岡田奈々 青春の坂道
[Jeg kan godt lide Hendes stemme.]
今夜からまた織田裕二の「世界陸上」が始まる。
「ボルト!」と叫ぶなら問題ないが、
「(タイスン)ゲイ、ゲイっ!」などと連呼しようものなら、
シャレにならない。もっとも、
「シキュウから生まれてきて、よかったーーーっ!」
とは叫ばないだろう。昨晩はテレ東で、
「懐かしの昭和メロディ」という番組をやってた。
今年5月に死んだ作詞家石本美由起の
「あこがれのハワイ航路」も流れてた。
♪はぁーーーれたっそ♪
までしか聴かなければ、憧れの地が
ハワイなんだかパリなんだか判らないが、つづく
♪らぁーーーーーーー♪
がブルーノウトではないので、ガーシュウィンでないことが
否定される。それはともかく、とくに、
♪えーがおーで、きーればーーー♪
のあたりから、まるで
幼稚園児の斉唱のような歌いかたになってしまう
見るにしのびない晩年の岡晴夫が映ってた。
糖尿病におかされたその身ぶり手ぶりにも、
哀愁が漂う。ところで、私は
小さいときにはアイドルというものを持たなかった。
現実の初恋の子以外に、絵に描いたような
気持ちは向かなかったからである。そして、
いわゆるアイドル歌手たちの、
大きく目をむいた顔や、
媚をうるようなしなをつくる所作は、
まったく興味の対象外だった。が、
ティーンエイジの後半になって、
現在のテレ朝の日曜18時のオーディション番組
「あなたをスターに」で出てきた
岡田奈々嬢にだけは惹かれた。まず、
声である。私はいわゆる可愛らしい声が
苦手である。昨今の
「柔らかすぎる」トランペットの音も嫌いである。
ビーっと上下の唇がビリビリ振動するような音、
のトランペットが好きである。同様に、
女性の声に関しても、
ややかすれた声に心地よさを覚える。
岡田嬢の声は理想的だった。一般に、
岡田奈々女史は歌が下手だといわれてる。が、
私は飛びぬけて巧いとも思わないが、
それほど下手でもないと思ってる。むしろ、
歌謡曲歌手で歌唱力が抜群などというほうが
気色悪い。それはともかく、
岡田嬢は歌ってるときの身ぶり手ぶりも
節度があり、表情も基本は
笑顔ながらしかし過度にはならず、さらに、
ときどき伏せ目にするのだが、その憂いも
わざとらしくないものだった。
音楽の中で「歌」というジャンルには、当然ながら
「歌詞」がある。その中で、
iやeという口を閉ざしぎみな音のあとの
相対的に長めなaの音の発音がすがすがしい歌手が
私は好きである。とくに日本語の歌詞について、
であるが、他の言語においても同様である。
「蝶々さん」の「ある晴れた日に」における、
"Piccina mogliettina,
olezzo di verbe【na】"
i nomi che mi 【da】va
al suo venire.
の【】内なども、大抵の歌手の歌唱は
×である。ともあれ、
岡田嬢の「口を閉ざしぎみな母音に続く
相対的に長めなア段の音」は、じつに
素直なすがすがしい、ドロドロな私の心までもが
洗われるような発音なのである。それから、
格助詞「が」や同様に語中にあるが行の音が、
昨今の「矯正されない」ままな
大阪、九州・沖縄出身者歌手ら非鼻濁音圏や、
東京の八王子出身でもなぜか日本人離れした
歌唱力な荒井由実女史による
非鼻濁音のままの発音は、私のような
東京人にとっては極めて奇妙に聞こえる。が、
岡田嬢の語中の「が」は角ばった感じがしない、
おだやかな鼻濁音だった。私は
岡田嬢の歌はどれも好きだったが、やはり、
「青春の坂道」がいちばんである。これは
芸能情報誌の「明星」が歌詞を
一般公募したものらしい。がためか、
クサい内容の、リアリティに欠けがちな、
非常に観念的な歌詞でもある。まず、
「古本屋」という形態が昭和51年当時すでに、
過去のものだった。それに、
古本屋は普通、街の商店街にあり、
街の商店街というものは大抵、
低地で平坦な場所にある。だから、
坂道の古本屋、というだけで、
超現実世界が構築されるのである。そして、
<青春は長い坂を登るようです>
なんて、山岡荘八の大衆娯楽歴史小説
「徳川家康」の中にある、
<人の一生は重き荷物を負うて
遠き道をゆくがごとし>
の替え歌みたいなものである。
