10月23日(木)ハイドン/歌劇「騎士オルランド」
~北とぴあ国際音楽祭2008~
北とぴあ・さくらホール
【配役】
オルランド:フィリップ・シェフィールド(T)、アンジェーリカ:臼木あい(S)、ロドモンテ:青戸 知(Bar)、メドーロ:櫻田 亮(T)、リコーネ:根岸一郎(T)、エウリッラ:高橋薫子(S)、パスクワーレ:ルカ・ドルドーロ(T)、アルチーナ:波多野睦美(MS)、カロンテ:畠山 茂(B) 他
【演出】粟國 淳
【美術】横田あつみ
【演奏】寺神戸亮指揮レ・ボレアード
今年の北とぴあ国際音楽祭が取り上げたオペラはハイドンの作品。これも普段接する機会はまずないが大変興味をそそられる演目。ハイドンのオペラを観るのは初めてだ。「天地創造」や「四季」などの素晴らしいオラトリオを書いているハイドンのオペラが殆ど上演されないのは不思議だが、今夜のオペラの主役の一人であるアンジェリカを臼木あいが歌い、毎年の公演で実績を重ねる寺神戸亮指揮レ・ボレアードがピットに入れば大いに期待が膨らむというもの。
そして演奏されたハイドンの音楽は確かに素敵だった。デリケートで誠実でウィットに富み、歌い手の心情や場面場面の空気を自然に的確に描くレ・ボレアードの演奏はハイドンの音楽を最良の姿で聴かせてくれた。歌、呼吸、繊細さと大胆さ… 古楽器の持ち味をフルに発揮した演奏にはいつもながらに感服。
歌手ではやはりアンジェラカを歌った臼木さんが素晴らしかった。益々磨きのかかった声は美しい光沢を放ち、繊細でなめらか。ステージで第一声を発したその瞬間から歌に引き込まれていった。持ち前の見事なコロラトゥーラはもちろん、切迫感のある劇的な表現や、切々と訴えるアリアなどでも絶大な存在感。長いアリアがいくつも続いてさすがに最後の方は声に疲れが感じられはしたが、その分更に表現力に鋭さが増し、恋人メドーロの死を嘆くアリアも聴く者の心を引きつけた。
そのメドーロを歌った櫻田亮も臼木さんに負けず劣らず素晴らしかった。惚れ惚れする美声と滑らかな歌いまわしで、気品と情熱に溢れるメドーロを聴かせてくれた。イタリア語の発音もとても美しく聞こえた。タミーノとかネモリーノとかを歌ってもきっと絶品だろう。初めて聴く歌手だがこれから大いに注目したい。
青戸知の凄みのあるロドモンテも堂に入ってたし、高橋薫子のチャーミングな歌と演技も忘れがたい。波多野睦美の魔女アルチーナ、これもこのオペラ全幕に渡って重要な存在感を示していた。外国勢ではパスクワーレ役のルカ・ドルドーロがコミカルな役柄で大活躍。高橋薫子との息の合ったやり取りは客席を大いに沸かせた。タイトルロールを受け持ったフィリップ・シェフィールドは大味でちょっと役不足。突っ込んだ表現力や木目の細かさが足りないし、声の魅力にも乏しかった。
…と、こうしてそれぞれの歌手やオーケストラの演奏についていろいろコメントしているだけではオペラを観た感想にはならないのだが、オペラを観ての感想となるとこの上演についてというよりこの作品自体への疑問がいろいろ沸いてきてしまう。
前述したようにハイドンの音楽は素晴らしいのだが、とにかく長い。上演時間は20分の休憩が1回入って3時間を越える。この位かかるオペラは他にもあるが、どのアリアも歌詞の繰り返しが多く、とにかく長くて焦点がぼやけてしまう。
そしてこのオペラで一番閉口したのは台本の稚拙さだ。どうでもいい騒ぎの繰り返し、タイトルロールのオルランドは自分が思いを寄せる女が思い通りにならないと言って刀を振り回して荒れ狂うばかり。最後はこのアンジェリカのもとを潔く去って行くように描かれているが、これはただ魔法をかけられた結果に過ぎず、何ら称賛には値しない。よく「魔笛」の台本が支離滅裂と言われるがあのオペラからいつでもひしひしと感じる人間愛の類のものも殆んど伝わってこない。これなら保育園児がやるお芝居の方がずっと面白い。そんな台本のオペラを3時間以上かけて見せられるのは正直辛い。
