5月13日(火)マティアス・ゲルネ(Bar)/アレクサンダー・シュマルツ(Pf)
~シューベルト三大歌曲集連続演奏会より~
紀尾井ホール
【曲目】
シューベルト/歌曲集「美しき水車屋の娘」Op.25/D795
マチィアス・ゲルネは以前聴いたことがあるはずだが、その時の印象の記憶がない。さっきこのブログを検索したら2005年に聴いたことがわかった。けっこう褒めているではないか!その後も度々来日しているはずだが、今日まで聴く機会を持たなかったのは、結局聴いたときの印象が弱かったためだろう。今回の来日公演は、随分前から何度もチラシを見ているうちに、チラシの訴えで、もう一度聴いてみよう、という気になった。紀尾井ホールで聴けるというのもポイントが高い。そして、シューベルトの3大歌曲集連続公演初日となった「水車屋の娘」を聴き、心から聴いて良かったと思った。
第一声を聴いても以前聴いた記憶はよみがえらなかったが、その濃密で深く、ドラマチックな歌唱にたちまち魅了された。有節歌曲の第1曲「さすらい」では、節ごとに変わる情景や気分を体の動きも伴い、大きな振幅で働きかけてきて、長い歌曲集の冒頭で聴き手の心を掴んだ。次の「どこへ」では、一転してこれ以上ないぐらいの滑らかな歌い回しで、川に自らの向かう道を問いかける。フレーズが先へ先へと繋がっていって、川の流れ行く先の情景まで浮かんでくるようだ。シュマルツのピアノもレガートで柔らかく歌に寄り添う。続く「止まれ!」ではまた動きのある能動的なアプローチで明るい希望に胸踊らせる様子を伝える。
という具合に、もちろん曲自体に緩急の変化はあるが、「動」と「静」の音楽がこんな風に交互に来ていることが、これまでは殆ど意識に上がっていなかった。ゲルネとシュマルツはその対比をリアルに示し、この曲集のドラマ性をクローズアップしているようにも感じられたところに、第5曲「仕事の終わった夕べには」で極めつけのドラマを聴かせてくれた。それは、主人公の青年が夢中になった水車屋の娘が、徒弟達に「おやすみなさい」と声をかけるくだり。2度同じフレーズを繰り返すが、1度目は娘の声色で思いっきり滑らかに、そして2度目は、自分が「その他大勢(allen)」の中の一人として扱われた青年の失望の叫びとして発せられ、これで聴き手はグイッと物語の渦中へ引きずり込まれる。ゲルネの役者としての力量に恐れ入った。
しかし、そのあとを聴き進んで行くうちに、ゲルネはこの歌曲集の演奏で、こうしたあからさまな効果でドラマチックな世界へと引き込むというより、もっと深いところにある苦悩や葛藤といった生身の人間の赤裸々な生き様を訴え、それが「死」によってしか解決されなかった弱い人間への心からの同情と共感を伝えたかったに違いない、と思うに至った。ゲルネは、「青年」が幸せの絶頂を謳歌しているときでさえ、その後に起こる悲劇を踏まえたように歌っていたし、若者が失恋してからの歌は、どれにも温かく深い愛情に満ちた眼差しが注がれているのを感じた。それを表現するのに、ゲルネの深く濃厚で温かな声と滑らかな表現は最良の味を出し、聴く者を一人の弱くも美しい人物への共感へと導いて行った。
その意味で、終盤の3曲、「しぼんだ花」、「水車屋と小川」、「小川の子守歌」は、痛みへの深い共感、それを優しく包み込む慈愛、そして天国へ導くような仄かな光も感じさせる絶品中の絶品の名唱だった。最後の歌が終わったあと、ホールが長い静寂に包まれたのが、聴衆の心の底からの共感を物語っていた。
ゲルネと共に称賛したいのが、シュマルツのピアノ。どんなに抑揚のある曲でもシュマルツは一本の大きな弧を描くように曲に一貫した息遣いや表情を与え、そのアーチにゲルネが自然に歌を乗せる、まさに二人の協働が名演へと実を結んだ。「冬の旅」も「白鳥の歌」も聴きたくなった。
会場で無料で配られた喜多尾道冬氏の歌詞対訳は大いに鑑賞の助けになった。しかも今回の連続公演全ての対訳が載っていて、これは大切に持っていよう。
マティアス・ゲルネ シューマンを歌う 2005.10.18 所沢ミューズ・アークホール