二宮金次郎でさえ、損得を考えて、
背中に薪を背負ったまま坂道の古本屋まで
足をのばしたりはしない。が、
であるからこそ、この歌謡曲は
ノスタルズィに彩られた、心に深くつきささる曲、
なのである。橋田壽賀子女史の脚本が
どんなに稚拙な設定であっても、
大衆にはウケるのと同じである。
「長い坂道」→「青春のさまざまなできごと」
という記号ありき、な作りなのである。
そこには、ほろ苦くも甘い思い出が
あったんだろうと容易く連想してもらえそうな
「古本屋」が選ばれた、
くらいなものだろう。加えて、曲が
長調で始まりながら、途中を短調にして、
最後にまた長調に回帰する、という構造なのも、
あざといながらも大衆受けにはもってこい、
だからである。アニメソングの
「キャンデ・キャンディ」の要領である。
♪ド<レ・<ミ<ソ・・>ミ>レ・>ド<レ│
<【ミ>ド・ー>ラ・・ー】●・●●│
<レ<ミ・>レ>ド・・<レ●・>ド<レ│
<ミ<・ソーソ・・ー●・●●│
<【ラ<シ・>ラ>ソ・・<ラー、<ソ<ラ│
<シ>ソ・ー>ミ・ー】●・ミミ│
>レー・ー>ド・・>ラー、<ミ>レ│
ー●・●●・・●●・●●│
ド<レ・<ミ<ソ・・>ミ>レ・>ド<レ│
<【ミ>ド・ー>ラ・・ー】●・●●│
<レ<ミ・>レ>ド・・<レ●・>ド<レ│
<ミ<・ソーソ・・ー●・●●│
<【ラ<シ・>ラ>ソ・・<ラー、<ソ<ラ│
<シ>ソ・ー>ミ・ー】●・ミミ│
>レー・ー<ラ・・>ソー・>レ<ミ│
>ドー・ーー・・ー●・【ド<レ│
<ミー・ーミ・・ミミ・<♯ファ<♯ソ│
<ラー・<ドー・・ーー、>シ>ラ│
>ソー・ー>レ・・レー<ファー│
>ミー・ーー・・ー●・>ド<レ│
<ミー・ーミ・・ミミ・<♯ファ<♯ソ│
<ラー・<ドー・・ーー、>ラ<シ│
<ドー、>ラ<シ・・<ドー>ラー│
<シー・ーー・・ー●・●●│
●●・●●・・●●・●●│
>ラ<シ・>ラ>ソ・・<ラー、>ソ<ラ│
<シ>ソ・ー>ミ・・ー●・●●│
<ラ<シ・>ラ>ソ・・<ラー、>ソ<ラ│
<シ>ソ・ー>ミ・・ー】●・●●│
>レ<ミ・>レ>ド・・<レー、>ド<レ│
<ミー・ー<ソ・・<ラー、>ソ>ミ│
>レー・ー<ラ・>ソー、>レ<ミ│
>ドー・ーー・・ー●●●♪
メンデルスゾーンの「スコッティッシュ交響曲」の第2楽章みたいな
メロディ・ライン自体も、さらに和声づけにも、
マイナー・コウドをちりばめ、恣意的に
ノスタルズィックかつセンティメンタルなものにしてる。が、
歌い手の岡田奈々嬢の
ドロドロした色気がないキャラや歌唱同様、
節度をわきまえた「ホロ苦い」程度のテイストである。
加えて、アレインジメントも巧みである。このように、
「青春の坂道」は、売れる曲の要素がつまった
秀作である。ところで、
私が少年期を送った1970年代の
女性アイドルタレントのヘアスタイルは、
分け目をつけないで前髪を垂らすか、もしくは、
左分けがほとんどだった。
南沙織嬢、麻丘めぐみ嬢、桜田淳子嬢、
山口百恵嬢、小柳ルミ子嬢、天地真理嬢、
太田裕美嬢、浅田美代子嬢、風吹ジュン嬢、
あべ静江女史、ピンクレディのケイ嬢、など。
わずかに、森晶子嬢とピンクレディのミー嬢が
右分けではあった。が、前者は
アイドルとはいえなかったかもしれないし、
後者も含めて、右の額があらわになるような
髪型ではなかった。ところが、
岡田奈々嬢は当時としては珍しい
右分け、しかも、右の額がすべて露出される
ヘアスタイルだったのである。この
右分け女性が男性に及ぼす心理的効果については、
以前にこのブログで触れたことがあるが、じつは、
この岡田奈々嬢の髪型を見たときから
強く感じてたことなのである。いまでは
猫も杓子も右分けにしてるが、本来、
美人やカワイイ女性が右の額をあけて、
男性にわずかなスキを与えることによって、
その敬遠されがちな高い敷居を下げる、
という効果を意図した美容師の技だったのである。
とはいえ、最近のタモリとキム・ジョンイルの、それぞれの
額の髪の生え際の区別がつかない、
拙脳なる私の唱える説にすぎない。
<髪の後退は急な坂を転げるようなものです>
私の実体験に根ざす、リアリティある歌詞である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます