宮柊二の歌は、民衆の、庶民の歌であった。
彼が、朝日新聞歌壇の選者になったこともあり、
短歌界に、新風がおこる。
民衆の、民衆による歌が、受け入れられれるようになったのである。
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あはあはと陽当る午後の灰皿にただ一つ煙をあぐる吸殻
吸殻からさそわれる人の姿はやはりちらつく。そこでこの歌には些細な素材を扱ったのだけれども、それは媒材で、間接的な表現のしくみを試みたものだが、言い換えれば、人事を直写することには窮屈さが避けられないで、些事を素材とし対象として、人事の広がりをさそい出そうと試みたのだった。私はこの歌で、一種の落ち着いた気分と、在来の歌には見られなかった、虚実の関係といった世界が、開けるいとぐちをとらえたような気がした、と思い出すことができる。(宮柊二)
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同時期に、次のような歌もつくっている。
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腕相撲われに勝ちたる子の言ひて聞けば鳴きをり藪の梟
イオシフ・ヴィッサリオのヴィチ・スターリン死す英雄の齢かたむきて逝くぞ悲しき
桔梗のかがやくばかり艶もちて萌え出でし芽を惜しみ厭かなく
才無きを恥ぢつつ生きてもの言ふにこころかなしき批評にも会ふ
竹群の空青々と音なくて寂しき春の時間ぞ長き
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