4月10日(木)庄司紗矢香(Vn)/メナヘム・プレスラー(Pf)
サントリーホール
【曲目】
1.モーツァルト/ヴァイオリン・ソナタ変ロ長調 K.454
2.シューベルト/ヴァイオリンとピアノのための二重奏曲イ長調 Op.162 D.574
3.シューベルト/ヴァイオリンとピアノのためのソナタイニ長調 Op.137-1 D.384
4.ブラームス/ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 Op.78 「雨の歌」
【アンコール】
1.ドビュッシー/亜麻色の髪の乙女
2.ショパン/夜想曲第20番遺作「レント・コン・エスプレッシオーネ」(ピアノ独奏)
3.ブラームス/ワルツ 変イ長調 Op.39-15
4.ショパン/マズルカ イ短調 Op.17-4 (ピアノ独奏)
1年半振りの庄司紗矢香のリサイタル、近年はイタリアの気鋭、カシオーリとの共演を重ねている庄司が今回選んだピアニストはプレスラー… と聞いてもピンと来なかったが、往年の名ピアノトリオ「ボザールトリオ」のピアニストと知って納得。カシオーリとは随分タイプが違うのでは?とも思ったが、今夜のデュオを聴いて、プレスラーとカシオーリを同一に語ることはできないにしても、華美なパフォーマンスとは対極にある語り口などでは共通性が感じられた。何よりもプレスラーが奏でるピアノは、庄司の演奏からいつも伝わってくる、ピュアで香り高い音楽のエッセンスを抽出するアプローチにおいて、最高のパートナーと言える。
90歳になるこのピアニストは、カシオーリと共通する持ち味に加え、どんな問いでも全てを受けとめ、問いかけてきた人にとって最良の答えを、優しく、しかもシンプルに語りかける才を持ち、これが例えようもないほど深い味わいを秘めている。最初のモーツァルトの序奏を聴いただけで、すっかり安心して身を委ねたくなる心の拠りどころを感じた。シューベルトでの心のひだに入ってくる優しさは涙腺にも触れ、ブラームスでの「語り」の妙にはただただ自然体で耳を傾けていたくなった。アンコールでプレスラーのソロを聴けたのも幸せだった。ノクターンでもマズルカにしても、まさに「語り」のピアノ。
おじいちゃんをいたわるようにプレスラーと寄り添いながらステージに出てきた庄司は、人生においても音楽的にも計り知れないほどたくさんのものを蓄えたプレスラーとの共演を、物怖じも気後れもする様子なく、むしろ楽しげに、自然にやり取りをしていた。彼女はプレスラーの耳元で囁くように、体をプレスラーの方に向けて(左側の客席からはきっと庄司さんの背中しか見えないくらい)、親密に、二人だけで会話を交わしているように見えた。
演奏もまさにそんな姿にぴったり重なる。ステージで照明を浴びてパフォーマンスを繰り広げる行為とは対極の、プライベートな空間で囁くように「言葉」が発せられる。どんなに小さく囁かれる「言葉」でも、魂と魂が交感して意思が瞬時に伝わる。それは、か細い風が木の葉を大きく揺らす時のように、最小限の動きから大きな力がもたらされる。庄司の微細な演奏のコントロールがいかに的確に的を射ているかを思い知らされる。
庄司のヴァイオリンは、一見淡々としているようで、すべての音に最大の集中力が注がれている。本来ならたっぷりとクレッシェンドすべきところや、エネルギーを集めて情熱的に歌うところも、庄司は息づかいのわずかな変化で聴き手に強いインパクトを与える。そして、ここぞという時に弓を最大限に使って斬り込んでくる。ブラームスのソナタにしても、もしブラームスが自演したらこうはしないだろう、と思うような演奏なのだが、これをブラームスが聴いたら「これこそ自分が伝えたかったことだ!」と思うに違いない、というような演奏。
いつもは「凄さ」にばかり注目してしまうが、今夜はプレスラーと共演したことで、「優しさ」も共有しているように聴こえ、庄司の更なる可能性が見えたデュオリサイタルだった。
庄司紗矢香&ジャンルカ・カシオーリ デュオ・リサイタル (2012.10.30 サントリーホール)
