ぶどうの皮むき

2015-04-04 22:10:05 | 自然と環境のこと
■ ぶどう畑にておもったこと
 
昨日は、幸せな日だった。午後からちょっとブドウ畑に呼ばれて、ぶどうの木の皮を向く手伝いをしていた。ブドウの木は古い角質のように、木の皮が厚くなり、そこに虫が卵を産み付けるのだそうだ。 
 
山では、木の枝一本拾っても、自然破壊と叱られる。でも、畑は、自然が向かう先にちょっと人間が介添えしてやると、自然界はそれに好意的に答えてくれる。そうやって自然と対話するのがうれしい。
 
甲府盆地は、日本のへそに位置するが、そこは巨大な日向で、ぽっかりと空いている。そのど真ん中、360度山がぐるりと見えるブドウ畑で、皮むきなんてやっていると、幸せがこみ上げてくる。いいなぁ~、ブドウの木を手入れする生活。家の中でTVを見ているのが幸福とはわたしには考えられないからなぁ。
 
欧米では庭仕事は癒しだと認識されている。住宅地ではフロントガーデンの手入れをしないと、条例違反になり、住宅地と言えば、それぞれの家が趣向を凝らした庭を披露しているのを眺めることができる。
 
以前、仕事で全米No3に豊かなカンザスのオーバーランドパークシティに行った時、同僚たちが「何もない」と苦情を言って、レストラン探しにすごく苦労させられた。が、そこは何もないのではなく、アメリカが描いた幸福の具現があるのだ。
 
安っぽいファミレスや商店類を敢えて拒絶し、美しい前庭が共演するように並ぶ、レンガ作りの、うっとりするほど、美しい家家が並ぶのだ。ゲートには門番がいて、部外者お断り。早朝にランニングしていると、美人でブロンドの奥さん連がいつも庭仕事していた。
 
おとぎの国のように美しく、森の中にたたずむ家々は、カンザスが、かつては何もない大草原、グレートプレーリーだったことなど、みじんにも感じさせない。乾燥から湿潤へ人間が、木を植えて作った、美しい土地だ。その計画は200年前の開国から始まって、入植者には、植林が義務付けられた。貧しく苦しい開拓生活は、こうして結実したのだ。おとぎの国になって。
 
山梨は、内陸性気候でカンザスに似ている。200年の計があれば、美しい森に囲まれて、小鳥のさえずりに目覚める生活も可能だったのだろう。
 
実際は、この国は、利便性、”便利”と狭量な権利意識に流れ、無計画に作られた道路脇に、スキマの無いほど、家がぎっしり並び、それらは、不便をきたすほど小さい。なおかつ、その4分の1は、もはや誰も住んでいない。それでも貸しに出さないから、賃料は大都会並みに高い。
 
オーバーストア状態で、空家店舗だらけなのにもかかわらず、人々はまだ、新しい店が必要だ、と勘違いしている。必要なのは店ではなく、お金で買えない価値なのだ。オーバーランドパークシティのような。
 
そういう世相の中で、お金で買えない価値を味わえた、ぶどう畑の皮むきだった

グリーン!

2012-10-10 10:40:01 | 自然と環境のこと
写真シリーズは調子に乗っています(^^)。

グリーンばかり集めてみました。 うーん、アナハタチャクラの瞑想に使えそう!



しかし、ホント写真データって溜まりに溜まりまくっていますね~。

だってこのサイトに乗せているのは実はほんの一部なのです…

樹シリーズです☆

2012-10-09 13:16:56 | 自然と環境のこと
なんだか勢いづいてきたので…(笑) 

今度は木のシリーズです。木というより樹という感じ。




樹には特別な思いを持って生きてきました。

子供の頃、私の樹、と思っていた木があり、その木が元気でいるから私も元気だそう!と思っていました。

我が家は団地だったのですが、1階の我が家からはちょっとした広場に出ることが
でき、そこにはイチョウの木がありました。月と銀杏。月も飽きることなく眺めました。

■ 樹木にも意識がある?

山を歩いていると、誰しも悠久の時を感じます… 人の時間は○○年。でも木の時間は○十年。場合によっては何百年… 

ところが地球はもっと長いタイムスケールで動いていて… 何億年とか、もう比較になりませんよね。

そういう長さで見ると、木だって自分の意思で歩いているように見えるんじゃないかと思ったりします。

意識は木の中にだってあって…ものすごく気が長いから、それを人間生活の中では意識があるものと捕らえる必要がないから、ないとされているだけで…

山に行くとそういう風に考えたりするので…やっぱり山に行く時間はSacredTimeですね。

ところで別の話題になりますが…仙骨って英語で Sacredなんですよね…神聖な骨ナノダ!

快晴シリーズ!

2012-10-09 07:26:54 | 自然と環境のこと
お山では晴れを待ちわびます。

神様がそんな私の願いに答えてくれたことは一度だけではないのに…雲の写真ばかりでは神様も拗ねてしまうでしょう…

ということで・・・

快晴シリーズ!


集めてみて分かったのですが、これは気持ちが高まります!ヤル気を出したいときに最適な画像なんですね~晴れって!


村おこしから

2012-09-10 09:44:56 | 自然と環境のこと
昨日はエネルギーが余って活動量が少ないのが、つらく、ダルく、珍しく大変な日でした。やっぱり山に行けばよかった!と思ったものの…

夫:「週末くらい家にいたい」&妻:「週末くらい出かけたい」という課題。
昨日は結局、温泉などいきたかったのですが、候補がなかった。でもちょうどよいことに「明日でかけましょう」というお誘いが入りました☆ 救いですね~(笑)。

だるさは夕食をワインと野菜にして、今日はスッキリしてきました。

■ 町おこし

先日会った友人が、住んでいる町の今後の展望を聞く会などに参加したそうで、そのときのレジュメを持ってきてくれました。内容は…典型的な箱物行政…といっても人口が○百人を切った過疎の町。市町村の統廃合で村役場もなくなっているのです。3町が一つになったその役場は今は古いものを使っているそうなのですが、それを新しく建設するのが目玉だそうです。へぇ~。それよりバスなんとかしてあげたら、と思いましたが。

パンフレットの表に出ている挿絵が…これまた。
アトムのような元気な男の子が、ビルを背景にした高速道路をまたいでいる絵で…こうしたパンフレットを作った人には深い考えがないでしょうが、まさにその深い考えのなさが、問題解決の程遠さを指し示します。

