはなく(なぜなら白人と有色人種が対立しているだけで、日本人は有色人種の側に自動的に含まれるのです)、一言「Nice legs!」と通りがかりに褒められた以外は何事もありませんでした。ったく、どっちが危険よ!

基本的に、集団の中で自分の地位が確定されていない情緒不安定のオスの凶暴性のコントロールはほぼ不可能とみとめ、犯罪だとしているのはアメリカで、日本ではなあなあです。

だからパワハラとか警察官の性犯罪もまかり通っているのでしょう。

お客様相談室&顧客ロイヤリティ喪失

2012-09-12 14:16:55 | ビジネス
■ダイソン 延命…

ウチのダイソンDC05君、延命されることになりました。

DC05はリコール対象商品でした…(汗)
そのリコール部品と非常に近いところでしたが、違うパーツが壊れてパイプ交換となりました。

残念なのはカラーが非常にミスマッチになってしまうこと。 


でもこのダイソン君、既に使い始めて、7年ほどなのです。

我が家としては買い換えてもいいが、掃除機としての性能はまったく衰えておらず、ぜんぜん現役・・・もったいないなぁという訳です。

買い換えるとしたらパナソニックの同じくサイクロン式かダイソンかどちらかだな~と思っていました。ダイソンは価格が高いのです。なかなか下がらない。

■ 先入観が作る現実

しかし、ダイソンのお客様相談室にメールで問い合わせたら最初は「修理交換は電話で賜っています」という内容のメールが来て、カチンと来ました。 

私も怒りやすい性格なのは直したほうがいいのですが、そのメアドはJapanHelpLineなのです。電話しかお客様相談室じゃないんなら、ヘルプラインって名前にしなきゃいいじゃん!! とわざわざネットで調べてからメールしていたので腹が立ちました…。

パイプのプラスチック接合部が割れているなんて、写真見ないでどうやって説明するの? 電話では伝わらないからメールしています!と言ったら、次はちゃんとメールで対応してくれました。ちょっと強めに言ったから逆にビビらせたかもしれません。

うーん…最初からこれどうしたらよいでしょう?と写真を添付したのに。電話だと写真は添付できない。誤解が生まれる。これは海外とのやり取りで経験したことです。海外との仕事はいかに相手が言わんとすることを理解するかのプロセスでメールとか電話は手段に過ぎません。手段にこだわっていてはコミュニケーションできない…

ダイソンのお客様相談室は迅速で良く対応出来ていると思いますが、トラブルに対する対応ってその会社のあり方というよりも、

・相手を先入観で見ているところ
・誠意そのものがかけていてもうわべ上の言葉だけ丁寧であればいいでしょという感じ

が、そもそもお客様相談室の宿命のようで、好きになれません。

人を見たら鬼だと思え。のマイルド版。相談が来たらクレームだと思え。

その発想がただの相談んをホントにクレームを作り変えているような気がします。

丁寧な言葉も丁寧すぎて、慇懃無礼という言葉が脳裏に浮かぶ…。 

製品のシリアル番号が必要なのは普通のことなので”お手数ですが”は必要ではなく、”頂戴できますか”くらいでちょうどよいかとおもいますが・・・まぁ感性はそれぞれなので重箱の隅をほじくる気はありませんが。

まぁホントにエゴイズムのお客さんもいると思うのですが、あまりにへりくだるのも変な話です。

客とサービスの提供者は別に上下関係ではありませんから。  

まぁ結局は対応してくれたのですが、しかも、その対応もすばやかったですが、
私たちは確実にダイソンファン度が下がりました。

私たちは、基本的にダイソンが好きで、ダイソンDC05にも満足した客だったのです。けれど、今は前ほどファンでない。

結局ダイソンは延命されたものの… 

・音が大きい、
・日本の住宅には大きすぎる、

などのダイソン君の欠点をこれまで愛してきましたが…そのダイソン君も今では他の会社の追従努力によって、欠点が愛嬌でもアバタもエクボでもなく、欠点になってしまいました(><)

わざわざ大枚叩いて買わねばならないほどの性能差(あくまで他社との差)を提供しているとは思えないほど、他社製品が成長を遂げ…先駆者としての役割は終わったのだ…と感じさせられました。

結局は、しばらくよさそうな掃除機を研究する時間を交換ホース代金で買った、ということになりました。

■ もっとよい関係

ダイソンはこの取引で得したのか? 

もしこの顧客対応が、「ダイソンファンの維持」を目的としていたら、私たちは充分ダイソン05を愛用したので、これと同じか以上の性能がある後継機の案内があれば、たぶん購入に結びついたでしょう。

下取りといわないまでも、リコール部品を送らずに済むくらいの価格割引があれば、ダイソンのほうも不毛な保障持久マラソンに突入せずに済みます。

リコールというのはホントにお金がかかるんですよね。もうリコールではなくて
その製品を廃棄してもらって新しいのをあげたほうがいいくらい。

私たちは7年も使ったのだから、買い替えも止むなしと、最初からパーツがないだろう、というのは織り込み済みで、”相談”していたのですが…。

パーツを購入してリコール製品を使い続けても、使用者も幸せでなければ、メーカーだって何も得をしない。いわばLoseLoseの関係。

同じ結末になるにしても違う方法があったのであろうのに…と思わせる発想力に乏しい結末でした。

こうして顧客との絆を維持するチャンスを失っていくんだろうなぁ… 


例えば IssueとProblem

2012-08-02 06:14:57 | ビジネス
最近また思うのですが…日本語には1つしか訳語がなくて英語には複数の単語がある言葉には誤解が多い。

・Problem → 問題
・Issue → 問題

・Universe → 宇宙
・Space  → 宇宙

What's the problem? と What's the issue? では意味まったく違う。でも訳すと同じになってしまう。

What's the problem? 「一体何が問題なの?」と言われると、日本語でも英語でも「問題とすべきでないのに、問題としているのが悪い」というニュアンスが生まれる。

英語では軽く言われた場合、「一体どうしたの?」「何か困っているの?」くらいの感じだ。

一方、What's the issue? では、「本題は何だ?」 議論がずれて、本題を外れ、見失ったときにちょっと待て、そもそも何を議論していたのか、本題に戻ろう、というときに使う。日本人にはIssueは何か?を考える癖がたぶん足りない。それは
Issueにピッタリの言葉がないからではないだろうか?

「生きとし生けるもの」は、Universeに含まれているが、Spaceには含まれていない。神が世界を創造したという場合の世界はWorldであってもよいがWorldはUniverseに含まれる。だからAnother world(あの世)はありうるが、Universeには外側が無い。でも日本語ではそれを表現する言葉が”この世”くらいしかない。天国と地獄では幼稚すぎる。で、結局新造語になる。

日本語で「宇宙」という場合、最初に思い起こされるのはSpaceで、SF映画で思い出される世界。だから、この世界に生きとし生けるもの、を表現している場合にUniverseを宇宙として訳すとなんだかどこかの新興宗教みたいに胡散臭くなってしまう。

ところがWorldはWorldで各国、という意味もあるし、この地球上生命のことしか表現できないし、と、帯に長し、たすきに短し、だ。

しかし、このような場合どうすべきかという合意が翻訳の世界にあるわけではなく、色々な翻訳の都合…例えばとりあえずざっと訳しあとで見直そう!という場合1単語に1語を与えていたほうがあとで編集したり遂行したりするときに楽であるとか…検索の都合…あるいは複数の訳者で訳しているときは、統一用語のほうが最終的に見直す場合楽だ…など…。

というわけで、結局、ちょっとニュアンスが違うような場合の見直し作業は翻訳の場合、訳している作業そのものより膨大な時間がかかる…となると、訳語のセレクションは非常にデリケートなのだ。

そのデリケートさに時間が掛かるため、結局は英語そのもので読んで理解
するほうが早い、ということになる。

うーん、翻訳力ってこのセレクションを一発でピッタリの言葉に置き換えることが出来る能力って気がする。

でもそれは語学力とはぜんぜん違うんだなぁ。


余りを分かち合えないシステム

2012-07-24 14:42:51 | ビジネス
今日もバラ園へ。ボランティアです。

あまりの暑さにバテて、ほんの1時間強の作業なのに作業時間くらいのお昼休憩を取ってバテていました。効率きわめて悪し。

実は、今日は朝4時と無駄に早起きしてしまい、その後、もう一度寝たら寝坊してしまった…。大急ぎでバラのボランティアに行きました。はね出しで大量にもらっている桃を持って…