途中で何度か挿入されるパスクワーレとエウリッラのおかしく微笑ましい場面は楽しかったし、パスクワーレが割り箸を指揮棒にして披露する曲芸的な音楽はハイドンの作曲の技が冴え渡った見事なもので聴衆は大いに沸き拍手喝采、実際大変なインパクトを受けたが、実はこれは長いオペラの中ではあくまで余興に過ぎないことは忘れてはいけない。
結局このお粗末な台本や冗長さはこれが宮廷劇場で上演された頃のそこに集まる人達(貴族?)の嗜好であり、その時代の様式だったと片付けるしかないのかも知れない。ハイドンはそうした「要望」に忠実に従い、見事に音楽をつけたというわけだ。
しかし一方でこれとほぼ同時代にモーツァルトは「フィガロ」、「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ」といった人類史に燦然と輝く名オベラを台本家のダ・ポンテと切磋琢磨しつつ次々と書いていったことを思うと、上演対象の違いはあるもののモーツァルトという作曲家が放つ時代を越えた普遍的な「魔力」を改めて感じずにはいられない。
このオペラでの粟國淳の演出は、舞台上に大きな3枚の額付きカンバスを3次元的に組み合わせ、背後のカンバスにはオペラの場面を象徴する映像や画像を映していった。こうした投影による手法は見方によっては安易な逃げとも言えるが、象徴的に巧みに使ったことでこの「退屈な」台本をある程度芸術的に救うことに成功していたと思う。
いずれにしても今回のような上演形式では「また全幕通して観たい」とは思えない。指揮の寺神戸さんは今回いくつかの部分をカットしたそうだが(これでも?)、更に思い切って半分以下にばっさりとカットし、粟國さんと組むことで初めて今の時代に合った作品として本当の意味で息をふきかえすように思えてならない。
~北とぴあ国際音楽祭2008~
北とぴあ・さくらホール
【配役】
オルランド:フィリップ・シェフィールド(T)、アンジェーリカ:臼木あい(S)、ロドモンテ:青戸 知(Bar)、メドーロ:櫻田 亮(T)、リコーネ:根岸一郎(T)、エウリッラ:高橋薫子(S)、パスクワーレ:ルカ・ドルドーロ(T)、アルチーナ:波多野睦美(MS)、カロンテ:畠山 茂(B) 他
【演出】粟國 淳
【美術】横田あつみ
【演奏】寺神戸亮指揮レ・ボレアード
今年の北とぴあ国際音楽祭が取り上げたオペラはハイドンの作品。これも普段接する機会はまずないが大変興味をそそられる演目。ハイドンのオペラを観るのは初めてだ。「天地創造」や「四季」などの素晴らしいオラトリオを書いているハイドンのオペラが殆ど上演されないのは不思議だが、今夜のオペラの主役の一人であるアンジェリカを臼木あいが歌い、毎年の公演で実績を重ねる寺神戸亮指揮レ・ボレアードがピットに入れば大いに期待が膨らむというもの。
そして演奏されたハイドンの音楽は確かに素敵だった。デリケートで誠実でウィットに富み、歌い手の心情や場面場面の空気を自然に的確に描くレ・ボレアードの演奏はハイドンの音楽を最良の姿で聴かせてくれた。歌、呼吸、繊細さと大胆さ… 古楽器の持ち味をフルに発揮した演奏にはいつもながらに感服。
歌手ではやはりアンジェラカを歌った臼木さんが素晴らしかった。益々磨きのかかった声は美しい光沢を放ち、繊細でなめらか。ステージで第一声を発したその瞬間から歌に引き込まれていった。持ち前の見事なコロラトゥーラはもちろん、切迫感のある劇的な表現や、切々と訴えるアリアなどでも絶大な存在感。長いアリアがいくつも続いてさすがに最後の方は声に疲れが感じられはしたが、その分更に表現力に鋭さが増し、恋人メドーロの死を嘆くアリアも聴く者の心を引きつけた。
