去る10月25日に、
宝塚の職員だったことから故越路吹雪女史のマネージャーとなり、
訳詞・作詞家ともなった
岩谷時子(いわたに・ときこ、1916-2013)女史が97歳で死んだ。
その2日後の27日には、
米国の"ロック"歌手
Lou Reed(ルー・リード、1942-2013)が71歳で死んだ。
同い年ながら片や27歳で不審死した
ジミ・ヘンドリクスに比するとルー・リードはロック・ミューズィシャンにしてはだいぶ
地味で、70代まで永らえて老体を晒してしまった。が、ことによると、
Two-Reedという二枚舌を使って
歌手と一般人の使い分け人生を送ってたのかもしれない。ともあれ、
若死にしたこともあって伝説的になってるヘンドリクスは、
当時のロック・ミューズィシャンのご多分に漏れず
アメリカ国歌を弾きながらVサインをする、といった
反体制をアピールした。
というように、
日本では「ピース・サイン」とも呼ばれてたVサインは、
1960年代米国でヴィエトナム戦争反対という
"平和"を掲げる"進歩的文化人"らによって用いられてた。
米国のヴィエトナム撤退以降は、その時代時代の若者の
記念写真の定番ポウズとなった。ちなみに、
世代によってVサインを出す位置や出しかたに大きく違いがあるらしい。
それらはともかくも、
元来のVサインは、15世紀フランスでの英仏百年戦争における1415年の、
Bataille d'Azincourt(バタイユ・ダザンクル=アザンクールの戦い)において
始められた、とする説が有力らしい。
英国軍は3倍弱の兵力を誇る仏軍に圧勝した。
その勝因は英国軍が誇る長弓隊にあったという。
ひとたび仏軍の俘虜となればもう二度と弓が引けぬように
矢筈をつまむ二本の指を切り落とされた。だから、
その人差し指と中指をことさらに誇示して仏軍を嘲り挑発したのである。
その二本の指が形成する形がVictoryの頭文字Vであることから、
「勝利」または「勝利宣言」としても一般に使われるようになったのである。
岩谷時子女史のヒットした歌詞は数々あるが、私が
小学生時代にTVドラマ化されてその主題歌となった
「サインはV」のものが印象深い。
♪ヴィー・アイ・スィー・ティー・オウ・アー・ワイ、サインはヴィー!♪
おそらく、昭和30年代までの日本の歌謡界の歌は、
完璧に「時代物」である。が、
現在の日本を形成するもととなった高度経済成長期である
昭和40年代には、流行歌もまた現在のJ-Popと大差ないものになった。
そのさきがけが歌詞でいえば岩谷女史だったのである。
五七調の時代がかった歌詞から、
現実に使ってる話ことばに替えたのである。とはいえ、
庶民はそうした斬新なものについていけず、
レコード会社の思惑どおりのミリオンセラーねらいの商業主義的な芸風を心得た
阿久悠や松本隆が一旦レトロなものにアナクロさせる。そのいっぽうで、
歌謡歌手をめざす中で岩谷女史の歌詞に感化された者らが、
フォウク・ソング時代、GS時代を経て、
いわゆるシンガー・ソングライターとなってくのである。
かように岩谷女史の歌詞は
斬新だったといえる。若い頃は私は弓道もやってたが、
残心などと悠長なことは実際の戦闘ではいってれない。
いくさや死にまで美や美学を持ち込むのは
日本人以外の民族ではありえないかもしれない。
昨今のどこぞの経費削減第一主義ホテルと違って信用第一な帝国ホテルは、
ニュー・オオタニ、キャピトル東急とともにビジネス・ランチによく利用してた。
その帝国ホテルで岩谷女史をたまに見かけた。東電の裏だったからではなく、
東宝(東京宝塚)村の隣なので定宿にしてたのだろう。
東京宝塚劇場の所在地は現在の住居表示で千代田区有楽町なのだが、すぐ隣の
帝国ホテルは千代田区内幸町である。
内幸町という町名の由来は、幸町の中でも幸橋の内側という程度の意味である。
そもそもの幸町の名の由来は、
徳川将軍は菩提寺である芝・増上寺への参詣の折、この
幸橋門を通ってのだが、その通りを
「御幸通り」と呼ぶようになったことに由来する。
戦闘時の敵軍挑発の意味で用いられてたVサインが、
戦争という最終決着手段によって紛争が解決されて
平和をもたらす、あるいは、戦争という手段を採らずに
解決しろ、という意思を表すようになり、
他愛もない記念写真を撮る際のお気平和な象徴となった。
「サインはV」を作詞した岩谷女史にふさわしい仕事場だったのだろう。
(岩谷時子女史が路吹雪女史のために
日本語詞を書いたことで日本語の歌詞で日本では知られてる
「愛の賛歌(Hymne a l'amour)」をオケにアレンジしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/monnot-kamomeno-iwao-hymne
にアップしてあります。また、
岩谷女史が晩年に本田美奈子女史のためにやはり日本語詞を書いた
「アメージング・グレース(Amazing Grace)を、二枚舌木管の
オーボエ、イングリッシュ・ホルン、ファゴット各2管、計6管で
スコットランド・バグパイプふうにアレンジしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/amazing-grace-6-double-reed
にアップしました)
宝塚の職員だったことから故越路吹雪女史のマネージャーとなり、