■ 桃

この時期、山梨では桃は大量に余っています。

傍証その①
はね出しの桃を友人知人に分けようにも、「実はもうウチでも一杯もらっているの…」と困ったような顔で断られる具合。

傍証その②
昨日はいつも通る神社のお賽銭入れに「どうぞご自由にお持ちください」と書かれたはねだしの桃が。

傍証その③
南アルプスのほうでは、箱に詰まれた桃が大量に放棄してあるばかりか…防災無線で地域の価格が広報されているそうです(笑) 

つまり価格を守るために捨てられるんですね。

色々考えると、豊か過ぎることが問題なのであって足りないのではない。

有り余る豊かさ…そして、その豊かさを分かち合うのになんとも不適切なシステム… 

システムのせいで分かち合えないなんて、本末転倒のような??

桃、特急あずさで無料で配ったらいいんではないでしょうか?1人一個ノルマ(笑)。

あるいは芦安で登山者に無料で配るとか…


まず壊し、そして再生する

2012-07-03 18:50:38 | ビジネス
今日は雨。のんびり、借りてきた土木建築の雑誌をパラパラとめくっています。

こんな雑誌を読む人はおそらく土木建築の専門家だけだと思いますが…世界の在りようを如実に映し出していますねぇ…

隣り合う特集記事…「釧路湿原における自然再生事業」「ラオスの電化」「世界一の長大橋建設プロジェクト」…。

ラオスを電化する話と失われた自然再生事業が同時に載っているのは象徴的です。

まず壊し、そして再生する。

それではそもそも壊さなかったらいいのではないかと思うのは、先進国の欺瞞であり…それは、「電気が無かった村に初めて電灯が灯ったときの村民の喜びは筆舌に尽くしがたい…」から分かります。

こうした開発では、先進国のエンジニアが電化されていない地域に赴き、現地の人を巻き込みながら、電化していくわけです。先進国の人にとっては現在の自国では考えられないほどの感謝が得られ、喜びの大きい仕事です。昔は日本にも欧米のエンジニアが来て、電化なり、近代文明化なりしてくれたことなのでしょう。幸福をもらっているのは与えた側ですね。

今となっては日本が赴く側になり、それは恩返しです。 こうした記事では開発による自然破壊などネガティブ面はあまり伺えません。おそらく、そこはこうしたスタート地点では、ほとんど問題にならないような小さな障害に感じられるのでしょう。補って余り有るメリットがあれば、当然デメリットの評価は小さくなります。

一方で、釧路湿原はわが国最大の湿原で有るにもかかわらず、1920年から開発がスタートし、1947年からの航空写真による調査では1996年までの50年間(たったの!)で、200kmにわたる湿原の2割が消失したのだそうです。 壊れた自然を再生する事業は、すでに事業ですらありません。 やっていることは、

土砂流入の防止、植生の再生、湿原の再生、直線化された河川の蛇行を復元、環境教育、などなど… これらはデメリットなのですがこのなんという徒労感…なんというやるせない仕事でしょう…。

これは開発の初期にメリットとデメリットとして勘案されなければならなかったのにそれは出来なかったのです。なぜなら強力な喜びという名の麻酔で痛みはかき消されていたからです。

それが、まず壊して、そして再生する、という人間の有様ですね。

ところがこのものごとの流れは、別に土木建築や自然環境のみならず、どこにでもあります。

・まず太り、そして痩せようとする
・まず過剰に作り、そして廃棄に労力をかける
・まず汚し、そして浄化する
・まず問題を作り、そして解決する

しかし、それでも人類は「世界一の…」に向けて走り続けることを辞められない…欲望という名の電車というわけです。永遠のラットレースです。なぜなら問題を作り続けるのは自分自身だからです。

循環と共生という名の電車には、最初から問題がない。そうすると何が困るのか?人は一体何を恐れているのでしょう…

日本で製造業?