そのメドーロを歌った櫻田亮も臼木さんに負けず劣らず素晴らしかった。惚れ惚れする美声と滑らかな歌いまわしで、気品と情熱に溢れるメドーロを聴かせてくれた。イタリア語の発音もとても美しく聞こえた。タミーノとかネモリーノとかを歌ってもきっと絶品だろう。初めて聴く歌手だがこれから大いに注目したい。
青戸知の凄みのあるロドモンテも堂に入ってたし、高橋薫子のチャーミングな歌と演技も忘れがたい。波多野睦美の魔女アルチーナ、これもこのオペラ全幕に渡って重要な存在感を示していた。外国勢ではパスクワーレ役のルカ・ドルドーロがコミカルな役柄で大活躍。高橋薫子との息の合ったやり取りは客席を大いに沸かせた。タイトルロールを受け持ったフィリップ・シェフィールドは大味でちょっと役不足。突っ込んだ表現力や木目の細かさが足りないし、声の魅力にも乏しかった。
…と、こうしてそれぞれの歌手やオーケストラの演奏についていろいろコメントしているだけではオペラを観た感想にはならないのだが、オペラを観ての感想となるとこの上演についてというよりこの作品自体への疑問がいろいろ沸いてきてしまう。
前述したようにハイドンの音楽は素晴らしいのだが、とにかく長い。上演時間は20分の休憩が1回入って3時間を越える。この位かかるオペラは他にもあるが、どのアリアも歌詞の繰り返しが多く、とにかく長くて焦点がぼやけてしまう。
そしてこのオペラで一番閉口したのは台本の稚拙さだ。どうでもいい騒ぎの繰り返し、タイトルロールのオルランドは自分が思いを寄せる女が思い通りにならないと言って刀を振り回して荒れ狂うばかり。最後はこのアンジェリカのもとを潔く去って行くように描かれているが、これはただ魔法をかけられた結果に過ぎず、何ら称賛には値しない。よく「魔笛」の台本が支離滅裂と言われるがあのオペラからいつでもひしひしと感じる人間愛の類のものも殆んど伝わってこない。これなら保育園児がやるお芝居の方がずっと面白い。そんな台本のオペラを3時間以上かけて見せられるのは正直辛い。
途中で何度か挿入されるパスクワーレとエウリッラのおかしく微笑ましい場面は楽しかったし、パスクワーレが割り箸を指揮棒にして披露する曲芸的な音楽はハイドンの作曲の技が冴え渡った見事なもので聴衆は大いに沸き拍手喝采、実際大変なインパクトを受けたが、実はこれは長いオペラの中ではあくまで余興に過ぎないことは忘れてはいけない。
結局このお粗末な台本や冗長さはこれが宮廷劇場で上演された頃のそこに集まる人達(貴族?)の嗜好であり、その時代の様式だったと片付けるしかないのかも知れない。ハイドンはそうした「要望」に忠実に従い、見事に音楽をつけたというわけだ。
しかし一方でこれとほぼ同時代にモーツァルトは「フィガロ」、「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ」といった人類史に燦然と輝く名オベラを台本家のダ・ポンテと切磋琢磨しつつ次々と書いていったことを思うと、上演対象の違いはあるもののモーツァルトという作曲家が放つ時代を越えた普遍的な「魔力」を改めて感じずにはいられない。
このオペラでの粟國淳の演出は、舞台上に大きな3枚の額付きカンバスを3次元的に組み合わせ、背後のカンバスにはオペラの場面を象徴する映像や画像を映していった。こうした投影による手法は見方によっては安易な逃げとも言えるが、象徴的に巧みに使ったことでこの「退屈な」台本をある程度芸術的に救うことに成功していたと思う。
いずれにしても今回のような上演形式では「また全幕通して観たい」とは思えない。指揮の寺神戸さんは今回いくつかの部分をカットしたそうだが(これでも?)、更に思い切って半分以下にばっさりとカットし、粟國さんと組むことで初めて今の時代に合った作品として本当の意味で息をふきかえすように思えてならない。