実はそこは山間部の過疎地の村なので、”戦後”の呪縛ともいえる、近代化=幸せの構図から抜け切れていない時代錯誤が透けてみえます。今はもう”戦後”ですらなく”震災後”なのに…。道路が出来たら幸せ、っていう時代感覚はまだ過疎の町では根強い。まるで復活しようとあがく自民党の亡霊のようです…

提示されていた村おこし案は、地元の特産品をジャムなどの加工品にし、雇用を創出、現金収入につなげよう、というものでした。

■ 日本の個人金融資産は世界一

いつも、あまり強調されない議論だなと思うのですが、そもそも、日本の個人金融資産はすごいですよね。国債の話はしても個人資産の話はしない。

幸福や人類の将来、あるいは町の将来を語る場合の、論点は実はもはや経済ではないんですよね。

無論、先ほどの山間部の村には、人もいなければカネもないと思いますが、だから何?そこに住む人が不幸か?不便ではあっても不幸ではないでしょう。

日本の個人金融資産は既に世界1です。一人当たり1100万円以上の金融資産がある。金融資産全額では人口の多いアメリカに負けますが、一人アタリではアメリカ人なんかよりうんと多いのです。

お金が欲しい、は、もう達成しちゃったんですよ。お金があれば幸せになれるはずだったのに。じゃ何がないんでしょう(笑)?

お金はあるけど、幸せそのものがない。

だからお金がある人をうらやんでも無意味です。金はあるけれどもまったく幸せそうでない人々をうらやましいわけがないわけだし…

その小さな山間の町は友人の冷静な観察によるところでは、今後衰退の一途を辿るであろうと。その町に留まる魅力はもとより、そもそもそこに住む理由がないと。たしかに…。

そうした山間の村はむかし世を追われて移り住んだ人が多いことで独自の文化をはぐくんだ歴史があったりしますが、その事実が当時から”追われでもしなきゃすまない不便な土地”であることを意味します。不便デフォルト(笑)不便を否定したら自分の村のアイデンティティそのものを否定することになる。

日本中で他にも住むべき良い土地があるなか、わざわざ支所がさえ消えそうな行政サービスゼロの町にすまなくても他にいくらでも良い候補がありそうです…

そんな風にして、歴史のある山間の小さな町が、今消えてなくならん、とする一方で…フクシマに住み続ける人もいる…

一体、何と何が天秤に掛けられているのか?いや”天秤”ではなくて、”選択と集中”かもしれませんね? 切り捨てられる町と投資される町。

■ 傲慢

先日、ネットイジメに合い、「高山植物の保護活動をするなんてあなたは傲慢です」と言われ、面くらいました。

傲慢とは色々な定義があるものだなぁ…と! 
私には内容を一切知らず傲慢だと決定付ける”自信”こそが傲慢と思えましたが…

それは単なる、相手を叩きのめしたいと言う欲求の表現、だったのです。

友人が住んでいる、その過疎の山村では、野生動物が人間の気配の消えた村に増え、村はだんだんと人間の領域ではなく、動物達の領域にもどりつつあるそうです。そういう場所に住むと、野生動物との付き合い方をよく知ることは死活問題ですね。海外に移住して、英語が話せないみたいなもんです。

友人はちょっと猟に興味があるそうでした。女ハンター誕生か(笑)というのも、彼女も含め私もですが、若い世代はお金がない…食べることが循環型にならないかな~というのはみんなの憧れです。

ただ友人はその村が人口を取り戻すことはないだろうと思うし、それも自然の流れではないか?ということでした。

基本的に足りないのは人口ではなくて労働力なので、都会の人にボランティア活動をしてもらうので充分なのではないでしょうかね。

こういうとき思い出すのは、「人間には自然が必要だが、自然には人間は必要でない」ということ…

高速道路も街も人がメンテナンスを辞めれば、自然の力が圧倒的な、水の豊かな温帯にある日本では10年もすればすっかりツタで覆われてジャングルみたいになります。自然復活。

自然の復活。それは人間が期待する、液晶アクオスが似合う知床みたいな、いうなれば美しい”良い子タイプ”の自然とは違うかもしれませんが(^^;)

■ 多様性=善?

自然が豊かになるというとき、その豊かさを計る指標そのものも実は人間の色眼鏡みたいです。

動植物の多様性(種の数が多い)ことこそが、豊かさだ、という議論があるので、一応、各文献をあたってみましたが、専門家の間では 多様性=良い とは結論付けられていないそうです。

無論、病気や災害などの撹乱には、喰う、喰われるのチェーンが長いほうがその生態系の輪としての強さは傾向としてアップするそうです。

ただそれは、生態系にはキーとなる重要な動植物がいて、一つが欠けたことが
全体に影響してしまう種もいれば、一種類が全滅しても他の動植物が代替機能を果たせる場合もあるのだとか。代替の利かない種をキーストーン種というのだそうです。そのキーストーン種が残存する確率が高いから。

■ 人としてあるべき姿の共通理解の喪失

自然が危ない一方で、人間そのものが壊れている現代…、人間ではなく自然を心配していれる人は実は幸せかもしれません。

人類という生態系は、今キーストーン種を失って、崩落しつつあるようにも見えます。

誰かが代替しようとしても代替がない、ある機能を担った人々の喪失…昔は道徳とか倫理とか言われ、人の生きるべき道やあるべき姿を指し示していた人や教え、人としていかにあるべきか?という伝統…その断絶。喪失。

人としてやってよいこと悪いことの指標…例えば公衆の面前で個人攻撃をしてはいけないとか、基本的なこと…が欠如した。

ニュースなんか見ていると14歳の少女にカネを握らせ裸にしておいて、「合意の上」なんだと…。溜息しか出ませんね。それは相手の無垢さに漬け込む、という行為のことです。そういうタイプの考え方は、私が見たところ日本のほうがアメリカより多い。でも日本人はそういう考え方はアメリカからきたのだと思っているのが不思議。

むしろ、日本人は長いものには巻かれるべきという自分自身に発しない道徳観なので西洋人の人がこれをやっては罪の意識に苦悩する、というシーンでも罪の意識は感じないようです。自分の内なる神には嘘をつけませんが、内なる神より周囲の圧力(ピアプレッシャー優位)です。そうするとその場はいいかもですが、ながながと苦しむことになると思いますがいいのでしょうか…そんな苦しい人生を送ることになっても…この「合意の上」タイプの人は。

そうした人が増えた、もともとの根源を辿ると…神職者の衰退であり、人としてどうあるべきかという共通の理解の欠如であり、それは、大元を正せば、自然を畏敬する、という起源ではなかったか?と思ったりします。

”自然”が歯ごたえ悪いならば、人間はNo1ではない、という知ではなかったか? 自分がすべてを知りうるはずはないという知ではなかったか?と思うのです。

つまり、それは”傲慢”の対極にある思想なのではなかったか?