2012-06-12 10:07:36 | ビジネス
週末、旅行から帰ってきてふとTVを着けたら、NHKでトヨタの2次下請けの話をやっていた。
トヨタの国産車は需要が無くなり現地生産に切り替えるとかで、孫受けも海外移転を迫られていると。
TVのトーンは「中小企業が経営危機」

うーん、何で今頃? そんなのとっくの昔から超有名な話では?

■ 花形?製造業?

私は3年近く前は商社にいて新事業開発というのをやっていたのですが、柱は農業&自動車産業。

九州では大分に大きな自動車工場があり中国市場に近いことから日本で生産するに値する唯一の車
ハイブリッドカーの生産・輸出拠点になっており、中国の経済成長を背景に輸出量は年々増え
100万台どころか150万台を目差しているところでした。

が、アレってどこか冷めた熱でした。だって日本で二次産業は花形ではないでしょ。どう考えても。
ポジションとしてはキャッシュカウです。

特に車。この仕事をやっていた3年前でさえ、タタはいるし、現代は躍進中でしたし、肝心の
トヨタにしても円高のリスクヘッジでほとんどが現地生産。既に日本企業ではなく多国籍企業なのです。

■ 高いところで作っても安く売れるウルトラC級の技とは? 

地元には、「軽くてかさばる」系の部品の現地調達リクエストが根強くありました。
地元の鉄工所といえば製鉄系で自動車部品のような繊細なものは技術の蓄積が無く、
「かさばるものを愛知から持ってくるのはヤダ」という親会社の要求に答えられる企業は
ほぼ無く、あったとしてもこの時期の自動車産業に新規参入するのはどう考えても得策でない、と思われました。

というか、そもそも、人件費が販売市場より高い場所で生産することはかなり特殊なケースなの
ではないでしょうかね?ウルトラC級の技です。

そのウルトラCの中身はホントに超一流でした。トヨタが傘下企業を育てるのは、ほとんど内製品並み
でした。生産過程や在庫管理で指導し、「トヨタウェイ」を徹底。

子会社側はトヨタ向け以外の本業の効率も上がり、失うものがない。親会社は在庫リスクを子会社に転嫁できる。と双方WinWin。これはホントに日本が誇れる仕組みです。

■ 現地調達&現地生産

でもねぇ…当時からしょっちゅう、海外進出をそれとなく色々なところでほのめかしてきていたように思います。「○○経済セミナー」などなど。今思えばそういうセミナーに顔を出しているかいないかで
商売相手をふるいにかけていたのかもしれませんね。だって孫受けといえども、企業将来をおんぶにだっこでは経営センスなさすぎでしょう。何しろ大きな潮流は何十年も前から見えているのですし。

中小企業とはいえ、日本で作るとなんでも高いのです。その価格の高さは日本人から見たら安い。
同じ100万円でも日本では「たった?」海外では「高い~!」そりゃそうだ。自由貿易って言うのは
そういう話ですよね、もともと。輸入ってのはその逆を行くから利益が出るわけで。安いところで買って、高く売る。これ基本。

ですが、先進国の自動車業界は逆なのです。先進国で作って成長国に売る。

最初から苦しい土台にあります。トヨタは第二のGM予備軍…。

でもそれはカレコレ20年くらい前から分かっていたことですから。だから進めてきたのは現地調達&現地生産です。つまりグローバル化です。

工場があるのは低経済国ですから、現地で調達するのが一番コストが安くつく。となると現地に調達先企業が必要、というのは、ずいぶん前から分かっていたはずなんですよね。

■ ゆで蛙

TVで見ていたその中小企業の社長さんのあわてぶりは気の毒でしたが(いや気の毒でさえないかも
しれない…汗)、一介の市民でさえ、自動車や家電の製造業を輸出して栄えるという二次産業型の
経済構造は早晩に苦しくなるということが、時代の流れとして10年単位で見えている時代。

そんな時代に、いよいよ赤字を作ってから、それからあわてて海外進出しようとし、そのために管理職をリストラ、なんて経営者としては、単なる「ゆで蛙」だったとしかいいようがありません。