~シューベルト三大歌曲集連続演奏会より~
紀尾井ホール
【曲目】
シューベルト/歌曲集「美しき水車屋の娘」Op.25/D795
マチィアス・ゲルネは以前聴いたことがあるはずだが、その時の印象の記憶がない。さっきこのブログを検索したら2005年に聴いたことがわかった。けっこう褒めているではないか!その後も度々来日しているはずだが、今日まで聴く機会を持たなかったのは、結局聴いたときの印象が弱かったためだろう。今回の来日公演は、随分前から何度もチラシを見ているうちに、チラシの訴えで、もう一度聴いてみよう、という気になった。紀尾井ホールで聴けるというのもポイントが高い。そして、シューベルトの3大歌曲集連続公演初日となった「水車屋の娘」を聴き、心から聴いて良かったと思った。
第一声を聴いても以前聴いた記憶はよみがえらなかったが、その濃密で深く、ドラマチックな歌唱にたちまち魅了された。有節歌曲の第1曲「さすらい」では、節ごとに変わる情景や気分を体の動きも伴い、大きな振幅で働きかけてきて、長い歌曲集の冒頭で聴き手の心を掴んだ。次の「どこへ」では、一転してこれ以上ないぐらいの滑らかな歌い回しで、川に自らの向かう道を問いかける。フレーズが先へ先へと繋がっていって、川の流れ行く先の情景まで浮かんでくるようだ。シュマルツのピアノもレガートで柔らかく歌に寄り添う。続く「止まれ!」ではまた動きのある能動的なアプローチで明るい希望に胸踊らせる様子を伝える。
という具合に、もちろん曲自体に緩急の変化はあるが、「動」と「静」の音楽がこんな風に交互に来ていることが、これまでは殆ど意識に上がっていなかった。ゲルネとシュマルツはその対比をリアルに示し、この曲集のドラマ性をクローズアップしているようにも感じられたところに、第5曲「仕事の終わった夕べには」で極めつけのドラマを聴かせてくれた。それは、主人公の青年が夢中になった水車屋の娘が、徒弟達に「おやすみなさい」と声をかけるくだり。2度同じフレーズを繰り返すが、1度目は娘の声色で思いっきり滑らかに、そして2度目は、自分が「その他大勢(allen)」の中の一人として扱われた青年の失望の叫びとして発せられ、これで聴き手はグイッと物語の渦中へ引きずり込まれる。ゲルネの役者としての力量に恐れ入った。
しかし、そのあとを聴き進んで行くうちに、ゲルネはこの歌曲集の演奏で、こうしたあからさまな効果でドラマチックな世界へと引き込むというより、もっと深いところにある苦悩や葛藤といった生身の人間の赤裸々な生き様を訴え、それが「死」によってしか解決されなかった弱い人間への心からの同情と共感を伝えたかったに違いない、と思うに至った。ゲルネは、「青年」が幸せの絶頂を謳歌しているときでさえ、その後に起こる悲劇を踏まえたように歌っていたし、若者が失恋してからの歌は、どれにも温かく深い愛情に満ちた眼差しが注がれているのを感じた。それを表現するのに、ゲルネの深く濃厚で温かな声と滑らかな表現は最良の味を出し、聴く者を一人の弱くも美しい人物への共感へと導いて行った。
その意味で、終盤の3曲、「しぼんだ花」、「水車屋と小川」、「小川の子守歌」は、痛みへの深い共感、それを優しく包み込む慈愛、そして天国へ導くような仄かな光も感じさせる絶品中の絶品の名唱だった。最後の歌が終わったあと、ホールが長い静寂に包まれたのが、聴衆の心の底からの共感を物語っていた。
ゲルネと共に称賛したいのが、シュマルツのピアノ。どんなに抑揚のある曲でもシュマルツは一本の大きな弧を描くように曲に一貫した息遣いや表情を与え、そのアーチにゲルネが自然に歌を乗せる、まさに二人の協働が名演へと実を結んだ。「冬の旅」も「白鳥の歌」も聴きたくなった。
会場で無料で配られた喜多尾道冬氏の歌詞対訳は大いに鑑賞の助けになった。しかも今回の連続公演全ての対訳が載っていて、これは大切に持っていよう。
マティアス・ゲルネ シューマンを歌う 2005.10.18 所沢ミューズ・アークホール