まぁいわゆる世俗に魂を売ったようなラブホ併設のお寺みたいなものはいくらでも衰退してほしいんですけれども(^^;)

■ 意識の転換

(自分は知っていて、相手は知らないこと) → (知らない相手が悪い)&(相手は知るべきだ)

という意識は、

(自分は知っていて、相手は知らないこと)→ (自分が知っているのだからOK)&(相互補完)

と転換すると、新しい時代にマッチするようです。

誰しも自分と相似形の人は愛しい。そこにいることはラクだ。
けれども、実は人間社会は全体としてみたときには、もっとも異なる人ほど必要な相手だったりもする。

補完という発想。全体として一つがなりたついう発想。部分(個人)は全体から切り離すことはできないという発想。

補完。自分の成り立ちの一部である、”自分は含まれている”という意識。

■ 無知
 
人間は神ではない。ゆえにすべてを知り尽くすことが出来る人間などいない。
ゆえに自分自身もある分野では無知を免れない。ゆえに、だれかの無知を責めることは、自分の無知を棚にあげ、自分と無知なる人々とは違う、異なる、といっていることになる。自分は含まれていない。

世間に自分は含まれていないという意識が間違っていたことは、血と戦争の時代の20世紀の歴史が証明し…それより何より震災が証明しましたね…ごく最近。

原発推進論は自分はその因果応報に含まれていないと思っていないと出来ない。
しかし、実は死の灰は等しく降る。誰もがセシウムの洗礼を受ける。 

自分はみんな(世間)とは違う人種だ、という選民意識、”セパレーション”意識が大いに誤りであることを万人が理解した事件が震災でした。

しかし、その自分は違うという”分離”意識は、かわいそうにも…世間に”認められたい”のに”認められなかった”という過去の心の傷、苦痛の叫びから来ているのです…本当は。

世界にはやっぱり愛が足りない。 

満たされることが必要な人がここにも…というわけなのです。ただ自分を愛で満たしてくれるべき相手というのがおり、いくら相手違いの人から満たされてもその人は永遠に満たされない。

自分を愛で満たしてくれるべき最初の1人は自分です。

このことは名声があっても満たされていない人が多いことが逆説的に示していますよね。

他者依存症

2012-09-06 19:57:25 | 自然と環境のこと
今日はレンジャーの友人とデートをしていました。

勝沼はこの時期、葡萄で幸せな空間です。大地を埋め尽くすかのようなブドウ畑…には、ふっくらまん丸の葡萄の粒がたわわに実り、早く切ってあげないと気の毒なほどの重みでずっりしとしています。


葡萄は勝沼で買うと少し価格は高めですが…年に一回のことなのでよいかなと。


■ 都会の人、vs 田舎の人

田舎の人というと語弊がありますが、昔は里山だったというような山の際に住む人たちは、ご近所がワイルドネイチャーです。ゆえにワイルドライフも近い。

ワイルドライフと言えば、人間界と動物界の最前線です。 

山に行けば、野生動物には多少会いますが、普通の人が登山に行くような山は標高が高く、実は動植物相的には豊かではありません。というか植物も動物も住みにくい。だから神々しいわけですね。というわけでそこは前線ではない。

一方で動植物が豊かなのは里山的な山です。高い山なら山の麓。

そういうところに住むとなると、野生動物との対峙は日常です。最近では、過疎化が進み、廃屋や耕作放棄地が増えることで、野生動物は勢力を拡大中のようです。

山梨でも、北杜市など、鹿をはじめ、猿や熊、イノシシ、ハクビシン、その他、動物の害は増加の一途。

私も去年は明野に畑を借りていましたが、ハクビシンがずいぶんやってきていたようでした。

これらの野生動物は田舎暮らしの日常です! 前線では日々戦いが勃発中。

そしてそれは自らの生活に直結する知識なので、当然ですが田舎の人は詳しいです。撃退法から、蜂の巣の高さで台風の頻度を占うまで…ま、生活に必要な知識なので当然です。

一方、都会のほうも暮らしは大変です。中心部では過疎化が進み、都会にある伝統的な商店街は風前の灯です…私がいたのは空堀商店街でしたが、空堀なども再生を頑張っていますが、にぎわうとまでは行かない・・・。都会でも問題山積。基本的に都会の問題は貧困問題ですね。失業し、食べれない。
都会での生活技術は、人間と人間の戦いですね。文字通り適者生存。

ただ不思議なんですよね… 

こういう生活に密着した野生動物の現状を田舎の人は、都会の人も知るべきだと考えているようです。

さらに踏み込んで、猿が増えたり、鹿が増えたりした、そういう現状になっているのは、”都会の人のせいだ”とまで考えているそうです。

つまり、田舎の人は、自分達の生活問題の解決に都会の人をあてにしています。
そして、無知を責めます。

一方都会の人が田舎の人に都会の問題を解決してもらいたがっているなんて聞いたことがありません。また都会で必要となる生活技術、具体的には稼ぐ能力に田舎の人が無知でも不思議でもなんでもなく、ましてや相手を責めたりはしませんね。

満員電車の中でいかに力を使わず立つか、とか、迷路のような地下街でいかにすばやく人にぶつからずに目的地に到着するか、いかに首尾よく履歴書を纏め上げ、プレゼンし、職場ではいかに自分の能力を磨き続けるか…そうしないと野良人間さんへと脱落していくリスクが…。