そんな話をしていると、夫が「てか、なんでこのオッサン、トヨタとしか仕事できないって思ってんの?」

うーん、だから彼が好きです。だよね~。夫は一介のエンジニアですが、エンジニアだけに指摘が
時々鋭いです。そう自立したらよかったんです。リスク分散。

部品であれ、何であれ、製品力があるというのならば、他のメーカーに売ったらいい。営業かけて。
トヨタ一社としか取引が無いから営業力が無い。製品も言われたものを言われた価格できっちり収める。それで今まで仕事になって社長とまで呼ばれていれたのだったら、もう充分この世の春を謳歌したところですね。アリとキリギリスならキリギリスでしょう…

■ 庶民はどう見るべきか?

ただこうした謳歌した人たちのゆで蛙ぶりの失態…の、トバッチリを受けるのは、常に被雇用者です。

この特集でも、社歴何十年というベテランの管理職が平社員に降格を受けていました。そりゃ
何も悪いコトしていないのに降格とは納得が行かないだろうなぁ。降格すべきは、違う人ですが。

これから先、日本の製造業ってどうなんでしょうかね…???

日本では製造業はグローバル化(現地調達・現地生産)するしか生き残る術はないと日本企業の多くは解を既に出しているように思います。

つまり、モノを売っているのではなく、日本的製品設計や事業の流し方、サプライチェーンの作り方
マーケティングなど、ハードではなく、日本的な製品作りというソフトウェアを売る

現に東南アジアでは欧米の白物より、日本製のほうが人気がある。やっぱり身体感覚というか、ボディ
サイズが違ったりしますし、欧米的な重厚感より、ちゃちでも良く働く働き者な家電が売れるっていう
のがあるのでしょう。

いかんせん、そうしたモノ作りの根幹に携わっていない、単純な組み立て工は日本では必要なくなります。現地生産では現地の人がやる仕事です。

一方、現地の人を管理したり、市場を作ったりする仕事は、日本では人気が少なく、今行っている人たちもけっこう嫌々ながら会社命令だから仕方なく行っているような人が多いのです。日本では地元志向が強いのです。(調査でそういう人たちを何回も現地企業訪問しました。歓待されます…笑)

こうした製造業のノウハウは今オーストラリアはのどから手が出るほど欲しがっていますから、
若い人はいっそ移民してしまうと思わぬ好待遇にニンマリできるかもしれません。何人かそういう人に会いました。自分自身はゲットし損ねました。

世の中には、機械をいじくるような手仕事が得意な人もいれば、人を管理するのが得意な人もいます。
一庶民としては、自分の適性を考えた職業が、自分の住む場所で一番高く評価される土地に住むのが
一番得策なわけですね。

日本では伝統的に、機械や工学部は人気があり出る人は多いです。その場合、廃れ行く運命にある
二次産業で、個人にとって課題はその得意をどう現在の状況で生かしていくか?です。

■ 偉くならないほうが楽しく生きれる?

この場合将来障害に成りうるのは、日本の会社の旧態依然とした人事評価システムです。

エンジニアなのにステップアップしていくと、どんどんと管理職に近づいて行きます。職務が変わるのに、しかしそのための教育はないのが普通です。欧米の会社だとどんな業界でも最初から専門職と管理職は別コースですから、専門職が管理職に移ることは基本なく、安心して仕事に打ち込めます。

最近、夫は何度も来ていた昇進を断りました。これ以上梯子の上がなく、コレを断ったら永久に
管理職とはオサラバです。ただ階段がなくなることは自明だったのと、打診は長年あったので、
経営学や人事系の本を彼の近所に転がしておきました。…が彼は一切関心が無い上、外部状況は最悪です。

彼の会社では管理職になるとむしろ短命です。社内の政治に振り回され、気に入ってくれた上司の風向きが変わっただけでリストラされた人、数知れず…。おまけに労働時間は増え、収入は下がる。これが前例。

逆にいえばコレだけのリスクとコストを払っても、管理職のタイトル、地位を得たかった人がこれまではたくさんいたということですね。えらくなりたい!を目標にやってくれる人が一杯いた。

