地元の図書館で、
桃太郎の話を
おとなとして
読むには
どうすればよいか、
という
講義があった。
講師は、
大学から
派遣された。
講義は
一方的に
知識を並べる講義で、
なにか
しらけた雰囲気になっていた。
それに、無性に腹が立ってきた。
で、
それなりの感想を
提出した。
しかし、
ふと
気が付いた。
自分自身に
怒りを感じていたのだ。
法学部の学生の頃、
「法学部砂漠」という
言葉があった。
多くの講義が、
一方的に
知識を授ける
講義であった。
そういう教師に、
腹を立てていた。
ところが、
卒業近くになって、
いつのまにが、
そのような態度に、
自分が染まってしまっているのに
気が付いた。
その、
過去の自分に対する怒りが、
講師に向けられたのだ。
過去の
自分自信を
否定していたのだ。
が、
自分では、
それを否定していた。
めざめた。
その、
わたしは、
「善意」であった。
そして、
この講師も、
善意なのだ。
どちらも、
いっしょうけんめいにやっている。
それは、
同じことだ。
もうひとつ、
気が付いた。
彼女とわたしの
年齢の違い。
経験の違い。
どちらも、
違いではあるが、
どちらが優れているか、
それは、神のみぞ知る、
である。
人間のわたしは、
それを
決定する権限をもたない。
それに
気づいたとき、
怒りはおさまった。
ある愛する友人の
ことばも、
わたしをとらえた。
怒ってはいけなかったのだ。
敵は、
自分の中にいたのだ。
こうして、
わたしのこころは、
うちくだかれる。
「謙遜に」
と
心で思っていても、
実行できない自分。
そういう自分に腹を立てているのだ。
そして‥‥‥
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