都会の生活で必要な生活技術と、田舎の生活で必要な生活技術はこれほどに違います。おそらくそれだけのことです。

■ ”行政は何もしてくれない”はたぶん都会ではデフォルトです

例えば、ちょっとした出来心で連れてきた野生動物が帰化してしまい、繁殖したなどというような問題の解決に、

・都会の人が悪い、
・行政が悪い、
・専門家が悪い、

と、○○が悪いと自分以外の誰かが悪いと責めるのは、田舎の人に多いです。

今の時代、都会では人間そのものが野生化しています。野良人間さんは増え続け、人間界という野生環境で群れを作れず、野良化する人続出です…。あるいは、飢えて誰も知られずに死んでいく人、あるいはイジメにあって過労死する大人… 少女をトランクに詰めて運んでしまう男、部下にセクハラは茶飯事…

田舎では環境が壊れているかもしれませんが 都会では人間が壊れています。

田舎と都会、どちらも置かれた環境が異なるだけで、人間生活がサバイバルを基本としていることは変わりありません。

都会の人にとって、都会で発生している問題は自分達で解決するもので、役所が、あるいは、国が、あるいは専門化が、あるいは田舎の人が解決してくれるとは誰も思っていないでしょう。というか、”行政に依頼心”そういう立場を負け犬と呼んでいそうな気がします。

行政が何もしないのは都会では常識の範囲の話で、”とんでもないやつらだ”と目じりを吊り上げて怒るような話ではなかったかもしれません…(^^)

心がすれているのは都会のほうかもしれないですけどね…



判断する罪

2012-09-05 21:57:49 | 自然と環境のこと
■ 動物と子供は似ている

動物感覚の話を読んで、動物と子供は非常に似ていると思いました。というのは私は子供の頃の記憶が日記をつけていたせいで鮮明だからです。

私は犬を愛玩の対象とするような情に深い人が、とてもキライで苦手です。

それはたぶん…私が初孫だったから!

父母双方の家にとって初孫だったので、ちやほやされる対象になったからです。とっても迷惑でした!

孫を飾り立てたり、甘やかしたり、というのは本当の愛ではありません。どうも子供はそこのところを良く覚えているようです。私は自分が飾り立てられ、あれこれいじられ、どうやら、母と祖母、もう1人の祖母の政治的争いの的になっているらしい…と3、4歳のころ既に感じていました。

母方の祖母に甘えると、母の機嫌が悪くなる。 父方の祖母には絶対になついては政治的にヤバイらしい…。

子供は、それこそ動物的感で、自己の生存のために選ぶべき人を選ぶ。

私は父方のおばあちゃんが本当に嫌いなのではなくて、キライだということにしておかないと、母の機嫌が悪くなって面倒だからキライということにしていました。

そういう風に考えると、母親の情緒が安定する=子供にとってご褒美 なので、母親のご機嫌が麗しいように子供は配慮しながら人生の選択をしていると思います。例えば着る服など…親が気に入りそうなものを選ぶ。特に母親。子供には生命線だからです。

それがあまりに行過ぎると親が喜びそうな人生を選ぶ。
親のために生きているんじゃありませんから自分の好きな物を選びましょう(笑)

育児に悩んでいる人は育児書を脇において動物の行動を知る本を読んでみたらどうでしょう?

■ 行政が悪い、観光客が悪い、何もしない専門家が悪い

今自然観察のFBに参加しているのですが、市井の自然保護活動家は基本的な動機は素晴らしくてもやはり、行政が動かないからダメだ、という挫折感、徒労感に耐え切れず、「うまくいかないのは世間のせいだ」という心境に入るようです。

信じられない国民性、とか。色々な人の悪口を言いたくなる。

活動家は行政を責め、行政と専門家は市民の無知を責める。 結局、顔のない不特定多数の市民が悪者になって終わりです。

この光景、デジャブーが…ああ~子供の目からみた夫婦喧嘩ね。

本来協力すべき人たちが敵対している光景。

日本人は何でも行政の仕事にします。野生動物が減っても増えても、行政の失策のせい。これではお役人だって、嫌になります。何をしても文句言うんでしょってワケ。

大体役所なんてところは、役目がきっちり分けられているし、私は経済系の官僚しか知りませんが有能では合っても何かを決定する権限なんてない人たちでした。それともう一つ付け加えると、市民がかれらを評価するのではなく、評価するのは上司なのですから、上司の命令以外のことをやる動機にかけるでしょう。市民が評価してくれて昇進したり、給料が上がったりするなら違うでしょうが。

世の中で最も保身に傾く人種が行政やお役人、官僚、と言った職業に就くのですから、大企業にみんなが勤めたいのと同じ動機。そんな人に”実行力”を期待するほうが間違っていません?

とはいえ、私は山梨県が高山植物の保護条例をいち早く制定していることにはとても感心しました。

市民が口うるさく言ったから? それとも山に対する意識が高いから?
成功例なのにあまり知られていないので、もっと知られて良いのではないかと思いました。

市民の中にも、ゴミを捨てるような意識が低い人もいれば、そうでない人もいます。

甲府に来てウンザリすることは、人がプライバシーを暴きまくる失礼な田舎モノ根性の人が結構多いことです・・・でもこちらの人でもそうでない人もちゃんといます。

都会の人だからって言って、お金持ちとは限らないのに、地元の人は都会から移住してきた人からぼってやろう!と狙っているような印象を受けるときがあります。例えば、2点居住の住居探しサービスは都会の人向けで既に来てしまっている人には、冷たいです。まぁ移住させた、という事実で点数稼ぎをしていたらそうなるのでしょう。ともかく、都会からきた人への色眼鏡を感じます。

そうした色眼鏡はヨガでは判断する罪と言われています…

外来動物の野生化 飼えないなら拾ってくるな!を常識に

2012-09-05 13:03:26 | 自然と環境のこと
■仕組みが分かるだけでは不十分なのだ…

そう、この河口湖で会ったオオカナダガン…実は地元の人が北米原産のこの鳥を、日本に導入してしまい、それが日本の地に適応して、繁殖し、今では糞害や、日本の固有のガンと交雑してしまう危険があり、要注意外来動物になってしまったのだそうです。


ここでは事情の詳細は他のサイトに色々書いてあるので端折ります…

で、今回のお題は…一体誰を責めるべきか?です。

★問題の構造
 客とふれあうために動物を半野生状態にして飼育
  ↓
 野生化

悪いのは誰か?

 ①連れてきた観光施設
 ②それをみて喜ぶ観光客
 ③指導をしない行政
 ④自然環境に詳しく間違いが間違いだと分かる立場の専門家

① 観光施設が悪いのか?
観光施設が動物を連れてくる理由は、単にかわいいから、です。問題になっているアライグマも、フェレットも
可愛い猫と同じことで、「かわいい」と「人々が寄ってくる」から、「商売の足しになる」と連れてくる。

観光施設は、悪意はないつもりでしょう…それは想像に難くありません。ちょっとした善意のつもりでさえ
あるかもしれません。 お客さんを喜ばせたい、は特に問題ある心理ではありません。

ところが動機はともかくその行動が無知すぎますね。しかし、犯罪者の裁判でも、結果ではなく動機で人は
さばかれます。悪気がなかったら無知こそ問題で、有罪は確定でも情状酌量の余地ありでしょう(笑)。

② かわいいと喜ぶ客が悪いのか?
「かわいい」とか「めずらしい」ものが要れば喜ぶのは自然な心理ですから、そんなことを責められても困ります。
それも見に来ただけで責められるのなら、珍しい野生動物を見て喜ぶのだって否定しなきゃなりません。

僻地で希少な動物に会って喜んでいいのなら、観光地にいる動物に会ってよろこんで悪いはずがない。

この場合、客がいるから商売が成り立つんだ!という観光客への避難は、八つ当たりというものです。

商売があるから来る、っていう論理だって成り立つし、別に観光客はその動物が目当てで来ているのではないでしょう。

根本はもっと多くの人に来てもらいたいという商売をする側の発想が、無知により、とんでもない結果に
結びついたことです。

観光客は無罪です。でも餌付けはしないようにしましょう。火に油を注いで、事件に関与する必要はありません(笑)

③ 行政は悪いのか?
生態系は守るもの、というのはずいぶん昔に成立した概念ですから、世界中の国では多様性を守るために
検疫を強めています。節操なく、外国の動植物を入れている国は日本くらいです。

オーストラリアやニュージーランドでは木製品だって持ち込めません。ペットとして飼われていた動物が逃げ出して繁殖したら、その捕獲には莫大な労力とお金がかかります。これは常識です。

そもそも外国の動物や植物を持ち込んではいけないことにしていればいいのです。特に持ち込んだ結果どうなるか分からない場合はなおさらです。

④ 専門家は悪いのか?

行政にアドバイスする立場の専門家はたぶん有罪です。でも自分で悪いことをしていると知っています。
沈黙することは同意することと一緒です。 なぜ間違いを指摘しないの?自分の立場が悪くなるのは嫌だから? 

どういう理由にせよ、悪いと分かっていることを見てみぬ振りしている…のは実はヨガ的に言うと、
自分自身の心が一番良く知っていて、精神的には穏やかではないはずです。バッチリ罰されています、たぶん。

子供っぽい言い方をすれば天国にはもういけません(笑)こんな小さな事件で天国にいけないなんて悔しいじゃないですか? ちゃんと指摘すべきことは指摘する、というほうが精神衛生にも良く、穏やかな夜を迎えられそうです(笑)

■ では、何をすれば良いか?

自分がどの立場かを考えましょう。大部分の人は①の観光客のはずです。 

無知を責められても、自分に興味がないことを無理やり知る必要は誰にもありませんから、オオカナダガンについて知らなくても責められる筋合いはありません。

でも、どんな動物であっても、野生動物に餌をやって喜ぶのは辞めましょう。野良猫を飼えないなら拾ってくるな、というのと同じです。

②の観光客を集める立場であれば、自分自身の土地の価値を見出しましょう。日本は外国の真似なんかせずとも
素晴らしいところです。日本中同じような景色が広がる今、地元の魅力をちゃんと発掘すれば、外国のものなんかよりもっと魅力があるでしょう。

それに連れてきたところで観光客の反応なんて、「へぇ」くらいで大してよくありませんよね。

③行政

威張っているだけではなくて、ちゃんと行政指導をしましょう。こんな鳥、大繁殖したら責任取れるんですか?くらいのキツイ言葉で、野放図は止むはずです。

④専門家

専門家は、ちゃんと分かっていることを知らない人に伝えましょう。 共有されない知識なんて何の価値もありません。

■ パワーは内向きに

どの分野に属しているにしても、他の人を責めるのは辞めましょう。

一体なんで、山梨県の観光を担う人は、オオカナダガンなんて連れてきてしまったのか分かりませんが、もういるんだからね…現実はそっから。

私ははっきり言って、アライグマのようなことになるんだったら早めに根絶やしにするほうが動物には、むしろ親切と思います。

食肉工場の牛や馬と同じことで、人間が自分勝手なことをしなければ生まれなかった命なのです。人間にはその命に責任があるのではないでしょうか。

ともあれ、悪い人探しをしても、不毛です。やれることをやれるところから。 日本の生態系はかく乱されて、昔の豊かな日本とは似ても似つかない有様になり果ててしまいました…(><) それもこれも親の世代が、環境などということは二の次に経済発展だけを優先してきたからです。

…が都合が良いことに、その次世代は、経済成長なんて魅力を感じない。 もっと本物の幸せを求めている。

ただ本物がどこにもなくなっているという欠陥がありますが…ま、いちから作っていくという喜びがあるともいえます。

日本の自然は破壊の後の復旧あるいは治癒の段階にあります。

■備忘録

このような情報をもらいました。
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このカナダガンの一番の問題は、日本には古くからシジュウカラガンというカナダガンの近縁種が東北に渡来しており、それと交雑してしまう恐れがあることです。
このシジュウカラガンは世界的にとても希少な鳥で、日本でもプロジェクトをおこなって増殖事業をおこなっていますが、このカナダガンが増えて交雑してしまうと、その努力も水の泡になってしまいますし、絶滅に追いやられることも考えられるわけです。実際に南米のカイツブリ類でそういうことが起こっています。
このカナダガンは、詳しい経緯は不明なことも多いのですが、富士山の施設に導入さ入れたものが野外に逸脱し繁殖したと考えられています。めんどうなことにカナダガンとシジュウカラガンはとてもよく似ているので、とても珍しいガンが繁殖したと地元の野鳥愛好家が喜んだという顛末もあります。
積極的に捕獲して駆除をしたいところですが、なかなかそれも難しく、今のところ少なくても標識をつけて管理することにしており、有志のボランティアで活動を細々としているのが現状。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー抜粋終わり