でも私自身の昔の上司(50代)を見ても勤め先が一定の人はマネジメントには進んでいない人のほうが幸せそうです。一方私のソフトウェアの師匠は年収1000万プレーヤーですが、勤め先はプロジェクト毎に変わります。フリーエージェント化ですね。私自身も派遣労働者として働くほうが好きです。同じ会社だと仕事にそんなにバラエティがないので仕事に飽き成長がないからです。「いくらなら来てくれますか?」と言われ「タクシー通勤可」でした。

そういう風に時代は変化していますから、基本的に「どこか一つの会社にくっついて、最終的には
社長になって」という古典的出世コースを思い描くとアレレ?となります。が、どこがどうなっているのか大人になって社会を知るまでよく分からない、判然としないのも事実。

でも日本では二次産業は現地生産・現地調達だということは分かっています。

世界的には、一次産業 → 二次産業 → 三次産業 へと産業構造はシフトします。
オーストラリアは移民教育(大学)という第三次産業で栄えています。参考までに一番人気がある学部はマーケティングなどのクリエイティブ系学部です。観光業、飲食業も人気があり、地位も高いです。
日本とは対照的ですよね。

■ マスメディアの役目

私が特集を見ながら思ったのは、この特集は「失敗例を見せて戒める系」だということでした。

もしかして、もっと肯定的なTVの使い方は「成功例を見せて励ます系」ではないでしょうかね?

トヨタがグローバル化するに伴い、現地進出した先進的な下請け中小企業は数多くあったはずです。

それもすっかり出揃ってい要るのではないかと…そうした事例を、もっと早いタイミングで
引っ張ってくることが、マスメディアのやるべきことなのではないか?と思いました。








日本的曲解

2012-06-08 07:41:22 | ビジネス
私の両親は団塊世代でした。 団塊世代はアメリカへの憧れが強い。
母もチェゲバラのレコードをもっていたりし、父は智恵子抄を好んだと聞くから直球ド真ん中、団塊だ。

だから私の生活には最初からビートルズがあったし、家でシュークリーム焼きます、みたいな生活だった。しかしアメリカの、それもヒッピームーブメントの聖地みたいなサンフランシスコに行って、
「はぁ?聞いていた話とぜんぜん違うじゃない」と思いました。

私にインストールされたアメリカ的思想、自主・独立・自由は、アメリカでは保守に属するようでした。

アメリカでは極端な左は、何でも政府の保護をほしがる巨大福祉国家を目差す人たちで
それは平和とか、人権とか戦争に反対する、というLove&Peaceは、”自分が世界を愛す”話ではなくて、”政府が(あるいは社会が)自分を愛す”という話にすっかりすり代わっていました。
愛は、”連帯”という美名の下に”怠惰”を覆い隠すジャケットみたいなものでした。

彼らがいう愛とは、結局、5世代くらい前に白人の農場主にレイプされ生まれた混血(黒人・
ネイティブアメリカン、アジア人、問わず)の人たちにその保障として、優遇政策を与えよう!
とかそういう話でした。実際、私が住んでいた家では、レズビアンの母親と中学生の娘さんが
いたのですが、母親のほうにどこかでネイティブアメリカンの血が混じっているらしく、それを
証明しようとやっきになっていました。その年政策でリベラルが勝ち、混血を証明できれば
特別枠で高校に入学できるからです。(って、血筋が成績を決めるわけでないのに。)

まぁ私がいた95年ごろというのは、こうしたヘンテコな政策が山盛りの時代でした。
あくまで共通敵は、ホワイトでアングロサクソンで男性。 
(ところで、アメリカの良さはこうした政治事情をまったく選挙権の無い移民にまでも、議論させ
充分理解させ、擬似投票まで行わせることです)

っていうか私の目には、白昼堂々とマリファナが吸えたり(日本の煙草と同じで公然の法律)
レズなのに子供を持てたりする国は世界中でアメリカくらいなものではないかと思いましたが、人は
幸福になると、破滅的行為をするものなかもしれません。

ただ私が2年のアメリカ暮らしで気がついたことは、結局日本にアメリカ的、として輸入されている思想は基本的に本家本元とは似て非なるものだ、ということでした。

日本の歴史を見ると、明治や戦後に、一気に”外来文化”(といわれるもの)が流入した時期があります。

たとえば、林業では、明治にドイツ林業が、戦後に拡大造林が西洋の影響として数えられていますが
日本がお手本にしたドイツ林業が日本のように「山は木の畑」的な林業をしたかというとしていないし、「拡大造林」にしたって単一物カルチャー的な植林をしてその後放置するなんてことはどこの国でもやっていないわけです。それでも、これは日本が西洋的思想を取り入れたことの失敗として記憶されます。

あるいは、登山にしてもそうです。スポーツ登山は西洋から入ったとされていますが、元祖大本の
本家がやっているような、本格的なクライミングを出来る人なんて日本ではよほどの人だけです。

ついでにいうと、山岳会みたいな社会人サークル的な組織って海外では聞いたことないですが、あるんですかね?というか海外で大の大人がクラブ活動するってのは皆無にちかく、ぜんぜん聞きませんし。
近いのは大企業幹部クラスになったら避暑地などに呼ばれて、リーダーシップ研修兼レクレーションみたいなことはありますがそれは経営に関する発言権を持つようなほんの一部の人たちがやる活動で、ついでに妻帯者は妻同伴だし…日本でやる同質性を高めるための活動ってのは、海外では一般の人とはかなり無縁です。

ちょっと話がそれましたが、なんだか日本では、文化を輸入するとき、日本流に曲解して輸入しています。

ビジネスの世界でも成果主義だってそうでちょっと調べたら、個人的な遠謀や術数を避ける公平性を
目差した評価システムですが、日本では曲解して輸入され、自己監視・他者監視の人身磨り減らし術
でした。

どうも日本では「知らしむべからず」&「百姓は生かさぬように、殺さぬように」の精神が根強く
流れており、西洋の概念はうまいこと理念は骨抜きにされた上で「最新の考え方です!」という
レッテルだけが利用され(だったらとりいれねば成るまい)、問題が出たら、「西洋の思想のせいです」、とされる。

つまるところ、永遠に反省しないで済むメカニズムなわけです。

常に悪かったのは「アメリカ的発想」「西洋崇拝」「アメリカ型成果主義」などなど
そもそも取り入れた日本の誰か(お役人?)以外の人です。

ある意見なり考え方なりを採用するとき、採用する人がそれをジャッジメントして判断しているわけですから間違った考えをしてしまっても、発案者の責任ではない。日本では発案者が悪いことになり、
採用した人は、「だってこの考え方が良いとおもったから」で終わりです。良いと思ったんだったら
あなたの責任なんじゃないの???

逆に利用されている側である昔は百姓だった一般大衆は、そこを見抜けず、
「そうか、西洋の考えを取り入るのは失敗の元だ!」と基本的に本家本元とは似ても似つかない愚思想
だったことにさえ気がつかない。

本家の思想をそもそもとりれるのはたぶん日本を開放することなのです。それが曲解され利用されて
いるのでなければ。小泉さん路線で太ったのはお金持ちだけでしょう。そういうことです。
政府から提唱されている=たぶん大衆は利用されるだけのことです。

結局、社会は前進しないどころか、大衆はなんだか言いくるめられて前より隷属状況は悪くなったん
じゃないか?という状況にあるにもかかわらず、利用されているってこと事態に気がつかず、
「お上が」「行政が」「会社が」「補助金が」と自立せずに庇護を求める姿勢は、もうただおめでたいというように見えて仕方ありません。

そしてそうした自立の精神を持たない人たちがあたかも普通であるかのように報道される。同情心を煽る報道で、この人たちを助けなければ、と誰もに思わせ(つまるところ反論を許さず)結局税が吊り上げられるのでしょう。そしてその肝心の助けが必要な人たちには渡らず、あらたな利権で別の誰かがそのカネを得るのでしょう…。

歴史の大きな目で見ると、政策なるものは自作自演の出費でしかないことがほとんどなのかも。