訳詞・作詞家ともなった
岩谷時子(いわたに・ときこ、1916-2013)女史が97歳で死んだ。
その2日後の27日には、
米国の"ロック"歌手
Lou Reed(ルー・リード、1942-2013)が71歳で死んだ。
同い年ながら片や27歳で不審死した
ジミ・ヘンドリクスに比するとルー・リードはロック・ミューズィシャンにしてはだいぶ
地味で、70代まで永らえて老体を晒してしまった。が、ことによると、
Two-Reedという二枚舌を使って
歌手と一般人の使い分け人生を送ってたのかもしれない。ともあれ、
若死にしたこともあって伝説的になってるヘンドリクスは、
当時のロック・ミューズィシャンのご多分に漏れず
アメリカ国歌を弾きながらVサインをする、といった
反体制をアピールした。
というように、
日本では「ピース・サイン」とも呼ばれてたVサインは、
1960年代米国でヴィエトナム戦争反対という
"平和"を掲げる"進歩的文化人"らによって用いられてた。
米国のヴィエトナム撤退以降は、その時代時代の若者の
記念写真の定番ポウズとなった。ちなみに、
世代によってVサインを出す位置や出しかたに大きく違いがあるらしい。
それらはともかくも、
元来のVサインは、15世紀フランスでの英仏百年戦争における1415年の、
Bataille d'Azincourt(バタイユ・ダザンクル=アザンクールの戦い)において
始められた、とする説が有力らしい。
英国軍は3倍弱の兵力を誇る仏軍に圧勝した。
その勝因は英国軍が誇る長弓隊にあったという。
ひとたび仏軍の俘虜となればもう二度と弓が引けぬように
矢筈をつまむ二本の指を切り落とされた。だから、
その人差し指と中指をことさらに誇示して仏軍を嘲り挑発したのである。
その二本の指が形成する形がVictoryの頭文字Vであることから、
「勝利」または「勝利宣言」としても一般に使われるようになったのである。
岩谷時子女史のヒットした歌詞は数々あるが、私が
小学生時代にTVドラマ化されてその主題歌となった
「サインはV」のものが印象深い。
♪ヴィー・アイ・スィー・ティー・オウ・アー・ワイ、サインはヴィー!♪
おそらく、昭和30年代までの日本の歌謡界の歌は、
完璧に「時代物」である。が、
現在の日本を形成するもととなった高度経済成長期である
昭和40年代には、流行歌もまた現在のJ-Popと大差ないものになった。
そのさきがけが歌詞でいえば岩谷女史だったのである。
五七調の時代がかった歌詞から、
現実に使ってる話ことばに替えたのである。とはいえ、
庶民はそうした斬新なものについていけず、
レコード会社の思惑どおりのミリオンセラーねらいの商業主義的な芸風を心得た
阿久悠や松本隆が一旦レトロなものにアナクロさせる。そのいっぽうで、
歌謡歌手をめざす中で岩谷女史の歌詞に感化された者らが、
フォウク・ソング時代、GS時代を経て、
いわゆるシンガー・ソングライターとなってくのである。
かように岩谷女史の歌詞は
斬新だったといえる。若い頃は私は弓道もやってたが、
残心などと悠長なことは実際の戦闘ではいってれない。
いくさや死にまで美や美学を持ち込むのは
日本人以外の民族ではありえないかもしれない。
昨今のどこぞの経費削減第一主義ホテルと違って信用第一な帝国ホテルは、
ニュー・オオタニ、キャピトル東急とともにビジネス・ランチによく利用してた。
その帝国ホテルで岩谷女史をたまに見かけた。東電の裏だったからではなく、
東宝(東京宝塚)村の隣なので定宿にしてたのだろう。
東京宝塚劇場の所在地は現在の住居表示で千代田区有楽町なのだが、すぐ隣の
帝国ホテルは千代田区内幸町である。
内幸町という町名の由来は、幸町の中でも幸橋の内側という程度の意味である。
そもそもの幸町の名の由来は、
徳川将軍は菩提寺である芝・増上寺への参詣の折、この
幸橋門を通ってのだが、その通りを
「御幸通り」と呼ぶようになったことに由来する。
戦闘時の敵軍挑発の意味で用いられてたVサインが、
戦争という最終決着手段によって紛争が解決されて
平和をもたらす、あるいは、戦争という手段を採らずに
解決しろ、という意思を表すようになり、
他愛もない記念写真を撮る際のお気平和な象徴となった。
「サインはV」を作詞した岩谷女史にふさわしい仕事場だったのだろう。
(岩谷時子女史が路吹雪女史のために
日本語詞を書いたことで日本語の歌詞で日本では知られてる
「愛の賛歌(Hymne a l'amour)」をオケにアレンジしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/monnot-kamomeno-iwao-hymne
にアップしてあります。また、
岩谷女史が晩年に本田美奈子女史のためにやはり日本語詞を書いた
「アメージング・グレース(Amazing Grace)を、二枚舌木管の
オーボエ、イングリッシュ・ホルン、ファゴット各2管、計6管で
スコットランド・バグパイプふうにアレンジしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/amazing-grace-6-double-reed
にアップしました)
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