害鳥?オオカナダガン

2012-09-05 07:34:24 | 自然と環境のこと
河口湖に首に番号をつけたオオカナダガンがいました。

ニルスの不思議な旅でおなじみの首の黒いガンです。



人間が導入したものなのに…今では害獣に近くなってしまったのだそう。

犬の糞かというほどの糞をし、大食いで周囲の植生を変えてしまう…

さらには日本の固有種との交雑の危険が… 

…でも最初に導入したのは人間なんですけどね…

クリプトスポリジウムに想うこと

2012-08-18 22:08:52 | 自然と環境のこと
■クリプトスポリジウム

長野の新聞にクリプトスポリジウムの記事がありました。

http://www.shinmai.co.jp/news/20120817/KT120808FTI090036000.php

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下痢などの症状を引き起こすとされ、塩素消毒が効かない原虫「クリプトスポリジウム」が昨年度以降、少なくとも県内6カ所の水道施設の原水で検出されたことが16日、県環境部のまとめで分かった。2000年10月を最後に県内で検出されたとの報告はなかったが、ここに来て急増。いずれも明確な健康被害は確認されていないが、原因が特定できず、水道事業者は対策に追われている。

 同部によると、昨年度からことし7月までに検出したと報告があったのは、伊那市の3施設、上伊那郡箕輪町の1施設、駒ケ根市の1施設、北佐久郡御代田町にある佐久水道企業団(佐久市)の1施設。クリプトスポリジウムは人や家畜などのふん便が汚染源だが、6施設はいずれも山間部にあり、上流に民家や家畜の飼育施設はないという。
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糞便が汚染源…野生動物の増加と何か関係があるのかな・・・・とふと思い、お世話になっているFBで情報を尋ねてみると…やはり野生動物の増加が一因のようです。

イノシシは沢では必ず脱糞と放尿をするのだとか…。沢の水は飲めませんね~(汗)

郷里熊本の水道水は湧水なのでよい水で育ちすぎて、大阪に来てからアトピーは悪化しましたが・・・山梨は田舎だからと言って水が良いわけではなく、水道水はおいしくないです。川の水。

川の水というのは、こうした感染症のリスクを孕んだ水…。山岳地方で起きている野生動物と人間の領地争い…人間の勢力地図が縮小して(つまり過疎で) いくと、下流の人間の生息域でもこうした問題が起こってきますね。

塩素はとてもカラダに悪く…私なんかは塩素が入ったプールは一発でダメだし、塩素消毒の温泉もすぐに分かり、お風呂のシャワーですら、塩素除去のシャワーヘッドをつけると髪や肌にすぐ異変があり塩素の影響にはすごく敏感です。

そんな大嫌いな塩素ですが…水道という仕組みがあるかぎり必要なもの。

■ 野菜=清潔で安全な水

山で沢水が安全でないとなると、海上で遭難して海水に囲まれているのに飲み水がないのと同じようなことになります。

山で安全に取得できる水、完全に安全なもの…と考えると、それは野菜、きゅうりや果物に含まれる水分…考えてみれば、植物に含まれる水分はその植物がろ過装置になって水を安全な水に替えてくれたものです。だから山では果物や野菜がご馳走ですね。

考えてみると、家畜というのは肉を新鮮に保つために獲物を生かしておく、という発想が原点です。何しろ、たかだか10年前に行ったベトナムでも、まだ豚や鶏は生きたまま売買されていましたし。鶏のスープなんか注文すると、さばくところから…(汗) 日本ではそんな世界はとっくに忘れ去られてしまいましたが、本来はこうした日本の姿のほうが少数派なわけです。

そういう意味で肉食は保存性がある。一方、野菜は保存性がかなり短い…
採ったらサッサと食べないとすぐだめになる。 そういう風に鮮度が必要なもの、それこそはご馳走中のご馳走なのではないでしょうかね?保存料もなく、冷蔵庫もないつまるところ、本来の世界では・・・。

となると本来、ご馳走は野菜であり、人間は野菜を食べることが一番贅沢な生き方だったのではないでしょうか? 

保存できないこと。今を生きること。それはアッタの教えと似ています。過去を思い煩わず、未来を不安視せず、今ここにある時間にのみ集中することが人の幸福の源だと言うヨガの教えです。 


■ 堰堤

先日は夫が新穂高の湯に浸かっている間に、砂防の展示場で砂防の勉強をしていました。

環境破壊の代名詞のような堰堤や砂防…けれども一方で土留めを作ることで山の大規模崩落を避けることができた。昔埋め立てたところは、今では緑の森林地帯です。

必要で有益なものもある…ところが難しいのは、どの時点からかそれが必要のために行われるのではなく、手段が目的化してしまう… その切り分けは非常に難しい。

でも、人間だって、生態系の一部だったはず。その一員として人間活動も生態系の活動の一環として機能していたはずだった。生態を維持し、人間社会を維持してきた活動と、生態系を壊し、結局は人間社会をも破滅に導くことになる破壊活動にいつの間に進展してしまったんだろう?

山に登るとそういうことを考えます。

北アではオオバコの進入が問題視されているそうですが、オオバコはヒトに踏まれることによって増える人里植物なので…オオバコが増えることと人の通行はコインの両面です。オオバコがいやなら人は退くしかない。それはなしでオオバコだけ排除することはできない。

電気の使用、それにともなう施設建設による自然への影響(破壊)、ゴミ問題、トイレ問題、飲料水の塩素処理… 大なり小なりオオバコと同じこと。

一方人間界の欲が生み出したものは人間界自身を破壊する… 食品を長期間保存したいと思って生み出した保存料は人々を肥満にし、アレルギー体質にする。いつでも使い放題の電気が欲しいと思って生み出した原発は人間の手に余り、人間の住む環境を住めない環境に変えてしまう。欲が生み出したカネという仕組みは貧富の極端な差となって貧しきものをさらに貧しくする。

人は自然界にはただ迷惑な存在なのか?それともどこか低い次元で人間は何かを誤解し、間違った方向に進んだだけで、自己反省により失敗は回復できるのか?

それは人の傲慢と呼べることなのか?それとも塩素や堰堤のように人の叡智でもあり、掛け違えたボタンのようにちょっとした行き過ぎであるのか…?

我々はどう舵を切るのでしょう?試されているのは人の叡智ではなくて、動物として失ってはならない直観力の問題のような気がします…


動物たちは妊娠期間と同じ時間で死後は土に還る

2012-07-28 12:28:26 | 自然と環境のこと
■ 土に還る時間=290日

ちょっと宮崎カメラマンの熊サイトを読んでいたら衝撃の情報が。

 動物たちは妊娠期間と同じ時間で死後は土に還る.

つまり人間は290日で土に返るわけですね…一年未満。

なぜ妊娠期間と同じなのかなぁ…作られていく時間と消えていく期間が同じなんて。

これはすべての生物がその生命期間中に打つ鼓動、脈拍数によって寿命は決まっている、という情報と同じくらいの衝撃度です(^^)

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人間の一生の心拍数は安静時で15億(拍)、活動を考慮すると20~23億(拍)といわれています。哺乳類では動物の種類によらず一生の心拍数はおよそ一定です。
              名古屋大学医学部第一内科の林博史氏の論文による
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私、子供の頃から脈拍が常に遅いんですよね…血圧も低い。平時40~80.下手したら上70.

運動してもあまり脈が上がらないのでよく”スポーツ心臓”と間違われましたが…
ちがーう!運動能力は人並みです…。

でも、うっかり長生きしてしまうんじゃないかと思って昔から心配しています。

■ 死の知識

動物の世界観と人間の世界観を隔てる一つの知は、死に対する恐れを知っているかいないかだとある本にありました。

人は死を知っていて、死を恐れるが、動物は死を知らない。無論、死を本能的に避けますがだからと言って死を恐れて、あれやこれや苦悩しているわけではない。

動物が美と健康のために何かを研究開発するかというとしないでしょう(笑)

死を恐れると言うことは、結局、肉体を失うことを恐れているわけで、所有しているものを喪失することに関する恐れです。

財を成せば、財を失うことを恐れ、子をなせば、子を失うことを恐れる。

女性の場合、念願かなって美を得れば、今度は美を失うことを恐れる。
男性の場合、権力や名声を得れば、それを失うことを恐れる。

喪失感にさい悩まされる。動物が喪失を原点に行動を起こすかと言うと、
喪失よりも今ある巣を放棄したらまた作らないといけないから不便、とかそういう風な感じだろうなぁ…。失うことそのものを恐れているわけでなく…

あるがまま。あるがままというのはどういうことか、動物ってのは、たぶんそれを教えてくれる存在なんだろうな。

おなかが空いたら食べ、空かなかったら食べない。楽しいときには楽しみ、嵐の時には身を潜め、そのまま…。ひょっこり人が来たら、好奇心に負けて覗き見しちゃう、オコジョ。

でも執着しない。その姿は子供にも似て、だから人は子供を愛するんでしょうね。

■ それでも上を目差す人間達

ムーミンのスナフキンのような、フーテンの寅さんのような人には憧れますが、所有したことが無ければ、喪失する痛みも知らない。

逆の観点を与えれば、喪失の痛みを避けるために所有をしない姿勢ともいえるよなぁ?

喪失の痛みがあってもいいのだ。それが人間なのだ。だから”それでも高み(世俗的な成功)を目差せ!”と言われるのだろう。

無知よりも知を選ぶのが人間。たとえそれが結局は振り出しに戻るでも…。

そのときの無力感への救済は… 苦である生からの開放とも言われますがでも本来生は苦でなくラクであるはずなので…死はやはり死で、死を苦からの開放とするのはやはり特定のケースだけなのではないか、あるいはこじつけた美学なのではないかと。死ぬのはやっぱり怖い、が本音。

そこで妊娠期間の登場です(笑)

もしかして、人間が感じる、死の痛みを含めたすべての苦悩は290日あたりで消失するのではないだろうか?

これはぜんぜん仮説です。でも…「時が解決してくれる」っていう有名なセリフもあることだし… 

土に還る時間が、妊娠期間と同じと言うのは考えさせられる話です。



読了 『僕は猟師になった』

2012-07-27 21:30:42 | 自然と環境のこと
今日は夫は出張で1人静かな夕暮れです・・・

ワインを傾けながら…のんびりベジタリアンのお食事…

今日は衝撃の本を読み終えました。

■ 『僕は猟師になった』

ぼくは猟師になった


貪るように一気に読んでしまった…不覚にも。(日ごろ読むのが早すぎるので今ゆっくり読むように訓練中…)

いや~ この著者は私より2歳ほど年下の人ですが、猟師ってあっけなくなれるんですね~!!っていうか、近所に先輩格の猟師がいないとワナ猟など学ぶのは不可能、と思いますが。

私はもし200年前に生きていたら農耕民族ではなくて、狩猟や採取のほうかな~と思ったりします。

なぜなら一点に留まることが著しく不快だからです…日々、転々とするのは嫌だけど…数ヶ月から、数年でその場所に飽きます(汗) こういう人は新事業向き…軌道に乗ったとたんに興味を失う。

でも…狩猟のほうは無理だな…そう思いました。 いや~野生動物との心理戦、大変興味深い。でも肉をさばくところで失神しそうです…(><)

実は仕事で医療文献の翻訳の仕事で手技書と言って手術の文献を翻訳したりしていたのですが…そこで出てくる写真にもクラクラしていました…(汗)私には猟師は無理です。ということは肉は食べれないですね…いいとこ魚止まりです。

イノシシのお肉はきちんと処理されていれば大変美味しいのだそうです。それにしても鹿は京都でも増えすぎて…イノシシを狙っても鹿ばかり掛かるのだそうです。

命を奪うことにどれだけの労力が掛かっているか…私は昔から何を食べるべきか?には興味があるので、食肉加工業の本も読んだりして、基本「自分が捕殺できないサイズの肉は食べなくてもいい」派ですが…、
もし私が現代以外の、自分で狩猟をしなくては生きていけない時代に生まれていたら確実に肉にはありつけなかったなと思いました。

発見は、年中行事の感覚は、ローラの時代と同じだ、ということ。

狩猟シーズンは11月15日が狩猟解禁日で始まり、年内一杯が狩猟ハイシーズン。一週間に1~2頭かかる…とその解体作業におおわらわ。(解体は結構大変な重労働です)

年の瀬には収穫を祝いご馳走・・・年が明けるともう狩猟シーズン的には下火で…春は動物の子育て時期なので猟はほとんどしない。

山菜シーズンで春を明け、夏は川や海で新鮮な魚で過ごし、新鮮な野菜を沢山食べる…すると恵みの秋がやってきて…動物達がでっぷり太ったころあいで狩猟シーズン幕開け…

という一年のサイクル。これは200年前のアメリカの開拓民の生活でも同じでした。

現代にこのサイクルで生きている人がそれも京都に私と同年代でいるとは!!!

