☆ 今 日 の 幸 せ ☆

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一般に不幸と呼ばれている経験だが/千の風になったか?

2007-01-17 | 今日の幸せ
障害児といわれる子供と、彼が呼吸を止めるまで、共に過ごした長い時間。
ほとんど24時間、気持ちが離れる事がなかった。
いつ、癲癇発作をおこして、倒れて事故になるかもしれないというのが、一番の理由。

その状態から解放されて、1年以上たった。

いまでも、時々、瞬間的にドキッとする事がある。
もう気にしなくてはならない対象を失ったというのにである。
長い間の習慣というのは、簡単には、消えてなくならないものである。

それにしても、自分以外の人間の体調を常に気にかけなくてもいい、という状態がくるということは予測できなかった。
世の中には、常時介護を必要とする人のお世話をしてる人がたくさんいることだろう。

「大変ですね。」と声をかけられたところで、その状態が、消えるわけではない。
だから、特に大変だと意識するわけではなく、頼られる嬉しさで、頑張ってしまう。
頑張れないくらいの部分は、お金で、誰かに肩代わりしてもらったり、福祉のお世話になったり。
それでも、決して、排除しようとは、思わなかった。

「千の風になって」という詩がNHKの紅白で歌われて、「あの歌について、どう思いますか?」と、数人の知り合いに質問された。

あなたが千の風になって吹き渡ってるなんて、そんな風には、思えない。
あなたの思い出をギュッと丸めて、ワタシの心の中に大事に放り込んでしまったから、きっと、風になるエネルギーは残ってないよね。

あなたのことは、ワタシだけの思い出。 関わった人たちだけの思い出。 その人たちだけが、それぞれのやりかたで、それぞれの量で、記憶に残してくれていることでしょう。

それは、歌にもならない、音楽にものせられない、ただ、重い固まりが沈んでいるだけ。

渡辺淳一の「愛の流刑地」で、女が男に、殺してくれ,という場面がある。(映画をみたわけではないが)
死んでしまうと、そこで、現世が終わり、未来がなくなるから、全部を思い出というボールの中に詰め込んでしまい込むことができる。その死に関わった人間は、関わった人間が死ぬときまで、そのボールを放り出すことはないであろう。

特に、愛してるが故に、その思いをとどめようとした男女の関係の行き着く先は、「失楽園」の心中であり、「愛の流刑地」の殺人なのかもしれない。

そうしなければ、男女の愛なんて、掴みどころのないエゴイスティックなものは、記憶に残されないのかもしれない。

物事を理解するためには、体験する必要があるらしい。
だからといって、体験してない人に向かって、その体験したということを参考になるかもという言い訳で、強調しすぎるのは、どこかに、「優越感」が、かくれているのではないかと、ひねくれるワタシがいる。

精神性を強調して、身体より精神を価値の高いものに置き、難局を乗り切る言い訳にする。
切腹、自爆テロ、抗議のつもりの自殺。自分の命を自ら縮めるほどの、精神性って、怖い。

尊厳死は、あってもいいと思うけど。