サントリーホール
【曲目】
1.モーツァルト/ヴァイオリン・ソナタ変ロ長調 K.454
2.シューベルト/ヴァイオリンとピアノのための二重奏曲イ長調 Op.162 D.574
3.シューベルト/ヴァイオリンとピアノのためのソナタイニ長調 Op.137-1 D.384
4.ブラームス/ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 Op.78 「雨の歌」
【アンコール】
1.ドビュッシー/亜麻色の髪の乙女
2.ショパン/夜想曲第20番遺作「レント・コン・エスプレッシオーネ」(ピアノ独奏)
3.ブラームス/ワルツ 変イ長調 Op.39-15
4.ショパン/マズルカ イ短調 Op.17-4 (ピアノ独奏)
1年半振りの庄司紗矢香のリサイタル、近年はイタリアの気鋭、カシオーリとの共演を重ねている庄司が今回選んだピアニストはプレスラー… と聞いてもピンと来なかったが、往年の名ピアノトリオ「ボザールトリオ」のピアニストと知って納得。カシオーリとは随分タイプが違うのでは?とも思ったが、今夜のデュオを聴いて、プレスラーとカシオーリを同一に語ることはできないにしても、華美なパフォーマンスとは対極にある語り口などでは共通性が感じられた。何よりもプレスラーが奏でるピアノは、庄司の演奏からいつも伝わってくる、ピュアで香り高い音楽のエッセンスを抽出するアプローチにおいて、最高のパートナーと言える。
90歳になるこのピアニストは、カシオーリと共通する持ち味に加え、どんな問いでも全てを受けとめ、問いかけてきた人にとって最良の答えを、優しく、しかもシンプルに語りかける才を持ち、これが例えようもないほど深い味わいを秘めている。最初のモーツァルトの序奏を聴いただけで、すっかり安心して身を委ねたくなる心の拠りどころを感じた。シューベルトでの心のひだに入ってくる優しさは涙腺にも触れ、ブラームスでの「語り」の妙にはただただ自然体で耳を傾けていたくなった。アンコールでプレスラーのソロを聴けたのも幸せだった。ノクターンでもマズルカにしても、まさに「語り」のピアノ。
おじいちゃんをいたわるようにプレスラーと寄り添いながらステージに出てきた庄司は、人生においても音楽的にも計り知れないほどたくさんのものを蓄えたプレスラーとの共演を、物怖じも気後れもする様子なく、むしろ楽しげに、自然にやり取りをしていた。彼女はプレスラーの耳元で囁くように、体をプレスラーの方に向けて(左側の客席からはきっと庄司さんの背中しか見えないくらい)、親密に、二人だけで会話を交わしているように見えた。
演奏もまさにそんな姿にぴったり重なる。ステージで照明を浴びてパフォーマンスを繰り広げる行為とは対極の、プライベートな空間で囁くように「言葉」が発せられる。どんなに小さく囁かれる「言葉」でも、魂と魂が交感して意思が瞬時に伝わる。それは、か細い風が木の葉を大きく揺らす時のように、最小限の動きから大きな力がもたらされる。庄司の微細な演奏のコントロールがいかに的確に的を射ているかを思い知らされる。
庄司のヴァイオリンは、一見淡々としているようで、すべての音に最大の集中力が注がれている。本来ならたっぷりとクレッシェンドすべきところや、エネルギーを集めて情熱的に歌うところも、庄司は息づかいのわずかな変化で聴き手に強いインパクトを与える。そして、ここぞという時に弓を最大限に使って斬り込んでくる。ブラームスのソナタにしても、もしブラームスが自演したらこうはしないだろう、と思うような演奏なのだが、これをブラームスが聴いたら「これこそ自分が伝えたかったことだ!」と思うに違いない、というような演奏。
いつもは「凄さ」にばかり注目してしまうが、今夜はプレスラーと共演したことで、「優しさ」も共有しているように聴こえ、庄司の更なる可能性が見えたデュオリサイタルだった。
庄司紗矢香&ジャンルカ・カシオーリ デュオ・リサイタル (2012.10.30 サントリーホール)