最近図書館で無料でゲットしたローラインガルス・ワイルダーシリーズ、先日パラパラめくったところではローラが嫁入りに持っていく品を母親と相談しているところでした。

ティーンネイジャーのローラたちは、シルバー・レイクのほとりで渡り鳥に遭遇します…それらの鳥を父さんがたくさん捕まえ・・・その冬ローラと姉妹達はずっと鳥の羽むしりで過ごします…母さんのセリフ…

「あの羽根布団を持っていくといいわよ。何しろあなたたちが一所懸命羽をむしったんですものね」

羽根布団は高級嫁入り道具だったのです。ちゃーんと渡り鳥たちを見て羽根布団と肉のために狩りに出た父さんは偉い!ちゃんと狩りの方法を知っている父さんがすごい!!

むかしは嫁入り道具も思い出つきだったんですよね。


■ つながり

つながりという言葉はあまり私にはピンときませんでしたが、現代人が残酷になれるのはつながりがないからだという説を小耳に挟みました。

相手がどんな人でどんな苦労をし、どんな人生を歩んできたか知らないから残酷になれる。

というのです… 確かに何か失礼なことをするのでも、知っている人にするのは難しいが知らない人にするのは簡単です。 知らない人にならエレベータでぎゅうぎゅう詰めになりますが知っている人だと一定距離以上近づくことがためらわれます。

それと同じで、食べる肉に対しても、ある種のつながり…絆を持たないから、肉食全盛になってしまえるのかもしれませんね。 

人間は牛に自らの骨粉を食べさせて…狂牛病と言う罰を受けました。

そういうことをした人たちも、自分の息子や娘が狂牛病になる可能性があればそんなことは出来なかったはず…

戦争も、自らの娘や息子が戦地に赴くとあれば決断はもっと重かったはず…

そういう意味では ”つながり”という言葉が適切かどうかは別として、人事ではなく自らの出来事として引きつけて考える、ということが出来ない人間ほど残酷と言えますね。

卑近な例では人生経験の少ない子供や若者ほど他者に対しては残酷になれます…
ま、最近は定年退職するほどの年になっても残酷な人は多いわけですが…(自分と自分の家族、友人・知人さえ良ければ他人はどうなっても良い)

PS ふむ。だから”よそ者”扱いが顕著な山国では生き辛く、誰もがハロー!を交わす山では生きやすいのかもですよねぇ?山の連帯vs里の残酷。

そういう面で、狩猟をした獲物を食べる、というのは、現代人にとってはつながりの回復かもしれません。失われた想像力を回復種る一つのカンフル剤的手段。

自分が奪った命を食べるということでその命を奪うプロセスにもかなりの労力と時間と精神力が掛けられているわけで、現代人にはかなり欠如したことなのかも・・・欠如しているからこそ、必要なことなのかも。月給をもらってそれが肉になる感覚では肉食は野菜を買うのと大差ありません。

私なんて、ただ畑でとうもろこしを収穫してさえ、こんなにも食料を得ると言うことは大変なことなのだと感じるくらいなのですから…

現代人は、食を自分で得る、ということで自分の小ささを感じるべきなのかも?

そうでもしないと謙虚になれない、というのが現実かもしれませんが…(^^;)

チュー太は誰?

2012-07-24 16:39:56 | 自然と環境のこと
こんなネズミのチュー太の歓迎を受けたのだけど…

チュー太が誰か判別するのは意外とタイヘンに難しい…



体長さは丸まっているので分からず。5cmくらい?尻尾は長そうだ。10cmくらい?

 猫背のチュー太。

準備体操している河原にもいたので、そんなに珍しい種類のヤツでもあるまい。

そして、単独行動中…ネズミって、でも、群れって感じはないね。

アメリカでもネズミを見たけど、こんなに可愛くなく、とっても怖かった。



君は誰なんだろうねぇ?

■ 考えられるチュー太の正体

日本に生息するネズミの仲間は、9属17種もいるそうだ!親戚、多いね!

第1候補 ヒメネズミ
 頭胴長65-100mm、尾長70-110mm、後足長18-21mm、体重10-20gになる。

 体毛は、背面が栗色で腹面は白色になる。アカネズミに似るが、頭胴長より尾長 がやや長いことや、後足長が通常20mm以下であることで見分けられる。
 低地から高山帯までの森林に生息する。長い尾でバランスをとってつるや細い枝 の上を走ることができるため、樹上でも生活する。夜行性で地上では主にドング リなどの種子や果実を食べる。また昆虫も捕食する。体が小さいため同属である アカネズミと食性や生息域が重なると不利だが、アカネズミが登れない樹上でも 生活することで、棲み分けをしている。地面に巣穴を掘るが、樹洞や木にかけら れた鳥の巣箱に落ち葉を持ち込み、巣として利用することもある。

第2候補 アカネズミ
 80-140mm、尾長は70-130mm、後足長は22-26mm、体重は20-60gである。
 低地から高山帯までの森林や田畑のあぜ、川原のやぶなどに生息する。
 夜行性で地表を中心に活動をする。単独で行動し地中に巣穴を掘る。

第3候補 スミスネズミ
 頭胴長は75~115mm、尾長は33~55mm、体重は20~35gである。
 ネズミ科 ビロードネズミ属 に属する小型のネズミ類の1種である。日本固有種で あり、
 東北地方南部を北限とする本州及び四国、九州に分布している。低地から高山帯 までの森林や山間の畑などに生息する。湿潤な所を好む。

 明治時代にタイプ標本を採集したスミス氏にちなんでこの和名がついた

第4候補 ヤチネズミ
 頭胴長は80~130mm、尾長は45~78mm、体重は20~40gである。
 夜行性であり、低地から高山帯までの森林や岩場、石組みの間などに生息する。

以上、情報はウィキペディアによる。

チュー太小さかったからなぁ…猫背でしたが。伸びをした姿は想像しづらく。

姫ネズミなら、チュー子のほうが良かったのかナ?