☆shining DAYS☆

どんだけ痛いタイトルであろうと、
それはもう呪うしかない、当時の私を

マラソンとコスプレ、変わったなぁ、私

生も不要、名も不要・・・勝利だけがあればいい

2012年09月11日 22時12分11秒 | 日記
とは、戦国大戦“高橋紹運”の落城セリフ。
戦において、自身の名誉などは問題ではない。
この戦で、自身を超えた‐自身が信義とする‐何かを一番に考える。


戦国時代の人気武将である“真田幸村”も、同様であったと聞く。
大坂冬の陣において、豊臣方としてついた幸村。
大坂城の最前線にて、十倍以上あった家康軍をいわゆる「真田の戦‐少数で多勢を迎え撃つ戦術‐」で
大いに苦しめ、大打撃を与えた。(詳細はお調べいただきたい)

冬の陣の後、「寝返れば、幸村に十万石を与える」という破格の懐柔策を、家康は幸村に提示します。
それまで、関ヶ原の戦いで西軍に属していたため、15年も小国に幽閉状態となっていた幸村にとって、
とんでもない条件の提示でした。
しかし、幸村は寝返らなかった。
幸村は、

「関ヶ原の後、15年、ただ生き長らえているだけの私を、秀頼様は登用してくださった。
 それは、私を再び武士としての生を与えてくださったのだ。
 この御恩は、土地や金といったもので代えることはできない」

との旨を伝え、使者を返しました。
その後も「信濃一国」という、さらに破格の条件を出しますが、
幸村は使者と面会もせず、追い返すのでした。

幸村は「自身の名誉や保身」より「武士としての生を与えてくれた恩義」を大事にしたのでした。
この幸村の生き様には、多くの人が憧れたことでしょう。
その証拠として、歌舞伎「鎌倉三代記」があります。
この「鎌倉三代記」は、名前や時代を変えてはありますが、大坂の陣で家康に立ち向かう幸村を描いたものなのです。
江戸時代、幸村は家康に歯向かった反逆者とされていましたが、
この「鎌倉三代記」として、幸村の生き方を賛美されたのでした。

「土地も名誉も不要・・・武士としての生だけがあればいい」

こう捉えてもよいのではないでしょうか。
‐自身が信義とする何か‐を大切にした真田幸村を偲ぶ。